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秋の二週間は、一気に季節が進む。肌寒いを超えて、冬のような空気の冷たさだ。前回の二の舞にならないよう、厚手のジャケットを着こんできてよかった。烏丸通を歩きながら、栞はベージュのスカーフを巻きなおした。
重苦しい雲が垂れ込めていた前回と違って、今日は抜けるような青空がどこまでも広がっている。京都タワーはいかにも誇らしげに、真っ白な塔をまっすぐ空に伸ばしている。
正面通を歩き、「鴨川食堂」の前に立つと、まだ二度目なのに懐かしく感じる。どことなく生まれ育った家と佇たたずまいがよく似ているからかもしれない。
灰色のモルタル造の二階屋。あちこちにひび割れができていて、それを埋めるようにして白いパテが蜘く蛛もの巣みたいな模様を描きだしている。子どものころは、それが不気味な生きもののように見えて、夜、家に帰るときは、できるだけ壁を見ないようにして急いで家に入ったものだ。
「こんにちは」
引き戸を開けると、こいしの笑顔が迎えてくれた。
「おこしやす」
「ようこそ。お待ちしてました」
茶色い作務衣姿の流は、同じ色の帽子を取って、一礼した。
「愉しみにしてまいりました」
栞がジャケットを脱ごうとしたのを流が止めた。
「そのまま着といとぅくれやす。ちょっとした趣向を考えとりますんで」そう言って流が合図すると、こいしが とうで編んだ籠をささげ持った。
「『鮭公園』みたいな公園は、京都にはあんまりありませんのや。しゃれた公園とは違いまっけど、すぐそこに、ちょっとした庭園がありますさかい、そちらへご案内させてもらいます。おにぎりは外の空気と一緒に食うたほうがよろしいさかいな」流の言葉に、栞は心を丸くさせた。
捜して欲しいと頼んだものの、食堂のなかでおにぎりを食べる自分の姿が想像できず、なんとはなしに息苦しさを予測していただけに、流の提案は栞の気持ちを和ませるものだった。
「『渉しょう成せい園』ていうお庭なんですよ。京都の人はたいてい『枳き殻こく邸てい』ていいますけど」
流が支度をする間に、こいしが説明をした。
「お庭、ですか」
栞にはどんなものか想像がつかなかった。
「『東本願寺』さんの飛び地ですねん。いうたらお寺の庭ですわ。そうそう『東本願寺』さんのことも、京都の人は『おひがしさん』て、友だちみたいに言うんですよ」「『東本願寺』って、ここに来る途中にあった、あの大きなお寺ですよね。とっても広いお寺に見えましたけど、他にもまだ飛び地があるんですか」「すぐそこ、歩いて二、三分のとこにあるんですよ。疲れたときは、よう行きますねん。
空が広ぅてほっこりします」
こいしが答えた。
「よっしゃ、ほな行こか」
支度を整えた流が店の引き戸を開けた。
流を先頭にして、三人は正面通を東に向かって歩く。
「あの突き当たりの門が『渉成園』の入口なんですよ」こいしが指さした。
「本当に近いんですね」
栞は思ったままを口にした。
「お寺さんの庭でっさかいに、ベンチに座ってお弁当広げて、てなことはできまへんけど、池の端の腰かけ石でおにぎりをつまむくらいは、かんにんしてくれはります」門の前で流が言った。
寺そのものはなく、庭園だけ、というのがどういうものか、栞にはまだ想像がつかない。
入口で流が三人分の拝観料を払って、こいしと栞を手招きした。入園料ではなく、拝観料というあたりがお寺のしるしなのだろう。
思った以上に広い庭園だった。樹木もよく手入れされ、庭だけでなくいくつもの建物が建っている。
「噴水の代わりていうたら何やけど、池の端で水面を眺めながら食べてもろたら、ちょっとは気分が出ますやろ」
京都タワーが映りこむ池は、広すぎず狭すぎず、見渡すにはちょうどいい大きさだ。
きっと流はあらかじめ見つけておいてくれたのだろう。腰かけるのに格好の石に迷うことなく歩み寄った。
「ちょっとお尻が痛いかもしれまへんけど、しばらくの間でっさかいな」黒く平たい石の上に、流は藍地の小さなクッションを置いた。
「はい。おにぎりです。お茶の入った水筒も入ってますよって」の籠をこいしが栞に手渡した。
「ありがとうございます」
「わしらはその辺を散歩してきますさかい、ゆっくり召し上がっとぅくれやす」流が目で合図し、こいしは後に続いた。
今日がたまたまなのか、いつもそうなのか、人はまばらだ。広い庭園の中で目につく人は指折り数えて十数人ほどだ。だから人目を気にすることもないのだが、お寺の境内だと聞けば、大口を開けるのは少しばかり気が引ける。 の籠から、小箱を取りだし、そっと蓋を開けてみた。
三角形のおにぎりがふたつ。そう、たしかあの日もこんなふうだった。海苔が巻いてあって、それはコンビニのおにぎりみたいに、パリパリしたものではなく、しっとりとした手触りで、ご飯と一体になっている。手に持って、しばらく眺めたあと、そっと口に運んだ。
少しずつ、少しずつ嚙かみしめる。思った以上に塩気がきいていて、磯の香りが鼻から抜けてゆく。ああ、こんな味だった。間違いない。こんな味だった。
栞はおにぎりを手に持ったまま、池の水面に映る、あの日の安彦と、じっと向き合っていた。
わたしは貧しさには慣れているんだよ。贅沢をしようなんて、これっぽっちも思っていない。ふたりで苦労すればいいじゃないか。修業中であなたの給料が少なかったとしても、わたしの給料を足せば暮らしてもゆける。せめて一年先、いや二年先でもいい。早く一緒になりたい。
あのとき何度も口から出かかったのを、黙って吞のみこんだのは、怖かったからだ。それを言葉にすれば、せっかくあなたがふくらませてくれた、夢のような風船を、わたしがぱちんと割ってしまいそうな気がしたのだ。
残りのおにぎりを口に入れると、こらえ切れずに涙があふれた。
たとえ割ってしまってもいいから、思ったままを言えばよかった。風船くらいまたふくらませばいいのだ。どんな言い合いになってもいいから、そう言うべきだった。栞はそう思ったが、水面に映る安彦は何も言わずに、ゆらゆらと揺れている。
栞は小箱に残ったもうひとつのおにぎりを、手でふたつに割ってみた。中に入っている具はくすんだ朱色のような赤い色をしている。こまかく刻まれたそれは、ねっとりとしていて、口に含むと淡い磯の香りがする。
ひとつ目に比べて、ふたつ目のおにぎりは、じっくりと味わうことができた。こんなに美味しいおにぎりは絶対ほかにはない。あの日のおにぎりは、それくらい特別なものだったのだ。
白い京都タワーが歪ゆがんで見える。青空がにじんでいる。泣いたからといって、どうなるものでもない。あの日に戻れるわけはないのだから。そう自分に言い聞かせて、栞は白いハンカチで涙を拭った。
「どないでした」
化粧直しをするのを待っていたかのように、流とこいしが栞の傍らに立った。
「美味しくいただきました。あいまいな記憶でしかありませんが、あの日やっちゃんが作ってくれたのと同じおにぎりだったと思います」「よろしおした」
「冷とうて固い石の上に座ってもろて、おいどが痛いんと違います?」「おいど?」
栞が目を丸くした。
「京都ではお尻のことを、おいどていうんですわ」流が笑った。
「初めて聞きました。京都の言葉っておもしろいですね」栞が立ち上がった。
流が先を行き、その後ろ、少し離れて栞とこいしが並んで、ゆっくりと歩く。
「ほんまにおんなじおにぎりでした?」
こいしが小声で訊いた。
「実はあんまりよく覚えてないんです。だから同じだと思えば同じに思えるし、別ものだと言われたら、そうかもしれないと思いますし」栞も声を落とした。
「おにぎりを食べて、決心することに意味があるんですもんね」「そうなんです。もう踏ん切りを付けないと」「その気持ち、よう分かります。何かのきっかけがないと、いつまで経たってもおんなじとこを、ぐるぐる回ってるみたいな気がしますよね」こいしの言葉に、栞は無言のままうなずいた。
「お父ちゃんが村上から帰って来て、すぐに試作しはったんを、うちも食べてみたんですけど、ほんまに美味しいおにぎりやったわ」
「お父さんは村上に行かれたんですか?」
「二泊三日で行って来はったんです。うちも行きたかった」「村上に……。そうでなきゃ再現できませんもんね」栞が視線を池に向けた。
「『別邸羽黒庵』へも行ってきました」
前を向いたまま、流が言った。
「そう……でしたか」
「あいにく小野安彦さんには会えまへんでしたけど」栞は押し黙ったままだ。
「ご記憶はあいまいやと思いますが、今食べてもろたおにぎりは、あのときに安彦さんがあなたのためにお作りになったものと同じはずです」立ち止まって流が振りかえった。
「『別邸羽黒庵』でのことを、少しお話しさせてもらいます」「はい」
栞が短く答えて身構えた。
「創業百年を超えるんやそうですな。京都にも負けんような立派な料亭でした」流が栞と並んで歩きだした。
「一度しか食べに行ったことはありません。それもお弁当でしたから、詳しくは知らないんです。やっちゃんもお店でのことは、あまり話しませんでした。ただ、格式の高いお店だということは聞いてました」
「七夕の日に、村上では大きな祭りがあるんですてな。『別邸羽黒庵』が一年で一番賑にぎわう日らしいです。村上はもちろん、新潟中から常連さんがお越しになるんやそうで、毎年この日は特別な料理が出ると女将おかみさんから聞いて、無理言うてその料理を食べさせてもろたんです」
「やっちゃんもそんな話をしてました。普段でも気を遣うけど、一番緊張する日だと」「それがこの料理です」
流が作務衣のポケットから出して、料理写真を見せた。
「見たこともない料理」
テーブルの上にずらりと並ぶ料理に、栞が目を輝かせた。
「わしが行った日は、お客さんが少のうて、女将さん自らもてなしてくれはりました。それでいろいろお話を聞かせてもらえたんですわ。お祭り料理は鮭づくしということでしたけど、鮭そのものの質がええ上に、よう工夫されとるんで、最後まで飽きんと、美味しいによばれました」
流の言葉を聞いて、栞は写真を持つ手に力をこめた。
「後にも先にも祭りの日のお客さんがキャンセルになったのは、四年前のただ一度だけやそうです。五人分の料理が余ってしもうたんで、店のご主人が若い衆に頒わけたげはった。皆それぞれ折箱に詰めたりしとるのに、安彦さんだけがおにぎりを作ってる。女将さんがわけを訊いたら、プロポーズするんやて、嬉しそうに言うてはったみたいです。そのときのことをよう覚えてはって、それでさっきのおにぎりを再現できたというわけです」「おにぎりの具は鮭なんですね」
「その日の鮭料理の中でも一番のご馳走やと言われとるのが、鮭の酒びたしというもんで、手間ひまかかったもんやそうです」
流が写真を見せた。
「美味しそう」
栞が目を細めた。
「これだけやおへんのです。安彦さんのアイデアで、鮭のトロを醬しょう油ゆ漬づけにしたもんも一緒に刻んで、おにぎりの具にしはった。それでよけいに味に深みが出たはずやと、女将さんが感心してはりました」
「やっちゃんらしいなぁ。彼は人一倍欲張りなんですよ」栞がそう言うと、流はにっこりとほほ笑んだ。
「『別邸羽黒庵』で使うてはるお米は、岩船産のコシヒカリやと聞いたんで、米屋も女将さんに紹介してもろて、おんなじ米を買うてきてそれを使いました。海苔は日本海のもんですし、さっき言うたとおり、具も一緒です。せやから、捜してはったおにぎりと寸分違たがわんもんやと思うてます。けど、あなたにとっては、おなじ味やないかもしれまへん。もちろんわしも精いっぱいの思いを込めさせてもらいました。けど、そのときの安彦さんの思いには、とてもやないけど、かなうもんやおへん。これから一生を共にしていこうと思うて、おにぎりをにぎる。どんな名料理人でもそれには勝てまへん。おにぎりいうのは、一番小細工の効かん料理なんです」
「だから、おにぎりだったんですね」
「今どきは、〈おにぎらず〉とか言うて、手でにぎることもせんようなもんが流は行やっとるそうやけど、そんなもんが旨いはずがない。心を込めてにぎるさかいに、おにぎりは旨いんです。食べる相手のことを考えて、てのひらにようけ愛情を込めて、いっしょうけんめいににぎる。それが、おにぎりていうもんやと、わしは思います」流と栞はまっすぐに視線を合わせた。
「本当にありがとうございます。あの日のやっちゃんの気持ちもよく分かりましたし、思い残すことなく、前に進めそうな気がします」栞が晴れやかな顔を見せた。
「よろしおした」
流がそれに応えた。
こいしはひと言もはさむことなく、ふたりの後ろを歩き、三人はそのまま「渉成園」を出た。
「だいじなことを忘れてました。この前の食事代と一緒に探偵料をお支払いしないと」歩きながら栞がバッグから財布を出した。
「うちは料金を決めてませんねん。お気持ちに見合うた額を、こちらに振り込んでもらえますやろか」
こいしがメモ用紙を栞に手渡した。
「分かりました。東京に戻りましたらすぐに」栞はメモを財布にはさんだ。
「ちっとも急ぎまへんで。落ちつかはったらでよろしい」「鴨川食堂」の前で、流が立ち止まった。
「ありがとうございます。本当にいろいろとお気遣いいただいて」言い残して、栞が正面通を西に向かって歩きだした。
「お気をつけて」
流が背中に声をかけた。
「栞さん」
こいしの呼びかけに、栞が振り向いた。
「しあわせになってくださいね」
こいしが小さく叫んだ。
「ありがとうございます」
深々と一礼して、栞はスカーフを風になびかせ、早足で歩いていった。
「ひるねの姿が見えんけど、どっか遠征しとるんか」流が店の周りを見まわした。
「浩ひろさんとこかなぁ。最近は浩さんとこによう行ってるんよ」「旨い魚を食わしてもろとるんと違うか」
「なんやかんや言うて、お父ちゃんもひるねのことが気になるんやね」「猫なんか気にしとるかい。おらなんだら店の前がすっきりしてええ」流が敷居をまたいで店に入ると、こいしが後ろ手で引き戸を閉めた。
「やっぱり今夜はおにぎりづくしかなぁ」
こいしが横目で流を見た。
「ちょっと冷えてきたさかい、鮭の鍋でもしよか。『別邸羽黒庵』のまかない料理を女将さんに教えてもろたんや」
「それ、ええな。お土産に買うてきてくれた〈八海山〉もまだたっぷりあるし」「ひるねを迎えに行きがてら、浩さんも誘うてみたらどうや」「うん、そうするわ」
「掬きく子こも鮭が好物やったな」
流が仏壇を振り向いた。
「せっかく美味しい鮭があっても、死んだら食べられへんねんな」「生きてるうちに旨いもん食わんとな」
流が包丁を研ぎはじめた。
「お父ちゃん」
「なんや」
こいしの声に、流が手を止めた。
「安彦さんて、いつ亡くならはったん?」
「なんや、気づいとったんか。二年前やそうな。市場へ仕入れに行った帰りに、バイクで事故に遭うて」
流は包丁を持つ手を動かした。
「やっぱり……。そんな気がしたんや。栞さんは知ってはったんやろか」「当たり前やがな。そんなことが耳に入らんはずない」「それでも四年、待たはったんや」
こいしは鍋を洗っている。
「それだけ思いが深かったんやろ」
「けど、待つて約束したわけやないんやし。それに亡くなってしもた人をなんぼ待っても一緒になれへんやん」
「こいし。約束いうもんは口でするもんやない。心でするもんや。心で約束したことは、そう簡単に破れるもんやない。栞さんは心の約束を守りとおさはった。立派なことや」「そらそうやけど……」
「わしも約束を守っとる」
「お母ちゃん、そうなんやて。いつまで続くか分からんけど。な? お母ちゃん」仏壇の写真にこいしが声をかけると、掬子がにっこりと笑ったように見えた。