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本格的な梅雨に入ったとみえて、このところ毎日のように雨が降っている。それは京都の街も同じで、灰色の空から絶え間なく雨が落ちてくる。
黒い傘をたたく雨の音はそれほど大きくはないが、それでも東本願寺前の舗道には薄うっすらと水がたまっていた。
健一は水たまりを避けながら、正しょう面めん通を東に向かって歩いた。
二度目ともなると慣れたもので、京都駅からは最短距離で「鴨川食堂」へ辿たどり着いた。健一は傘をたたみ、トレンチコートを脱いでから引き戸を開けた。
「おこしやす」
こいしが笑顔で出迎えた。
「ご連絡ありがとうございます。愉しみにしてまいりました」健一はコートを椅子の背にかけた。
「えらいきつう降ってるんですね」
こいしがタァ‰でコートを拭った。
「お気遣いなく。安物ですから」
健一がハンカチで髪を拭いた。
「雨の中、ご苦労はんですな」
流が暖簾の間から顔を覗かせた。
「お手間をかけました」
健一が小さく頭を下げた。
「今回は娘が活躍してくれましてな。ちゃんと見つけてきよりましたで」流が顔を向けると、こいしはわずかに胸を張った。
「たぶん合うてると思うんやけど、もし間違うてたらごめんなさい。先に謝っておきますわ」
「そんな謝ってもらうようなことじゃないです。捜していただいただけで充分です」健一は固い表情を崩さずに笑みを浮かべた。
「ご飯はどないしましょ。高校生のころを思いださはるんやったら、大盛りにしまひょか」
「そうしてください」
健一の顔がゆるんだ。
「『吉沢農園』さんへ行ってきました」
こいしがリーフレットをテーブルに置いた。
「観光農園になってるんですか」
手に取って、健一がじっと見つめる。
「小布施の観光スポットにと思うて始めはったみたいですけど……」「知らなかったなぁ」
リーフレットの中を開いて、健一は何度も見返した。
「やってみはったんやけど、観光客はほとんど来はらへんで、ご近所のお年寄りの集会所みたいになってしもうたんやそうです」
「おふくろは商売には向いてませんよ」
健一が苦笑いしながら、リーフレットをテーブルに置いた。
「吉沢花はな恵えさんですよ」
こいしはそれを手にして、アンズの木の下でにっこりとほほ笑む女性を指した。
「これがおふくろ……」
記憶の中にある母との違いに、健一は何度も首をかしげた。
「お待たせしましたな」
長手盆に椀わんと茶ちゃ碗わんを載せて、流が健一の傍に立った。
「後は食べはってからゆっくり」
益まし子こ焼の土瓶と砥と部べ焼の湯ゆ吞のみを置いて、こいしは厨房に入っていった。
「お漬けもんは野沢菜をご用意しました。あとはほんまに味噌汁とご飯だけです。ゆっくりと味おうてください」
長手盆を小脇に挟んで、流も厨房の暖簾をくぐった。ひとり食堂に残った健一は、ひと呼吸おいてから、椀の蓋を取った。
もうもうと上がる湯気が落ち着くのを待って、健一は箸を取り、味噌汁をかき混ぜた。
その手ごたえはまさにあのときと同じだった。
箸でつまみあげたのは、薄切りにされたジャガイモ。煮崩れる寸前のような、やわらかいそれを口に入れるとすぐに形をなくした。ほっこりと甘く、味噌味が染みこんだ辛みとのバランスが絶妙だ。
椀の底に沈んでいるのは薄切りにされたタマネギ。これもまたしっかりと煮込まれているのか、透き通ったそれは舌の上でとろけた。
改めて汁をすすってみる。
「この味だ」
健一は思わず声をあげた。
味噌辛くなく、かといって甘みが強いわけではない。舌から喉、そして胃袋へと、やさしく丸い味わいが広がっていく。
藍染めの飯茶碗にこんもりと盛られたご飯に目を留めた健一は、野沢菜を広げてご飯を巻きこみ口に運んだ。
少しずつ懐かしさがこみ上げてくる。もう一度味噌汁の入った椀を手にして匂いを嗅いだ。それはまさに子どものころ、起き抜けに鼻から吸い込んだ薫りだった。
ジャガイモとタマネギを箸ではさみ、ゆっくりと舌の上に載せる。汁を飲む。二度ほどそれを繰り返した後、健一は飯茶碗を手にして、残っていたご飯を味噌汁の中に入れた。
さもそれが当然のことであるように。
軽く箸で混ぜてから、健一は椀をかたむけ、ご飯と一緒に汁をすすった。
まるでお茶漬けでも食べるかのように、さらさらと箸でさらえ、一気に食べきった。
「どないでした?」
盆を持って、流が厨房から出てきた。
「これだったと思います。記憶があいまいなので断言はできませんが、あの日食べた味噌汁はこれです」
健一は椀を両方のてのひらで包みこんだ。
「お代わり、どないです?」
「いえ、もう充分です。お腹も胸もいっぱいです」「よろしおした。ほうじ茶でもお淹いれしますわ」盆を小脇にはさんで、流がきびすを返した。
「どうしてこれを」
健一は流の背中に声をかけた。
「それは、こいしのほうからお話しさせます」笑顔を残して流が厨房の暖簾をくぐり、入れ替わりにこいしが出てきた。
「合うててよかったです」
「ありがとうございます。あなたが捜しだしてくれたんですね」「座らせてもろてもよろしい?」
「どうぞどうぞ」
「きっと苦労するやろなぁと覚悟して、小布施に行ったんですけど、思うてたより簡単に見つかりました」
こいしがタブレットの画面を見せた。
「これはたしか公民館……」
「ここで週に二日、『シルバー食堂』というボランティアイベントが開かれてますねん。
そこで出されるお味噌汁がえらい人気で」
「ひょっとして、それをうちのおふくろが?」「はい。お味噌汁は吉沢花恵さんの担当ですねんて」「ひょっとしてこの味噌汁も?」
「おじいちゃんたちの一番人気がこれなんやそうです」こいしがにっこり笑った。
「……」
健一がじっと椀をみつめた。
「『シルバー食堂』で出してはるお味噌汁の定番は三、四種類あるみたいです。その中で一番人気なんが、このお味噌汁。具はジャガイモとタマネギだけ。花恵さんの息子さんの好物やったと聞いてるて言うてはりました」
「まさかおふくろに僕のことを?」
「毎回このお味噌汁を愉しみにしてる、ていうご近所のおじいさんから聞いた話です。健一さんのことは、お母さんには一切言うてません。安心してください」「近所の人も僕のことを覚えているんですか」健一がうかない顔をした。
「もちろんですやん。いつ帰って来はるんやろ、て皆さん愉しみにしてはります」「そういうプレッシャーがいやなんですよ。田舎の人って、そこに気づいていない。自分たちが応援しているんだから、絶対勝って戻ってくると確信している。でもたいていは負け犬なわけですよ。こそこそと帰ってくる。そっとしておいて欲しいんです」「負け犬やとか勝ち組やとか、そういうふうに分けんでもええと思いますけどな」厨房から出てきて、流が土瓶を差し替えた。
「でも、誰の目にも明らかじゃないですか。弁護士を目指して上京したけど、結局思いを果たさないまま、すごすごと田舎に帰ってくる。カッコ悪いと思いません?」半笑いを浮かべて、健一はこいしに顔を向けた。
「結婚もせんと、子どもも産まんと、この歳になったうちが、エラそうなことを言えた義理やないんですけど、弁護士になったから勝った、なれへんかったから負けた、人生てそない単純なもんやないと思います。仕事がすべてやないですし」こいしが健一の目をまっすぐに見すえた。
「そうは言っても……」
健一の気持ちが揺らいでいるのは流の目には明らかだった。
「そんなことはええさかい、ちゃんと味噌汁の話をせんと」「そうやった。肝心の話」
流にうながされて、こいしが「吉沢農園」の話をつづけた。
「うちは京都で食堂やってるんやけど、こんな美味しいお味噌汁をどうやって作るのか、教えて欲しい。そう言うてお母さんにお話を聞いたんです。噓うそついたわけやないけど、なんとのう後ろめたい気もしました」
「おふくろは人がいいから、簡単に教えてくれたでしょ」健一がはにかんだ。
「ほんまにええお母さんや。皆から慕われてはるのもよう分かるわ。お味噌の配合から具の取り合わせまで、事細かに教えてくれはりました」「それでこの味噌汁が……」
健一は感慨深げに椀を見つめた。
「けど、『シルバー食堂』で出してはるお味噌汁と、今食べてもろたんは味が違うんです」
「どういうことですか?」
「うちも、おじいちゃんたちに人気のお味噌汁と、健一さんが最後に食べはったお味噌汁は同じやと思うてたんですけど、帰り際にお母さんが一冊の本を見せてくれはったんです」
こいしが色あせた料理本をテーブルに置いた。
「『味噌汁三百六十五日』……。味噌汁だけのレシピ本ですか」すり鉢らしき模様の表紙には、真ん中に葉付き蕪かぶが描かれている。健一が裏返すと大根の絵があり、定価三百八十円とある。
「昭和三十四年の秋に出版された本みたいです。花恵さんはこの本を参考にして、健一さんのために毎日お味噌汁を作ってはったんです」こいしが折れたカバーを指で戻した。
「今出版しても売れるんと違いますやろか。レシピだけやのうて、料理の心構えも書いてある。ようできた本です」
流が目次を目で追った。
「参考になりそうなとこを、うちが書き写してたら、貸したげるから持って帰り、と花恵さんが言うてくれはって」
こいしが本の正面を向けると、健一が表紙を開いた。
「ようけ書き込みしてはるでしょ。最後まで食べた、とか、半分残した、とか、美味しいと言った、とか、ぜんぶ健一さんが食べはったときのことです」「おふくろはそんな話までしたんですか」
健一がページを繰った。
「なんで健一さんの話になったかて言うたら、この本の真ん中に写真がはさんであって、それがぱらっと床に落ちたからなんです」
こいしがテーブルに置いた写真には、学生服姿の少年と野良着姿の女性が、栗の木の下で並んで写っている。
「これはあの日の……」
健一が素早く写真を手に取った。
「東京へ行かはる日の朝に撮らはったみたいですね」「二度と戻ってこないかもしれない、なんて冗談を言いながら撮った記憶があるのですが、けっこうふたりとも緊張してますね」
健一が顔をほころばせた。
「ええ写真ですがな」
流が後ろから覗きこんだ。
「この写真がきっかけで、あのお味噌汁を再現できたんです。根掘り葉掘り訊いてしもうて」
こいしが写真を見つめた。
「あの日の味噌汁を、おふくろが覚えていたということですか」健一が顔を上げた。
「覚えてはる、ていうより書き留めてはったんです。お味噌の配合やら、具の取り合わせまで」
こいしが本の書き込みを見せた。
「三種類の信州味噌をブレンドして、煮立つ寸前に、あらかじめ煮ておいたタマネギ、ジャガイモを加える。仕上げに『ァ≈セ牛乳』を少量……、牛乳が入っていたんですか」「そこがシルバー食堂の味噌汁との違いなんですて。小さいころから牛乳好きやった健一さんのお味噌汁には必ず牛乳、それも慣れ親しんだ『ァ≈セ牛乳』を最後に入れてはったんやそうです」
こいしが『ァ≈セ牛乳』のパックの写真を見せた。
「これこれ、懐かしいなぁ」
健一が目を細めた。
「味噌汁に少量の牛乳を入れることで、味噌の角が取れて味がやわらこうなります。お母さんの知恵ですなぁ」
流が言葉を加えた。
「さすがに牛乳までは用意してませんけど、お味噌とレシピはここに入れておきますので」
こいしが手提げの紙袋を健一に手渡した。
「ありがとうございます。こんな言い方をすると失礼になりますが、まさか本当に捜しだしていただけるとは思っていませんでした。これで決心がつきました」健一は唇を真一文字に結んだ。
「よろしおした」
流は満面に笑みを浮かべた。
「この前の食事代もふくめて、お支払いのほうを」健一が財布を取りだした。
「お気持ちに見合うただけをこちらに振り込んでください」こいしがメモ用紙を渡した。
「承知しました」
健一はメモを丁寧に折りたたんで、財布にしまうと引き戸を開けた。
「雨、あがったんや」
薄日が差す空をこいしが見上げる。ひるねは、電柱のかげで寝そべって、大きなあくびをした。
「今日はおとなしくしてるんだ」
健一はトレンチコートと傘を左腕にかけた。
「どうぞお気をつけて」
こいしが腰を折ると、健一は会釈を返した。
「この本ですけどな」
流が味噌汁の本を二度ほど裏返して続ける。
「あなたのお母さんは、息子が帰ってきたら連絡するさかい、そのときに返してくれたらええと言うて、貸してくれはったんやそうです。そやな、こいし」流の言葉にこいしが大きくうなずいた。
「なんだか遠回りしてしまったような気がします」健一は表紙をじっと見つめている。
「人生に遠回りも近道もありまへん」
流が相好を崩した。
「お気遣い感謝します」
健一は深々と頭を下げて、正面通を西に向かって歩きだした。
「雨降って地固まる、てこういうときに言うんやった?」見送って、こいしが店の敷居をまたいだ。
「ちょっと違うような気もするけど、まぁええ」流が苦笑いしながら後に続いた。
「健一さん、どないしはるんやろなぁ。あきらめんともういっぺんチャレンジしはるんか。田舎に帰らはるんか」
こいしがていねいにテーブルを拭いている。
「気の向くまま、でええんやないか」
流が仏壇の前に座りこんだ。
「おかあちゃんは、どんなお味噌汁が好きやったっけ」こいしが隣に座った。
「落とし卵や。他にはなんにも具を入れんと、沸いた味噌汁にぽとんと生卵を落とす。しばらく煮込んで、白身が固まって黄身が半熟になったら食べごろや。ちょっとでも黄身が固まりすぎたら、悔しそうな顔しとった」
流が線香に火をつけた。
「うちもそれ好きや」
こいしが目を閉じて、しっかりと仏壇に手を合わせた。