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第五卷 第三話  きつねうどん 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3337
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  ちょうど二週間が経ち、京都の寒さは一段と厳しさを増したように感じられる。
  二度目の高速バスは前回より早く着いたような気がしたが、時計を見ると五分と変わらない。人間の感覚は気持ちによって大きく左右されるものだと、大原は妙に感心した。
  赤いセーターに黒いウールのコート。量販店で買った安物だが、まっさらをおろすのは気持ちがいい。ブラジルに冬があるのかどうかまでは調べていないが、荷物に詰めるつもりで買ったものだ。
  いざ日本を離れるとなると一抹の寂しさをおぼえる。日本の冬景色も見納めになるのかと思うと、冬枯れの山々も美しく見える。薄らと雪化粧した東山を見上げた大原は『鴨川食堂』へと向かった。
  「こんにちは」
  がらがらと引き戸を開けると、食堂はしんと静まりかえっている。
  「こんにちは」
  大原がもう一度声をかけると、こいしの声が遠くから聞こえてきた。
  「すんません。お待たせして。法事が延びてしもうて」息せき切って奥から出てきたこいしは喪服姿だ。
  「そうでしたか。お取り込みのところを申し訳ありません。出直しましょうか?」大原が訊いた。
  「とんでもない。お父ちゃんも着替えが済んだら、すぐに用意するて言うてますし。準備はちゃんとできてるんで、ちょっとだけ待ってくださいね」そう言えば、と大原は思った。廊下に貼ってあった写真には何枚か、こいしの母親、すなわち流の妻らしき姿が写っていた。
  「えらい鈍なこって。ちょっと野暮用が遅ぅなりましてな」作務衣のひもを結びながら、流が小走りで出てきた。
  「いやいや。こちらこそお取り込みのところを申し訳ありません。わしのほうはいくらでも時間がありますので、どうぞゆっくり支度なさってください」「出汁もひいて、具も用意できてますさかい、すぐに作れます。寒い中をお待たせしますけど、しばらく待っとってください」
  厨房に入った流はコンロに火を点つけた。
  「法事やったそうですが、どなたの?」
  コートを着たままで大原が訊いた。
  「家内の回忌でしてな。年々お呼びする方のお歳としが重なってきますさかい、いろいろ時間がかかってしまいますんや」
  「奥さんを亡くされてたんですか。存じ上げずに失礼しました」「失礼てなことありまっかいな。人は皆いつか死ぬんですさかい」壁一枚をはさんで、ふたりが短いやり取りをしているところへ、エプロン姿のこいしが出てきた。
  「すんません、遅ぅなってしもて」
  「今もお父さんと話してたんですが、わしはいくらでも時間がありますんで、どうぞゆっくりやってください」
  「そう言うてもろたら気が楽になります。て言うても、うちはお茶を淹れるくらいしかすることないんやけど」
  こいしが舌を出した。
  「無駄口たたいてんと手伝わんかいな。鉢をあっためたり、麵を茹ゆでたり、することはなんぼでもあるで」
  暖簾から顔を覗かせて、流が険しい顔をこいしに向けた。
  「はいはい。前は、余計なことするな! て怒ってはったんですよ。最近は手伝え、手伝え、てうるさいことですねん」
  こいしが小声で言った。
  「頼ってられるんでしょう」
  大原も小声を返した。
  「そうやろか。何もかも自分でやるのが辛つろぅなってきたんと違うかなと思うてますねんよ」
  「早はよぅせんかい」
  流の雷が落ちたのを潮に、こいしが厨房に入っていった。
  静かになった食堂の中に、出汁の香りが波のように広がってきた。あの日、あの店では入った瞬間から、強烈な香りが漂っていて、それは家に帰り着いてもまだシャツにまとわりついていて、また腹が鳴るほどだった。
  「こういうのんは割り箸で食べたほうが、ぜったい美味しい感じると思いますねん」短い粗雑な作りの割り箸を大原の前に置き、こいしはその横に万ばん古こ焼の急須と、砥と部べ焼の湯吞を並べた。
  「お待たせしましたな。どうぞお熱いうちに」銀盆に載せて、流が運んできたのは、紛れもなくあの日のきつねうどんだった。分厚い真っ黒なうどん鉢には、茶色い雲のような模様が描かれ、持ち重りがした。そのときの自分の気持ちを見せつけられたようで、一気に食欲が失うせたことははっきりと覚えている。
  「どうしてこれを」
  白黒させた目を向けた大原に、流はやさしいまなざしを返した。
  「話はあとでゆっくり」
  そう言い置いて、こいしとふたりで厨房に戻っていった。
  捜してほしいと依頼したのは、失った記憶を取り戻したかったからだ。
  妻も息子も、ことあるごとに、あの日のきつねうどんが美味しかったと懐かしげに言い、もう一度食べたいと何度も繰り返していた。にもかかわらず、自分にはほとんどその記憶がない。
  駅から雑踏を歩き、ようやく入った店でうどんを食べたこと。出てきたうどん鉢に気分が萎えたことは覚えているが、正直に言えば、味などはまるで記憶にない。
  それは伯父に借金を断られるという想定外のできごとがあったせいで、頭が真っ白になっていたからである。金額の多寡はさておき、幾らかは貸してくれるものと信じ込んでいただけに、それから先をどうすればいいのか、お先真っ暗ななかで食べたうどんだから、味なんか覚えていなくて当然だ。そう自分に言い聞かせてみたものの、家族三人のうちで自分の記憶だけがなくなっていることに、納得がいかなかった。
  本当にふたりが懐かしがるほど美味しいうどんだったのか。それをたしかめたかったのが本音だ。
  うどんが見えないほどではないが、大きな油揚げが載り、斜めに切った青ネギが散らされている。出汁の甘い匂いが立ち上ってくる。
  ふたつに割った箸は均等ではなく、その断面はささくれだっている。指に刺さらないよう用心深く持って、油揚げを持ちあげて端っこをかじった。
  嚙みしめると、甘い煮汁があふれだし、唇を越えてあごを伝った。
  箸を持ったまま手の甲でそれを拭い、三本ほどうどんをすくい上げて口に入れた。抜けた歯のすき間からこぼれ落ちそうになるのを、舌で止めて残っている歯で嚙むと、すぐに形が崩れてしまった。こんなにやわらかいうどんだったのか。驚きながら箸を置いた大原は、両手で持ち上げた鉢をゆっくりと傾けた。
  火傷しないように注意深く、二度、三度とつゆをすすり、テーブルに鉢を置いたあと、風呂に浸かったときのように、腹の底から絞り上げるようなうめき声を上げた。
  油揚げをかじり、うどんを食べてつゆをすする。同じことを繰り返すうち、鉢の底に描かれた白馬らしき紋様が現れた。
  「お馬ちゃんや」
  鼻をつまらせた息子の声が、空高くから天井を突き抜けて降って来た。
  「白いお馬ちゃんやねぇ。王子さまが乗ってるかもしれんよ」高い妻の声が重なってこだまする。
  まざまざとよみがえってくる記憶に、こらえきれなくなった大原は嗚お咽えつをもらしはじめた。
  こらえてもこらえても、こみ上げる思いが涙になってあふれ出る。
  「なんでわしだけが……」
  伸びた爪が手のひらに食い込むほど、かたく握りしめたこぶしが震える。
  持っていきようのない哀しみや怒り、悔い。さまざまが大原の胸の奥深くに渦巻いた。
  「よかったらお使いください」
  こいしがピンクの小さなタァ‰を差しだした。
  「おーきに」
  ためらうことなく受け取って、大原は顔じゅうを拭ったあと、両目に強く押し当てたまま肩を震わせ、荒い息を少しずつ落ち着かせていった。
  「どないでした。おんなじうどんでしたか」
  タァ‰を目からはずすと、すぐ目の前に流が立っていた。
  「思い、だしました。この、うどんに、間違い、ありません」腫れぼったいまぶたと、赤くくぼんだ目を流に向けて、大原は言葉を途切れさせながらもきっぱりと言い切った。
  「よろしおした」
  流がやさしいまなざしを大原に向けた。
  「捜してくれ言うといて、訊くのもなんやが、どうやって見つけなさったんや。不思議でしょうがないわ」
  大原はもう一度顔じゅうをピンクのタァ‰で拭った。
  「座らせてもろてよろしいか」
  流が訊いた。
  「こら、えらい気が付かんことで。どうぞ座ってください」大原が中腰になった。
  「とにかくなんば駅のまわりを歩き回って、店を捜しましたんやが、それらしい店は見つかりまへん。近所の人いうても昼間と夜ではがらっと変わるとこみたいで、訊くだけ無駄やていう感じでしたんや。どないしたもんかいなと思うて古臭い喫茶店に入って、珈コー琲ヒーを飲んどったんですわ。ふとカウンターの上を見たらセピア色の写真が額に入れて飾ってあったんです。その喫茶店を真ん中にして、左隣は小さい本屋で、右隣が食堂。それが大原さんが言うてはったような構えの店ですねん。それで白髪のマスターに訊いてみたんですわ。食堂のことを。そしたらどんぴしゃ」タブレットを操作して、流が写真の一部を拡大してみせた。
  「そうそう。こんな感じやった」
  タブレットに覆いかぶさるようにして、大原が目を近づけた。
  「『まるやま食堂』というお店やったそうです。五年前に廃業しはったということで残念がってたら、その食堂をやってはったという丸まる山やまさんというおばさんを、マスターが呼んでくれはったんです。食堂のあとは雑居ビルになってましたんやが、丸山さんはその最上階に住んではるいうことで」
  流が次々と写真を画面に出し、大原はそれを見ながら目を細めている。
  「鴨川さんはよっぽど運がええんですな」
  顔を上げて大原が頰にしわを寄せた。
  「丸山さんがお店をやってはったころの写真を、ようけ持ってきて見せてくれはりまして、懐かしそうに話をしてくれはるんですわ。ほんまに大阪の人は話好きなんですな。きつねうどんのレシピも教えてくれはった上に、わしが事情を話すと、当時のうどん鉢もくれはったんです。ようけ家に残ってて邪魔になるだけやさかい、て言うて」「大阪のおばちゃんは人なつっこいんですよ。京都と違ちごうて」傍らに立つこいしが言葉をはさんだ。
  「そないして再現したんが、今食べてもろたきつねうどん、っちゅうわけですわ」流がタブレットをシャットダウンした。
  空になった鉢をじっと見つめて、大原は無言のまま身じろぎひとつしない。
  前の道を走り去る子どもたちの歓声が、店の中にまで届き、やがて静寂が広がっていった。
  「こんな味やったんですね」
  大原がぽつりとつぶやいた。
  「飛びきり旨い、っちゅうほどやないけど、しみじみと心に残るうどんです」流が言葉を返した。
  「想像以上に旨かったのはたしかやが、一生記憶に残るほどでもない。今のわしはそう思う。棚から牡ぼ丹た餅もちのようにして手にした金で、あちこちの旨いもんを食べ歩いたせいやと思う。ふたりが死んだから食えたもんと比べとる。なんというバチ当たりな人間なんや」
  大原が顔をゆがめて続ける。
  「こんなきつねうどんを懐かしい、もう一回食べたいて、家内も息子もなんべんも言うとったんです。ふたりともこの程度のもんしか懐かしめなんだ。これくらいしか食わせてやれなんだんはわしのせいや。わしの甲か斐い性しょうがなかったからや。可哀かわいそうに、もっと旨いもんが世の中にはようけあるいうことを知らんと死んでいきよった。代わってやりたかった……」
  思いつくままに言葉を連ねた大原の目は真っ赤に染まった。
  「お茶淹れてくる」
  目の色を同じようにさせ、背中を向けたこいしが厨房に入っていった。
  「食いもんの味いうのは、ほんまに不思議なもんで、それを食うたときの気分でころっと変わります。丸山さんから聞いたとおりの材料とレシピで作ったもんやさかい、二十年前に食べはったもんとおんなじ味やと思います。けどそのときは、大原さんにとってどん底ていうてええくらい、最悪のときやったと思います。そんなときに家族揃そろうてこのうどんを食べはった。身も心も温まったんと違いますか。お子さんも奥さんも、三人揃うて一緒に食べられたらそれでしあわせや。そう思うて食べはったからこそ、記憶に残ったんですやろ。もういっぺん食べたいと思うてはったんでしょう。それが人間っちゅうもんです」
  流がまっすぐに大原を見つめた。
  唇を嚙みしめてテーブルに目を落とした大原は、じっと息をつめている。
  「旨いもんに上下もなければ、高い安いは味となんの関係もない。たとえ辛い暮らしをしとったとしても、家族揃うて力を合わせんとあかんと思いながら食うたら、どんなもんでも至福の味わいになる。えらそうなこと言うてまっけど、わしも掬子を亡くしてから、やっとそんなことに気が付いたんですわ」
  流がしみじみと言葉をつないだ。
  「大きい勘違いをしたまま、わしは日本を離れるとこやったんですな」大原がそう言うと、流はこっくりとうなずいた。
  「おたくだけやおへん。値段が高たこぅて珍しいもんがご馳走やと思いこんどる人は世の中にようけおります」
  今度は大原が大きくうなずいた。
  「だいじなことを教えてもろて、これで心おきのうブラジルに行けます。この前にいただいた食事の代金をお支払いするのを、うっかり忘れて帰ってしまいました。探偵料と合わせてお支払いします」
  大原がコートの内ポケットから長財布を出した。
  「うちは金額は決めてしません。お客さんにおまかせしてます。お気持ちに見み合おうた分をここに振り込んでください」
  振込先を記したメモ用紙をこいしが大原に手渡した。
  「分かりました。早急に振り込ませてもらいます」大原はメモ用紙を折りたたんで財布にしまった。
  「京都も寒いけど、鳥取も寒いんでしょうな」店の外に出て、流が灰色の空を見上げた。
  「今年は雪が多いので、逆にそれほど寒さを感じません」大原の足元にトラ猫がのっそりと寄ってきた。
  「こら、ひるね。入ってきたらあかんぞ」
  流が追い払う素ぶりを見せると、大原はかがみこんで頭を撫でた。
  「ひるね、て言うんか。ええ名前付けてもろたな。のんびり昼寝しとるのが一番しあわせな時間や」
  「ほんまやねぇ。あくせくしても、のんびりしても、人も猫も人生一回きりやさかいな」こいしがひるねを抱きあげた。
  「本当にありがとうございました。これで、前を向いて生きていけます」大原がふたりに一礼した。
  「大原はん。忘れたらあきまへん。辛いことは一生胸に抱いて生きていかんと、亡のうなったもんがむくわれまへん。それが残されたもんの務めです」流が言葉に力をこめた。
  「はい」
  大原が右手で胸を押さえ、しっかりとした足取りで正面通を西に向かって歩きだした。
  「どうぞおしあわせに」
  こいしが背中に声をかけると、大原は立ち止まって深々と頭を下げ、ふたたびゆっくりと歩を進めた。
  「ブラジルかぁ。どんなとこなんやろなぁ」
  店に戻ってこいしが片づけをはじめた。
  「むかしからようけの日本人が移住した国やさかい、すぐに慣れはるんと違うか」流がタブレットを棚に戻した。
  「お父ちゃん」
  手を止めてこいしが流に目を向けた。
  「なんや。大きい声だしてからに」
  「お母ちゃんが、もういっぺん食べたいて言うてはったもん、何か知ってるか?」「掬子がもういっぺん食べたいて言うてたもん……」こいしの言葉を繰り返しながら、流が思いを巡らせた。
  「知らんやろなぁ、きっと」
  小走りで厨房に入っていったこいしが仏壇の前に座った。
  「食いしん坊やったさかい、ひとつやふたつと違うやろ」流もこいしの横に並んだ。
  「お母ちゃん。お父ちゃん知らはらへんみたいやで。内緒にしとこか」写真に語りかけて、こいしが線香に火を点けた。
  「知ってるに決まってるがな。知ってるけど、ようけあり過ぎてやな、ひとつに絞れんて言うてるんや」
  流がりんを鳴らして手を合わせた。
  「教えたげるわ。カレー」
  こいしが流の耳元に口を寄せた。
  「カレー? ほんまかいな。いつどこで食べたカレーや」流が鼻で笑った。
  「お父ちゃん、ほんまに覚えてへんの?」
  こいしが口調を強めた。
  「掬子はカレーが好きやったさかいなぁ」
  流が首をかしげた。
  「三人で嵐山のもみじを見に行った帰りに……」「そや。思いだした。ナントカていうファミレスで食べたまずいカレー。なんであんなまずいカレーを?」
  「お母ちゃんの病気がだいぶ重ぅなってたやんか。せやからめずらしい、お母ちゃん弱気になって。来年のもみじはもう見られへんかもしれん。三人で一緒に見られてよかった言うて食べてはったから」
  こいしが瞳をうるませた。
  「掬子のやつ、そんなこと言うとったんか。そんなこと言うとったけど、そのあと二回も三人でもみじ狩りしたがな」
  流が立ち上がった。
  「二回も、と違う」
  流が着る作務衣の袖をつかんで、こいしが叫んだ。
  「二回も見たて。わしの記憶に間違いはない」こいしの手を払って流が言い切った。
  「二回も、と違うやん。二回しか、や。なぁ、お母ちゃん。二回しか、あれから二回しか、三人で一緒にもみじ見られへんかったやんかなぁ」こいしの頰を涙が伝った。
  「もう一回くらいは一緒に見たかったなぁ」
  流が語りかけると、写真の中の掬子が小さくうなずいた。
 

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