第二話 おにぎり
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京都駅の中央口を出ると、秋の気配が色濃く漂っていた。
雪ゆき村むら栞しおりは小さく身震いし、白いワンピース一枚でやって来たことを少しばかり後悔した。
曇り空にそびえ立つ京都タワーを見上げてから、栞は烏丸通を北に向かって歩く。
聞いた話が正しければ、十分もすれば目指す店に辿たどりつくはずだ。歩みを緩めて東本願寺の風情も愉たのしみながら、栞は正面通を東に折れた。
「こちらは『鴨川食堂』でよかったでしょうか」モルタル造のしもたやの前でトラ猫を抱く、若い女性に訊たずねた。
「そうですけど」
トラ猫を抱いたまま、女性はゆっくりと立ち上がった。
「食を捜していただけるのでしたよね」
「そっちのお客さんやったんですか。わたしが『鴨川探偵事務所』所長の鴨川こいしです」
こいしがぺこりと頭を下げた。
「『料理春秋』の広告を拝見してまいりました。雪村栞と申します」「どうぞお入りください」
猫を玄関先に置いて、こいしが店の引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
栞が敷居をまたぐと、茶色い作さ務む衣え姿の男性が厨ちゅう房ぼうから出てきた。
「ほんまに捜すのはお父ちゃんなんです。こちらは雪村栞さん。『料理春秋』の広告見て来てくれはったんやて」
「雪村と申します。どうぞよろしくお願いします」栞が頭を下げると、長い黒髪がふわりと揺れ、透き通るような白い顔を覆った。
「ようこそ。お腹なかの具合はどないです。おまかせでよかったらご用意できますけど」茶色い帽子を取って、鴨川流が会釈した。
「突然なのにいただけるんですか? 喜んでちょうだいします」栞は流に笑顔を向けた。
「なんぞ苦手なもんはありまへんか」
「好き嫌いを言えない家で育ちましたので」
「よろしおした。すぐにご用意しますさかい、ちょっとの間待っとぉくれやす」流が急ぎ足で厨房に入っていった。
「どうぞこちらにおかけください」
こいしがパイプ椅子を奨すすめた。
「ありがとうございます」
店の中を見回しながら、栞がゆっくりと腰かけた。
「『料理春秋』を読んではるくらいお料理が好きなんですか?」「うちの店にいつも置いてあるので」
「けど、あんな一行広告だけで、ようここまで辿り着かはりましたね。て、うちが言うのもへんな話やけど」
こいしがペロッと舌を出した。
「思い切って編集部に電話してみたんです。そしたら編集長さんが出てくださって、場所を教えてもらいました」
「どちらからです?」
「東京です。実家は新潟の村上ですが」
「お酒もお米も美お味いしいし、新潟はええとこですよね」こいしがデコラテーブルを念入りに拭きながら、栞の出いで立ちを横目で見た。
「ありがとうございます。よくそう言われますけど、住んでいたときには、そんな実感はなかったですね」
「ファッション関係のお仕事なさっているんですか」栞の細かなプリーツの入った白いワンピースは、地味な店の中だからとはいえ、ひときわ華やかに映る。
「美容師ですから、ファッション関係と言えなくもないですね」栞が遠慮気味に答えた。
「美容師さんですか。さっきお店、て言うてはったから、てっきりアパレル関係やと思うてました。けど、美容師さんも華やかなお仕事でよろしいね」「そう見えるかもしれませんけど、きつい仕事なんですよ。朝から晩まで立ちっぱなしですし」
「そう言うたらそうですね。お客さんはずっと座ってて楽でええけど、店のもんはずっと立ちっぱなし。うちの食堂と一緒や」
こいしと栞は顔を見合わせて笑った。
「お客さんの笑顔に救われますけどね」
「ほんまやねぇ。うちも髪の毛を切りに行くのん好きです。気分が変わりますし、憧れの仕事ですわ」
「こいしさんのヘアースタイルは素敵ですよ」「おおきに。まとめ方も我流やし、ぜんぜん自信ないんです」こいしは肩をすくめた。
「お待たせしましたな」
流が長手盆に載せて料理を運んできた。
「すごいご馳ち走そうじゃないですか」
栞が目をみはった。
「夏が終わって、そろそろ秋やというこの時期は目立った食材もおへんし、お気に召すかどうか、自信はないんですけどな」
流がテーブルに皿を並べ終えて続ける。
「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左上の長皿は落ち鮎あゆの塩焼きです。たっぷり子を持ってますさかい、柚ゆ子ず味み噌そをつけて召し上がってください。その横の織おり部べ小鉢はおぼろ豆腐。生うにを載せてます。かんずりをちょこっと載せると美味しおす。右端の染付鉢には汲くみ上げ湯葉が入っとります。土佐酢をかけてますんで、そのまま召し上がってください。その下のガラス皿は鱧はもの湯引きです。梅酢と辛子味噌を添えてます。お好きなほうで食べてください。その左隣の蒸せい籠ろはイカシューマイです。香菜と練胡ご麻まを載せてどうぞ。真ん中の左端は秋あき茄な子すの焼いたん。生しょう姜が餡あんをかけました。その下の角皿に載ってるのは近江おうみ牛うしの角煮です。練り辛子がよう合うと思います。その隣は鹿肉の竜田揚げ、右端は煮穴子と胡瓜きゅうりの重ね蒸し、どっちもお味が付いてますんで、そのままお食べください」テーブルに並んだ九つの料理を、流がよどみなく説明した。
「お酒はどうです?」
こいしが栞に訊きいた。
「これほどのお料理を前にしてお酒抜きというのはあり得ませんよね。美味しい日本酒があれば嬉うれしいです」
栞はこいしに笑顔を向けた。
「やっぱり本場の人は違うなぁ。即座に日本酒て言わはるんやから」感心したようにこいしが言った。
「本場っちゅうのも、おかしな言い方ですけどな。お好みは辛口ですか」苦笑いしながら流が訊いた。
「いわゆる端麗辛口じゃなく、普通に美味しいお酒、というのでしょうか。どっしりしたお酒が好きです。酒乱に近かった父譲りです」栞の顔がわずかに曇った。
「いつのころからか日本酒いうたら端麗辛口が持てはやされるようになりましたけど、個性のない酒が多すぎますわ。お好みの、どっしりした酒をご用意します」急ぎ足で流が厨房に続く暖の簾れんをくぐった。
「新潟の人は子どものころからお酒を飲まはるて聞いたことありますけど、ホンマですか」
「どうお答えすればいいのでしょう」
こいしの問いかけに、栞は笑顔で答えた。
「こいし、余計な話しとったら、ゆっくり食べてもらえへんがな」「いいんですよ。愉しいお話ですし」
「すんません。昔から気になってたんで、つい」こいしが両肩をちぢめて厨房に入っていった。
「秋田の〈天寿〉っちゅう酒です かんしてもええんですが、まずは常温でいってください。最近のわしの晩酌はもっぱらこれです。どうぞごゆっくり」流も厨房に入った後、ただひとり栞だけが食堂に残った。
しんと静まり返った店の中で、栞が最初に箸を付けたのは、落ち鮎の塩焼きだ。故郷でも夏場になると鮎はよく食卓に上った。釣り好きのご近所さんが、近くを流れる三み面おもて川で釣ってきた鮎だ。母親が串を打つのも苦労するほど、ぴちぴち跳ねる鮎を食べて育ったものだから、料理屋で出される鮎を美味しいと思ったことはない。大した期待もせず、栞は口に運んだ。
「美味しい」
思わず口をついて出た言葉に、栞は自分でも驚いた。
腹が割れ、鮎の子があふれ出ている。子に栄養分を取られてしまっているから、落ち鮎の身は味が薄い。耳年増になっていたことを悔いた。薄いどころか、若鮎よりも濃密な味がする。柚子味噌を載せると香りが豊かになり、爽やかな味に変わる。
次に箸を伸ばしたのはおぼろ豆腐。うにの上にかんずりを少し。豆の味がする豆腐にかんずりがよく合う。なんだか懐かしい味だ。昔から家の冷蔵庫には必ずといっていいほど、瓶に入ったかんずりがあったから、そのせいかもしれない。少し辛みと風味が欲しいときは、どんなものにでも、かんずりを加えた。
そうめんのつゆにも、白いご飯にも、ラーメンにも入れたりした。豆腐に付けることもよくあったが、生うにと合わせるのは初めてだ。
鱧の湯引きは京都名物だと聞いたことがあるが、たしか祇ぎ園おん祭まつりのころが旬だったはずだ。秋になってもまだ獲とれるのだろうか。辛子味噌を付けて食べてみた。
うなってしまいそうになるほど美味しい。
初めて食べる鹿肉も、竜田揚げにすれば食べやすい。鶏の唐揚げよりもずっと味が濃くて美味しい。
「おあとはどないしまひょ?」
厨房から出てきて、流が訊ねた。
もう少しお酒が欲しい、そう思ったときに、すかさずお代わりを訊ねてくれるタイミングが絶妙だ。
「ほかにお奨めがあれば」
「承知しました。近江の酒でええのがあります。しっかりした味のをお持ちしますわ」片っ端から料理を片付けながら、栞の気分は複雑だった。
美味しいご馳走を食べた後で、捜して欲しいのは、ただのおにぎりだなんて言ってもいいのだろうか。
あまりに粗末なもので恥ずかしいような気がする。
家が貧しかったせいもあり、村上にいるころは質素な食事ばかりで、ご馳走と呼べるようなものを食べたことがなかった。二年前に東京へ出てきてから、がらりと食生活が変わったのは、給料がよくなったことと、周りに美味しい店がたくさんあるからだ。
東京での経験がなければ、ここの料理を食べても、何がどう美味しいのかもよく分からなかっただろう。
好みにぴったり合った近江の酒を片手に料理を食べつくしたころ、流が厨房から出てきた。
「ご飯をお持ちしましたけど、早いことはおへんか」「早く食べて所長さんにお話を聞いてもらわないと」栞はおしぼりで口の周りを拭った。
「鮎ご飯を炊かせてもらいました。落ち鮎を焼いてから、薄ぅに味付けをして、身を細こうほぐして、お米と炊き込んでます。新潟の方にお出しするのは気が引けますけど」流がお櫃ひつからよそい、小ぶりの飯めし茶ぢゃ碗わんを栞の前に置いた。
新潟で生まれ育ったからといって、みんながみんなブランド米を食べているわけではない。どこ産のお米だとかは気にしたこともなかったが、近所の農家からわけてもらっていたお米はたしかに美味しかった。
「いい香り。美味しそうですね」
「大葉とミョウガ、三つ葉と木の芽を刻んだんをまぶしてもろたら旨うまいと思います。
お汁つゆは秋茄子の味噌汁、どうぞゆっくり召し上がってください」丸盆を小脇に挟んで、流は厨房に戻っていった。
栞の父は、お米の質がどうだとかは、あまり気にしなかったが、炊きかたにだけはうるさかった。少しでも固かったり、柔らかすぎたりすると、火がついたように真っ赤な顔をして母を怒鳴りつけていた。
鮎ご飯からは、かすかに鮎の香りが立ち上ってくるが、色はほとんど真っ白で、炊き込みご飯というふうには見えない。白いご飯に鮎の身が混ざっているといった感じで、口に入れても魚の身は入っていないように思う。それが一変したのは、大葉や三つ葉、ミョウガと木の芽をまぶし入れて食べたときだ。なぜだかは分からないが、栞は川かわ面もを渡ってくる風を感じたのだった。
三面川の堤に座って、初めて小お野の安やす彦ひこと会話らしい会話を交わした日のことを思いだした。
栞は十八歳、安彦は十九歳のときだった。日本を代表する料理人になりたいと、熱く夢を語る安彦に比べて、夢のひとつもなく、ただただ待遇がいいというだけで、地元の美容院に就職することを決めた自分が恥ずかしかった。
夕ゆう陽ひが川面に映り、きらきらと輝いていた日のことを、まるで昨日のことのように、栞は思いだしていた。
「どないです。お口に合いましたかいな」
土瓶を手にして、流が栞の傍らに立った。
「どれもぜんぶ美味しかったです」
栞は素直な感想を口にした。
「よろしおした。ひと息つかはったら、奥へご案内します」「きっと長いことお待たせしてると思いますから、すぐにまいります」湯ゆ吞のみに注がれた茶を飲みほして、栞は中腰になった。
「ちょっとも急せきませんのやで。どうぞゆっくりしとぉくれやす」「ありがとうございます。充分ゆっくりさせていただきました」栞は立ち上がって、流に笑顔を向けた。
鰻うなぎの寝床という言葉にふさわしく、京都の古い家は間口が狭く、奥に長い。狭い廊下の両側にはびっしりと写真が貼られている。そのほとんどが料理の写真だ。
「ぜんぶこちらの店のお料理ですか」
立ち止まって、栞が流に訊いた。
「家族の記念写真も混ざっとりますけど、たいていはわしが作った料理です。レシピてなしゃれたもんを書き残しまへんので、その代わり、っちゅうとこですわ」「和食だけじゃなく、なんでもお作りになるんですね。どちらで修業なさったんですか」「うちが料理屋でしたんや。親おや父じが二代目で、わしが三代目になるはずやったんです。せやからまともな修業もせんと、見よう見まねでしてな。その上に寄り道までしてしまいましたさかいに」
流が苦笑いしたわけを訊こうとしたが、すぐに向けた背中に、それを拒まれたように感じた。
「後はこいしに任せとりますんで」
突き当たりのドアを開けて、流は食堂に戻ってゆき、部屋に入った栞はソファの真ん中に腰かけた。
「ご面倒やと思いますけど、記入してもらえますか」グレーのバインダーに挟まれた申込書を、こいしが手渡した。
住所、氏名、職業、生年月日など。型通りの申込書に記入して、栞はバインダーを返した。
「お生まれも育ちも村上やけど、今は代々木に住んではるんですね」「ええ。東京に出てきてから二年になります。村上がどんどん遠くに行ってしまうようで」
寂しげな顔をした栞のことを、こいしはうらやましく思った。
京都に生まれ育ったこいしには、ふるさとがない。
夏休みが終わると、いなかに帰ったという友だちの話を聞き、経験したことのない冒険譚たんや祖父母との触れあいに、憧れを抱くほかに術すべはなかった。
「どんな食を捜してはるんです?」
こいしの問いかけに、しばらく間をおいてから栞が答えた。
「おにぎりです」
「おにぎり、て、あの、おにぎりですか?」
こいしは自分でもおかしな訊ね方だと思ったが、栞は素直に受けとめた。
「ええ。あの、おにぎりです」
「こういうシンプルなんが一番難しい、て、お父ちゃんがよう言うてはります」「すみません」
「いえ、捜し甲が斐いがあるいうて、喜びはりますねん」こいしは悪戯いたずらっぽい笑顔を栞に向けた。
「だったらいいんですけど」
「いつ、どこで食べはった、どんなおにぎりです? 詳しいに聞かせてください」こいしがノートを開いた。
「二十歳の夏ですから、今から四年以上前のことです」口火を切ってから、栞は小さくため息をついた。
「高校を卒業してすぐ、近くの美容院に勤めていたのですが、オーナーがときどき晩ご飯を食べに連れて行ってくれました。『別邸羽黒庵』という、村上ではよく知られた料亭へ行ったとき、そこで修業していた男性と知り合って、付き合うようになりました」「その男性のお名前は?」
こいしがペンをかまえた。
「小野安彦さんです」
「おいくつくらいの方ですか」
「わたしよりひとつ上です」
栞が目を伏せた。
「ひょっとして、その人が作らはったおにぎりですか?」「ええ。付き合い始めて二年目のことでした」「二年目ということは二十歳くらいのときですね。どこでそのおにぎりを食べはったんです?」
「村上には『鮭さけ公園』という、冗談みたいな名前の公園があるのですが、そこで七夕の夜、ふたりとも仕事を終えてからデートしていたときに」栞のほほに赤みがさした。
「七夕の深夜かぁ。ロマンティックやねぇ」
こいしが瞳をかがやかせた。
「大事な話があるといって、やっちゃんに呼びだされました」「ひょっとしてプロポーズ?」
「その逆です。しばらく会わないようにしよう。やっちゃんがそう言ったんです」「ほかに好きな人ができはったん?」
「違います。しばらくは料理人としての修業に専念したい。そして、一人前の板前になってから付き合いたい。それには四年くらいかかる。四年間待ってくれないか。やっちゃんはそう言いました」
「四年か。けっこう先の話やね。それまで待てるやろか。うちは自信ないなぁ」「わたしもそう思いました。そんな先のことは分からないし、四年の間に、おたがい他に好きな人ができるかもしれない。だから約束はできない。わたしはそう言ったんです」「うちでも、そう言うと思います。一年先でも分からへんのに、四年先やなんて。ァ£ンピックと一緒ですもんね」
こいしの喩たとえに栞がくすりと笑った。
「やっちゃんは、こうも言いました。給料も今はわずかだし、正直、デートするためのお金もない。気持ちとしては今すぐにでも一緒に暮らしたいけど、ひとりですら貧しい暮らしなのに、わたしに辛つらい思いをさせるような付き合いはしたくない」「正直な、ええ人なんやなと思うけど、四年は長いなぁ」こいしが小さくため息をついた。
「わたしは何も贅ぜい沢たくなデートを望んでいるわけじゃない。そう言いたかったんですが……」
「そらそうやわねぇ。公園を散歩するだけでもええんやし。お金をかけんでも、ふたりで愉しいに過ごしたらええやん」
「でもやっちゃんは言いだしたら、絶対後には引かない人だということも分かってました」
栞は宙に目を遊ばせた。
「そうなんや。うちのお父ちゃんとおんなじで、頑固もんなんやね」「話が一段落したときです。わたしのために、心をこめて作ったといって、やっちゃんがおにぎりを出してきたんです。まるで宝物みたいに、立派な木の箱に入ってました」「別れのおにぎりですか。合うような、合わへんような」「やっちゃんらしいな、とわたしは思いました」「で、どんなおにぎりやったんですか」
こいしがノートのページをめくった。
「三角形をしていて、大きさはコンビニのおにぎりより、ひとまわり小さかったと思います。海の苔りが巻いてあったんですが、中は白いご飯ではなく、混ぜご飯みたいでした」「混ぜご飯のおにぎり。どんな具が混ぜてあったんです?」ペンを持ったまま、こいしがノートから顔を上げた。
「それがよく分からなかったんです。お魚の味がしたのはたしかなのですが、それ以上は……」
「そらまぁ、そうやわね。別れ話の後に、冷静に分析しながら、おにぎりを食べるやなんて、うちも無理やわ」
こいしがほほ笑んだ。
「ふたつに割ってから中を見て、その後すぐに食べてしまったものですから」「どんな味がしました?」
「食べたことのない味でした。ふと思ったのはおとなの味。おにぎりなのに、お酒が飲みたくなる、っていうか、そんな気がしたことだけは覚えています。お魚の刻んだものかなぁと思いましたが、生ハムのような気もしましたし」「これだけで捜すのは難しいやろなぁ」
こいしが二度、三度と小首をかしげた。
「ご参考になるかどうかは分かりませんが、やっちゃんは、とても貴重なものが中に入っていると言ってました。お店のお客さんが急にキャンセルされて、出す予定だったものが余ったので、分けてもらったんだって自慢してました」「ちょっとはヒントになるかもしれません」
「頼りないことで申し訳ありません」
栞が小さく頭を下げた。
「ところで、今になってそのおにぎりを捜そうと思わはったんは、なんでです?」こいしが訊いた。
「好きな人ができたんです」
「四年の期限が過ぎて、やっちゃんからは?」こいしの問いかけに、栞は黙って首を横にふった。
「それやったら、問題ありませんやん。まだ若いんやし、どんどん恋愛せんと」「ただ、その前にもう一度、あのときのおにぎりを食べておきたいんです。やっちゃんがあのとき、どんな思いでわたしにおにぎりを作ってくれたのか。ちゃんと味わっておきたいんです」
栞は薄うっすらと目に涙を浮かべて、こいしに訴えた。
栞の、安彦への思いはよほど深いのだろうと、こいしは思った。連絡がなかった今も安彦のことを信じていて、待っていたに違いない。だがそれを断ち切らないと、自分はしあわせになれない。栞の気持ちは痛いほどよく分かる。
「分かりました。なんとしても捜します。お父ちゃんであかんかったら、うちが捜しだします」
こいしが言葉を強めた。
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」立ち上がって栞が深く腰を折った。
「あんじょうお聞きしたんか」
食堂に戻ると、流は料理の仕込みをしていた。
「ちゃんと聞かせてもろたけど、今度も難しいでぇ」こいしが答えた。
「わたしが頼りないばっかりに、おふたりには迷惑をおかけします」「いやいや、難しいもんほど捜し甲斐がある、っちゅうもんです。どうぞお気になさらんと」
流がバットに蓋をした。
「何作ってたん?」
こいしが蓋をはずした。
「鹿肉の生干しや。もう半月ほど寝かしたら、ちょうど食べごろになるわ」流は赤黒い肉片をじっと見つめてから、蓋を戻した。
「どうかしはったん?」
バットに視線を向けたままの栞に、こいしが心配そうに訊いた。
「そんな肉だったような……」
栞はバットを見ているようで、焦点が定まっていないようにも見える。
「鹿かぁ。お父ちゃん、新潟の人て鹿を食べはるやろか」「食べんこともないやろけど、あんまり聞いたことはないなぁ」流が首をかしげた。
「きっとわたしの思い違いだと思います。そうだ、今日のお支払いを」気を取り直したように、栞がバッグを開けて財布を取りだした。
「探偵料と一緒にいただきますので」
こいしの言葉に、少し間をおいてから栞は財布を元に戻した。
「次はいつ伺えばいいでしょう」
「おおかた二週間後くらいに。支度が調うたら連絡させていただきます」「承知しました。仕事の時間が長いものですから、留守電に入れていただければありがたいです」
栞が店を出ると、トラ猫がかけ寄ってきた。
「飼ってらっしゃるんですか」
栞は屈かがみこんで、頭をなでた。
「飼うてるような、そうでないような。お父ちゃんが店の中に入れてくれはらへんから」こいしが恨めしそうに、流を横目で見た。
「当たり前やないか。食いもん商売の店に猫なんか入れられるかい」腕を組んで流がそっぽを向いた。
「名前はなんて言うんですか」
「ひるねて言うんです。いっつも昼寝してるんで」こいしが栞の隣に屈んだ。
「うちの店も同じなんですよ。奥さんが飼っている猫を、オーナーは頑として店に入れてあげない。猫をめぐって、いつも夫婦げんかをされてます」栞がのどをなでると、ひるねが甘えた声を出した。
「今日はどちらへ?」
「明日から仕事なので東京に帰ります」
栞が立ち上がって、ワンピースの裾をはらった。
「雨が降りそうな空でっさかい、お気をつけて」流が曇り空を見上げた。
「どうぞよろしくお願いします」
栞は正面通を西に向かって歩いていった。
「何を捜してはるんや」
見送って、流がこいしに訊いた。
「おにぎり」
こいしが短く答えた。
「おにぎりか。なかなかの難題やな」
店に戻って流がパイプ椅子に腰かけた。
「難しいていうたら難しいけど、そのおにぎりを作らはった人のことは聞いてあるし、いざとなったらその人に訊いたらええと思うよ」テーブルを挟んで向かい合うこいしがノートを開いて見せた。
「村上か。ええとこや。旨い酒もあるし、米も魚も旨い」「うちが行こうかな」
「あかん。おにぎりてな深いもんを捜すのはお前には無理や。お父ちゃんが行く」「なんやかんや言うて、美味しいお酒を飲みたいだけちゃうん?」「そんなことあるかい。こいしが行って見つけられなんだら、二度手間になるさかいに、お父ちゃんが行くて言うてるんや。旨い酒をみやげに買うてきたる。おとなしい留守番しとき」
「おみやげ忘れたらあかんで」
こいしが不服そうに口をとがらせた。