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半月も経てば季節は一気に進む。二週間前とは違って、紗香が降り立った京都駅のホームには涼風が吹いていた。
前回と同じ道筋を辿り、店の前に立っても一滴も汗をかいていない。気分も軽やかに、紗香は店の引き戸を引いた。
「いらっしゃい」
迎えるこいしの声もどこか涼やかだ。
「ようこそ。お待ちしとりました」
流の晴れやかな表情には、誇りのようなものが感じられる。
「愉しみにして参りました」
紗香は思ったままを口にした。
「もっと難儀するんやないかと思うてましたが、こいしがあんじょう見つけてきよりましてな。ほんまに旨うまい親子丼の店を」
流が目を向けると、こいしは鼻を高くした。
「灯台下暗していう感じでしたわ。けっこうご近所さんやったんですよ。あんなええ店があるやなんて知りませんでした」
「その話はあとでええ。とにかく食べてもらわな」そう言って、流は厨房に急ぐ。紗香は期待に大きく胸をふくらませた。
「どうぞおかけください」
こいしが引いたパイプ椅子に腰かけて紗香は、スマートフォンを操作して写真をこいしに見せた。
「この前、行ってきました。修二と別れる原因になった親子丼がこれです」「わりとふつうの親子丼やね。お味はどないでした?」スマートフォンの画面に目を向けたままでこいしが訊いた。
「見たとおり、味もふつうでした」
紗香が顔半分で笑った。
「そんなもんなんやろね」
こいしがテーブルを拭いた。
「もうできあがるさかい、お茶をお出ししてや」暖簾のあいだから流が顔を覗かせた。
「えらい早いねんな」
ひとりごちて、こいしが急須と湯吞を紗香の前に置いた。
出だ汁しを煮つめる芳ばしい香りが厨房から流れてくる。紗香はごくりと生唾を吞み込んだ。
「お待たせしましたな。まずは食べてください。写真撮らはるんやったら、あとでもうひとつ作りまっさかい」
半笑いしながら流が紗香の前に置いた親子丼は、ふうわりと湯気を上げている。
「はい。すぐにいただきます」
手を合わせてから箸を割って、紗香がひと口分を口に入れた。
ひと口目は無表情で食べた紗香だったが、ふた口、み口と食べ進めるうち、笑みがこぼれはじめる。
「美味しいです」
「よろしおした。ゆっくり召し上がってください」紗香の様子をたしかめてから一礼した流は、盆を小脇にはさんで厨房に入っていった。
飛びぬけて美味しいというわけではないが、箸を止めることができない。写真を撮ろうという気もおこらないのは、ビジュアル的に不適格だからというのではない。むしろ写真を撮るにふさわしい、シズル感あふれる姿なのだが、自然と食べることを優先させてしまう力がある親子丼なのだ。
思っていたとおり、ただの親子丼ではなかった。修二はきっとそれを分かったうえで、あの店に連れていったのだ。偶然入った店でこんなに美味しい親子丼が出てくるはずがない。知る人ぞ知る店をあらかじめ見つけておいて、しかし、あたかも偶然見つけたふうを装う。今になって思えば、修二らしいやり方だったのだ。
それに気づかなかったことが心底悔やまれる。だが時計の針はもとに戻せない。ならばどうすればいいのか。考えを幾重にもかさねながら、紗香は親子丼をきれいにさらえた。
「足りましたかいな」
盆を小脇にはさんで、流が厨房から出てきた。
「充分です。とっても美味しかった。やっぱり隠れた名店だったのでしょうか」箸を置いて、紗香が背筋を伸ばした。
「座らせてもろてもよろしいかいな」
「もちろんです」
流は紗香と向かい合って座った。
「こいし、あれ持ってきてくれるか」
流がこいしに向けて首を伸ばした。
「あれ、と違ちごうてタブレットでしょ。ええかげんに覚えたら?」冷ややかな顔で、こいしがタブレットをテーブルに置いた。
「あれ、で分かるんやからそれでええがな」
ふたりのやり取りに、紗香がくすりと笑った。
「こいしは、たいしたヒントやないと思うとったみたいやが、断片的に覚えてはったことをパズルみたいにしていったら、案外簡単に見つかりましたんや」「見つかったんやのうて、うちが見つけたん」こいしが流をにらみつけた。
「似たようなもんやがな」
こいしのむくれ顔を横目にして流が続ける。
「泊まってはったホテルは『ダイワホテル』ですわ。京都駅の八条口からすぐ南側にあります。ここの部屋からは『東寺』さんの五重塔が見えることで人気ですんや」流はタブレットを操作して、ホテルの外観、部屋からの眺めを写した雑誌の写真などを次々と紗香に見せた。
「間違いありません。こちらのホテルでした」タブレットから目を離して紗香が答えた。
「このホテルのすぐ近くに『城興寺』という小さなお寺はんがありましてな、立ち寄らはったんはここやと思います」
先に地図を見せてから、流は『城興寺』の境内写真を見せた。
「そうです、そうです。こんなお寺でした。ホテルのすぐ傍そばだったんですね」紗香が二度うなずいた。
「そこからこの道を歩いて、ここ。ここに『園その田だ食堂』という店があります」地図を指で辿ったあと、『園田食堂』の外観写真を見せると、紗香は首をかしげた。
「こんな感じだったような気もしますけど、違うようにも思います。はっきり覚えてなくて」
「目立たん外観でっさかいな。中はこんなふうですわ」流が店内写真を見せても、紗香の記憶にはつながらないようだ。
「なんだか修二みたいなお店」
紗香が半笑いした。
「どういうことなん?」
こいしが訊いた。
「どこにでもあるふつうのお店。地味な見てくれで、ぜんぜんイケメンでもないし、注目を浴びることもない。きっとこれからも大化けしそうにない。修二にそっくり」紗香は複雑な表情をした。
「これがそのときに食べはった親子丼やと思います」流がタブレットを紗香に向けた。
「さっきとおんなじですね。やっぱり名店だったんだ」紗香が目を輝かせた。
「なんで名店やと思わはるんです?」
流が訊いた。
「だって、さっきの親子丼って、これまでわたしが食べた中で一番だったし、すごい行列ができる、あの店の親子丼よりぜんぜん美味しかったんですから」紗香が答えた。
「不思議ですなぁ。三年前にあなたはさっきと同じ親子丼を食べはったんですよ。けどそのときは記憶に残らんぐらいの味やとしか感じはらなんだ。それとおんなじもん、いや、わしが再現したんは『園田食堂』のおばあちゃんが作らはる親子丼より味は落ちとるのに、これまでで一番やと言わはる。なんでですやろな」流の言葉を聞いて、紗香は考えこんでいる。
「うちから歩いて行けるとこに、あんなおいしいおうどん屋さんがあるて、ぜんぜん知りませんでした」
こいしが紗香の後ろから言葉をはさんだ。
「今、おうどん屋さんっておっしゃいました?」紗香がこいしを振り向いた。
「『園田食堂』もそうですけど、京都ではたいていうどん屋て言うんですわ。麵類全般、うどんから蕎そ麦ば、中華そばまで、丼もんも出す店は、食堂と名が付いとっても、京都の人はうどん屋て言います。うちもそうでっせ。近所の人に言わせたらうどん屋ですわ」流が白い歯を見せた。
「そう言えばあの店に入ったときにカレーの匂いがしたような気が……」紗香が宙に目を遊ばせた。
「わしは食うてまへんけど、『園田食堂』のカレーうどんも旨いらしいでっせ。カレーやら丼やらがなんぼ旨うても、呼ぶときはうどん屋はんと呼ぶのが京都の習わしです」「カレーもある店だったんですか。親子丼の隠れ名店じゃなかったんですね」紗香が肩と声を落とした。
「さいぜんから名店名店て言うてはりますけど、その名店っちゅうのは誰が決めますんや。マスコミでっか? インターネットの口コミっちゅうやつですか?」流は言葉に力を込めた。
「それは……」
紗香は口ごもってしまった。
「うちねぇ、紗香さんがなんでこの親子丼を捜してはるのか、分からへんかったんです。
ほんまに食べたかったお店やのうて、彼に無理やり連れていかれたお店の、記憶にも残ってへんような親子丼をなんで捜してはるんやろ。ずっとそこが引っかかってました。自分に置き換えても答えは出てきやへん。捜してるあいだも気になってましたけど、やっと分かったような気がします。実は彼はこの店が親子丼の名店やと知ってて連れてくれはった、そう思うようにならはったんと違います? いや、思いたかったんと?」「こいし、言いすぎやで」
流がこいしを制した。
「いえ、いいんです。こいしさんのおっしゃるとおりです」紗香がテーブルに目を落として続ける。
「なぜ修二は、わたしが行きたいと言っていた店じゃなく、どこにでもある店に連れていったのか。結局そのことが頭から離れなくて別れてしまった。他の人からすれば、そんなことぐらいで、と思われるでしょうけど、わたしにはとても大切なことでした」紗香が語り始めると、流とこいしは聞き役に徹した。
「なぜならそれが愛情のバロメーターだと思っていたからです。わたしのことを愛してくれているのなら、普通のお店じゃなくて特別なお店に連れていってくれるはず。せっかく京都まで来て、なんで通りすがりの店で食べなければいけないのか。そう思うと哀かなしくなってきて……」
こいしが口を開こうとして、それを流が制した。
「三年ものあいだ、修二のことをあきらめきれない気持ちと、あの日のことを許せない気持ちが、ずっと綱引きをしていて。修二のインスタを見てると、ひとりのままみたいだし、共通の友だちの話を聞くと、彼もわたしのことを忘れていないみたいなんです」紗香が薄うっすらと頰を紅あかく染めた。
「よりを戻すきっかけが欲しかったんやね」
こいしが苦笑いすると、紗香は恥ずかしげにうなずいた。
「三年経ってふと気づいたんです。あのとき、修二はあの店の親子丼が美味しいということを知っていて、わたしを連れていってくれたんだと。こんなに美味しい親子丼ですもん。そうに決まってます。絶対偶然じゃない」紗香が唇をまっすぐに結んだ。
「ええきっかけになってよかった。捜した甲か斐いがありましたわ」こいしがホッとしたように満面の笑みを紗香に向けた。
「それやったら、紗香さんには気の毒やけど、きっかけにはなりまへんわ」和やかな空気に流が水をさした。
「お父ちゃん!」
険しい顔つきでこいしが流をにらみつけた。
「誤解したままやったら、またおんなじはめになるがな。ただ捜すだけやのうて、あんじょう説明するのもわしらの仕事や」
流が座りなおすと、紗香が真正面から視線を向けた。
「誤解……なんですか」
「『園田食堂』は名店と呼ばれるような特別な店やない。昔から通うてはるご近所はんが、ふらっと入ってさっと食うて、ごっつぉはん、いうて出ていく店です。ときどきそこに観光客の人も食べに来はって、店のおばあちゃんが、どこから来はったん? て訊くような、そんな店です。あなたの彼が最初から『園田食堂』のことを知ってて、連れていかはったとは思えんのですわ」
「そんなん分からへんやん。今はネットの情報が行き交うてんねんから、あんな安うて美味しい店やったら、修二さんが知ってはってもおかしいないと思うえ」こいしが横から口をはさんで、紗香の顔を見た。
「そらそや。けどな、わしが言うとるのはそういうことやない。特別な店と違うてふつうの店で食べて美味しいのが、京都という街です。修二さんという方は、そのことを知ってはった。あなたにもそれを分かって欲しい。そう思うて連れて入らはった。きっとそうやと思います」
流が諭すような口調で紗香に語りかけた。
「人の評判やとかは、うちはあんまり信用してませんねん。それより直感でお店を選びます。『園田食堂』の前を通りかかったとき、ここは絶対美味しい、そう思うたんです。特別なもんはなんにもない。ありきたりのお店やけど、美味しいもんが出て来そうな気がする。たぶん修二さんもおんなじ気持ちやったんやと思います」こいしが補足したのを聞いて、紗香はゆっくりとうなずいた。
「ふつう……。ありきたり……」
「わしは、食いもんと幸せはよう似とると思うてます。わざわざ特別なもんを捜すんやのうて出会うもんや。他の人が見向きもせんもんでも、自分にとって幸せを感じ取れるもんなら、それをだいじにしたらよろしいがな。自分だけの名店が一番大事や」「うちもそう思う。『城興寺』はんも『園田食堂』も、どこにでもある普通のとこやねんけど、なんか素通りできひん魅力がある。それて知識とか情報やのうて、勘やとしか言えへんのです。修二さん、ええ勘してはると思います」こいしが紗香の両肩にそっと手を置いた。
「なんとなく、本当になんとなくですが、少し分かったような気がします」紗香は少し晴れやかになった顔をこいしと流に向けた。
「ぼちぼちでよろしい。マスコミやら人の言うことばっかりに耳を貸すんやのうて、自分の勘を信じなはれ」
「はい」
小さく答えて、紗香は中腰になって一礼した。
「美味しい親子丼が見つかってよかったですね」こいしが満面に笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。自分を見直すいい機会になりました。この前の食事代も一緒に払わせていただきます」
紗香が財布を取りだした。
「うちは探偵料もお客さんに決めてもろてますねんよ。お気持ちに見合うた金額をこちらに振り込んでください」
こいしがメモ用紙を紗香に手渡した。
「分かりました。帰りましたらすぐ」
メモ用紙を財布にしまって紗香が帰り支度を済ませた。
「今日はこれからどちらへ?」
「すぐに東京に戻ります」
紗香が店の敷居をまたいだ。
「ひるね、店に入ったらあかんぞ」
流がトラ猫をにらんだ。
「飼い猫ですか?」
かがみ込んで紗香がひるねののどを撫でた。
「飼うてるような飼うてへんような」
こいしが流に流し目を送った。
「品種は何かしら」
紗香がひるねを抱きあげた。
「ありきたりの、どこにでもいる猫ですわ」
流が意味ありげな笑顔を紗香に向けた。
「だいじにしてもらってね」
笑みを返して、紗香がひるねを地面に戻すと、流が手を打った。
「そや。大事なことを忘れとった。写真や。親子丼の写真を撮らなあきまへんがな」「もういいんです。しっかり収めましたから」紗香が左の手のひらで胸元を押さえた。
「お気をつけて」
こいしの声を合図にしたかのように、紗香が軽やかな足取りで正面通を西に向かって歩きだした。
小さくなった紗香の背中を見送って、こいしと流は店に戻った。
「どないなるんやろ」
こいしが遠い目をした。
「どうにでもなるわいな。若いんやさかい」
「元のさやに戻ったらええんやけど」
こいしがテーブルを拭いた。
「いったん離れると、なかなか戻れんもんやが」カウンター席に座って流が新聞を広げた。
「けど、お母ちゃん、よう許してくれはったなぁ」こいしが仏壇に目を遣った。
「そらおまえ、お父ちゃんがやなぁ……、よけいな話せんとこ」流が仏壇の前に正座して線香に火を点つけた。