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春の桜にくらべて秋の紅葉は、その期間が長い。
二週間経たっても、京都の紅葉はまだ見ごろが続いている。
「一年に二度も京都の紅葉を見られるなんて、ありがたいことだねぇ。いい冥途の土産ができたよ」
桂子が東本願寺の門前で、黄金色に染まるいちょうの木を見上げた。
「お義母さんのおかげで、わたしもいい思いをさせていただきました」叔江も同じ木を見上げた。
「これで焼売が美味しけりゃ言うことないね」「きっと美味しいに決まってますよ」
信号が変わって、着物姿のふたりは正面通を東に向かって歩きだした。示し合わせたわけではないが、ふたりとも藍地の着物に柿色の帯を締めている。遅い午後の日差しに藍地がよく映える。
叔江が医師から聞かされた検査結果は思わしいものではなかった。
高齢者にもかかわらず、ガンの進行が予想より速く、摘出するタイミングを逸してしまっていて、手術は難しいということだった。無論そのことは桂子には伝えていないが、生来勘がいい桂子は薄々気づいているようだ。
冥途の土産という言葉を何度も口にしてきた桂子だが、その言葉に重みが出てきてしまった。
「ごめんください」
叔江は『鴨川食堂』の引き戸をゆっくりと引いた。
「ようお越しいただきましたな」
穏やかな笑みを浮かべて、流が出迎えた。
「ええお天気になってよかったですね。今回もきれいなもみじが見られると思いますよ」こいしがふたりを席に案内し、桂子の杖を受け取った。
「よく見つかったもんだね。四十年も前の焼売をどうやって?」桂子が流のほうに顔を向けた。
「お話はあとでさせてもらいます。まずは召し上がってください。これから蒸しますんで十分ほどお待ちくださいや」
流が暖簾を潜くぐって、厨房に入っていった。
「今日はお飲みもんはどうしはります?」
こいしが叔江に訊いた。
「お義母さん、お酒はどうします?」
叔江が桂子に向き直った。
「十分もじっと待ってらんないわよ。お酒でも飲まなきゃ」「飲み過ぎないようにしてくださいよ」
桂子に釘くぎをさしてから、叔江は日本酒を頼んだ。
「こないだとおんなじでいいですか」
こいしが耳元で訊くと、桂子は黙ってうなずいた。
コップ酒が届くと、桂子は目を細めて口から迎えにゆき、喉のどをならす。
デコラ貼りのテーブルをはさんで、向かい合って座るふたりは、いかにも手持ち無沙汰といったふうだ。コップ酒から手を放さない桂子に対して、叔江は店の中を見まわしたり、置いてある新聞を開いてみたり。会話を交わすことなく、ふたりは焼売が出てくるのを待った。
「なんだかいい匂いがしてきたわね」
「焼売を蒸している匂いですね」
ふたりは鼻を鳴らして厨房のほうに目を向けた。
「焼売だけを食べてもろたほうが味がよう分かるやろ、てお父ちゃんが言うてはるので、ほんまに焼売だけですよ」
こいしは、醬油さしと、お酢の入った片口、練り辛子入りの小こ壺つぼの三つをテーブルの真ん中に置いた。
「横浜ではどうなんか知りませんけど、京都では焼売を食べるとき、たいていこの三つを適当に混ぜたもんに付けながら食べます」
こいしが取り皿と小皿をふたりの前に並べた。
「うちは辛子だけだね」
同意を求めるように桂子が顔を向けると、叔江は微笑ほほえみながらうなずいた。
「辛子だけでもええと思います。お好きなように召し上がってください。もうすぐ蒸しあがりますんで、お茶も置いときますね」
京焼の急須と湯ゆ吞のみを置いて、こいしが厨房に戻っていった。
しんと静まり返った店の中とは対照的に、厨房の中からは鍋の蓋を開ける音や、流とこいしのやり取りが聞こえてきて、料理が出来あがる様子が伝わってくる。
「お待たせしましたな」
流が丸い蒸せい籠ろを運んできた。
「すごい湯気ですね」
のけぞっているふたりの前に、流が蒸籠を置いた。
「湯気は火傷やけどしまっさかいに、気ぃ付けとぉくれやっしゃ」蒸籠の蓋を取ると、ますます湯気の勢いが増した。
「さ、どうぞ熱いうちに召しあがってください」「美味しそうですね」
叔江が桂子に微笑みかけた。
「火傷するのいやだから、あなた取ってくださいな」桂子がのけぞったままそう言うと、流は苦笑しながら箸を蒸籠に伸ばした。
桂子は取り皿に載せられた焼売をしばらく見つめたあと、箸で半分に切り、辛子だけを付けて、吐く息で冷ましてから口に運んだ。
叔江は無言でその様子をじっと見つめている。
何も言葉を発せず、桂子は残りの半分を口に入れ、じっくりと味わうように嚙かみしめている。
「どうです? 美味しいですか?」
叔江がもどかしげに桂子に訊いた。
桂子は表情ひとつ変えずに、無言で蒸籠に箸を伸ばして焼売を取った。
「たくさん作ってまっさかい、いくらでもお代わりしてください。白いご飯が要るようやったら言うてくださいや。どうぞごゆっくり」言い置いて、流が厨房に戻っていった。
流が暖簾を潜ったのを見て、ようやく叔江が焼売を口に運んだ。
「美味しいですね。お義兄さんがお義母さんに食べさせたかったのがよく分かります」焼売を嚙みしめながら、叔江は顔じゅうにしわを寄せた。
相変わらず無言のまま、桂子は三つ目の焼売を丸のまま口に入れた。
「この歯ごたえが独特ですね。何でしょう。筍たけのこかしら」叔江がふたつ目の焼売を取り、半分に割ってまじまじと見つめた。
「すみません。お代わりください」
蒸籠にひとつだけ残った焼売を見て、桂子が大きな声をあげた。
「お口に合いましたか」
厨房から出てきた流は口元をほころばせた。
「利守さんが持って帰ってきた焼売と同じものなんですよね」蒸籠に残った焼売を見ながら、叔江が流に言った。
「再現したもんでっさかい、まったく同じちゅうわけではおへんけど、当時のお店のレシピに忠実に作ってますんで、味は一緒やと思います」流が胸を張った。
「お代わりをお持ちしました。まだまだありますし、たんと召しあがってください」こいしが蒸籠を差し替えた。
「とても美味しくいただいていますよ」
叔江がちらりと桂子に目を遣やったが、何も反応はない。
焼売を食べ始めてから、桂子が言葉を発したのは、お代わりを頼んだときだけだ。自らお代わりを頼むくらいだから、美味しいと思ってはいるのだろうが、なぜひと言も感想を述べないのか、叔江はその真意をはかりかねていた。
桂子はお代わりの蒸籠から焼売を取って、取り皿に載せ、小皿に醬油と酢を入れ、辛子を溶いた。
「わしは昔から、それに付けて食べるのが好きです」流が笑顔を向けた。
「わたしもやってみよう」
叔江がそれを真ま似ねた。
「横浜ではどうや知りまへんけど、京都の焼売はたいてい薄味に仕上げてあります。せやさかい、醬油とお酢でちょっと味を足したほうが旨うまいんですわ」「お酢の味でさっぱりとした後口になりますね」叔江が桂子に語りかけたが、桂子はそれには答えずに、箸を置いて流に目を向けた。
「どうやってこれを見つけたんです?」
「横に座らせてもろてもよろしいか」
「どうぞどうぞ」
ホッとしたように叔江が身体からだの向きを変えた。
「こいし、アレを持ってきてくれるか」
そう言って、流はスツールに腰かけた。
「アレと違うてタブレットやろ」
苦笑いしながら、こいしがタブレットをテーブルに置いた。
「アレで通じるんやから、アレでええがな」
つぶやきながら電源を入れた。
「天井の蛍光灯は消したほうがええね」
こいしがスイッチを押すと、店の中は薄暗くなり、タブレットの画面だけが明るく輝いた。
「今食べてもろた焼売は、今も京都にある『鳳ほう雲うん』という中華料理屋さんのご主人、コウカキチさんに教えてもろたレシピを再現したもんです。コウさんは今年米寿を迎えはりましたけど、まだ現役で料理を作ってはります」流は『鳳雲』の店の前に立つコウの写真を見せた。
「わたしより三つ上だけど、そうは見えないね。顔の艶もいいし」「お義母さんと同い年ですよ。この夏に米寿のお祝いをしたじゃないですか」叔江があきらめ顔で笑った。
「京都には〈京都中華〉と皆が呼んどる独特の中華料理があるんですわ。ベースは広カン東トン料理ですけど、それを更にあっさりさせたというか、洗練させた料理です。おそらくは花街の影響ですやろな。舞まい妓こちゃんやら芸げい妓こはんが食べよいように、ニンニクやらラードを控えた中華です。コウさんはその先駆者でしてな、ようけお弟子さんを育てはった。今も京都には、そのお弟子さんやらが開かはった中華屋が残ってますけど、なくなってしもた店もようけあります。その代表が『大だい三さん元げん』。息子はんがバイトしてはったんはこの店です」
流がありし日の『大三元』の外観や店内の写真を順に見せた。
「そんな名前のお店だから、お義母さんが勘違いなさったんですね」叔江が微笑む向かいで、桂子は食い入るようにタブレットを見つめている。
「『大三元』は四条富とみの小こう路じを上ったとこにありましてな、よう流は行やっとったんやが、後継者がのうて店を閉めはった。ご主人のチンさんはコウさんと親しいしてはって、焼売のレシピも同じやったそうです。せやからおふたりに食べてもろたこの焼売は、息子はんがおうちに持って帰らはったんと、同じやと思うてもろてええんですわ」「あの焼売はこんな味だったんだ」
桂子が長いため息をついた。
「失礼な言い方になるかもしれませんが、お義兄さんがアルバイトをなさってたのは本当にその『大三元』という店で間違いないのでしょうか」言葉を選びながら叔江が流に訊いた。
「さいぜんも言いましたけど、『鳳雲』の流れを汲くむ中華屋が、京都にはまだ何軒かあります。『泉鳳』『飛鳳』『雲白』『舞鳳』なんかがその代表ですけど、どこの店もみな後継者問題を抱えてはります。そんな話を伺いがてら、順番に食べ歩いてみたんですわ。
その中で植物園の近くの『雲白』へ行ったときのことですわ。焼売を食べながら、ご主人に息子はんの話をしたら覚えてはったんです」「その『雲白』という店はまだあるんだね」
桂子が目を輝かせた。
「それが残念なことに、先週から長期休業の貼り紙がしてありますんや。高齢やさかいに案じてはおったんですが」
流が床に目を落とした。
「その店のご主人とお義兄さんはどういう関係だったのですか」叔江が訊いた。
「コウさんのお弟子さんやらは、みな家族同然の付き合いやったそうで、お店でバイトしている人も連れて、ようキャンプに行ったり、バーベキューしたりしてはったそうです。
そこで親しいならはったとのことでした。琵び琶わ湖こでバーベキューしてはる写真です」
端っこが破れた写真を桂子に渡した。
「肉を焼いてるのは利守だわ」
丸まろうとする写真の隅を、桂子が丁寧に手のひらで伸ばした。
「小さい写真やのによう分かりましたな。その隣でタバコ吸うてはるのが『大三元』のチンさんで、肉を切ってはるのがコウさん、お皿に肉を取り分けてはるのが『雲白』のご主人やそうです」
流がタブレットのメモと照らし合わせながら順に指さした。
「煙そうな顔が利守らしいねぇ。小さいころはお線香の煙でもむせてたくらい、煙が苦手だったのに、タバコの煙とバーベキューの煙に攻められてよく我慢してるじゃないか」桂子が目を細めた。
「当時はトシ君て呼ばれてはって、人気もんやったそうです。温厚なええ人やったんですなぁ」
「いくらいい人でも死んだらおしまいさ」
桂子が眉を八の字にした。
「お義母さん」
叔江が咎とがめるような顔を桂子に向けた。
「悪い人でも、ひどい人と言われてても、いやなヤツだと思われててもいいからさ、ずっと、ずっと生きてて欲しかったよ。親を置いて先に死ぬなんて、ひどい親不孝な息子じゃないか」
桂子が目を真っ赤に染めると、まわりの三人は言葉をなくした。
「利守があの世に行ってから、ずっと後悔しっぱなしだったよ。京大になんか行かせなきゃよかった。オートバイは禁止すりゃよかった。いや、そもそも大学なんか行かなくてもよかったんだ。運転免許だって取らせなきゃよかった。もっと言えば……利守を産まなきゃよかったんだ。そしたらこんなに辛つらい思いをしなくて済んだんだ。悔やんでも悔やみ切れないんだよ」
桂子の頰を涙が伝った。
「お気持ちはよう分かります」
こいしが目を潤ませると、叔江もこっくりとうなずいてハンカチを使った。
桂子が何度も洟はなをすすりあげる音だけが、店の中に響く。
「わしはよう分かりまへんな。息子を産まなんだらよかった、て息子さんの立つ瀬がおへんがな」
流の言葉に、三人はだまりこくった。
「あなたのように長生きする人もおったら、生まれてすぐに亡くなる赤ん坊もおります。
人の寿命てなもんは神さんだけが決められるもんや。けど、長生きしたさかい生まれてきてよかった、短い人生やから生まれてこなよかった、てなことあるわけがない。ひとりの人間の重みは人生の長さとはなんの関係もおへん。うちの掬子も長生きはできなんだけど、あいつと結婚せなんだらよかった、てなことはいっぺんも思うたことおへん」流は言葉に力を込めた。
桂子は宙に目を留めて、肩で息をしている。
「鴨川さんのおっしゃるとおりですよ、お義母さん。たとえ短かったとしても、お義兄さんは精いっぱい生きられたのだし、産んでもらってよかった、って、きっとお義母さんに感謝してらっしゃいますよ」
叔江が両手で桂子の手を包み込んだ。
桂子は目じりの涙を指で拭った。
「この世に生まれてこなんだらよかったてな人間、ただのひとりもおりまへん。あなたの息子はんも、愉しい学生時代を過ごして、バイト先の人からも慕われて、そんなしあわせなことありますかいな。立派な人生や」
「ありがとうございます」
流の言葉に、桂子が震わせながら手を合わせた。
「コウさんからお預かりしてきたさっきの写真と一緒にお持ち帰りください」こいしが小さな箱が入った紙袋を桂子に手渡した。
「これは?」
「開けてみてください」
こいしがにっこり微笑んだ。
「お茶ちゃ碗わん?」
もどかしげに箱を開けて、桂子がふたつの飯茶碗を手に取った。
「夫婦めおと茶碗みたいですな。箱の中にカードも入ってまっせ」流の言葉に桂子は慌てて箱の底を探り、色いろ褪あせた二つ折りのカードを開いた。
「──お父さんお母さんありがとう。おかげで無事に卒業できました 利守──」何度も読み返して、桂子は声にならない言葉をつぶやいた。
「『大三元』のすぐ傍そばに『たつ吉』という有名な高級陶器屋はんがありましてな、そこで息子はんが買わはったんでしょう。無事に卒業できた感謝の気持ちをご両親に伝えようと思うてはったんやと思います。『大三元』の建物を解体する前に厨房から見つかったんやそうです。捨てるのも忍びのう思わはったんでしょうな。コウさんが預かってはったんを言付かってきました」
「渡す機会を逃してしもうた利守さんの、これを渡したいと思う気持ちが、焼売をきっかけにしてお母さんを京都に呼び寄せはったんや。うちはそう思うてます」こいしの言葉に、桂子と叔江は二度、三度うなずいた。
「お義父さんには間に合わなかったけど、明日から早速使わせてもらいましょうね」叔江が飯茶碗を箱に戻した。
「利守が呼んでたんだねぇ。向こうに行ったらいつでも会えるのに」桂子が口の端で笑った。
「捜していただいた探偵料と、この前のお食事代を併せてお支払いを」叔江が財布を取りだした。
「うちは探偵料を決めてませんねん。お気持ちに見み合おうた金額を、こちらに振り込んでくださいますか」
こいしがメモ用紙を叔江に手渡した。
「承知しました。義母と相談しましてすぐに」叔江はメモを折りたたんで財布にしまった。
「荷物になりまっけど、冷凍しといた焼売もお持ち帰りください。いちおうレシピも入れときます」
流が紙袋を渡した。
「何から何までありがとうございます」
受け取って叔江が深く腰を折った。
「息子さんの分も長生きしてくださいね」
杖を渡しながら、こいしは桂子の腰に手を添えた。
「こら、ひるね、邪魔したらあかんぞ」
引き戸を開けて駆けよってきたひるねを、流が追い払う手ぶりをした。
「かわいい猫じゃないか。うちにもよく似た猫がいてねぇ」桂子が中腰になって目を細めた。
「お義母さん、トシって呼んでるんですよ」
叔江が小声で言ってくすりと笑った。
「そうそう、あの焼売に入ってたのは筍なのかい?」桂子が流に身体を向けた。
「レシピにも書いときましたけど、中国のクワイなんですわ。シャリシャリした独特の歯触りですやろ」
「そう。クワイだったの」
桂子は腑ふに落ちたようにうなずいた。
「おせち料理にもよう入ってますけど、クワイは芽が伸びているので、目が出るというて縁起もんです」
「向こうで目を出してくれてりゃいいんだけどね」桂子が腰を伸ばして空を見上げた。
「どうぞお気をつけて」
こいしの言葉をきっかけにして、着物姿のふたりはゆっくりと西に向かって歩きだした。ならんだふたつの長い影は、やがて通りから消えた。
「向こうで会えたらええのにな」
店に戻って、こいしがテーブルを拭きはじめた。
「わしも早ぅ向こうに行って、掬子にいろいろ報告せなあかんな」流が仏壇の前に座った。
「うちはどうすんのよ」
こいしが唇を尖とがらせた。
「お前はやな、早いこと寿司屋の女将おかみさんになったらええがな」流が線香に火を点つけた。
「浩ひろさんはどない思うてはるんやろな」
流の隣に座りこんで、こいしがため息をついた。
「しっかりせな、逃げられてまうで。なぁ掬子。こいしがこんなんやさかい、わしもなかなかそっちへ行けんわ」
流が写真を見上げた。
「まだ来んでもええ、てお母ちゃん言うてはるわ」こいしが手を合わせて目を閉じた。