第六話 コロッケ
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東本願寺を背にして、烏丸通を東に渡ると、せわしなく走り抜ける僧侶とすれ違った。
師走しわすだからなのだろうか。
すっかり葉を落とした銀杏いちょうの大木が木枯らしに揺れている。
京の底冷えとはよく言ったもので、都大路の寒さは下から襲ってくる。まるで氷の上を歩いているような気さえする。
秋あき川かわ幸みゆきは身をすくめながら銀杏の絨じゅう毯たんを踏みしめて歩いた。
ミニスカートを穿はいてきたことを幾らか後悔しながら、幸は白いコートの襟を閉じた。
正面通を東に向かって歩くと、やがて目指す食堂らしき建物が見えてきた。
「きっとこれだよね」
ひとりごちて幸は引き戸に手をかけた。
「ごちそうさま」
戸が開いて、若い男性が出てきたのに、幸は思わず後ずさりした。
「ごめんね、驚かせちゃったみたいで」
幸に笑顔を向けて、男性は小走りで店を後にした。
「こんにちは」
改めて引き戸を開けて、幸が声をかけた。
「いらっしゃい」
黒いソムリエエプロンを着けたこいしが振り向いた。
「ここは『鴨川食堂』ですか」
「ええ。そうですけど」
「じゃあ探偵事務所もこちらに?」
「そっちのお客さんでしたか。うちが『鴨川探偵事務所』の所長をしてます、鴨川こいしです」
「秋川幸です。よろしくお願いします」
幸が頭をさげた。
「どうぞおかけください。お腹なかのほうはどうですのん?」「何か食べさせてもらえるなら嬉しいです」
パイプ椅子に腰かけて、幸が店の中を見まわした。
「おまかせでよかったらご用意しますけど」
白衣姿の流が厨房から出てきた。
「うちが所長になってますけど、ほんまに捜すのはお父ちゃんなんですよ。鴨川流ていいます」
こいしが紹介した。
「秋川幸です。よろしくお願いします」
立ち上がって幸が腰を折った。
「苦手なもんはおへんか」
流が訊きいた。
「匂いの強いものはダメなんですが、後は大丈夫です」「香草とかでっか?」
「いえ、クサヤとかホヤとか」
「そういうもんは、うちには置いてまへん。安心しとぅくれやす」笑顔を残して、流が厨房に入っていった。
「どちらからお越しに?」
こいしが幸の前に湯ゆ呑のみを置いた。
「東京からまいりました」
「どっかでお見かけしたような気が……」
急須の茶を注ぎながら、こいしが幸の顔を覗のぞきこんだ。
「気のせいじゃないですか」
幸が視線をそらした。
「そうかなぁ」
こいしが首をかしげた。
「ですよ」
幸が小さく微笑ほほえんだ。
「お飲みもんは、どないしましょ」
こいしが訊いた。
「日本酒が好きなんです」
「冷酒にします? それとも寒いし燗かんつけはりますか」「冷えたのが好きなので」
「お酒のお好みはあります?」
「辛口だと嬉しいです」
「分かりました。お父ちゃんに選んでもらいますわ」こいしが小走りで厨房の暖の簾れんをくぐった。
ひとり残った幸は、店の中をぐるりと見回した。
子どもの頃に外食した記憶はほとんどないが、一度だけ母親が連れて行ってくれた食堂がこんなふうな店だった。天井から下がった棚にテレビが載っていて、その横に神棚がある。デコラのテーブルはぴかぴかに光っていて、新聞がたたんである。そこで食べたうどんが美お味いしかったことだけは覚えている。だが、そう感じたのは母親と一緒に外食をしているという嬉しさのせいだったのかもしれない。
「お待たせしましたな」
流が盆に載せて料理を運んできた。
「すごいご馳ち走そうですね」
次々とテーブルに並べられる料理を見て、幸が思わず声をあげた。
「たいしたもんはおへん。さぶおっさかい、温ぬくたい料理を多めにしました。一品ずつの量も少のおっせ」
小皿、小鉢、椀と八品の料理を並べ終えて、流が幸の傍らに立った。
「こんな素敵な料理を食べるのは初めて」
料理を見回して、幸が目を見開いた。
「説明させてもろてもよろしいやろか」
「お願いします」
幸が背筋を伸ばした。
「左上からいきますわ。信楽の小鉢に入ってるのが棒ぼう だらの煮つけです。海え老び芋いものピュレをまぶしてあります。その隣の織部皿はグジの塩焼きです。かぼすを絞ってもろたら美味しおす。ウロコを揚げたんが、その横の小こ壺つぼに入ってます。右上の蓋もんは風呂吹きにした聖護院大根。八丁味み噌そと西京味噌と両方載せてます。その下の伊万里の小皿はハマグリの酒蒸しです。刻み柚ゆ子ずを載せて召し上がってください。真ん中は蒸したセコ蟹がにです。そのままでもよろしいけど、辛子酢をつけてもろても美味しいと思います。その左の備前はビーフシチューです。焼いた麩ふをパンの代わりにして食べてもろたらよろしい。一番下の左手、九谷の皿に載ってるのがフグのから揚げ。味は付いてますけど、足りなんだら粉こな山さん椒しょうをふってください。右手の塗ぬり椀わんは、牡か蠣きの豆乳煮。粉チーズと黒七味をふってください」「どれから食べたらいいのか迷いますね。順番とか決まっているんですか」目で追うだけで精一杯、流の言葉は、ほとんど幸の耳の中を素通りしていった。
「好きなもんを好きなように食べてもろたらよろしおす。お酒はこんなんでどうですやろ。高知の『酔鯨』っちゅうんですけど」
「ありがとうございます。お酒は好きなんですけど、全然くわしくないので」幸がボトルを手に取った。
「酒てなもんは美味しいように飲んだらよろしい。うんちくは要りまへん」一礼して、流が厨房に戻っていった。
しんと静まった食堂の中で、ひとり料理を前にして、幸は小さく咳ばらいをした。
どれから手をつけようか。迷っているようでいて、どうでもいいような気もしている。
世間的には食通だと思われているが、飢えに苦しんだ時間のほうがはるかに長かった。それを誰にも言えないことの苦しさを、今なら解き放てる。そんな気楽さで幸は、箸を置いて、ハマグリを手でつかんだ。
貝殻にくっついた身を箸ではぎとろうとして、小刻みに動かすものの、貝柱が残ってしまう。周囲を見回してから、幸は箸を歯に代えた。
「美味しい」
つぶやいてから、幸は箸を取り、棒 を口に運んだ。
棒 と言われて、聞き返すことはしなかったが、それがどういうものなのかは、まるで分かっていない。棒、 。魚の干物なのだろうか。自分が育ってきた食とは無縁の料理がいくつも並んでいて、それがしあわせなことなのかどうか、幸には分からなかった。ただ、そんな料理を眺めながら、冷酒を喉に流し込む時間が、心を豊かにすることだけはたしかだった。
小さな壺に入っているものを口に運んで、それがウロコだと気付くまでには、少し時間がかかった。そのウロコを持つ身がグジという魚だということを思い出して、噛かみしめると、その柔らかな旨うまみが口の中に溢あふれだし、幸はほっこりと顔を丸くした。
「どないです? お口に合うてますかいな」
酒瓶を携えて、流が幸の傍らに立った。
「どれも美味しいです。わたしにはめずらしいものばかりで」幸がハンカチで口の周りを拭った。
「よろしおした。ちょっとまた味の違う酒をお持ちしました。備前の『酒一筋』っちゅう酒ですけど、雄町いう品種の米を使うてるんですわ。薄味のもんには、これがよう合うと思いますんで、ためしてみてください」
緑色の酒瓶とグラスをテーブルに置いて、流が厨房に戻っていった。
幸はキャップを開けて、小さなグラスに酒を注いだ。最初に飲んだ酒を横に並べてみたが、その違いが分かるわけでもなく、両方を飲み比べてみてようやく、別の酒だと分かる程度だ。両方を一気に飲み干してから、ふたたび箸を取り、蟹に箸先を向けた。
ほぐした蟹の身に、辛子酢を付けて口に運んだ幸は、すぐに鼻をおさえ、くしゃみを我慢した。
「付けすぎちゃった」
涙目をハンカチで拭いながら、幸は苦笑いした。
牡蠣、聖護院大根、フグと順に箸を伸ばした幸は杯も重ね、頬をほんのりと紅あかくそめた。
「そろそろご飯をお持ちしましょか」
いつの間にか流が後ろに立っていた。
「そうか。まだご飯があったんですね。すっかり酔っ払ってしまって」幸が両頬を手のひらで押さえた。
「ほな少なめにさせてもらいますわ」
流が背中を向けた。
「冷たいお水を置いときますよって」
こいしが冷水ポットとグラスを置いた。
「ありがとうございます」
間髪をいれず、幸は一気に冷水を飲み干した。
「ええ飲みっぷりや」
こいしの言葉に顔を見合わせて、ふたりが笑った。
「お待たせしましたな」
湯気とともに流が暖簾をくぐって出てきた。
「ほなまた後で」
入れ替わりにこいしが厨房に入っていった。
「今日は鰻うなぎのせいろ蒸しにしました。熱おすさかい気ぃ付けとぅくれやっしゃ」メモ用紙ほどの、小さな四角いせいろがテーブルに置かれ、もうもうと湯気が上がっている。
「お箸やと食べにくいかもしれまへんので、匙さじも置いときます」流が置いていった木製の匙を手に取り、幸はせいろの中をすくった。
タレのしみた茶色いご飯の上に鰻の切身が載り、その上に細かな錦きん糸し玉たま子ごがふわりとかぶさる。息を吹きかけ、用心深く口に運んで幸は、唇を大きく開き、何度も外気を吸い込んだ。
「本当に熱いんだ」
ようやく喉の奥まで滑らせて、ひとりごちた。
とうに満腹だったはずが、匙を止めることができず、貪むさぼるように食べている自分を、幸は少しばかり嫌悪している。
「口の中を火傷やけどしはったんと違いますかいな」流がポットの冷水をグラスに注いだ。
「すみません。がつがつ食べたりして。お恥ずかしいです」幸が匙を置いた。
「何を言うてはります。こういうもんは上品に食べても旨いことありまへん。勢いよう食べてもらえるてなこと、料理人には何より嬉しいことです」「そう言っていただくと助かります。根が下品なものですから」幸が飲み干したグラスをテーブルに置いた。
「美味しいように食べてもらうのが一番です。ひと息入れはったら奥にご案内します。こいしが待っとりますさかい」
「お待たせしてるんですね。ゆっくりし過ぎてしまいました」口元をハンカチで拭って、幸が中腰になった。
「そない急いでもらうことはありまへん。熱いお茶でも淹いれまひょか」「大丈夫です。ご案内ください」
幸が立ち上がって姿勢を正した。
長い廊下の両側にびっしりと貼られた写真に、幸は時折足を留めて、じっと見入っている。
「これまでにわしが作ってきた料理ですわ。メモの代わりみたいなもんです」流が振り向いた。
「京料理だけじゃないんですね。おうどんまでお作りになるんだ」幸が写真に目を近づけた。
「家内の好物でしてな。っちゅうより、最後のほうは、うどんくらいしか喉を通らんかったんですが」
言い終えて、流が背中を向けた。
「わたしもおうどん大好きです。母親とただ一度だけ外食したときに食べたのがおうどんだったので、わたしの中では一番のご馳ち走そうが外で食べるおうどんなんです」廊下に響く幸の言葉はひとりごとのようだった。
「後はこいしにまかせてますさかい」
ドアを開けて、流が食堂に戻っていった。
「どうぞおかけください」
こいしがロングソファをすすめた。
「失礼します」
幸がソファの真ん中に腰かけた。
「早速ですけど、これに記入してもらえますか」こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
幸はよどみなくボールペンを走らせ、こいしに手渡した。
「秋川幸さん。お仕事は著述業。ライターさんていうことですね。雑誌の記事とか書いてはるんですか?」
こいしはバインダーに目を落としたまま訊いた。
「いえ。雑誌ではなく本を」
「本て、小説とかですか」
「ええ、まあそんな感じです」
「どんな小説ですのん?」
こいしが顔を上げた。
「主に恋愛小説とか」
幸が顔を伏せた。
「ロマンスもん大好きで、よう読んでますねん。本名で書いてはるんですか?」こいしが目を輝かせた。
「いえ。アキミユキというペンネームで」
幸が肩を縮めた。
「え? ほんまですか。あのアキミユキさん?」目を丸くして、こいしが幸をまじまじと見た。
「恥ずかしいから、あまり見ないでください」幸が両手で顔をおおった。
「びっくりしたぁ。普段はこんなんなんや。そらそやわね。ずっとあんな恰かっ好こうしてはるわけないわねぇ」
「出版社の方から言われて、あの派手なスタイルでデビューしたものですから」幸はうつむいたままだ。
「変われるもんなんやなぁ。ものすごいセクシーな作家さんやと思うてたけど、こんな清せい楚そな人やったんや」
「最初からずっと抵抗があって、今もイヤなんですけど、今更変えられなくて」「本の激しい内容に合わせて、あんな過激な恰好をしてはったんやね。けど話してはる感じも全然違いますやん。あれも演技ですか?」こいしの問いかけに、幸は黙ってうなずいた。
「作家さんも大変なんやね。で、どんな食を捜してはるんです?」ため息をついてから、こいしがノートを開いた。
「コロッケなんです」
幸の声が更に小さくなった。
「笑うたらいかんけど、笑うてしまいます。あんなセクシーな小説書いてはるのに、コロッケを捜してはるんですか。なんやしらんけど嬉しいですわ」「ギャップがあり過ぎますよね」
幸がようやく頬をゆるめた。
「すみません。失礼なこと言うて。コロッケのこと、詳しいに教えてもらえます?」こいしがペンを構えた。
「もっと恥ずかしい、というか、忌まわしい話なんですが……」言葉の続きを待つこいしが身を乗り出したが、幸は言いよどんだまま、身をかたくしている。
「言いにくいとこは飛ばしてもろてもええんですよ」こいしが助け舟を出した。
「ありがとうございます。でも、ちゃんとお話ししないと捜してもらえないですよね」幸が背筋を伸ばして続ける。
「わたしはいわゆる不良少女でした。小学五年生のころからグレだして、学校も行ったり行かなかったりで」
「おませさんやったんや」
「父親の居ない家庭で、母とふたり暮らし。とにかく貧しい家でした。そのせいにしてはいけないと、今では思えるのですが、そのころは、なぜ自分だけがこんな辛つらい思いをしなければいけないのか。そんな不満だらけの毎日でした」「今のアキミユキさんからは、かけらも想像できひんけど」「母はパートに出てばっかりで、わたしが学校から帰ったときに、家に居たことはほとんどありませんでした。夜七時を回ったころにやっと帰ってきて毎日ひもじい思いをしていました」
「子どもはお腹が減るのが一番辛いわねぇ。お母さんも大変やったんや」「がむしゃらに働くだけが能じゃない。わたしは子どもながらにそう思いました。生活保護を受けることもできただろうし、お給料の高いところで働くこともできたはずです。でも母はどちらの方法も選ばなかった。中学に入ったころに一度訊いたことがあるんですが、義理がどうのこうの、世話になった人だから、とか、そんなことしか言いませんでした。そのしわ寄せがわたしに来ていたんです」何度も顔を歪ゆがめながら、幸が一気に語った。
「子どものときから、そんなしっかりした考え方をしてはったんですか」「そんな家庭環境でしたから、友だちもほとんどなくて、図書館で借りてきた本ばかり読む毎日でした。母にとっては理屈っぽいだけの子どもだったと思います」「そんなお母さんやけど、コロッケだけは美味しかったんや」「違います」
幸が即座に否定した。
「そしたらどこで?」
気け圧おされてこいしが問い直した。
「貧乏だったせいもあるのでしょうが、母の料理は、野菜の煮物や味噌汁、細切れ肉の炒めものばかりで、コロッケなんか作ってくれたことは一度もありません。だから……」言葉に詰まって幸はまたローテーブルに目を落とし、こいしは固唾を呑んで言葉の続きを待っている。
わずか十数秒ほどだろうが、幸の頭には様々なことが浮かんでは消え、とてつもなく長い時間のように思えた。意を決したように口を開いた。
「盗んだんです」
予想もしなかった言葉に、こいしは言葉を返せずにいる。
「学校からの帰り道にお肉屋さんがあって、その横の空地に建つ屋台のような小さな店でした。おばあちゃんがひとりでやってたコロッケ屋さんです。コロッケだけじゃなくて、トンカツとかメンチカツとかハムカツなんかを売っていて、いつも賑にぎわっていました。うちの近所には他にコロッケ屋さんがなかったので」「昔はそんな店、あちこちにありましたね。この近所にはまだ残っているんですよ」ようやく合いの手を入れることができて、こいしはホッとひと息ついた。
「店の前を通ると、ぷうーんといい匂いがしてきて、吸い寄せられるように。お客さんと店のおばあちゃんは、いつも賑やかに立ち話をしていました。そのすきを狙って、いつも小さなコロッケを二個素早く盗んでポケットに入れてました」「いつも、ていうことは一回きりやないんですね」「はい。常習犯でした」
幸が自嘲するように口角を上げた。
「一回も見つからへんかったんですか」
「おばあちゃんは、いつもおしゃべりに夢中でしたし、わたしは子どものころからチビだったので、お客さんの陰になって見えなかったんだと思います」「持って帰って食べはったん?」
「走って家に帰って、中から鍵をかけて、カーテンも閉めて急いで食べました。本当に美味しかった」
「ソースとかは?」
「そんな余裕もなく、そのまま口に入れて食べてました」「味が物足りんかったんと違います?」
「それが不思議なんですよ。おとなになってからコロッケを食べるときは、ソースをつけないと美味しくないのに、あのコロッケはそのままで充分美味しかったんです。とにかく早く食べてしまって、証拠を残さないようにという気持ちもあったのですが」「子どもながらに、罪の意識はあったんや」
「もちろん盗んじゃいけない、とも思いましたが、空腹には勝てませんでした」「ひもじかったんやね」
こいしの言葉に幸は小さくうなずいた。
「毎日のように盗み食いしていたのに、よく気付かれなかったと今でも不思議に思います」
「気ぃ付いてはったんと違います?」
「それはないと思います。朝、学校へ行くときに店の前を通ると、店のおばあちゃんが〈いってらっしゃい〉と笑顔で声をかけてくれましたから」「そういう素質があったんかもしれませんね。おかしな言い方やけど」こいしが舌を出した。
「そのとおりなんです。このことで、盗むということに抵抗感をなくしてしまったのだと思います。いつの間にかそれが習慣になって、しかも快感を伴うようにまでなると、完全に病気ですよね。気が付くと、いろんなお店で盗むようになってました。万引きの常習犯です」
「そこまでやったら捕まるでしょう」
「はい。何度も補導され、最後は鑑別所に送られてしまいました」「お母さんも大変やったやろねぇ」
「面会に来ても、いつも泣いてばかりでした。みんなわたしのせいだ、ごめんなさい、と謝ってばかりいましたね」
幸は突き放したような口調だった。
「かわいそうに」
こいしがつぶやいた。
「どっちが、ですか? まさか母じゃないでしょうね。かわいそうなのはわたしでしょ」幸が眉をつり上げた。
「それもそうやけど、お母さんかて好きで貧乏してはったわけやないやろし」「自分の義理だか何かしりませんが、体面をつくろうために子どもを犠牲にした母親なんですよ。親ってそんなものですか? あなたもそんな母親に育てられてごらんなさい。どんなに苦しくて、せつなくて、やるせなくて……」一気にまくし立てて、幸はぽろぽろと涙を流した。
「何をどう言うてええのやら」
こいしは思ったままを口にした。
「取り乱してしまってごめんなさい」
幸はハンカチをバッグにしまって続ける。
「コロッケを捜していただくのに、関係のない話でしたね」「そのコロッケ屋さんはどこの何ていう店です?」こいしが開いたノートを手のひらで押さえた。
「子どものころの記憶なので、かなり曖昧なんです。たぶんもう無いと思います」「そらそやわね。分かってたら買いに行ったら済みますもんね」「中学までわたしと母が住んでいたのは、川崎大師のすぐ近くです」「正確な住所は分かりますか」
「川崎市川崎区大師駅前です。番地までは覚えてません」「番地とかは住民票で分かるやろし、何か目印になるもんを覚えてはりませんか。そのコロッケ屋さんの近くに公園があったとか」
「うちの向かいには病院があって、幼稚園があって、神社がありました。コロッケ屋さんは小学校から家に帰る途中の、〈ごりやく通り〉沿いにあったと思います。お肉屋さんは、松ナントカという屋号だったと思いますが、コロッケ屋さんのほうは名前がなかったように思います」
「お店を捜すのはそない難しなさそうやな。けど、今から二十年ほど前のことでしょ。コロッケ屋のおばあさん、まだ元気なんかなぁ」こいしはバインダーを横目で見て、幸の年齢をたしかめた。
「はっきりした年齢は分かりませんが、あのころ七十を越えてらしたような気がします」幸が天井に目を遊ばせた。
「九十かぁ。もう仕事はしてはらへんやろなぁ」「おそらくは」
幸が顔を曇らせた。
「ひとつ訊いてもよろしいか?」
「なんでしょう」
「お母さんとそのあとは……」
「まったく連絡を取っておりません。生きているのか、死んでしまったのかも分かりませんし。川崎にも長いこと足を踏み入れてません」幸が表情を変えずに答えた。
こいしは少し視線をずらして、話の向きを変えた。
「ところで、今になってそのコロッケを捜そうと思わはったんは、なんでです?」「この春に発表される、或ある文学賞にノミネートされたんです。取らぬ狸たぬきのナントカかもしれませんが、もしも受賞したら、きっと過去のことをいろいろ晒さらされると思うんです。不良少女だったことなんか、少し調べれば簡単に分かるでしょう。それはいいんです。事実ですし。鑑別所に入ったことで罪は償ったつもりですから。万引きしたお店にも、ちゃんと弁償しました。ただひとつ。おばあちゃんの店のコロッケを盗んだことだけは、償えていないんです」
ゆったりとした口調で幸が語った。
「そうなんや。たしかに賞を取らはったら、過去のことをいろいろ暴かはるもんね。けど、コロッケのことは見つかってはらへんかったんやから、分からへんでしょ」「だと思いますけど、自分の気持ちがおさまらないんです。もしもおばあちゃんがご存命だったら弁償したいとも思いますし」
「なるほど、よう分かりました。お父ちゃんにしっかり捜してもらいます」「どうぞよろしくお願い致します」
立ち上がって幸が腰を折った。
ふたりが食堂に戻ると、流はリモコンでテレビを消した。
「あんじょうお聞きしたんか」
「しっかり聞かせてもろた。あとはお父ちゃんにまかせるわ」「どうぞよろしくお願いします」
流とこいし、交互に顔を向けて幸が頭を下げた。
「せいだい気張らせてもらいます」
流が返した。
「次はいつ伺えば」
「二週間後くらいでどうです?」
こいしが答えた。
「分かりました。心づもりをしておきます。今日のお食事代を」「探偵料と一緒にちょうだいしますさかい、今日のところは」流が幸に笑みを向けた。
「それではお言葉に甘えて」
スパンコールを散りばめた、銀色に輝く財布を幸はバッグに戻した。
「お財布はアキミユキさんのなんや」
「うっかりしてました」
ふたりが笑顔を交わす横で、流は首をかしげている。
「鶴になってご連絡をお待ちしております」
一礼して、幸が引き戸を開けた。
「ものは何や?」
見送ってすぐ、流がこいしに訊いた。
「コロッケ」
「手作りか?」
「コロッケ屋さんの」
「店は分かりそうか?」
「簡単に見つかるんと違うかなぁ」
「場所は?」
「川崎」
「川崎か。長いこと行っとらんなぁ」
「行ったことあるん?」
「結婚してしばらく経たったころ、掬子と一緒にお大師さんへお参りに行った」「その近くみたいよ」
「どや。一緒に行くか。べっぴんさんになれるお守りがあるで」「ほんま? 絶対行きたい」
こいしが流の腕をつかんだ。
「掬子も肌身離さんと持っとった」
「あの〈美〉て書いたあったお守り?」
「そや。〈しょうづか べっぴん守〉っちゅうやつや」流が横目で仏壇を見た。
「お母ちゃんとおんなじお守り……愉しみやなぁ」こいしが目を細めた。