第三話 きつねうどん
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大おお原はら和かず男おが京都駅のバス停に降り立ったのは、午後二時半を少しまわったころだった。
鳥取駅前から高速バスに乗りこんだのが午前十一時だったから、三時間半で着いたことになる。JRの特急を使っても所要時間はほとんど同じだが、料金は高速バスの二倍ほどだ。
還暦までにはまだ二年もあるというのに、丸い背中と深い溝を作る顔のしわは、誰が見てもまごう方なき老人だ。あちこちすり切れた小さな黒いボストンバッグをさげて、大原は方角を探るようにまわりを見まわした。
京都タワーを間近に見上げるこのバス停から、目指す場所までは充分歩いて行けるはずだ。
黒いダウンジャケットのフードをかぶった大原は、ジッパーを首元まで上げて寒さに備えた。
四十年ほども昔、仕事で京都へ行って来た父親が、鳥取よりうんと寒いと言っていたのが妙に記憶に残っていて、いつも以上に重ね着をしてきた。たしかにバスから降りた瞬間、鳥取では感じなかった冷たさが指先から伝わって来た。
信号が青に変わり、大原は烏丸通を北へ向かって歩きだした。
十日ほど前に訪ねた日本料理屋で、何気なく手にした「料理春秋」という雑誌に〈食捜します──鴨川探偵事務所〉という一行広告が出ていた。
この一年ばかり、ずっと気に掛かっていたことの答えが見つかるような気がした大原は、編集部に何度も問い合わせてようやく場所を教わり、京都までやってきたのである。
東本願寺はすぐに見つかったが、正面通を間違ってしまい、どうにもたどり着けない。
「すんません。この『鴨川食堂』いうのは、どれだいや?」ビニール袋をさげた若い男性に訊きいた。
「ここが『鴨川食堂』ですよ」
男性は目の前に建つ、二階建ての古家を指した。
「おーきに」
礼は言ったものの、大原は半信半疑だった。
看板のひとつもなければ、暖の簾れんもあがっていない。どこからどう見ても食堂には見えない。鳥取では考えられないことだが、京都ではこれでも商売できるのか。大原は首をかしげながら引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
店員らしき若い女性が大原に顔を向けた。
「『鴨川探偵事務所』はここでよかったですか?」おそるおそる訊いた。
「ええ。うちが所長の鴨川こいしです。食を捜しに来はったんですか?」こいしが上目遣いに訊くと、大原がこっくりとうなずいた。
「どちらから来はったんです」
茶色い作さ務む衣えに同じ色の和帽子をかぶった男性が、厨ちゅう房ぼうから出てきた。
「お父ちゃんの鴨川流。この食堂の主人してます」こいしが紹介すると、大原がフードを脱いで頭を下げた。
「大原和男いいます。雑誌の広告を見て、鳥取から来ました」「遠いとこからようこそ。どうぞお掛けください」帽子を脱いで、流がパイプ椅子を奨すすめた。
「おーきに」
ダウンジャケットを脱いだ大原は、毛玉が目立つえんじ色のセーター姿でパイプ椅子に腰かけた。
「お腹なかの具合はどないです? お昼はもう済まさはりましたか?」傍そばに立って流が訊いた。
「高速バスでさっき着いたばかりで、昼はまだです。駅で食おうかどうか迷ったんですが、気が急せいたもんやから」
中腰になって大原が店の中を見まわしているのは、きっとメニューを捜しているのだろう。
「こんな店ですさかい、メニューも決めんと気ままにやらしてもろてます。おまかせでよかったら、適当にみつくろうて出させてもらいますけど」「そうしてもらえると助かります。なんせ田舎もんなんで、京都に来るのは初めてやし、なんにも分からんので」
「苦手なもんとか、アレルギーとかはおへんか」「なんでも美お味いしいにいただきます」
短いやり取りを終えて、流が厨房に戻っていった。
「鳥取いうたら砂丘くらいしか思いつかへんのですけど、どんなとこなんです?」こいしが訊いた。
「砂丘ですか。まぁ、そんなもんかもしれません。らっきょとか、梨とか、今やったら蟹かに。名物いうてもそれくらいやが」
「山陰やから寒いんでしょ?」
こいしが茶を淹いれて大原の前に置いた。
「京都のほうが寒いと聞いておったんですが、あんまり変わりませんな」タートルネックの首元を伸ばしながら、大原が茶をすすった。
「お酒はどうしはります? 寒いことやし熱あつ燗かんでもご用意しましょか」「いや。酒は飲めんもんで」
「ものすご強そうに見えるんですけど」
「おやじは大酒飲みやったですが。わしは一滴も」大原が口を開けて笑うと、何本か歯が抜けたままになっているのが見える。それもまた老人っぽさを強調している。
「お待たせしましたな。急なことやさかいに、大したもんはできまへんけど、寒い時季に旨うもぅなるもんを盛り合わせときました」
厨房から出てきて、流が大原の前に料理を並べはじめた。
「こらぁ、えらいご馳ち走そうですな。わしらのような貧乏人は、こんなもんを食うたら口が腫れると言われたもんですわ」
大原は無精ひげの生えた口元を手で押さえた。
「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左の上の皿は海え老び芋いものから揚げです。
黒七味を振って食べてください。その横はナマコの酢のもん。もみじおろしとポン酢をかけてます。右の上は蟹身の春巻き。辛子酢を付けて召し上がってください。その下は鴨かもまんじゅうです。鴨のすり身を団子にして揚げてます。みぞれ餡あんをかけてますので、ワサビを混ぜとぉくれやす。真ん中はフグ刺しの昆こ布ぶ〆じめ。柚ゆ子ずを絞って食べてください。その左はふろふき大根。山さん椒しょう味み噌そをたっぷり付けて召し上がってください。その下は蕎そ麦ばいなり。言うたらいなり寿ず司しの茶そば版ですわ。味が付いてますさかい、そのままどうぞ。その右は牛スジと焼豆腐の煮込み。一味を振ってもろたら美味しおす。下の右はスッポンの煮に凝こごり。刻み生しょう姜がと一緒にどうぞ。あとでご飯とお汁つゆを持ってきます」ひと品ずつ指さしながら流が説明を加えるのを、大原は真剣な表情で聞き、その度にうなずいている。
「お父ちゃん、大原さんはお酒飲まはらへんさかい、すぐにご飯持ってきたげたほうがええんと違う?」
「飲まはらへんのか。そんなふうには見えんので、酒に合いそうな料理を並べたんやが」流が苦笑いを浮かべると、大原は白髪が目立つ頭をかいた。
「すんませんな。飲んだらえらいことになりますんで」「気にしはらんでええんですよ。ゆっくり食べてくださいねぇ」こいしが湯ゆ吞のみに茶を注ついだ。
「すぐにご飯をお持ちしますさかい、食べはじめててください」銀盆を小脇にはさんで、流が小走りで厨房に戻っていき、こいしがそのあとを追った。
がらんとした食堂に、さまざまな料理の匂いが混ざり合いながら漂っている。
大原は箸を持ったまま、何から食べはじめればいいのか分からず、にごった目だけを上下左右に動かした。
この料理にどれほどの価値があるのかは、まったくといっていいほど分からないが、食堂という名にふさわしくないものだということくらいは理解できる。
「料理春秋」という雑誌を見つけた料理屋で、床の間を背にして庭を眺めながら、ひとりで食べた会席料理のコースを一度に並べたら、こんなふうになるのだろう。あれが二万円だったことを考えれば、半値としても一万円はする。いや、鳥取と京都という場所柄を比べればもっと高いかもしれない。
「ご飯をお持ちしました。どないしはりましたんや。お気に召しまへんか」手つかずの料理を見て、流が大原の顔を覗のぞきこんだ。
「恥ずかしい話ですが、こういう料理に慣れとらんもんですから、何から食べればいいかも分からんのです」
大原が迷い箸をしたまま、流に顔を向けた。
「何を言うてはりますねん。好きなもんを好きなように食べてもろたらええんですわ。苦手なもんは残してもろたらええし、食べたい思わはるもんだけ食べてください。今日のご飯は蒸しおこわです。あらめと刻み揚げを一緒に炊きこんでます。お汁は粕かす汁じる。
ありきたりですけど、寒いときはこれが一番です。どうぞゆっくりと召し上がってください」
何度も振り向きながら、流が厨房に続く暖簾をくぐった。
これなら慣れ親しんでいると言わんばかりに、大原は大ぶりの飯めし茶ぢゃ碗わんを手に取っておこわを食べ、朱塗りの汁しる椀わんに持ち替えて、粕汁を飲んでひと息ついた。
元より流の説明など耳に入ってはいなかった。聞くふりをしてうなずいてはいたものの、それはまるで外国語のようで、目で追いかけている料理と、流の説明が重なるのは半分もなかった。
ようやくといったふうに、最初に箸を付けた料理は牛スジの煮込みだった。
スジといっても臭みなどあるわけもなく、大原にとっては上等の牛肉にすら思えた。ふろふき大根もそうだ。大根の煮付けは好物といってもいいほど、いつも食べているが、見た目の色合いも味付けも、それとはまったくの別ものだった。
スッポンは初めて食べたが、思ったよりあっさりしているのに驚いた。鴨まんじゅうは、まんじゅうというからてっきりアンコが入っているものと思い、こわごわ箸を入れてみたが、それらしきものはなかった。
そんなふうにして順に食べ進むうち、気が付けば何ひとつ残すことなく、すべての料理を食べきっていた。だけでなく、最後のほうは料理をちゃんと味わうようにすらなっていた。
空になった器を見まわして、自分が食べきったことに驚き、それらの味がよみがえってくることに、大原は更なる驚きをおぼえた。
「どないでした。お気に召しましたかいな」
銀盆を持って厨房から出てきた流は、器を横目で見て、ホッとしたような表情を浮かべた。
「どう言うてええか、分からんのですが。どれも旨かったです」大原が顔の右半分で笑った。
「そら、よろしおした。お腹のほうは大きいなりましたかいな」「充分です。こないなご馳走を腹いっぱい食うたら、なんやバチが当たりそうな気がしますわ」
大原がやせた腹をさすって見せた。
「ひと息つかはったら、奥へご案内します。娘が待っとりますので」流が空いた器を盆に載せた。
「旨いもんをしこたま食うて、肝心なことを忘れるとこやった。すぐに行きますわ」腰を浮かせた大原は、慌てて湯吞の茶を飲みほした。
「えらい急かしたみたいですんまへんでしたな」細長い廊下を歩きだしてすぐ、流が大原を振り返った。
「いやいや、こっちがのんびりし過ぎとった」大原は廊下の両側に貼はられた写真に、目を左右交互に向けながら歩をゆっくり進めている。
「たいていは、わしが作ったもんです」
前を向いたまま流が言った。
「プロの料理人というのはすごいもんですな。わしは料理のことはよう分からんのですが、これだけいろんな料理を作るのは大変でしょう」何度も足を止めて、大原が写真に目を近づけた。
「どんな仕事でも繰り返しやっとったら誰でもできるようになるもんですわ」そう言って、流が廊下の突き当たりのドアをノックした。
「どうぞおはいりください」
ドアを開けて、こいしが迎え入れた。
「あとはこいしにまかせますんで、よろしゅうに」大原が部屋に入ると、流は背中を向けて戻っていった。
「どうぞおかけください」
こいしがロングソファを奨めた。
「おーきに」
大原がソファの端っこに座った。
「どうぞ真ん中に座ってください」
苦笑しながら、こいしが向かい合って腰かけた。
「むかしから端っこが好きなんですわ」
大原が少しばかり尻を移動させた。
「ご面倒やと思いますけど、申込書に記入してもらえますか」ふたりのあいだにあるローテーブルに、こいしがバインダーを置いた。
「なんや役所みたいですな」
笑いながらそれを手にした大原は、膝の上に置いてボールペンを走らせた。
「書きにくいことがあったら飛ばしてもろてもかまいませんよ」ときどき動きが止まる手を見て、こいしが大原に声をかけた。
「こんなのでよろしいですか」
大原がローテーブルにバインダーを戻した。
「大原和男さん」
「はい」
こいしが申込書を読みはじめると、大原が背筋を伸ばして返事をした。
「五十八歳。ほんまですか」
こいしが疑いの目を向けると、大原が苦い笑いを浮かべた。
「わし、むかしから老けて見られるんですわ。三十で家内と出で会おうたんですが、向こうはわしのことを五十歳くらいと思うてたらしい」「えらい失礼やけど、うちも七十歳くらいやろと思うてました」「いつもそう言われますわ。ひどいときは八十に見られることもあります」大原が哀かなしそうな目を伏せた。
「ご家族が空欄になってますけど」
こいしが遠慮がちに訊いた。
「今はひとりです。家族は誰もおりません」
顔を上げて、大原がきっぱりと言い切った。
「今は、ていうことは、前はやはったんですね」こいしの問いかけに、大原が無言でうなずいた。
「お仕事は無職てなってますけど、これも、今は、ていうことですか?」「去年までは荒物屋をやっとりました」
今度はうなずきながら言葉を足した。
「荒物屋さんかぁ。そういうたら最近はあんまり見かけへんな」こいしが小首をかしげた。
「ホームセンターというものができてから、さっぱり売れなくなりました」「そっかぁ。そういうたらそうやわ。竹ぼうきとか、バケツとか洗面器とか、うちもホームセンターで買こうてるわ。ここも昔はすぐ裏手の橘たちばな町ちょうに荒物屋さんがあったんやけど、いつの間にか無のぅなってたな」こいしが宙に目を遊ばせた。
「京都でもそうやったら、鳥取の田舎町でやっていけんのも当たり前やな。親おや父じの代から細々と続けてきたんやが」
大原が何度も首を横に振った。
「お父さん、今は?」
「親父もおふくろも火事で焼け死んだ。わしも大火傷やけどしたけど、なんとか死なんと済んだ」
大原がセーターをめくって、右の首筋と両腕の赤あざを見せた。
「お気の毒に」
こいしが眉をひそめた。
「両隣と裏の家とぜんぶで五軒焼けたけど、死んだのはうちの両親だけやった」大原が半笑いした。
運が悪いといえばそれまでだが、人の生死は紙一重で分かれると、流は事あるたびに言っている。刑事時代に何度もそういう場面に遭遇したからだろうが、こいしは幸いなことにその分かれ道に立ったことがない。母の掬子の死でさえ、運命付けられたものだったと、今でもそう思っているくらいだ。
重苦しい空気を撥はねのけるように、本題に入った。
「で、大原さんはどんな食を捜してはるんです?」こいしがノートを広げて手のひらで押さえつけた。
「きつねうどんです」
「いつ、どこで食べはったもんですか」
こいしはノートから目を離さずに訊いた。
「今から二十年ほど前に、大阪の難なん波ばにあるうどん屋で食べた」大原は正面を向いたまま、焦点の定まらない目をこいしに向けた。
「お店の名前とか憶おぼえてはります?」
顔を上げてこいしはペンをかまえた。
「さっぱり。南海電車の駅の近くにあった食堂、いうんかなぁ。うどんやら丼やら、カレーとかもあった」
相変わらず大原は焦点の合わない目を動かさずにいる。
「なんば駅の近くの食堂かぁ。ようけあるやろな。そのときのこと、詳しいに教えてくれはりますか」
こいしは地図を広げて、ノートの横に置いた。
「三十で結婚して、すぐに子どもも生まれたんやが、ちょうどそのころから商売がきつうなってきて。借金せんと暮らしていけんようになった」大原が大きなため息をついた。
「そのときは家族がやはったんやね」
こいしがペンを走らせると、大原はふっと笑った。
「借金先も年越しの金も無ぅなって、大阪の堺さかいに親父の兄さんがおることを思いだしたんや。町工場の社長しとったもんやから、借金を頼みに行った。そしたら、あっさり断られてしもてな。なけなしの金を使つこうてわざわざ行ったのに」大原が悔しそうに歯ぎしりした。
「親戚どうしいうのは難しいもんなんやわ」
こいしが言葉をはさんだ。
「七歳になる息子がわしの親父そっくりやったんで、ちいとは不ふ憫びんに思うて金を貸してくれるか思うて連れて行ったんやが、余計な汽車賃使うただけやった」大原は自分をさげすむような、ゆがんだ笑みを浮かべた。
「お子さんで同情を引こうていうのが、先方に伝わったんと違いますか」こいしは思ったままを口にした。
「そうかもしれん。金を借りられたら大阪で旨いもんでも食わしてやると、家内にも言うてたから。なんばで電車を降りてうろついても、高い店ばっかりで、安そうな食堂に入って、一番安いのがきつねうどんやった」
こいしの言葉を肯定したようでありながら、大原はそれには言及はせず事実だけを並べた。
「どんなきつねうどんやったんですか」
こいしは事務的に訊たずねた。
「甘い味が付いた油揚げが入った、ふつうのきつねうどんやったが、出だ汁しがなんとも言えんええ味付けで。腹が減ってたせいもあるけど、三人とも汁の一滴も残さんとさらえた」
なんのヒントにもならないと思いながら、こいしは言葉どおりに書き留めた。
「値段はいくらくらいやったか覚えてはりますか? ほかの具はどうでした?」こいしが重ねて問いかけた。
「二百二十円やった。具は油揚げとネギだけやった」間髪を入れることなく、迷わず答えたのはよほど大原の記憶が鮮明だからなのだろう。
「そのお店のことですけど、なんか特徴はありませんでしたか。店の名前の一部でもええし、外観とか、店の中のこととか、お店の人のことでもええんです。もうちょっとヒントが欲しいんで」
こいしはペンを握る手に力を込めた。
「寒い日やった。息子は風邪気味で洟はなをたらしとるし。とにかく食うことに夢中やったもんで。メニューはたくさんあったなぁ。店は狭くも広くもないし、客はあんまりおらなんだ。白い割かっ烹ぽう着ぎのおばちゃんがひとりで動きまわっとった。店の前に見本がようけ並んだショーウィンドーがあって、どれも安そうやった。けど、店の名前は……」
大原がゆっくりと首を左右に振った。
「南海のなんば駅の近くにある食堂やったら、どこでもそんな感じなんやろなぁ。二十年経たったら変わってるかもしれんし」
ペンを置いて、こいしが長いため息をついた。
大原は当時のことを思いだそうとしてか、腕組みをしたりほどいたり、貧乏ゆすりをしたりと落ち着かない様子を続けている。
「別れはった奥さんに訊いてみる……ことはできませんよねぇ」こいしの言葉を聞いて、大原がぼそっとつぶやいた。
「別れてませんで」
「え? でも、ご家族はなしやて」
こいしが申込書をたしかめた。
「死にましたんや」
思いがけない大原の声に、こいしは言葉を失った。
あれこれと想像をたくましくしても、何も見えてこない。このあと、どう話を続ければいいのか、途方に暮れるとはこういうことかとこいしは思った。
「二年前の秋でしたわ。墓参りの帰り途みちに智ち頭づの辺りの高速を走っとって、酔っ払いの車が正面から突っ込んできよった」
大原が顔をゆがめた。
「そんなことが……。信じられへん」
「わしも信じられなんだ。またわしだけが生き残った」大原のくぼんだ目から涙があふれた。
「お子さんは?」
「家内と息子は即死やった」
大原がくちびるを嚙かんだ。
はたしてそんなことが本当にあるのだろうか。両親が焼死して、妻子は交通事故死。そのどちらの現場にもいてひとり生き残る。壮絶という言葉ひとつでは片付けられない気がする。
「どない言うてええのか。神さんて残酷なんやねぇ」泣きそうになるのを、こいしは必死でこらえた。
「ひとり置いてけぼりになってしもうて。何べん死のうと思ったか。数え切れんわ」顔のしわが更に深くなったように見えた。
「そんな哀しいこと言わんといてください。亡くなったご家族のぶんもしっかり生きんと」
こいしがそう言うと大原は、うんうんと何度もうなずいた。
「わかってる。わかってるんやが」
握りしめたこぶしを両ひざの上に置いて、大原はあるだけの力を込めた。
「けど、なんで今になって、そのときのきつねうどんを捜そうと思わはったんですか」気を取り直して、こいしがペンをかまえた。
「死神みたいな人生が嫌になりましてな。かと言って今おっしゃったように自殺なんてことをしても、周りに迷惑をかけるだけや。幸い、て言うたらいかんやろけど、事故を起こした相手のかけてた保険金が入りましてな。それを持って日本を離れようと思うてます」「海外移住かぁ。それもええかもしれませんね。まだお若いんやし、第二の人生をはじめられますやん。移住先はもう決めてはるんですか?」「できるだけ日本から遠いとこで、簡単に戻ってこられん国にしようと思うて、ブラジルへ移住するつもりです」
「地球の反対側やもんね。そら遠いしなかなか帰ってこれへんでしょう。その前に思い出深いきつねうどんを、もう一回食べたいていうことですねんね?」「そんなとこです」
大原がソファの背にもたれかかった。
「分かりました。お父ちゃんやったらきっと見つけて来はると思います」こいしがノートを閉じた。
「なんや。あんたが捜してくれるんと違うんか」大原が前のめりになって、あんぐりと口を開けた。
「大きい声では言えへんのやけど、お父ちゃんは元敏腕刑事やったんです。せやから絶対見つけ出してくれはると思います」
こいしは顔を近づけて小声で伝えた。
「元刑事さんが今は食堂のァ′ジ。いろんな人生があるもんやな」大原が首をかしげた。
「あんじょうお聞きしたんか」
食堂に戻ると、流がふたりを待ち構えていた。
「聞くには聞いたんやけど、今回はかなりの難問やと思うえ」「今回は、ていつも難問やないか。簡単に見つけられるくらいやったら、わざわざうちまで来んでも、自分で捜さはるわいな。ですやろ?」立ち上がって、流が大原に顔を向けた。
「記憶がどんどん薄れていくもんやさかい、ご面倒をかけると思いますけど、よろしくお願いします」
大原が頭を下げた。
「捜しだして次に来てもらうまで、いっつも二週間ほどもろてますけど、間に合いますか?」
「三月ほど先の話やから大丈夫です」
ダウンジャケットに袖を通しながら、大原が頰のしわを増やした。
「これから鳥取へ帰らはるんですか」
玄関の引き戸を開けて、こいしが訊いた。
「せっかく京都まで来たんやから、ちょっと贅ぜい沢たくさせてもらおうと思うて、一泊して帰ります」
「どうぞお気をつけて」
丸い背中を向けて、大原は正面通を西に向かってとぼとぼと歩きだした。
見送って、ふたりは食堂に戻った。
「間に合うとかどうとか言うとったけど、急いてはるのんか?」流が訊いた。
かいつまんで話をするこいしは、目に薄うっすらと涙を浮かべている。
「そういうことやったんか。えらい苦労してきはったんやな。なんとしても捜しだしてあげんといかん」
棚から日本地図を出してきた流は、大阪のページを広げて老眼鏡をかけた。