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第四卷 第一話  味噌汁 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
  第一話  味噌汁
  1
  三十歳を超えて、初めて京都を訪れる男など、きっと自分以外にはいないだろう。テレビや雑誌で見慣れた京都の様子と、目の前に広がる景色を比べながら、吉よし沢ざわ健けん一いちは烏からす丸ま通を北へ向かって足早に歩いた。
  幾度か機会はあったが、何より勉学を最優先にしてきた健一は、京都にかぎらず、物見遊山の旅をすることなど、これまで眼中になかった。
  夏は暑く、冬は寒い。京都の気候は厳しいと知ってはいたが、梅雨入り前のこの湿度の高さはどうしたものか。健一はハンカチで額の汗を入念に拭った。
  京都タワー、東ひがし本ほん願がん寺じ。知識としては馴な染じみ深いが、実際に見るのは初めてのことだ。健一は、古くからの友人に出会ったような、不思議な感懐を覚えていた。
  京都駅の中央口から十分ほども歩いただろうか。資料で見たとおりの古びた二階屋の前に出た。間違いない。確信を持って、健一は引き戸を開けた。
  「こんにちは」
  「いらっしゃい」
  黒いソムリエエプロンを着けた若い女性が振り向いた。
  「こちらは『鴨かも川がわ食堂』でしょうか」「はい。そうですけど」
  怪け訝げんそうな顔つきで女性が答えた。
  やはり間違いなかった。下調べが完璧だったおかげだと健一は安あん堵どした。
  「お食事ですか?」
  作さ務む衣え姿の男性が厨ちゅう房ぼうから出てきた。
  「食を捜していただきたくて参りました」
  健一は名刺を差しだした。
  「それやったら娘のほうですわ」
  作務衣姿の男性は、若い女性に名刺を渡した。
  「『ガーデニア法律事務所』……。東京の弁護士さんですか?」「いえ、職員です。この歳としになってもまだ司法浪人中なんです」健一が顔を曇らせた。
  「『鴨川探偵事務所』の所長をしてます、鴨川こいしです。食堂をやってるのは父の鴨川流ながれです」
  こいしの言葉に、流は帽子を取って一礼した。
  「お腹なかのほうはどないです? おまかせでよかったらお出しできますけど」帽子をかぶり直した流が健一に訊きいた。
  「いただけるのなら喜んで」
  健一の顔からいくらか曇りが消えた。
  「なんぞ苦手なもんはおへんか」
  流が訊いた。
  「山国育ちなもので、青魚などはあまり好みません。それ以外はたいてい大丈夫です。野菜はぜんぶ好きです」
  「承知しました。すぐにご用意いたします」
  流は厨房との境に掛かる暖の簾れんをくぐった。
  「うちのことはどうやって知らはったんです?」こいしが訊いた。
  「ネットで検索しました。食を捜してくれるところ、というキーワードで。いくつか出てきたのですが、ここが一番信頼が置けそうで」「へえー、そんなして調べられるんですか。うちも有名になったもんや」こいしはまんざらでもない様子で、健一をテーブル席に案内した。
  「野菜が好きな男の人て珍しいですね」
  「実家が農園なので、野菜で育ったようなもんです」パイプ椅子に腰かけた健一は、店の中を見回している。
  「農園ですか。憧れますわ」
  こいしが表情を輝かせた。
  「農園っていっても、きっとあなたがイメージしておられるような、おしゃれなものじゃないです。野良着姿で地べたを這はいつくばっている、母親の姿しか思い出せないくらいです」
  健一はおしぼりで首筋の汗を拭った。
  「お待たせしましたな」
  銀盆に載せて、流が料理を運んできた。
  「お飲みもんはどないしましょ。お酒はどないです?」こいしが訊いた。
  「お酒はあまり強いほうじゃないのですが、喉が渇いているのでビールをいただきます」「生と瓶、どちらにしまひょ?」
  流が訊いた。
  「小瓶があれば」
  「すぐにご用意します」
  流が駆け足で厨房に入っていった。
  「梅雨に入ってしもうたら、ホンマ京都は過ごしにくいんです。湿気も多いし、今日は蒸し暑うてたまりませんね」
  エプロンのポケットから白いハンカチタァ‰を取りだして、こいしが額の汗を拭った。
  「田舎では冬の寒さに辟へき易えきしましたけど、こういう暑さは」銀盆の上の料理を横目で見ながら、健一がおしぼりを喉にあてた。
  「料理の説明をさせてもろてもよろしいやろか」健一の横で、流が背筋を伸ばした。
  「お願いします」
  健一が座りなおした。
  「こいしが言うとったとおり、この時期の京都は蒸し暑いだけで、うまいもんを食おうてな気持ちさえ起こりまへん。けど、この時期にしか食えんもんもありますし、せいだい愉たのしんでもらえるようなもんを並べました。左上のガラス鉢に入っとるのが、鮎あゆのセゴシ、ミョウガと大葉で和あえてます。酢す味み噌そかワサビ醬じょう油ゆを付けて召し上がってください。その横は鱧はもの天ぷら、カレー塩でどうぞ。その右の唐津の小皿は近江おうみ牛うしのタタキ、甘夏を使うたポン酢がよう合います。ニンニクがお嫌いやなかったら、おろしニンニクをポン酢に入れてください。中段の左端、蒸し豚は韓国風に甘辛タレを添えてます。辛子酢醬油だけでも美お味いしいと思います。真ん中の古こ伊い万ま里り小鉢は鰻うざく、白焼き鰻うなぎと毛け馬ま胡瓜きゅうりの細切りを黒酢で和えてます。右端は小さいビフカツサンド、石垣牛の赤身だけを使うてます。下の段は京野菜のサラダ。というても、何が京野菜かどうか、よう分かりまへんのやけど。馴染みの農家さんに作ってもろた青菜やらタマネギ、根菜を胡ご麻まダレで和えて、刻んだ柴しば漬づけと混ぜとります。お好みで一味唐辛子をふってください。今日のご飯は蕎そ麦ば米ごめ雑炊をご用意しとりますんで、適当なとこで、お声をかけてください」笑顔を残して、流は厨房に戻ってゆき、こいしもその後に続いた。
  食堂にひとり残った健一は、ビールを飲みながら、何をどう食べようかと迷っている。
  「これが京野菜か」
  健一がぽつりとつぶやいた。
  鮎のセゴシに酢味噌を付けて口に運ぶ。今までに食べたことのない味なので、どう評価していいのか分からない。こういうのを珍味というのだろうが、むしゃむしゃ食べたくなるような味ではない。
  もっとも、食べることに興味を持たずに生きてきたのだから、分からなくて当たり前なのだろう。
  「お味のほうはどないです? お口に合おうてますかいな」流が健一の傍そばに立った。
  「美味しくいただいております」
  健一は当たり障りのない答えを返した。
  「よろしおした。ビールのほうはどうしましょ?」空になったビール瓶に流が目を留めた。
  「もう充分です」
  「ご飯にしはるんやったら声をかけてください」空き瓶を手に、流が厨房の暖簾をくぐった。
  流の背中を見送って、健一はカツサンドにかじりついた。
  「うまい」
  小さくひとりごちた。
  固すぎずやわらかすぎず、頃合いの嚙かみごたえの肉からは、ジューシーな肉汁があふれ出る。少し焦げ目のついたパンもカツにぴったりだし、ケチャップ味のソースがよく合う。流は石垣牛と言っていたから、沖縄の肉なのだろう。パンは普通に売っているパンなのだろうか。知らず、食に興味を持ちはじめている自分がいる。カツサンドを嚙みしめながら、その不思議に何度も首をかしげた。
  次に健一が箸を伸ばしたのは鰻ざくだった。
  亡くなった父の好物は鰻だったが、地元には旨うまい鰻屋がない。病の床に臥ふせってからも、しばしば鰻を所望する父のために、母は一時間ほどもかけて、わざわざ善光寺近くの鰻屋まで蒲かば焼やきを買いに行っていた。
  母は自分で収穫した胡瓜を刻み、細切りにした蒲焼きを混ぜ、甘酢をかけて父に食べさせた。
  田舎ではきっと高価で希少なものだったのだろう。味見程度に食べさせてもらったが、川魚特有の臭みが鼻に残って、ちっとも美味しいとは思わなかった。それと較くらべるのも間違っているのだろうが、まるで別の料理に思えてしまう。
  京野菜をもう一度しっかり味わってみる。まずは何も付けずにタマネギを口に入れた。
  ひと口含んだだけで、その甘みが強いことに驚いた。
  タマネギを食べない日など一日もなかったように思う。炒いためてあったり、煮物だったり、サラダになっていることもあった。でも、どう料理されてもタマネギはタマネギで、爽やかな辛みはあっても、こんなフルーツのような甘みを感じることなどなかった。
  子どものころに食べていた野菜とはずいぶん印象が違う。おかしな表現かもしれないが、美味しすぎるのだ。
  「ぼちぼちご飯をお持ちしまひょか」
  絶妙のタイミングで流が声をかけてきた。
  「お願いします」
  次の料理を心待ちにすることなど、健一には生まれて初めてのことだった。
  子どものころから三日にあげず蕎麦を食べていた。蕎麦切りは滅多になかったが、そばがきは常の食事だった。それもしかし、美味しいと思って食べることは稀まれだったように記憶している。ねっとりとした食感、青臭い蕎麦の風味。蕎麦は貧しさの象徴だったように思えて、いまだに好きになれない。
  「お待たせしましたな」
  流が鉄鍋を健一の前に置いて蓋を取った。
  「これが蕎麦米雑炊ですか」
  もうもうと上がる湯気の中を健一が覗のぞきこんだ。
  「徳島に祖い谷やというところがあるのをご存じですか」「ええ。葛かずら橋ばしで有名なところですよね」「平家の落おち人うど伝説でも有名なとこです。蕎麦を粒で食べるのは、この地方独特の食文化やそうです。源平の戦いに負けてしもうた平家の落ち武者が、東祖谷村に身を潜めたとき、都を偲しのんで正月に、蕎麦を使うて雑炊にしたのが始まりやと言われてます。
  鶏とりのむね肉、大根と人にん参じんの薄切り、干し椎しい茸たけに三つ葉。たいした具は入ってまへん。蕎麦米の食感と香りを愉しんでもろたら嬉うれしおす」流は健一に笑顔を向けた。
  健一はレンゲを手にして、少しだけかき混ぜたあと、息を吹きかけて冷ましながら蕎麦米雑炊を口に運んだ。
  健一にとって何より意外だったのは、その味が貧しくなかったことである。
  レンゲを持つ手が止まらない。蕎麦米だけを、野菜の薄切りと一緒に、ときにはスープだけを、とレンゲですくう度に変化を付けると食べ飽きることがない。ただ一杯の雑炊を愉しみながら味わうことなど、健一には考えも及ばないことだった。一滴、ひと粒も残さず食べ終えてレンゲを置く。健一は思わず両手を合わせた。
  「お代わり、どないです?」
  丸盆を持って、流が厨房から出てきた。
  「もう充分です。美味しくいただきました」
  健一は中腰になって流に頭を下げた。
  「ひと息つかはったら、奥へご案内しますさかいに」「もう大丈夫です。お待たせしているでしょうから」「えらい急せかしたみたいで申し訳ないですな」流が先を歩き、健一は廊下伝いにその背中を追う。
  「こんなにゆっくりと食事をしたことは記憶にないくらいです」「よろしおした。料理人には何よりのほめ言葉です」振り向いて、流が笑顔を見せた。
  廊下の両側には写真がピンナップしてあって、そのほとんどが料理の写真だ。流が作ったものなのだろうか。
  「後はこいしに任せますんで」
  流が突き当たりのドアを開けると、黒いパンツスーツに着替えたこいしの姿が、ちらっと見えた。
  「いちおう申込書に記入してもらえますか」
  ソファに腰かけるなり、こいしがバインダーを健一に手渡した。
  健一はローテーブルに屈かがみこみ、すらすらとペンを走らせ、一分とかからずこいしに返した。
  「吉沢健一さん。三十歳。法律事務所にお勤め、と。お住まいは町田市、て、どの辺でしたっけ。東京のことはよう分からんのですけど」こいしが訊いた。
  「うちのおふくろと同じようなことをおっしゃいますね。母も何度説明しても分からないようで」
  健一が苦笑した。
  「お勤め先は新宿。毎日通わはるの大変ですね」タブレットの地図をなぞって、こいしがため息をついた。
  「もう慣れました。田舎育ちですので、最初のころは通勤だけで疲れきっていました。でも貧乏暮らしですから都心には住めません」
  「それでどんな食を捜してはるんです」
  タブレットを置いて、こいしが健一に問いかけた。
  「味噌汁なんです」
  「お味噌汁。何か特別なものですか?」
  「いえ。普通の味噌汁です」
  「どこで食べはったもんです?」
  こいしがノートを開いた。
  「うちで母が作ってくれました」
  「いわゆる、おふくろの味やね」
  こいしがノートに書き留めた。
  「小学校から高校まで毎朝、学校へ行く前に母が作った味噌汁とご飯を食べていました」「十二年間ていうことやね。すごいお母さんなんや」「記憶にないだけで、もっと小さいころから食べてたのだと思います」「朝早うに起きて、お味噌汁作って、それから農園の仕事してはったんや。お父さんは?」
  「父は身体からだが弱くて、ほとんど農園の仕事はしてませんでした。病院に入ったり出たりを繰り返していましたから」
  健一が床に目を落とした。
  「うちには真ま似ねできそうもないな。尊敬するわ。それで、どんなお味噌汁なん?」こいしがペンをかまえた。
  「どんな、って言われても。ごく普通の味噌汁です」「お味噌は? 赤? 白?」
  「赤くはなかったです。真っ白でもないけど、白っぽい黄色かな」「そうそう、肝心なことを訊き忘れてたわ。田舎てどこですのん?」「長野県の小お布ぶ施せというところです」
  「ていうことは信州やね。そしたら信州味噌を使うてはったんと違うかな」「そうなんでしょうか」
  「信州味噌やったら白っぽいし」
  こいしがペンを走らせて続ける。
  「農園て言うてはったけど、何を作ってはったんやろ」「いろいろだと思います。アンズやリンゴ、栗くりなんかがメインだったように記憶しています。母と近所のおばさんたちが、朝早くから日が暮れるまで仕事をしていました」「野菜とかは作ってはらへんかったん?」
  「商品じゃなくて、家で食べるための野菜はたくさん作ってましたね。タマネギだとかジャガイモ、胡瓜や、トマト、キャベツやネギ。たいていの野菜は小さな畑で作業の合間に育てていたようです。タマネギやジャガイモは、しょっちゅう送ってくれますから、今も作っているのだと思います」
  「ええなぁ。その日に食べるぶんだけ収穫しはるんでしょ。そんな暮らし、憧れるわ」こいしが宙に目を遊ばせた。
  「きっとないものねだりなんですよ。僕なんかは田舎が嫌で嫌で、ずっと都会に憧れていたのですが、実際に住んでみると、いいことばっかりじゃないし」健一も顎を上げて、こいしと同じところに視線を向けた。
  「それでお味噌汁の具は何が入ってたんですか」こいしが改めてペンをかまえた。
  「毎日違うんです。ほとんどは野菜ですけど、少しずつ違っていて」健一がこいしに向き直った。
  「それも大変なことやろなぁ。飽きひんように工夫してはったんや」「毎日違ったってことは覚えているんですけど、具体的に何が入っていたかはさっぱり。
  というのも、いつも急いで食べてたので、半分くらい残すのが常でした」「せっかく朝早うから起きて作ってくれはったんを残したらあきませんやん」こいしは責めるような口調で言った。
  「そのころは少しでも長く寝ていたかったのだと思います」「野菜の入ったお味噌汁。信州味噌、かどうかは分からへんけど。ヒントはこれだけかぁ」
  こいしが唇をすぼめた。
  「頼りないことで申し訳ないです」
  健一がちょこんと頭を下げた。
  「つまり吉沢さんは、子どものころにお母さんが作ってくれはったお味噌汁やったら、中身はどんなんでもええから、もう一回食べてみたい、ていうことやね」こいしが健一の目をまっすぐに見た。
  「そうじゃないんです。十二年前の三月二十日。小布施を離れる日の朝に母親が作ってくれた味噌汁を、もう一度食べたいんです」
  健一がこいしの目を見返した。
  「ということは十八のときやね。詳しいに聞かせてもらえます?」「父親が病弱だと言いましたが、昔は元気そのものでした。ある事件が起こる前までは」健一が唇をまっすぐ結ぶと、こいしはひと膝前に出した。
  「父は友だちにだまされて、多額の借金を背負ってしまいました。わけの分からないまま、財産の差押えを受けてしまって、小さな家と農園の一部以外はすべて失いました。そのとき僕はまだ中学生でしたから、母から聞いた話です。大きなショックを受けた父は、それ以後、立て続けに大病を患いました」
  健一が肩を落とした。
  「気の毒に」
  こいしは精一杯のあいづちを打った。
  「中学を卒業するときに、担任の先生に言われたんです。お前のお父さんは本当に気の毒やった。親身に相談に乗ってくれる弁護士が付いていたら、こんなことにはならなかったのに、って。それを聞いて僕は、将来必ず弁護士になろうと思ったんです。弁護士になって、世の中の困っている人を助けたいと」
  「立派なことやんか」
  こいしが何度もうなずいた。
  「正直なところ、中学生までは劣等生の代表みたいなものでしたから、夢のまた夢ではあったのですが」
  「高校入ってから猛勉強しはったんや」
  こいしの言葉に大きくうなずいて、健一が続ける。
  「自分でも不思議に思うくらい勉強に没頭しました。一年だけ浪人しましたが、志望校の法学部に入ることができたときは、母も父も泣いて喜んでくれました」「よう頑張らはったんやねぇ」
  こいしが目をうるませた。
  「でも世の中そんな甘いもんじゃなかったんです。弁護士になるためには、卒業してから司法試験に受からないといけないのですが、何年経たっても……」健一が顔を歪ゆがめた。
  「司法試験てすごい難関なんでしょ?」
  「ええ。やはり僕には無理なのかなと」
  「そんな弱気になったらあかんやんか」
  「今年はとくに成績がふるわなかったので……」健一が悔しそうに唇を嚙んだ。
  「お母さんのお味噌汁を食べて、初心に戻って頑張ろうということなんやね」「それが……。迷っているんです。僕の力ではもう限界なのかもしれませんし。それだったら田舎に帰って、農園を手伝ったほうがいいかなぁ、とも」「難しい選択やね。うちにはよう分からんけど」「あの日、故郷を離れる日に食べた味噌汁を、もう一度味わったら、結論を出せそうな気がするんです」
  健一が背筋を伸ばした。
  「それはええんやけど、ピンポイントで捜すんやったら、お母さんに訊かんと絶対分からへんと思う」
  「それだけはかんべんしてください。勘のいい母親ですから、そんなことを訊いたら、僕が考えていることなんかすぐ見透かされてしまいます。きっと途中であきらめるな、って言うに決まってます」
  「ひょっとして、十八のときに小布施を出てから、田舎には一回も帰ってはらへんのですか」
  「はい。弁護士になるまでは帰らないと決めましたし、両親もそうしろと言ってくれましたので」
  「そうは言うても、きっと寂しい思いをしてはると思うわ。ご兄弟は?」「ひとりっ子です」
  「そしたらなおさらやん。この夏には帰ったげたほうがええのと違う?」「毎年お盆と暮になると気持ちが揺らぐんですが」「願掛けみたいなもんなんかなぁ」
  「そういう面もあります。故郷に錦を飾る、というほどでもありませんが、思いを果たさずに帰るのはどうにも」
  健一の声がしぼんだ。
  「このお味噌汁がきっかけで人生が変わるかもしれんのやから、どうにかして捜さんとあきませんね」
  「なんとかお願いします」
  健一が深々と頭を下げた。
  「けど……、その日のお味噌汁に、どんな具が入ってたんかも覚えてはらへんのでしょ。
  それでお母さんにも訊いたらあかんてなったら、雲つかむような話ですやん。超能力でも使わん限り、それを捜しだすのは無理やと思うなぁ」こいしが顔を曇らせた。
  「そこをなんとか」
  健一が食い下がった。
  「あとはお父ちゃんにまかすしかないわ。あんまり期待せんとってくださいね」ふっ切ったように、こいしがノートを閉じた。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  食堂に戻るなり、流がこいしに訊いた。
  「ちゃんと聞かせてもろたんは間違いないんやけど」こいしが健一を横目で見た。
  「僕の記憶が頼りないせいで、難しいことをお願いして申し訳ありません」健一がふたりに頭を下げた。
  「なんのこっちゃ、よう分かりまへんけど、せいだい気張って捜させてもらいます」流が読みかけの新聞をたたんだ。
  「どうぞよろしくお願いします」
  健一はふたたび腰を折った。
  「でもほんまに期待せんとってね」
  「なんや、えらい弱気やないか」
  こいしの言葉に流が不服そうな顔をした。
  「お父ちゃんはなんも知らんからよ。聞いたら絶対びっくりするし」こいしは意味ありげな視線を健一に投げた。
  「そうだ。今日の食事代をお支払いしなければ」健一が目をそらせた。
  「探偵料と一緒にいただきますんで」
  流が健一に笑みを向けた。
  「次はいつお伺いすればよろしいでしょうか」「二週間後でどないです」
  「承知しました。日時をご連絡ください」
  健一が敷居をまたいで店の外に出ると、トラ猫のひるねが寝そべっていた。
  「こんなところに寝ころんでると、踏んづけられちゃうぞ」健一は屈みこんで、ひるねの頭をなでた。
  「ほんまにどこででも寝るコやなぁ」
  こいしが健一の隣に屈んだ。
  「夕立が来そうや」
  厚い黒雲がかかる西の空を、流が見あげた。
  「傘お持ちください」
  こいしがビニール傘を差しだした。
  「大丈夫です。地下道の入口まで走りますから」健一が立ち上がった。
  「お気をつけて」
  駆けだした健一の背中に流が声をかけた。
  「二週間で捜せるんかなぁ。一生かかっても無理なような気がするけど」店に戻って、後ろ手でこいしが引き戸を閉めた。
  「そない難問なんか」
  流がカウンター席に腰かけた。
  「これまでで一番難しいと思うわ」
  こいしが隣に座って、ノートを広げた。
  「おふくろの味噌汁か。たしかに難しそうやな」流がノートの字を指で追った。
  「作った本人に訊かんと分からへんと思うんやけど、それはあかんのやて」こいしはカウンターに頰づえを突いた。
  「それに……」
  「なんや?」
  ノートからこいしへ、流が視線を移した。
  「捜さんほうがええんと違うかなぁ、と思うんよ。吉沢さんのためにも」「いっつも言うてるやろ。わしらは頼まれた食を捜すだけでええ。それを見つけた後は、向こうが考えはることや」
  流が視線をノートに戻す。
  「小布施てどんなとこなん?」
  こいしが急に話を変えた。
  「ええとこやでぇ。栗が旨いし、古い街並みもあるし」こいしの問いに、流はノートから目を離さずに答えた。
  「うちが捜しに行ってもええ? 吉沢さんの農園とか見てみたいし」こいしが流の袖を引っ張った。
  「ええけど、大丈夫かいな。お父ちゃん付いていったろか」「ちょっとひとり旅してみたい気分やねん」
  「遊びに行くのと違う。仕事やで」
  流が横目でこいしをにらんだ。
  「分かってるって。おみやげに栗買こうてくるし」「心配やなぁ」
  「近くに温泉あるかなぁ」
  こいしがタブレットの地図をなぞると、流は深いため息をついた。
 

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