第五話 から揚げ
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東京から乗りこんだ〈のぞみ〉が、京都駅に着いたのは午後一時過ぎだった。
いくらか空腹を覚えた鈴すず木き大まさるだが、目的を果たすのが先だとばかりに、ハンバーガーショップを横目で見ながら、タクシー乗り場へ急いだ。
「この店に行きたいのですが」
タクシーに乗りこんで、赤い目印を付けた地図を鈴木が運転手に見せた。
「仏壇屋はんでっか」
眼鏡を額に上げて、白髪の運転手が訊きいた。
「いえ、『鴨川食堂』という店です」
「あんなとこに食堂なんかあったかいな」
首をかしげながら、地図を鈴木に返してブレーキを外した。
「近くで申し訳ありません」
耳が遠いのか、鈴木の言葉に応えることなく、運転手はハンドルを切った。
師走に入ったばかりの京都は、特別な観光シーズンとは思えないが、道はひどく混みあっていて、京都駅から離れるまでに十分ほどもかかった。
「ありがたいことに、ようけの観光客が来てくれはりますねん。おたくも紅葉見物でっか?」
多くの観光客を目で追いながら、信号待ちをする運転手が訊いた。
「いえ、観光じゃないんですが。でも、まだ紅葉が見られるんですか」「地球が温暖化しとるさかいかもしれんけど、最近は十二月の中ごろでも見られまっせ」七条通を越えて、正面通に入った辺りで、運転手は速度をゆるめ、通りの左右を見まわしている。
「そこで停とめてください」
鈴木は黒いビジネスバッグから財布を出した。
「ほんまにここでよろしいんか。食堂なんかありまへんで」運転手は千円札を受け取って、釣銭を渡した。
「食堂に見えないのが目印だと聞いてますから」言い残して、鈴木がタクシーを降りた。
やはりコートを着てくるべきだったか。初冬の風に鈴木は肩を縮めた。
味もそっけもないモルタル造の二階屋。看板も暖の簾れんもなく、どこからどう見ても食堂には見えない。教わってきた特徴をひとつひとつたしかめ、スーツの襟を正し、ネクタイの結び目に手をやってから、鈴木は大きくうなずいた。
「間違いない」
鈴木が引き戸を開けようとしたのと同時に、若い男性が店から出ようとした。
「ごちそうさま」
敷居の上で鉢合わせしたふたりは、互いに譲りあい、若い男性を先に通してから、鈴木が店に入った。
「こんにちは。関東フードサービスの鈴木と申しますが、こちらは『鴨川食堂』でよろしかったでしょうか」
鈴木の大きな声に、ソムリエエプロンを着けた若い女性が振り向いた。
「すんません。セールスはお断りしてるんです」スーツ姿の鈴木を一いち瞥べつして、女性は素っ気なく答えた。
「あのー、今日はセールスじゃなくて……」
鈴木が名刺入れを取りだすと、作さ務む衣え姿の男性が厨ちゅう房ぼうから出てきた。
「『さつき亭』の息子はんですか」
「はい。鈴木大です。父が大変お世話になっております」「世話してもろたんは、こっちです。わしが鴨川流、こっちは娘のこいしです」帽子を取って、流が頭を下げると、こいしは慌ててそれに続いた。
「鈴木さんのお父さんはな、草津温泉で『さつき亭』っちゅう旅館をやってはって、掬子の大のお気に入りやったんや。湯畑のすぐ傍そばにあって、湯もええけど、メシが旨うもうてな。夏も冬も、よう寄せてもろたもんや」流が感慨深げに、鈴木をこいしに紹介した。
「三年ほど前に移転しまして、今は湯畑から離れた場所で営業しています」鈴木が「さつき亭」のパンフレットを出して、こいしに笑顔を向けた。
「ご案内をいただいたんですけど、なかなか伺う機会がのうて」流が手に取って中を開いた。
「お参りさせてもらっていいですか」
鈴木が仏壇の横に飾られた、掬子の遺影を見た。
「おおきに。覚えてくれてはりますか」
流が仏壇へ案内した。
「もちろんです。白しら根ね山さんの湯釜へご案内したときは、とても喜んでいただきました」
仏壇の前に正座して、鈴木が手を合わせた。
「話だけは聞いてますけど、うちはいっぺんも『さつき亭』さんに連れてもろたことないんですよ」
こいしが小鼻をふくらませた。
「今度ご招待させていただきますので、是非ご主人と一緒にいらしてください」「あいにく、うちはまだひとりもんですねん」こいしの小鼻が更に大きくなった。
「大変失礼しました」
鈴木は正座したまま、慌てて頭を下げた。
「こんな粗そ忽こつな娘でっさかい、なかなか嫁にもろてもらえまへん。よかったらどないです?」
流が冗談とも本気ともつかない顔を鈴木に向けた。
「そんなもったいない。僕みたいな田舎もんにはとても……」鈴木が顔を真っ赤に染めた。
「捜してはる食いもんがあるんやと聞いとりますが、お父さんからは、先に旨うまいもんを食わせてやってくれ、と頼まれてます。お腹なかの具合はどないです」流が立ち上がった。
「是非お願いします。京都で一番美お味いしいものが食べられるお店だと、父から聞かされてますので」
店に戻って、鈴木が流に笑みを向けた。
「どうぞお掛けください」
こいしが赤いシートのパイプ椅子を奨すすめると、鈴木はゆっくりと腰をおろした。
「しばらく待っとってください。急いでご用意しますんで」流が小走りで厨房に入っていった。
「食品会社に勤めてはるいうことは、旅館は継がはらへんのですか」鈴木の顔を横目で見ながら、こいしが急須の茶を湯ゆ吞のみに注ついだ。
「食品会社ではなく、外食産業のコンサルをする会社に勤めています。いつになるかは分かりませんが、いずれは旅館を継ぐつもりです」鈴木が染付の湯吞を両手で包みこんだ。
「そしたら食のプロですやん。うちで捜すより、ご自分で見つけはるほうが早いんと違います?」
「プロといっても、僕はまだ駆け出しですし」鈴木が湯吞をゆっくり傾けた。
「お店のコンサルて、どんなことしはるんです?」こいしが訊いた。
「いろんな部門があるのですが、僕が担当しているのはメニュー開発だとか、試食してアドバイスしたり、です。と言っても、まだ先輩の仕事を手伝うくらいで、研修生みたいなものです。ひとり立ちできるまでは、あと五年ほどかかると思います」「それがきっと将来、『さつき亭』の料理にもつながっていくんやろね」こいしが茶を注いだ。
「そうなればいいのですが、料理は本当にむずかしいです」湯吞を持ったまま、鈴木が小さくため息をついた。
「お待たせしましたな。お若い方には物足りんかもしれまへんけど、皿盛りにさせてもらいました」
信しが楽らき焼のぼってりとした大皿を、流が鈴木の前に置いた。
「すごいご馳ち走そうですね」
鈴木が身を乗りだして、目を大きく見開いた。
「料理の説明をさせてもらいましょか」
「お願いします」
鈴木が居住まいを正した。
「八種類の料理を盛らせてもろてます。左上は聖しょう護ご院いん蕪かぶらの含め煮。柚ゆ子ず味み噌そと唐辛子味噌の両方で愉たのしんでください。その横はフグ刺しのミルフィーユです。間にポン酢のジュレを挟んでますさかい、そのまま食べてください。右上の小鉢は越えち前ぜん蟹がにの小さいグラタンです。韃だっ靼たん蕎そ麦ばの実を砕いたんが添えてあります。よかったら振りかけて召し上がってください。ええ食感やと思います。真ん中の右手の串は鴨かも団子です。つくねにして揚げてますんで、粉こな山さん椒しょうと甘酢を付けてどうぞ。左手はグジの焼いたん。みじんに切ったセリと一緒に、カラスミ塩を振って食べてください。下の左の小皿は冬ふゆ鰻うなぎの白焼き、海の苔りで巻いて、わさび醬じょう油ゆで食べてもろたら美味しおす。下の真ん中はカキフライ。すぐき菜のタルタルソースをたっぷり付けてください。右端は近江おうみ牛うしのテンダーロインをから揚げにしてます。味は付いてますんで、お好みでスダチを絞ってください」説明を終えて、流が腰を伸ばした。
「聞きしに勝る、というのはこのことですね。しっかり勉強させていただきます」鈴木が大皿の上を見まわしている。
「お酒はどないしましょ。うっかりしてお聞きするのを忘れてました」こいしが鈴木に向き直った。
「お父さんは底なしやけど、息子はんは下戸なんやそうや。そうでしたな? 遺伝っちゅうのは不思議なもんですなぁ」
「何度かチャレンジしたんですけど、いつもぶっ倒れてしまって」鈴木が頭をかいた。
「無理しはらんでよろしい。体質っちゅうもんがありますさかい。酒の代わりに旨い茶をお出ししますわ」
流が目で合図すると、こいしはブリキの茶筒を開けて、万ばん古こ焼の急須にさらさらと茶葉を落とした。
「ご飯はすっぽん雑炊を用意しとります。適当なとこで声をかけてください。どうぞごゆっくり」
一礼して、流は厨房に入っていった。
「お酒なしで食べてもらうのんは、申し訳ないような気もしますけど」こいしは、唐津焼の湯吞に茶を注いで、鈴木の前に置いた。
「お酒と一緒に食べたら、どんなに美味しいだろうと、いつも思うんです」鈴木が茶をひと口飲んだ。
「けど、お茶のほうが味はよう分かるんやろね。どうぞごゆっくり」こいしが厨房の暖簾をくぐった。
しんと静まり返った食堂で、ひとり料理と向き合った鈴木は、小さな咳せきばらいを二度ほど続けてから、箸を手に取って合掌した。
最初に箸を付けたのは鰻の白焼きだった。「さつき亭」でも鰻はしばしばメニューに上る。蒲かば焼やきを胡瓜きゅうりと合わせて酢の物にしたり、鰻う巻まきにしたり、ときには小さな鰻うな丼どんにして、〆しめのご飯にすることもある。使いやすい食材なのだが、特色を出しにくいという欠点もある。季節を問わない食材だけに、どう使いこなすかは料理人の腕次第だ。
流の指示どおり、焼海苔を巻いて、わさび醬油を付けて口に運んだ。白焼きにされた鰻は、ほんのりとあたたかく、皮目がパリッとしていて関西風の焼き方のようだ。
鰻を苦手とする人が多いのは、川魚独特の臭みがするからで、鈴木もそのひとりだ。美味しいと思って食べても、なんとなく後口に臭みが残る。蒲焼きならいくらかそれは薄まるが、白焼きはごまかしがきかない。どれほど上質の鰻を使っても同じだと思い込んでいた鈴木に、この軽やかな鰻は少なからぬ衝撃を与えた。
白身魚のような淡泊さでありながら、旬を迎えたブリのような、濃密な旨みを湛たたえる鰻。鈴木には初めての味だった。淡泊と濃厚が混在することなどあり得ないと思っていたが、この鰻の白焼きはそれを実現している。
衝撃が冷めやらないまま食べたフグ刺しにも、鈴木は大きなショックを受けた。
旅館料理に刺身は欠かせないものだが、それはやはり鮮度が一番なのであって、いくら流通が発達したといっても、漁港の近くにある旅館には到底かなわない。鈴木だけでなく、父三さぶ郎ろうもそう決め込んでいた。
草津から日本海まで百キロ弱、太平洋までとなると二百キロ近く離れている。そして標高は千二百メートルにも及ぶことから、山地のイメージが強く、海の幸を料理するには幾らかのハンディがある。三郎が宿を継いだころは、刺身を出すと、「山の宿で刺身?」と眉をひそめる客が少なくなかったと聞いた。
京都も海から遠い街だと言われている上に、フグと京都はイメージからも結びつきそうにない。なのにこのフグは本場の下関や博多で食べたのよりも、はるかに美味しく感じる。
──鴨川さんの料理は無心になって味わえ──三郎の言葉を思いだし、鈴木は次々と箸を伸ばして何も考えずに食べることだけに専念した。
「どないです。お口に合おうてますかいな」
流が鈴木の傍らに立った。
「感心しっぱなしです。感動と言ったほうが正しいかもしれません。弟子入りさせて欲しいと思っています」
冗談とも本気ともつかない表情を、鈴木が流に向けた。
「何を言うたはりますねん。お父さんの料理に比べたらとてもとても。わしのはあくまで素人料理でっさかい」
「どうしたら、こんなに美味しくなるのか、不思議で仕方がありません」ほとんど料理がなくなった皿を、鈴木が真剣なまなざしで見つめている。
「お若い方には、ちょっと物足らんのやないかと思うて、ご飯の前に焼きそばをお持ちしましたんやが」
流が、大皿の横に角皿を置くと、薄く湯気が立ち上り、芳こうばしい香りが漂った。
「これが焼きそばですか」
鈴木が角皿に顔を近づけた。
「山口へ行ったときに食べた〈瓦そば〉を真ま似ねてみました。麵は中華麵やのうて茶そばですねん。ざる蕎麦みたいに、つゆに付けて召し上がってください」灰色の角皿には、少しばかり焦げ色のついた緑色の麵が載り、その上に錦糸卵がたっぷりと載っていて、合間に肉らしきものが見えている。
「飾りのレモンはつゆに入れてもろてもよろしい。熱いうちにどうぞ」流が厨房に戻っていくと、鈴木は勢い込んで、角皿に箸を伸ばした。
山口県の川かわ棚たな温泉名物と聞いてはいたが、実際に目の当たりにするのは初めてだ。
焼きそばを温かい麵つゆに付けて食べる、というのも新鮮な感覚だった。
最初のひと口はそのままの麵つゆで、ふた口目からはレモンスライスを入れたつゆで食べた。
焼きそばと言えば、ソースか塩味しか思いつかなかった鈴木は、こんな食べ方があるとは思いもしなかった。これなら日本料理の献立に加わっても違和感がない。「さつき亭」でも応用できそうだと思いながら、鈴木はあっという間に角皿を空にした。
そして何より感心したのは、流の気遣いだ。たしかに大皿の料理だけなら、後からご飯が出てくるとはいえ、少しばかり物足りなさを覚えたに違いない。
かと言って、最初からこれが一緒に出てくると、大皿の料理が後回しになって、印象が霞かすんでしまう。分量といい、タイミングといい、客のことをよほど考えないと、こううまくはいかない。
鴨団子に粉山椒を振り、甘酢に絡めて食べると、大皿は空になった。
「そろそろご飯をお持ちしてよろしいかいな」流が厨房の暖簾から顔を覗のぞかせた。
「お願いします」
鈴木が答えると同時に、小ぶりの土鍋を両手で持って、流が厨房から出てきた。
「熱いさかいに、気ぃつけとぉくれやっしゃ」鍋敷の上に土鍋を置いて、流が蓋を取ると、もうもうと湯気が上がった。
「いい香りですね」
湯気と一緒に立ち上った香りに、鈴木はうっとりと目を細めた。
「雑炊っちゅうより、リゾットというとこですかな。このレンゲのほうが食べやすいと思います。鍋底におこげができてるはずですし、こそげて最後まで召し上がってください」「すっぽんのリゾットですか。なんとも贅ぜい沢たくな〆ですね。これは?」土鍋の横に置かれた、小さなガラス皿と杯を鈴木が指した。
「実山椒を細こうに刻んだんと、しょうがの絞り汁です。途中で入れてもろたら、風味が変わって、飽きんと食えます。お茶は土瓶ごと置いときますんで」流の言葉に大きくうなずいてから、鈴木はレンゲを土鍋に入れた。
火傷やけどしそうなほどに熱々の雑炊は、流の言葉どおり、リゾットというほうがふさわしい食感だ。ちゃんと米粒の形をしていて、しかし芯は残っていない。出だ汁しは和風なのだが、かすかに洋風の味が舌に残る。いったい、どうすればこんな味が出るのだろう。
見習い中とはいえ、飲食店のメニュー開発に携わっていながら、どれひとつ取っても、どういう調味料を使って、どんな味付けがなされているのか、複雑すぎてまったく分からずにいる。歯がゆさを覚えながらも、鈴木は胸の昂たかぶりをも覚えている。
土鍋こそ小ぶりながら、少量とは言えない雑炊はしっかり食べ応えがある。焼きそばがボディブローのように、じわじわと効いてきたこともあって、鍋底のおこげをこそげる頃には、腹がはち切れそうになっていた。
「足りてますかいな」
「充分すぎるほどいただいています」
鈴木は流に、大きくなった腹を叩たたいて見せた。
「よろしおした。ひと息つかはったら、奥へご案内しますさかいに、声をかけてください」
「すみません。あんまり美味しいので、ゆっくりしすぎてしまいました。お待たせして申し訳ありません。すぐに参ります」
鈴木はハンカチで口の周りを拭いながら立ち上がった。
「そないに急いでもらわんでもよろしいんでっせ」流が苦笑いした。
「美味しいものを食べると、自然とゆっくり味わってしまいますね。いつもは仕事に追われて、あっという間に食べてしまうのですが」先を行く流の後を追って、鈴木は細長い廊下を歩いている。
「特にお酒を飲まん方はそうなりますな。ゆっくり味おうてこその食事やと思うんですけど」
「これは全部、鴨川さんがお作りになった料理ですか」廊下の両側にびっしり貼られた写真を、鈴木は順に見まわしている。
「たいがいはそうですけど、中には、旅行先やなんかで気に入った料理の写真もあるんでっせ。そうそう、『さつき亭』で撮った写真もどっかにあるはずなんやが」足を止めて、流が背伸びをして写真を捜した。
「うちの写真なんて、恥ずかしいからいいですよ」鈴木が流を追い越した。
「これや、これや。掬子が、旨い旨いと言うて、お代わりを頼みよったら、お父さんが出てきてくれはって。そのときの写真ですわ」
少し色あせかけている写真は、まぎれもなく「さつき亭」の客室だ。鴨川流と掬子が座卓を挟んで向かい合い、その下座に控えているのは父の三郎だ。だが肝心の料理がよく見えない。
「なんの料理だったんですか?」
鈴木が写真に顔を近づけると、流が事もなげに答える。
「千切りキャベツですわ。上じょう州しゅう牛ぎゅうの照り焼きに添えてあったもんです。それがびっくりするくらい旨かったんで、掬子が無理を言うてお代わりを」小さく笑って、流が歩きだした。
「千切りキャベツ……」
あきれた顔で立ち止まっていた鈴木は、慌てて流の後を追った。
「あとは娘にまかせてますんで」
突き当たりのドアを開けて、流は食堂に戻っていった。
「どうぞおはいりください」
黒のパンツスーツに着替えていたこいしが、部屋の中から鈴木に笑顔を向けた。
「失礼します」
鈴木はおそるおそるといったふうに、ゆっくりと部屋に入った。
「ご面倒やと思いますけど、ここに記入してもらえますか」向かい合ったソファに腰かけると、こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
「承知しました」
鈴木はそれを膝の上に置き、ためらうことなくペンを走らせた。
「鈴木大さん。二十六歳。若いんやねぇ。独身満喫中」受け取って、こいしが素早く目で追った。
「はい。なかなか縁がなくて」
鈴木が薄く笑った。
「どんな食を捜してはるんです?」
こいしがノートを開いた。
「から揚げなんです」
鈴木の声がわずかに裏返った。
「から揚げて美味しいですよね。うちも大好き。で、いつ、どこで食べはったから揚げですか」
こいしがペンを構えた。
「高校三年生のときに、草津の『とり岳たけ』という店で食べたから揚げです」「高三ということは、十七か八のときとして……、八年以上前のことなんや。そのお店はもうないんですよね」
こいしの問いかけに鈴木は黙ってうなずいた。
「そのから揚げて、何か特徴はあります?」
「特徴というほどのものはなかったのですが、とにかく美味しかった。味の付いたから揚げなのに、タレっていうか、ソースを付けて食べるんです。後にも先にも、あんなに美味しいから揚げは食べたことがありません」
鈴木が目をきらきらと輝かせた。
「から揚げていうたら、たいていおんなじようなもんやと思うけど、ソースを付けるのは珍しいねぇ。その『とり岳』ていう店に行かはったんは、高三のときの一度きりなんですか?」
ペンを構えてこいしが訊いた。
「いえ、毎日のように行ってました」
「毎日そのから揚げを食べてはったん?」
こいしは大きく目を見開いた。
「いえいえ、いつもはおにぎりを食べてました。から揚げを食べたのは、ただ一度きりです」
「一度きり、て、近所のお店なんでしょ? 『とり岳』ていうくらいやから、そのお店はから揚げが名物なんと違いますのん」
こいしが小首をかしげた。
「名物といえば名物ですが、幻の名物です。話が長くなるんですが、大丈夫ですか」鈴木が遠慮がちに言った。
「どうぞ、どうぞ。お話を聞くのがうちの仕事ですし」こいしが浅く座りなおした。
「温泉旅館というのは、どこも年中無休の二十四時間営業みたいなものでして、うちみたいな家族経営の旅館では、家族揃そろっての夕食など、ほとんどありません」「旅館とは違うけど、うちの家も家族揃っていうのは滅多になかったなぁ」こいしが、しんみりと言った。
「母親も旅館の仕事をしていたので、家に帰ってくるのは夜遅くでした。それから夕食の支度をするものですから、子供のころはいつもお腹をすかせてました。高校に入ったあとは、毎日野球の練習があって、とても夜まで待てない。それで部活が終わった後に仲間と一緒に『とり岳』に行くのが日課になっていました」「野球の練習したら、そらお腹がすくわねぇ。夜まで待てへんで当たり前やわ。きっと大きいおにぎり作ってもろたんやろね」
「はい。川かわ上かみのおっちゃんはバクダンと呼んでました」「『とり岳』のご主人は川上さんて言わはるんやね」こいしがペンを走らせた。
「はい。川上善ぜん三ぞうさんです。店を閉めて引っ越したあと二、三年前に病気で亡くなったそうです」
鈴木が声を落とした。
「お店もないし、ご主人も亡くなってはるんやったら、捜すのん難しいなぁ」こいしが腕組みをした。
「すみません。難しいことをお願いして」
「他に食べたことがある人の話を聞かんとしゃあないかなぁ」「僕もそれを考えたんですが、難しいんです」「なんで? お店の名物やったら他に食べた人は、たくさんやはるんと違う?」「名物なんですが、幻の名物と言われていて、メニューにも載っていないんです。噂うわさばっかりで、食べたことがあるという人は誰もいないんです」鈴木が両肩を落とした。
「どういう意味なんかなぁ。もうちょっとそのお店のことを、詳しいに話してもらえますか」
「『とり岳』は湯畑の近くにある食堂で、うどんや蕎麦、ラーメンや丼もの、カレーとか、なんでもある店なんですが、夜は焼鳥屋になるんです。宿泊客の方や、旅館の従業員でいつも賑にぎわっていたのですが、から揚げはメニューに載ってませんでした」「ありそうな感じやけど、何か理由があったんやろか」「それは僕には分かりません。川上のおっちゃんは無口な人で、滅多に話をしたことがないので」
「ようある話やね。無口な主人が煙たそうにしながら、焼鳥を焼く、て」「そんな感じなんでしょうか。僕は夜に行ったことがないので」「もうひとつ、不思議なんは、なんでいっつもおにぎりやったか、なんよ。ラーメンとか丼もあったのに」
「川上のおっちゃんが、おにぎりしか食わせてくれなかったんです」「なんで?」
「家の夕食を美味しく食べるためにだ、と言ってました。どんなに忙しくても、旅館の仕事を終えてから、母親は子どものために一生懸命に晩ごはんを作る。夕方に美味しいものを食べるのは、母親に失礼だと、川上のおっちゃんは、何度もそう言ってました」「ええこと言わはる。ほんま、そのとおりやわ。うちも覚えある。お母ちゃんが帰ってくるのを待ちきれんと、夕方にインスタントラーメン食べてしもて、せっかくの晩ごはんを残してしもたら、お母ちゃんが、哀かなしそうな顔してはった。川上のおっちゃん、ええ人なんや」
こいしは目を細めた。
「その当時は、なんだか理不尽な気がしたんですが、今となっては川上のおっちゃんの言うとおりだったなと思います。もしあのとき、ラーメンとかカレーとか食べてたら、きっと晩飯を美味しく食べられなかったと思います」鈴木がしんみりと語った。
「おにぎりで軽ぅにお腹を膨らせといて、晩ごはんを待つ。いつもはそんなことやったんやね。ということは、そのから揚げは、なんか特別なときに食べさせてくれはったんや。
誕生日とか?」
「僕が所属していた草津中央高等学校野球部というのは、本当に弱いチームで、創部以来、二度しか勝ったことがなかったんです。それも二十年以上も前のことです。僕が一年生のときに入部してから、三年生まで、対外試合では一度も勝ったことがありませんでした。試合に勝ったら、から揚げを作ってやる、と川上のおっちゃんが言ってくれたので、それを励みにして頑張ったんですが」
鈴木が悔しそうな声を出した。
「それも辛つらいもんやねぇ」
「だから『とり岳』に行くときは、いつも試合に負けた後でした。悔しいけど、どうしようもなくて、不ふ甲が斐いない自分たちを責めながら、無言でおにぎりにかぶりつく、といったふうでした」
「いっつもお葬式の帰りみたいな感じやったんやね」「はい」
こいしの言葉に、鈴木が小さな声を返した。
「そうか、分かった。二十年ぶりに勝ったんや。そのお祝いにから揚げを作ってくれはったんと違う?」
「残念ながら違うんです。三年生最後の試合も、やっぱり負けました」鈴木がローテーブルに目を伏せた。
「最後も負けたんか……」
こいしが小さなため息をついた。
「いつにも増して重苦しい空気だったので、その日は『とり岳』に行くのをやめようかとキャプテンが言いだしたんですが、川上のおっちゃんに報告しないといけない、と皆が言いだして。店に入って、おっちゃんに負けたことを伝えると、黙って奥に引っ込んだんです。きっといつものようにバクダンを出してくれると思って待っていたら、山盛りのから揚げを出してくれたんです。負けたのに」
「なぐさめてくれはったんや。ほんまにええおっちゃんやね」こいしが瞳を潤ませた。
「いつもは無口なおっちゃんが、めずらしく僕らに話してくれたんです。勝負にはいくら負けてもいい。でも人生には負けるな、胸を張って生きろ。そう言ってくれました」「ええこと言わはるやん。ほんまにそのとおりやと思うわ」「自分は人生に負けっぱなしだから、と川上のおっちゃんが悔しそうな顔で言ってたのが印象に残っています」
鈴木が遠い目をした。
「人生負けっぱなし、かぁ。なんか身につまされるわ」こいしがその視線の先を追いかけた。
「うちの親も同じようなことを言ってました」鈴木が苦笑いした。
「肝心な話を忘れてたわ。今になって、そのから揚げを捜してはるのはなんでです?」「から揚げもですが、あのときの川上のおっちゃんの話をもう一度、自分の中でたしかめたいんです。今の仕事に就いてから、あのときと同じ、ずっと負けっぱなしなんです。なんだか人生にも負けそうになってしまって」
鈴木が泣きそうな顔をした。
「そうやったんや。分かった。しっかり捜しだしますね」こいしは鈴木と顔を見合わせて笑った。
食堂に戻ると、カウンター席に腰かけていた流が、大きな音を立てて、開いていたアルバムを閉じた。
「あんじょうお聞きしたんか?」
「はい。長々と聞いていただきました」
こいしに代わって、鈴木が答えた。
「よろしおした。せいだい気張って捜させてもらいますわ」流が立ち上がって一礼した。
「よろしくお願いいたします」
鈴木が礼を返した。
「今回は難しいえ」
腕組みしたこいしが、鈴木を横目で見た。
「今回は、て、いっつも難しいやないか」
流がこいしを片目でにらんだ。
「次はいつお邪魔すればいいでしょうか」
鈴木が割って入った。
「二週間後でどないです?」
流が答えた。
「承知しました。二、三日前にご連絡いただければ、会社の許可を取って参りますので」鈴木がスーツの襟を正した。
「くれぐれもお父さんによろしゅうお伝えください」流が笑みを向けると、ほほ笑みを返した鈴木は敷居をまたいで店を出た。
正面通を西に向かって歩く鈴木を見送って、こいしと流は店に戻った。
「何を捜してはるんや」
流がカウンター席に腰かけた。
「から揚げ」
こいしが短く答えた。
「から揚げか。家のんか店のか、どっちや?」「草津温泉のお店のなんやけど、そのお店はもうないんよ」「そらそやろ。その店があったら、うちに頼まいでもええんやから」「お父ちゃん」
「なんや、大きい声出して」
流がのけぞった。
「うち、『さつき亭』に行きたいねん。お母ちゃんがもう一回行きたいて言うてはった宿へ」
「こいし、勘違いしたらあかんぞ。目的は食を捜しに行くことで、温泉宿に泊まることやない」
流が険しい顔をした。
「分かってるやん。けど鈴木さんの実家でもあるんやから、何かヒントがつかめるかもしれんやん」
「屁へ理り屈くつだけは一人前やな。まぁ、お前にまかせてもええけど、ちゃんと結果が出せるんか?」
「大丈夫、ちゃんと捜してくるさかい、草津に行かして欲しいねん」「しっかり仕事してくるんやぞ」
「ありがとう、お父ちゃん」
こいしが流に抱きついた。