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この季節の二週間という時間は、街の空気を一変させる。既にコートの要らない季節になっていた。
ベージュのカーディガンを羽織った孝之は、京都駅を烏丸口から出て、烏丸通を北に向かって歩き始めた。
連絡があってから今日まで、眠りの浅い日が続いた。あくびを噛かみころして、正面通を東に折れる。気が進むような、進まないような、複雑な胸中を表すように、歩みは一定しなかった。
「猫もお客さんなのかな」
屈かがみこんで、孝之はトラ猫の頭を撫なでた。
「お待ちしてました」
こいしが店の引き戸を開けた。
「おたくの飼い猫ですか」
「店の中に入れたらアカンて、お父ちゃんが言わはるんで、飼い猫とは言えへんかもしれません」
「名前は付いているんですか」
「ひるね、て言うんです。いっつも寝てるんで」「猫はいいですね。のんびり生きられて」
孝之が立ちあがった。
「お待ちしとりました」
厨房から出てきて、流が声をかけた。
「よろしくお願いします」
緊張した面持ちで、孝之が敷居をまたいだ。
「大丈夫ですよ。お父ちゃんが、ちゃあんと捜しだして来はったから」こいしが引き戸を後ろ手に閉めた。
「すぐに用意しますさかい」
流が小走りで厨房に向かった。
「愉しみなような、怖いような、不思議な気持ちです」パイプ椅子に腰かけて、孝之は二度、三度、両肩を上げ下げした。
「何年ぶりのァ∴ライスになるんです?」
「二十五年、いや二十六年になるのかな」
指折り数えて、孝之が薄く笑った。
「よう我慢しはりましたね。好物やさかい、食べとうなるときもあったやろに」こいしが煎茶を淹れて、孝之の前に置いた。
「それが、不思議なことに、一度も食べたいと思わなかったんです。無意識のうちに頭から消し去っていたのでしょうね。十年ほど前だったか、会社のランチミーティングでァ∴ライスが出てきたのですが、見ただけで吐き気を催しましてね。アレルギーだからと言って、カレーに代えてもらいました」
孝之がゆっくりと茶をすすった。
「人間の潜在意識てすごいんですね。好物が吐き気。今日は大丈夫かなぁ。心配になってきた」
「わたしにも分かりません」
孝之が湯呑みを置くと同時に、銀盆を持った流が厨房から出てきた。
「お待たせしましたな」
ァ∴ライスの載った白い丸皿を孝之の前に置いた。
「これですね」
孝之が目を細め、じっとァ∴ライスに見入っている。
「わしはこれで合うてると思いますけど、もし違うてたら言うてください」自信ありげな笑みを浮かべて、流が一礼した。
「お水とポットを置いときます」
こいしと流がうなずき合って、厨房に戻っていった。
スプーンを手にし、ァ∴ライスをじっと見つめる孝之は、身じろぎひとつしない。
孝之の頭の中では、時計の針が目まぐるしく逆回転し、やがて麻子の声が遠くから聞こえ始めた。
トマトソースのかかった真ん中にスプーンを入れて、孝之が口に運んだ。
味を逃すまいとしてか、くちびるに力を込め、口を閉じたまま、何度も何度も噛みしめる。噛む度に心に刺さったとげが一本一本抜けていくような、そんな心持ちで、孝之はオムライスを味わっていた。
こんなに美味しいァ∴ライスが世の中にあっていいのか。孝之は改めてそう思った。ただのァ∴ライスが、なぜこんなに切ないのか。哀かなしいのか。苦しいのか。
黙々と孝之は食べ続けた。そこに美味しいを超える感想を持とうとして、すぐにそれが無駄なことだと分かった。
このァ∴ライスのために自分の人生は大きく狂ってしまった。そう思い続けてきた長い年月はいったい何だったのか。悔しくて、情けなくて、泣きたくなるのを、なんとか抑えようとして、結局それは叶かなわなかった。誰が悪いのでもない。すべては自分の不ふ甲が斐いなさからはじまったこと。はっきりと今こうして突きつけられている。きっとそれが怖くて、ァ∴ライスを遠ざけていた。
叶うなら、許されるなら、このァ∴ライスを食べる前の自分に戻りたい。そう思いながら、孝之はスプーンを止めることもできずにいた。
ケチャップ味だが、かすかに苦く、どこかスパイシーなトマトソース。チキンライスは香ばしく、そしていくらか甘辛い。麻子が作ってくれたァ∴ライスとまったく同じだと言ってもいい。
それにしても、どうしてこれを再現できたのだろう。孝之は驚きと戸惑いを感じていた。
二週間足らずの間で、これを捜しだし、そして再現する。はたしてそんなことが可能だろうか。食べれば食べるほど謎は深まるばかりだった。
「お茶淹れましょか」
こいしが唐津焼の急須と湯呑みを持ってきた。
「それ、ひょっとして」
「麻子さんが使うてはったのも、こんなんでした?」「器には詳しくありませんが、たしかそんな焼き物だったと思います。でもどうして……」
孝之が湯呑みを手に取った。
「お父ちゃん、凝り性ですねん」
こいしがにっこりと笑った。
「あのー」
孝之がこいしの顔を覗きこんだ。
「はい?」
「お代わり、ってできるんでしょうか」
「喜んで、て居酒屋みたいやけど」
こいしが照れ笑いを浮かべた。
「そんなにたくさんじゃなくてもいいのですが、もう少しじっくり味わいたくて」「お父ちゃんも喜ばはると思います」
こいしが厨房に駆けこんでいった。
残り少なくなったァ∴ライスを慈しむように、孝之がていねいにスプーンを動かした。
「合うてたみたいですな」
流が、小皿に盛ったァ∴ライスを孝之の前に置いた。
「はい。間違いないと思います。あのァ∴ライスと同じです」「よろしおした」
「いったいどうして」
「ゆっくり召し上がってください。お話はそれから」銀盆を小脇に挟んで、流が厨房の暖簾をくぐった。
孝之は最初の皿の残りをさらえ、お代わりの皿と置き換えた。
ひと皿目にもまして、じっくりと味わう。香りを愉しみ、味を噛みしめ、胃袋から胸に、その味わいをしっかりと刻み込んだ。
満腹と満足を同時に感じるのは何年ぶりだろうか。振り返ってみても、思い出せないほど昔のことだ。
まったく臭みのない鶏肉が旨い。ァ∴ライスで意識して鶏肉を味わったのは、あのときが初めてだった。玉子で包まず、このチキンライスだけで食べても、きっと美味しいに違いない。そう告げると、少女のようにはにかんで、素直に喜びを表す麻子の笑顔が浮かんだ。
「どないです?」
「最高です。早く謎解きをお願いしたいものです」「お腹のほうはどないです?」
「もう充分です。久しぶりにお腹がはちきれそうで」孝之が腹をさすった。
「よろしおした」
「お話を聞かせてくださいますか」
「失礼します」
うながされて、流は孝之の真向かいに座った。
「疑うわけじゃないのですが、麻子さんからお聞きになったのではないのですね」「昔からわしは、嘘うそをようつかん性質でしてな」流が語気を強めた。
「子どものころに小さい嘘ついて、ものすごいこと怒られました」こいしが急須の茶を差し替えた。
「失礼しました。あまりにも正確に再現されたものですから」「最初のヒントはテレビの番組からもらいました。河波伸二さんの日常に密着した番組を観みたんですわ。さすがにァ∴ライスの話は出てきませんでしたけど、苦手な食材について語ってはりましてな。ご存知でしたか?」
流がDVDを孝之の前に置いた。
「伸二の苦手な食材。何かあったかなぁ。意識したことなかったです」孝之はDVDから目をそらせている。
「パセリとセロリなんやそうです。どっちも匂いだけでアカンと言うてはりました」「どっちも僕の好物じゃないですか」
孝之が横目でDVDを見た。
「この前、筍ご飯をお出ししたとき、木の芽やとか薫りの強い葉っぱが好きやと、おっしゃってたんで、たぶんそうやろうと思うてました」「そう言えば、伸二は鰻にも山椒をかけなかったなぁ。そうか、薫りの強いものが苦手だったのか。でも、それとァ∴ライスがどう結びつくんです?」「他の店のァ∴ライスやとガッツリ食べはるのに、麻子さんのァ∴ライスはいつも伸二さんは残してはった。いっぽうで、あなたはその味を忘れられないくらい好んではった。その違いはここにあるんやないかと推測しましてな」「なるほど」
「唐津へ行ってきました」
「わざわざ唐津まで。ありがとうございます」「昔からお父ちゃんは現場主義ですねん」
こいしが流の横顔を見た。
「河波さんのお宅は空家になってましたが、家そのものはまだ残ってましてな。ご近所を訪ねたら、麻子さんと仲良うしてたというお婆さんに出会うたんです。あの年代の方は記憶力がええんですな。まるで昨日のことのように、お話ししてくれはりました」老婆が河波家の前に立つ写真を流が見せた。
「そうそう、この家、この家。懐かしいなぁ。このお婆さんは知りませんけど」写真を手に取って、孝之が目を細めている。
「あなたとは面識がないけど、あなたのことは麻子さんからよう聞かされていたんやそうです。息子が世話になってること、自分の息子のように思っていること、そしてあなたがァ∴ライス好きやということ」
「そんなことまで」
孝之の目が更に細くなった。
「鰻の『武屋』の近くにある『三さん永えい』という市場まで、よう一緒に買物に行ってはったそうです。新鮮な魚が安ぅで手に入るとこらしいですな」「そういうことはまったく知らずに育ちました」「その市場の前あたりに、リヤカーで野菜を売る店があったんやそうです。土曜日は必ずそこに立ち寄って、麻子さんは毎回セロリを買わはる。いったい何に使うのか、お婆さんが訊かはったら、使いみちを教えはった」
「ひょっとしてァ∴ライスに?」
「あなたのことを母親の目線で見てはったんでしょうな。あなたが薫りの強いもんを好きやと分からはって、ァ∴ライスにセロリを入れようと思わはった。けど息子は苦手やから、すりつぶしてトマトソースに混ぜこまはった。そしたらあなたが喜んだんで、ずっとそれを続けて出さはったということです」
「そうでしたか」
空になった皿に、わずかに残ったトマトソースを孝之が指でなめた。
「市場の向かいに、麻子さんがよう立ち寄ってはった陶器屋はんがありましてな、そこでこれを」
流が急須を手に取った。
「たしかにこんな器でした」
孝之が湯呑みを両手でつつんだ。
「味の秘密は他にもあるはずやと思いまして。あなたが懐かしい味がしたとおっしゃってたケチャップライスのことを考えてみたんです。ただのケチャップやったら、そない懐かしい味はせん。きっとあなたがよう食べてはった料理に使うてあった調味料が入っとるはずやと思うたんです」
「そうですねぇ。そう言われれば、慣れ親しんだ味、というか、いつもの味にケチャップが加わったような」
孝之が宙に目を遊ばせた。
「となると、和の調味料ですわな。洋と和が混ざり合うてる味。それが何かと考えとったら、丼ものもメニューに載ってる古い洋食屋が近くにあると聞きましてな、そこに行ってみたんです」
「そんな店があったのか、わたしは知りませんね。外食しませんでしたから、というよりできなかったのですが」
「『つかもと』というお店です。歳のいったご夫婦でやってはる洋食屋で、今は和わ多た田だにありますけど、以前は市役所の近くにあったそうで、昔からのファンもようけやはる洋食屋ですわ。メニューを見たらァ∴ライスがありました。けど玉子丼もありますんやわ。両方食べてみましたがな。両方食べても千円でお釣りが来ます。良心的な店ですな」「お父ちゃんは少食やけど、仕事のためやったら気張らはるんです」こいしが言葉をはさんだ。
孝之はうなずきながら、流の次の言葉を待っている。
「庶民的な店ですさかい、卓上にはいろんな調味料が置いてありまして、そこに醤油があったんです。まぁ丼ものを置いてはるんやから当然ですけど」「洋食屋に醤油、ですか」
孝之が怪け訝げんそうな顔付きをした。
「隣の席に座っていたおじいさんが、なんとチキンライスに醤油をかけて食べてはるんですわ。ひょっとしたらソースと間違わはったんやないかと思うて、言いましたんや。それ醤油でっせ、と」
「親切だったか、余計なお世話だったか?」
孝之が訊いた。
「後のほうですわ。昔からこうしてると言われました。同時に店を出たんで、そのおじいさんに訊きましたら、唐津には『宮みや下した醤油』という会社があるんやそうですな」「聞いたことがあるような、ないような」
孝之が曖昧な返事をした。
「九州らしい甘い醤油でした」
流がこいしに目で合図した。
「これですわ」
こいしが醤油の小瓶を持ってきて、孝之に見せた。
「『はな醤油』。そういえばうちの食卓にも置いてあったなぁ。何にでもこれをかけて食べてた」
「チキンライスを炒めて、最後にこれで香りづけをしたら、おっしゃるように懐かしい味になりましたわ」
「麻子さんは、僕がこの醤油を好んでいたことをご存知だったんでしょうか」「それは分かりまへん」
「醤油、セロリ。それであのァ∴ライスに……」「思い出とかがなくても美味しいァ∴ライスやと思いました」こいしが言った。
「このァ∴ライスのおかげで、わたしの人生は失敗に終わった。ァ∴ライスに罪はないのですがね」
孝之が深いため息をついた。
「難しいことはよう分かりまへんけど、人生に失敗も成功もないように思います。飢えん程度にメシが食えて、人さんに迷惑もかけんと、厄年越えられたら、それで充分なんと違いますやろか」
流が孝之の目をまっすぐに見つめた。
「……」
孝之は無言のまま。空の皿をじっと見ている。
「わしなんか、周りに迷惑かけっぱなしでしたし、何ひとつ自慢できるようなこともしてきませんでしたけど、それでも悔いてはいまへん。自分の人生が失敗やと思うたら、両親やら家族に申し訳が立ちまへん」
きっぱりと言い切る流に、こいしは瞳をうるませている。
「うちもそう思います」
「ありがとうございます」
孝之が背筋を伸ばした。
「これから存分にァ∴ライスが食えますな」
流が笑顔を孝之に向けた。
「ご自分で作らはるんやったら、このレシピどおりに」こいしがファイルケースを手渡した。
「誰ぞ作ってくれはる人が現れるがな」
「そうだといいのですが」
孝之が照れ笑いを浮かべた。
「いろいろ愉しんでくださいね」
「ありがとうございます。この前の食事代と併せて料金のお支払いを」孝之がブリーフケースを開けた。
「お気持ちに見合うだけ、こちらに振り込んでください」こいしがメモを渡した。
「承知しました」
孝之がメモを財布に仕舞いこんだ。
「よろしおした」
店を出た孝之に流が声をかけた。
「あらためてお礼申します」
孝之が深く腰を折った。
ひるねの頭をひと撫でして、孝之は正面通を西に向かって歩きだした。
二週間前と比べて、いくらか軽くなった足どりをたしかめて、流が背中に声をかけた。
「城島はん」
「はい?」
孝之が振り向いた。
「人生ちゅうのはエエもんですな」
「はい」
甲高い声が返ってきた。
「お父ちゃんにもライバルて居てたん?」
店に戻って、こいしが訊いた。
「そら居てたがな。学生時代も、板前のときも、警察におったときもな」「恋のライバルは? お母ちゃんの」
「掬子に訊いてみんと分からんな」
テーブルを拭きながら、流が仏壇を横目で見た。
「絶対やはったと思うわ。なぁ、お母ちゃん」こいしが仏壇に手を合わせた。
「わしを選んだんは失敗やったんと違うか。すまんことやったなぁ」流が線香をあげて頭を下げると、こいしが何度も首を横に振った。