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三週間前とは明らかに陽射しが違う。いくぶん春めいた風を頬に受けて、高坂は慣れた足取りで正面通を東に向かって歩いていた。
『鴨川食堂』の前で立ちどまった高坂は、屈みこんでトラ猫の頭を撫なでた。
「どこから来たんだい」
寝そべったままのトラ猫は目を閉じて、小さく鳴いた。
「いちおう、うちの飼い猫なんですよ。お父ちゃんが絶対店には入れてくれへんのですけど」
店から出てきたこいしが、高坂を見下ろした。
「そうなんですか。眠ってるみたいですね」
「いつも眠そうにしてるさかい、ひるねていう名前付けたんです」「ひるねちゃん、また後でね」
高坂が立ちあがって、手をはらった。
「連絡が遅ぅなって申し訳なかったですな」
引き戸を開けて、流が高坂を迎えた。
「いえいえ。急ぐことではありませんので。梅の花見をかねることができて、ちょうどよかったです」
高坂が白いブルゾンを脱いだ。
「北野さんですか?」
こいしはテーブルを拭く手を止めた。
「ええ。北野天満宮の梅園を歩いてきました。梅の薫りがまだ鼻に残っています」ウェストポーチを外して、高坂がパイプ椅子に座った。
「なんとか捜しだして来ました。これから焼かせてもらいますんで、しばらく待ってくださいや」
そう言って、流が厨房に入っていった。
「いつもは、お約束どおりに二週間で捜しだして再現しはるんですけど、今回はえらい苦労してはって、一回帰ってきて、また信州へ行ってきはったんですよ」こいしの口調は少しばかり恩着せがましい。
「そうでしたか。ご苦労をおかけしました」
高坂が小さく頭を下げた。
「ええんですよ。お父ちゃんは難題ほど燃えはるんで」こいしが鼻先で笑った。
「そう言っていただけると少しは気が楽になります」「お飲みものはどないしましょ。ビールでもお出ししましょか」「いえ、ちゃんと味わって食べないといけませんから、お茶にしておきます」「そうやね。ほな、お番茶を淹れますわ」
デコラのテーブルに、白いランチョンマットを敷いて、こいしが厨房に向かった。
その厨房からは、香ばしい薫りが、爆はぜるような音と一緒に漂ってきた。餃子を焼き始めたという印なのだろう。高坂は胸を膨らませて料理を待った。
「お待たせしました。たぶんこんな感じで出てきたと思います」赤い花柄に縁取りされた丸い洋皿を、流がランチョンマットの真ん中に置いた。
「そうです。こんな感じでした。この匂いも同じだったような気がします」高坂が皿の上の餃子に鼻先を近づけた。
「酢す醤じょう油ゆは小皿やのうて、こんなボウルに入ってましたやろ」「はい。テーブルを囲んで、みんながこのひとつのボウルの酢醤油に付けて食べてました」
「やっぱりそうでしたか。餃子ももっと大きな皿に、たくさん盛り付けてあったと思いますが、今日はおひとりやさかい、小ぶりにさせてもろてます」レトロな丸い洋皿には、二十個ほどの餃子が無造作に盛り付けてあって、五個ずつがくっついている。高坂の記憶にある餃子と同じだ。
「どうぞゆっくり召し上がってください」
流が高坂に背中を向けると、こいしが有田焼の土瓶と湯呑みをテーブルに置いた。
しばらくは箸をつけることができず、身じろぎひとつせず、じっと餃子を見つめていた高坂が、やっとの思いで箸を伸ばしたときには、既に餃子は冷めはじめていた。
ボウルの酢醤油にどぶんと付けて、小さな餃子を口に運んだ。しっかりと焼き色の付いた皮のもちもちとした食感、シャリシャリとした餡あんの歯ごたえ、三十年も前に食べたあの餃子と同じ味わいだ。
高坂は淡々と餃子を食べ続けた。最初に辛みがきて、しばらくすると、それが苦みに変わる。おぼろげな記憶ながら、当時も同じだったような気がする。
「お味はどないです? 合うてましたかいな」流が高坂の横に立った。
「ええ。何しろ古い記憶ですから、さだかではありませんが、たしかにこんな味だったと思います」
「よろしおした。わしも味見しながら作りましたけど、なかなか旨い餃子ですわ」流がホッとしたように、頬をゆるめた。
「ずいぶんご面倒をおかけしたようで、申し訳ありませんでした」高坂が中腰になった。
「これが仕事ですさかいに」
「どうやってこれを見つけられたんでしょう」高坂がハンカチで口を拭った。
「座らせてもろても、よろしいかいな」
「どうぞ」
流と高坂が向かい合った。
「ご承知やと思いますけど、『旅荘いなだ』は廃業してはりました。この前お越しになったときに、旅館を続けているかどうか分からん、とおっしゃってましたが、インターネットが発達している時代やさかい、そんなことはすぐに分かるはずです」「すみませんでした。もちろん廃業したことは承知していましたが、そう言ってしまうと、捜してもらえないのではないかと」
高坂が薄笑いを浮かべた。
「まぁ、そんなことはよろしい。とにかく周りで訊くしかない。温泉街にある旅館を片っ端から訪ねて、訊いてまわったんですが、『旅荘いなだ』のことは皆覚えてはりましたし、あれこれ教えてくれはりました。けど、餃子のことをご存知のかたは、まったくおられませんのや」
「そりゃ、そうでしょうね。お客さんに出したりはしてなかったでしょうから」「一回京都に戻って、出直しても同じことの繰り返しで。ちょっと途方に暮れとったんですが、帰る前にもう一軒だけと思うて、民芸風の旅館に入りましたら、偶然にも『旅荘いなだ』の下足番をしてたという男衆さんにお会いできたんですわ」「下足番……。ひょっとしてスギさん?」
「よう覚えてはりましたな。そのスギさんです。今は『旅館はなおか』の帳場におられまして。そのスギさんから、餃子のこともお聞きしました」「スギさん、お元気だったんですか」
高坂が目を細めた。
「八十五にならはるそうです。おみ足を悪うなさったらしいて、動きまわったりはできんようですが、帳場に座って、すっかり『旅館はなおか』の顔になってはりました」流がテーブルに写真を置いた。
「面影があります」
手に取った写真を高坂がじっと見つめている。
「『旅荘いなだ』の稲田さんと『旅館はなおか』の花はな岡おかさんは、古くからのお友達やったそうで、『旅荘いなだ』を廃業されるときに、何人かの従業員を引き受けはりました。大方の人は辞めてしまわはったようで、今はスギさんひとりやと言うてはりました」
「そうだったんですか。それで稲田さんは……」高坂が上目遣いになった。
「残念ながら、ご主人も女将おかみさんも、廃業してしばらく経たったころに、亡くならはったそうです」
流の言葉に、高坂は無言でうなずいた。
「それで、肝心のこの餃子ですけどな」
「たしか、あのとき、スギさんも一緒に餃子を食べたような……」写真を持ったまま、高坂が天井を見あげた。
「この餃子は『旅荘いなだ』の名物なんやそうです」「名物?」
高坂が目を見開いた。
「お客さんやのうて、従業員の間での名物。まかない料理の中で一番人気やったんが、この餃子やそうです」
「そりゃそうでしょうね。こんなに美味しいんだから」「旅館っちゅうところは、従業員の出入りが激しいんやそうですな。短い間で辞めていく人も少なくない、という話です」
「うちみたいなビジネスホテルでもそうです。キツイ仕事ですから、長く続かないんですよ」
「まかないで出してはったこの餃子。勤めてはった人が辞めはる前の日には、必ず食べさせてあげはるんやそうです。最後の思い出に、ということでしょうな」「……」
高坂は無言で餃子を見つめている。
「美ヶ原温泉の北のほうに、安曇あずみ野のというとこがありましてな。山葵が名物なんですわ。その山葵の茎と葉っぱを塩漬けにしたのを刻んで、餃子の餡に入れるのが稲田流やそうです」
「それであの苦みというか、辛みが」
「塩漬けにしたあるさかい、生の山葵みたいな、ツンとくる辛さはおへんけど、味が引き締まって、旨い餃子になります。歯ごたえもよろしいしな」「そんないわれがあったとは」
高坂が冷めた餃子を口に入れた。
「お茶、熱いのと差し替えますわね」
こいしが益子焼の土瓶を持ってきた。
「宿商売というのは、勤めてはる人らは皆家族同然の付き合いをしてはるんですてな」「うちのようなビジネスホテルでもそうですね。一緒にいる時間が長いですから」高坂が箸を置いた。
「皆さん、別れを惜しみながらこの餃子を食べてはったんやそうです。そやからでしょう、いつの間にか〈なみだ餃子〉と呼ばれるようになったらしいですわ」流が皿に残った餃子を見つめた。
「〈なみだ餃子〉、ですか」
高坂が湯呑みを持ったまま、流と視線を絡ませた。
「わしにも女房が居ましてな、掬子て言うんですわ。こんなブ男ですさかい、高坂はんのように他に好きな女性が居たわけやおへんけど、最期を看み取とってやることができしませんでしたんや。そら悔いが残りまっせ。長年連れ添うて来て、あの世に旅立つとこを見送ってやれなんだんですさかいな」
流の言葉に、こいしは大きくうなずくが、高坂は話の流れが読めずにいる。
「わたしが、電話してお父ちゃんを呼ぶ、て言うたんですけど、息も絶え絶えになりながら、お母ちゃんは、絶対アカン、お父ちゃんの仕事の邪魔したらアカン、て、怒鳴らはった。それが最期でした」
「夫婦っちゅうのは不思議なもんですなぁ。赤の他人どうしやのに、親子兄弟以上に気持ちが通じるようになる。どんな隠し事をしとっても、すぐに見透かされる」流の言葉に、こいしはまた大きくうなずいたが、高坂は押し黙ったままだ。
「お聞きになりたいことが他にもあるのと違います?」こいしの言葉をさえぎるように、流が立ちあがった。
「もう、すべてお話しさせてもろた。言い残したことはない。それでよろしいですな」流が高坂に顔を向けた。
「はい。ありがとうございました」
高坂も立ちあがって、ふたりに一礼した。
「よろしおした」
流が高坂の目をまっすぐに見つめた。
「ほんまにええんですか」
おそるおそるといったふうに、こいしが訊く。
「大丈夫です」
高坂が力強く答えた。
「わしなんか後悔だらけの人生ですわ。あのとき、あーしといたらよかった。あっちやのうて、こっちの道を選んどいたらよかった、て。けど、哀かなしいかな、昔には戻れまへんのや」
「何から何までありがとうございます。先日ご馳走になった分と併せて、探偵料のお支払いを」
高坂がウェストポーチから財布を取り出した。
「お気持ちに見合う分を、こちらに振り込んでいただけますか」こいしがメモ用紙を手渡した。
「承知しました。すぐに手配いたします」
高坂はメモ用紙を財布に仕舞い、白いブルゾンを着込んだ。
「これも、言うたら飛梅ですかな」
ブルゾンの肩に付いていた梅の花びらを流が手にとった。
「北野から付いてきたんですかね」
高坂が流の指先を見た。
「東こ風ちふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ、やったっけ」
こいしが諳そらんじた。
「思いというもんは強いもんですけど、はかないもんでもありますなぁ」流が指先に息を吹きかけると、梅の花びらが宙を舞った。
「ひるねちゃん、また来るからね」
屈みこんで、高坂がひるねの顎をなでた。
「豊岡はまだ寒いんですか」
こいしが並んだ。
「こちらに比べるとまだまだ寒いですが、それでも春の兆しが見えてきました」「餃子のレシピを、いちおうお渡ししておきます」流が封筒を手渡した。
「ありがとうございます。作ることはないと思いますが」苦笑いして高坂が立ちあがった。
「どうぞお気をつけて」
「ありがとうございます。皆さんもお元気で」小さく会釈して、高坂が西に向かって歩き始めると、ひるねがひと声鳴いた。
「お父ちゃん」
高坂の姿が見えなくなると、こいしが声をかけた。
「なんや」
「よかったな」
「何がや」
「何がて、高坂さん、すっかり友梨さんのことをあきらめて、奥さんと仲良う暮らしていこうと思わはったみたいやし」
「そら、どうか分からんで。友梨さんはまだ独身らしいさかい」「え? そう思うてお母ちゃんの話したんと違うの?」「わしの仕事は頼まれた食を捜すことだけや。そっから先のことまではしらん」流が先に店に入り、こいしが後に続いた。
「今夜は浩さん呼んで餃子大会するで」
「ホンマ?」
こいしが目を輝かせた。
「餃子は大勢で食べたほうが旨いさかいな」
「お父ちゃん、ひょっとして、浩さん……」
こいしが泣き顔になった。
「うちには〈なみだ餃子〉はあらへん。なぁ掬子」仏壇の前に座って、流が線香をあげた。
「よかったぁ。うちのは〈しあわせ餃子〉にしよな」こいしが流の背中をはたいた。
「そういうこっちゃさかい、掬子、あんじょうたのむわ」顔をしかめて、流が手を合わせた。