第四話 おでん
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能のう美み佳か代よ子こが『鴨川食堂』の前を通り過ぎるのは、これで三度目になる。
雑誌に載っていた〈食捜します──鴨川探偵事務所〉という一行広告を手がかりに、ようやくそれらしき店の前までたどり着いたものの、まだ引き戸を開ける決断ができずにいた。
看板もなければ暖の簾れんも出していない。調べておいた特徴とぴったり一致している。間違いない。目指す探偵事務所はこの店の奥にあるはずだと確信しながら、横目にするだけでなかなか足が向かない。
厚いウールのコートを着ていても、都みやこ大おお路じを吹き渡る寒風には歯が立たない。一瞬立ち止まった佳代子は冬空を見上げ、黒いコートの襟を立ててから、また歩きはじめた。
佳代子には優柔不断という言葉が絶えずつきまとっていた。還暦を過ぎて五年になろうかという長い人生の中で、たった一度だけなんの躊躇ためらいもなく決めたことが、今になってみると後悔という言葉とともに、背中に重くのしかかっている。
烏丸通から『渉しょう成せい園えん』までの正面通には、『東本願寺』と関わりの深い仏具商が軒を並べていて、ガラス越しに見える仏壇や仏具が、佳代子の胸のうちにひそむ不安をかきたてる。まっすぐ前を向いて歩いているつもりなのだが、ちらちらと横目に映ってしまう。
狭い通りを往復すること二度目になって、ようやく覚悟を決めた佳代子は脱いだコートを腕にかけ、思い切って引き戸を開けた。
「こんにちは」
声をかけたものの、がらんとした店内には人気もなく、自分の声が吸い込まれたあとは、物音ひとつしない。
「こんにちは」
少しだけ間を空けて、さっきより大きめの声を出してみた。
「はーい」
店の中にかかる暖簾の奥から、女性の声が小さく聞こえてきた。
胸のたかぶりを抑えながら、佳代子は敷居をまたがずに待った。
「すんません、今日はお休みさせてもろてますねんけど」真っ赤なダウンジャケットを羽織った、若い女性が暖簾をくぐって出てきた。
「能美佳代子と申しまして、食を捜していただきたくて来たのですが」佳代子は落胆したように声を落とした。
「そうやったんですか。うちは鴨川こいしと言います。『鴨川探偵事務所』の所長をしてます。せっかく来てもろたんやけど、あいにく今日は食堂の主人が……」背伸びしたこいしが引き戸の外を覗のぞきこむと、佳代子の後ろに人が立った。
「なんぞご用でしたか」
声をかけられて、驚いたように佳代子が首をちぢめる。
「ええとこに帰ってきてくれたわ。こちらは能美佳代子さんて言いはる、探偵のほうのお客さんやねん。食堂の主人の鴨川流です」
こいしがホッとしたような顔つきを、流から佳代子に向け直した。
「寒いこってっさかい、とにかく中へお入りください」片手に風呂敷包みを持った流が、ワイン色のスーツを着た佳代子の背中に手を添えた。
「『鴨川食堂』の主人をしとります鴨川流です」店に入った流は、黒いダウンコートを脱いで佳代子に一礼した。
「突然お邪魔して申し訳ありません。千葉の市川からまいりました能美佳代子と申します。『料理春秋』という雑誌に載っていた一行広告を拝見したのですが、こちらで食を捜していただけるそうで」
佳代子はおそるおそるといったふうに、上目遣いでふたりの顔を交互に見た。
「ええ、それはそうなんですけど……」
こいしは流の顔色を窺うかがっている。
「常はたいてい店を開けとるんですが、今日は家内の命日でしてな、朝から墓掃除をして、これから娘とふたりで飲もうかと思うとりましたんや。そんなわけで、大した料理も作れしまへんけど、それでよかったら、しばらく待っとってください」「いえ、食事をしに来たのではなく、食を捜していただきたくて伺ったまでで。ましてやそんなたいせつな日にお邪魔したのですから……。また改めて出直します。今日はこれで失礼します」
佳代子が後ろ手に引き戸を開けた。
「そない遠慮なさらんと。千葉てな遠いとこからわざわざお越しいただいたんでっさかい」
流が引き留めると、こいしが言葉を足した。
「ほんまやったら、お父ちゃんももっと遅ぅに帰って来はるはずやのに、こない早いこと帰って来はったんも、ご縁があったんやと思います。よかったらお話だけでも聞かせてくださいな」
「ありがとうございます。でも……」
「どうぞこちらに」
まだ躊躇っている佳代子を後押しするように、流がパイプ椅子を引いた。
「すぐに熱いお茶をお持ちします。そや、ストーブも点つけんと」赤いダウンジャケットを脱いで、こいしが石油ストーブを点火した。
「本当によろしいんですか? どちらかへお出かけのご予定があったのでは」佳代子がコート掛けの赤いダウンジャケットに目を遣やった。
「どこへも行かへんのですよ。お客さんがやはらへんときにストーブ点けてたら怒られますねん。ケチなお父ちゃんでしょ」
小声でささやいて、こいしが首をすくめた。
「ケチと違うがな。始末せんとあかんっちゅう話や。まだ真冬やないのにストーブ点けとったらバチが当たる」
流が仏頂面をこいしに向けた。
「お腹なか、空すいてはるんでしょ? これから作らはるんで時間くださいねぇ」こいしがダスターでテーブルをていねいに拭いた。
「予約もせず、突然まいりましたのに、わざわざ作っていただくなんて、本当に申し訳ありません」
「そや。これ食べてもらお。一瞬だけお待ちください。仏壇に供えますんで」手を打った流は、風呂敷包みを手にして厨ちゅう房ぼうに入っていった。
「失礼なんと違う? お母ちゃんのお下がりを食べてもらうやなんて」「お下がりでもなんでも、わしが心を込めて作った料理にかわりはない。誰も箸を付けとらんのやからええがな」
ふたりのやり取りを目で追いながら、佳代子はあっけにとられている。
「すんませんねぇ。お父ちゃんは言いだしたら聞かはらへんさかい。それに、きれいな女の人には弱いんですよ」
「いえいえ、なにがなんだかよく分からないのですが」佳代子はほんのりと顔を赤らめた。
「お母ちゃんの命日には、朝早はよぅから料理作ってお母ちゃんのお墓参りに行かはりますねん。ふたりだけで話したいから、て言うて、うちは連れてもらえんといっつも留守番ですわ。今日はわりと早かったですけど、一時間くらいはお墓の中のお母ちゃんと、お弁当箱をあいだに置いて話してはるみたいですよ」「よほど仲のいいご夫婦だったのでしょうね」佳代子がしんみりとした口調で言った。
「しょっちゅうケンカしてはりましたし、あんまり仲がええようには見えませんでしたけど」
急須の茶を湯ゆ吞のみに注つぎながらこいしが苦笑いした。
「命日のお参りをずっと続けておられるんですか」佳代子が茶をひと口飲んでから訊きいた。
「よっぽどの用事がない限りは毎月ですわ。ようそんな話することあるなぁて感心してますねん」
こいしの答えを聞いて、佳代子は長いため息をついた。
「お待たせしましたな。家内のお下がりで申し訳ありまへんけど、味は間違いないと掬子も言うとりました」
真顔でそう言いながら、流が朱塗りの重箱を佳代子の前に置いた。
「本当にいただいてもいいのですか。おふたりで召し上がるおつもりだったのでは?」「どうぞ遠慮のう。わしらの分はちゃんと置いてありますさかい」流が蓋を取ると、佳代子が歓声をあげた。
「どれも美お味いしそう」
重箱に覆いかぶさるようにして、佳代子が料理を見まわした。
「簡単に説明させてもらいます。猪ちょ口こに入っとるのはフグ皮とフカヒレのポン酢和あえ。一味を振って召し上がってください。竹の皮に包んどるのは蟹かに身みと銀ぎん杏なんの飯いい蒸むしです。豆鉢に入っとるのはイクラの味み噌そ漬け、焼魚はグジの塩焼、黒七味を振ってもろたら味が締まります。揚げもんはサーロインの竜田揚げ、レモンを絞っとぉくれやす。胡ご麻ま豆腐は軽ぅに焼いてます。タレがかかっとりますのでそのままどうぞ。伊勢海え老びは白味噌で煮込んでます。柚ゆ子ずこしょうを付けてもろたら美味しおす。柿の器に入っとるのは利休麩ふと椎しい茸たけの白和え。柚ゆ餅べ子しと一緒にどうぞ。コノシロと鯖さばの箱はこ寿ず司しは刻んだ紅生しょう姜がを載せて召し上がってください。今から吸いもんを作りまっさかい、どうぞごゆっくり」流の言葉に合わせて目を動かしていた佳代子が、顔を上げて目を細めた。
「手の込んだお料理ばかりで、食べるのが惜しいくらいです」「よかったらお飲みになりませんか」
こいしが一升瓶と大ぶりの猪口をテーブルの端っこに置いた。
「そない荒あらけないことせんと、徳利に移し替えたげなあかんがな」流が眉をひそめて、小走りで暖簾の奥に入っていった。
「いえいえ、このほうが気軽にいただけますわ」佳代子が笑顔を見せた。
「お話はあとでゆっくり聞かせてもらいますし、ゆっくり召し上がってくださいね」言い置いて、こいしは流のあとを追うように、暖簾をくぐっていった。
ひとり食堂に残った佳代子は、あらためて重箱の中を見まわした。
結婚前から料理教室にも通ったくらいだから、料理を作るのは好きなほうだった。見合いの釣書にも趣味は料理と書いた。結婚当初は毎日のように手の込んだ料理を作って、会社から帰ってくる主人を心待ちにしていた。
それもしかし一年と続かなかったのは、主人が喜んでくれなかったからだった。残業の多い会社だったせいもあり、帰宅時間はいつも遅かった。日付が変わっていることも少なくなかったが、妻としての役目を果たすべく、どんなに遅くなっても、いっさい手を抜かず、ちゃんと夕食の支度をして帰りを待っていた。たとえ倒れそうなほど空腹であっても、決して箸を付けずに待った。
佳代子が最初に箸を付けたのは胡麻豆腐だった。
そのまま食べることしか思い浮かばなかった胡麻豆腐だが、焼くとこんなにも味わいが変わるのかと驚いてしまった。外側は香ばしく、中はねっとりとして、白子のような舌触りで、胡麻の薫りはいくらか弱くなるが、焼き立てだとまた異なった味になるのだろう。
伊勢海老を白味噌で味付けるとどんな味わいになるのか。気になっていたが、ある意味で予想どおりだった。こっくりとした甘みは海老の甘みと重なって、上品な後味だ。
もうひとつ気になっていたのはサーロインの竜田揚げ。脂っぽくないだろうかと思っていたが、鶏肉の竜田揚げなんかより、はるかにさっぱりしていて、鯨の赤身に似た淡泊さである。もちろん鯨とは比べものにならないほど、濃密な味わいなのだが。
「うちのやつが濃い味のもんが好きやったんで、そんなんが多なりましたけど、お口に合おうてますかいな」
長手盆に黒塗りの椀わんを載せて、流が佳代子の横に立った。
「美味しくいただいております。生まれも育ちも関東ですから、これくらいは濃い味には入りません」
箸を置いて、佳代子が流ににこやかな顔を向けた。
「それやったらよろしいんやが。吸いもんはあっさりとハマグリの真蒸にしました。上に載っとるのはウグイス菜。京都では雑煮にあしらいます」流が椀の蓋を取った。
「さすが京都。見た目もきれいで、いい薫り」椀に鼻を近づけて、佳代子がうっとりと目を閉じた。
「どうぞごゆっくり」
長手盆を小脇に挟んで、流が下がっていった。
静けさの戻った食堂で、佳代子は吸いもの椀を手に取り、薫りを愉たのしんだあと、ゆっくりとすすった。
佳代子は、四十年近く前に新婚旅行で訪れた、宮崎の宿での夕食を思いだしていた。
旅行先としてハワイを希望していた佳代子に対して、長い休みが取れないからという理由を付けて、夫の泰やす夫おは宮崎を提案してきた。
仕方なく応じた佳代子だったが、日南海岸のリゾートホテルに泊まり、海の見えるフレンチレストランで夕食を摂とったときの出来事は、鮮明な記憶として残っている。
まだディナーは始まったばかりだというのに、乾杯だけ済ませて席を中座した泰夫がなかなか戻って来ない。二十分ほども経たっただろうか。心配になった佳代子が様子を見に行くと、レストランの隣にある電話室で、何度も頭を下げている姿が目に飛び込んできた。
見てはいけないものを見てしまったような不快感を飲みこんで、席に戻ったものの、冷めたコンソメスープはどうしても喉を通らなかった。
先行きに対する不安というよりも、ただただ寂しかったからだったと今になって思う。
ただならぬ様子を気遣ってか、シェフが温かいスープに取り換えてくれた。
ひと口飲んで、年老いたシェフのやさしい笑顔を見て、思わず涙がこぼれた。
あのときのスープと同じ味わいを感じる。もちろん吸いものとスープという違いはあるのだが、そこに込められたやさしさはまったく同じなのだ。
箱寿司をひと切れ食べてから吸いものを飲むと、また違った味わいになる。食べるのもいいが、こういう料理を作りたかった。そう思うと熱いものが込みあげてきた。
残った料理を順に食べ進むうち、少しずつ心が落ち着いてきて、それぞれの料理がどんなレシピなのかを考える余裕もでてきた。
「お茶が足りてなんだんと違いますかな。えらい遅ぅなりました」急須を持って流が傍そばに立ったときには、重箱はほとんど空になっていた。
「どれも美味しくいただきました。きっと素敵な奥さまだったのでしょうね。心のこもったお料理に感動しました」
「そない言うてもらうような料理やおへん。掬子とは味の好みがよう似てましたさかい、わしが食いたい料理を作ったようなもんですわ」流が照れ笑いを浮かべた。
「それにしても、さすが京都ですね。想像していたものとは違って本格的なお料理なのにびっくりしました」
「どんな想像をしてはったんかは分かりまへんけど、作りたい料理を作ってるだけです。
料理を作るのが好きなんですわ。大した修業をしたわけでもありまへんので、なんでも我流です」
お茶を注いで、流が急須をテーブルに置いた。
「作る側も食べる側も愉しまないと、料理は美味しくなりませんね」佳代子は茶を飲んで、小さくため息をついた。
「こないして美味しいに食べてくれはる人がやはるさかいに、一生懸命作りまっけど、相手がおらなんだら気ぃが入らしまへん。掬子が亡のうなって半年ほどは包丁を握る気になりまへんでした。おかげでみな錆さびついてしもうて往生しました」流が苦笑いした。
「失礼なことをお訊きしますが、奥さまは料理をなさらなかったのでしょうか」「わしなんか足元にも寄れんぐらい、掬子は料理上手でした。わしも昔は宮仕えでしたんで、家に帰る時間はまちまちでしてな。それでもどんな時間に帰っても、按あん配ばいようメシを作ってくれました。それがまた旨うもぅてね……、てな無駄話をしとったら、こいしに怒られますわ。よかったら奥へご案内します」横目で掛け時計を見て、思いがけず時間が経過していたことに、流は少しばかり慌てたようだ。待ちぼうけを食って不機嫌そうな顔つきになっているこいしが、佳代子の頭にも浮かんだ。
「すみません。あまりに美味しかったものですから、ついついゆっくりしてしまいまして」
ハンカチで口元をぬぐった佳代子は、急いで立ち上がった。
両側の壁にびっしりと貼られた料理写真に、時おり目を遣りながら、佳代子は流のあとを追う。
「これは全部鴨川さんがお作りになった料理なんですか」「覚え書きみたいなもんですわ。わしはレシピてな面倒なもんを書き残しまへんので」流が歩きながら振り向いた。
「写真をご覧になればレシピが浮かんでくるのですか?」「おおよそ、でっけどな。レシピより食べた相手の反応を思いだしますな。たいていはみな美味しいて言うてくれますけど、心底美味しいと思うてくれてるか、口先だけか。思いだしたらよう分かりますねん。掬子はウソのつけん女でしてな、口では美味しい言うとっても、顔が笑うてへん。どことのう引きつってますんや」立ち止まって流が顔真ま似ねをしてみせると、佳代子は思わず声を出して笑った。
「どうぞお入りください」
待ちくたびれたような顔をしたこいしが、音を立ててドアを開けた。
「あとはこいしにまかせますんで」
流はそそくさといったふうに、食堂に戻っていった。
「早速ですけど、ここに記入してもらえますか」ローテーブルをはさんで向かい合うこいしが、佳代子にバインダーを手渡した。
「長いことお待たせして申し訳ありませんでした」中腰になって佳代子がこいしに頭を下げた。
「きっとお父ちゃんが引き留めてはったんでしょ? きれいな人が来はったら、いっつも長なごぅなりますねん。分かりやすい人ですわ」佳代子が申込書に記入しているのを目で追いながら、こいしはあきらめ顔で茶を淹いれた。
「そんなことないですよ。のろけ話をお聞かせいただきましたし」書き終えて佳代子がこいしにバインダーを返した。
「能美佳代子さん。千葉県市川市在住。おひとりなんですね。ずっとですか?」こいしがバインダーをローテーブルに置いて、その横にノートを広げた。
「三年前からです」
「ご主人が亡くなられた、とかですか」
「いえ、別れました」
佳代子は湯吞の茶をひと口飲んだ。
「離婚はどちらから?」
「わたしから申し出ました」
「理由は?」
「ひとりになりたかったからです」
短いやり取りが一段落ついたところで、こいしがソファの背にもたれかかった。
「いっぺんも結婚したことないわたしは、贅沢な話やなぁと思うてしまいますわ」「そうかもしれませんね。でも早くに結婚してしまったわたしから見れば、独身生活を愉しんでらっしゃる、あなたのほうが贅沢だと思いますけど」ふたりはやんわりと視線を戦わせた。
「余計な話はおいといて、どんな食を捜してはるんですか」身体からだを起こして、こいしがペンをかまえた。
「大根です。おでんの大根」
肩幅を狭めるようにして、佳代子がうつむきがちに答えた。
「どこで食べはったおでんですか」
「いえ、わたしは食べてもおりませんし、見たこともありません。食べていたのは主人なんです」
佳代子がきっぱりと言い切った。
「もうちょっと詳しいに話してもらえますか」こいしがノートのページを繰った。
「わたしは結婚願望が強く、若いときに見合い結婚をしました。結婚願望というよりは、主婦願望だったかもしれません。外で働くのは苦手でしたし、実家で両親といつまでも一緒に暮らすのも嫌でした。早く結婚して一家の主婦になりたかったのです。女は主婦として生きてゆくのが一番幸せだと、子どものころから思い込んでいました。ですから女子大を卒業して、次の年の春にはもう結婚を決めました。叔母が紹介してくれたのは富とみ岡おか泰夫という人で、わたしよりふたつ上のサラリーマンでした。特に好みのタイプとかではありませんでしたが、顔も十人並みでまじめそうなので即決しました」佳代子は泰夫の写真をテーブルに置いた。
「ほんまや。まじめそのものの顔してはりますね。こんな人やったら安心して一緒になれそうや」
写真を手に取ったこいしが頰をゆるめた。
「おっしゃるとおりです。富岡は働くことが趣味のような人でした。ギャンブルをするわけでなし、ほかの女性にもまったく興味がないようでしたし、朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる。お金のかかるような趣味も一切ない。たまの休みは家の大掃除。そんな毎日の繰り返しで四十年近くが過ぎていきました」遠い目をした佳代子が淡々と語り、こいしはその要点をノートに書き留めた。
「主婦願望の強かった佳代子さんには、理想的な展開やったんと違います? せやのになんで……」
「年老いた母親からも友人たちからも、みんなから責められました。なぜあんないい人と別れるのかって」
佳代子が薄うっすらと笑みを浮かべた。
「うちも不思議ですわ。よう働いてくれはって、飲む打つ買うに縁がない男の人て、貴重ですやん」
こいしは仕事を忘れているかのように、佳代子を問いつめた。
「おっしゃるとおりなのだと思います。休みの日には子どもの面倒もよく見てくれましたし、料理以外の家事は手伝ってくれました。性格的にも欠点のない人でしたし、声を荒らげるようなことも一度もありませんでした。ただひとつだけを除けば何も不満はありませんでした」
「ただひとつ。何が不満やったんです?」
こいしが前のめりになって訊いた。
「食べることです」
佳代子はこいしを真っすぐに見つめた。
「食べるもんの好みが合わへんかったとかですか?」こいしがノートにペンを走らせた。
「いえ。そこにすら至りませんでした。結婚当初は仕事が遅くなっても、家で夕食を摂っていたのですが、子どもが生まれてしばらく経ったころから、仕事が忙しいといって、夕食を家で摂らなくなったのです。朝はトースト一枚とコーヒーだけ。せめてお昼のお弁当をと思ったのですが、お昼は会社に戻らないことが多いから要らないと言われました」佳代子は顔を曇らせたまま、淡々と言葉を並べた。
「どれくらいの頻度やったんです?」
「長男が生まれてからは、富岡が家で夕食を摂るのは、月に一、二度くらいだったでしょうか。休日も子どもたちにせがまれて外食をすることが多く、わたしが作った夕食を食べることは滅多にありませんでした」
「なんぼお仕事が忙しい言うても、奥さんにとっては辛つらい話ですねぇ。ほかに何か原因があったん違いますやろか。よっぽど口に合わへんかったとか。えらい失礼なこと言うてすんません」
言葉にしてから、こいしは少しばかり後悔しているようだ。
「最初はわたしもそう思ったんです。でも結婚してしばらく家で食べてくれていたときは、残さずきれいに食べてましたし、料理に対する不満なんて一度も言いませんでした。
ですから、本当に仕事が忙しいだけだと思っていました」佳代子が曇った顔を宙に遊ばせた。
「ちょっとお話を整理させてもらいますね。佳代子さんは二歳上の富岡さんという方と見合い結婚しはった。しばらくすると富岡さんはおうちで晩ごはんを食べはらへんようになった。仕事が忙しいさかいに、という理由だけではないように佳代子さんは思うてきはった。長年の不満がたまって、とうとう離婚してしまわはった。そういうことですねんね」
こいしがノートを繰りながら、佳代子に訊いた。
「そんなところです」
佳代子が深いため息をつくと、こいしもそれに合わせるかのように、短く息をついだ。
「そんなことぐらいで、とうちなんかは思うんですけどねぇ」こいしは何度も首をかしげている。
「わたしが描えがいていた結婚生活と、あまりにかけ離れた日々を四十年近くも続けてきたんです。富岡と一緒にいる限りは、これからも同じような時間を過ごすことになるでしょう。あとどれくらい生きられるのか分かりませんが、残り少ない人生は富岡抜きで、思いどおりに生きたいんです」
佳代子が言葉に力を込めた。
「もう別れてしまわはったんやし、今さら言うてもしょうがないですね」吹っ切ったような表情を見せてこいしが続ける。
「ほな本題に入ります。捜してはるのは、おでんの大根て言うてはりましたけど、どこのどういうもんなんです?」
「毎晩のように富岡が、大崎駅の近くにあった屋台のおでん屋さんで食べていた大根です」
佳代子が顔つきを険しくした。
「そのことはなんで分かったんです? ご主人から聞かはったんですか?」ノートから目を離さずに、こいしが訊いた。
「つい最近知ったのです。富岡の会社の同僚だった人から聞かされて」「毎晩のように、ですか。もうちょっと詳しいに聞かせてください」こいしの問いかけに佳代子が膝を揃そろえて、身体を前のめりにさせた。
「三年前に離婚して、ひとりで暮らすようになってから、富岡のことなどすっかり忘れ去っていたんです。どこでどんな暮らしをしているのか、気にもなりませんでしたし。大阪に住む息子はときどき連絡を取っているようでしたが、わたしを慮おもんぱかってか、話題にすることもなかったのです。夏の終わりのころでした。富岡の同僚の方から連絡がありまして、大事な話があると言われました。富岡の身に何か起こったのだろうか、と少しばかり心配になってお会いしてみたら、やはりそういうことでした。持病ひとつない人だったのですが、脳梗塞の発作を起こして意識が戻らないと聞かされました。見舞いに行くべきかどうか迷ったのですが、意識がないなら意味もないだろうと思ってまだ行っておりません」
佳代子はやるせなさそうに、力なく言葉を続けた。
「同僚の方は豊とよ原はらさんとおっしゃるのですが、その豊原さんからもなぜ離婚したのかと訊かれました。わたしから離婚話を持ちかけたことに、富岡がかなりショックを受けていたと聞きましたので、わたしはありのままをお話ししました。家で夕食を摂らなかったことが一番大きな理由だったと。そうしたら豊原さんは、思い当たることがあるとおっしゃって」
佳代子が湯吞をてのひらに載せ、ゆらりと回した。
「それがおでんの屋台につながるんですか?」こいしの問いかけに佳代子は黙ってうなずいてから、豊原から聞かされた話を伝えはじめた。
「富岡は社内でもまじめ人間として有名だったそうです。退社時間が遅いので、まっすぐ帰宅しているものとばかり思っていたと。退職が決まって、形ばかりの富岡の送別会が開かれたあと、豊原さんは富岡とふたりだけで二次会をなさったんだそうです。付き合いのよくない富岡には、心を許せる同僚は豊原さんしかいなかったのでしょう」「そうなんや。ご主人は家庭でも会社でも、寂しい人生を送ってはったんですねぇ」こいしがしんみりした口調で言葉をはさんだ。
「富岡が好んでそうしていたのなら、しかたないと思いますけれど」佳代子は冷たく言い放ってから続ける。
「若いころからずっと通い続けている屋台のおでん屋があると、富岡が洩もらしたようで、ふたりだけでの二次会はそこになったようです。会社は大崎にあるのですが、駅へ向かう道の反対方向、小さな神社の傍に出ている屋台だと聞きました。退社後は必ずその屋台に寄ってから帰宅していたという富岡の言葉に驚いた豊原さんが、その理由を訊いたら、おでんの大根が美味しいからだと答えたらしいのです」佳代子は何度も首をかしげながら語った。
「仕事が終わって、屋台のおでん屋さんへ行って大根のおでんを食べる。それをずっと続けてはったさかい、家では晩ごはんを食べはらへんかった。それを何十年も続ける。なんやしっくりきやへんなぁ。仮にその店のおでんが飛びきり美味しいて、口に合うたとしても、そんな通い続けるもんやろか。なんかほかに理由がなかったら続かへんのと違います?」
佳代子に合わせるように首をかしげたあと、こいしが佳代子に訊たずねた。
「ほかにどんな理由があると思われるのですか?」佳代子が切り返した。
「ほんまに失礼やと思うんですけど、やっぱり女性絡みと違いますやろか。ただおでんが美味しいていうだけのことで、家で夕食を食べんと屋台に通わはるのは……」こいしが上目遣いで佳代子の表情を窺った。
「わたしもそう思います。今さらそれを知ったからといって、何がどうなるものでもありませんが、知っておきたいのです。富岡はいったい何を求めて、そのおでん屋さんに通っていたのか。どれほどその大根が美味しかったのか。わたしや家庭をないがしろにしてまで通い詰める理由は何だったのか。その大根を食べれば分かるんじゃないかと思っています」
佳代子が語気を強めた。
「分かりました。けど、別れてしまわはったご主人は意識はないと言うてはりましたよね。その大根を捜しだして見つかったとして、どうしはるんです?」「どうすることもないと思います。ただ知りたいだけなんです。わたしの主婦人生を奪った大根のことを」
「分かったようで、分からへん話やなぁ」
こいしが腕組みをして、ソファにもたれかかった。
「ご結婚なさってないかたには分からない話でしょうね」佳代子はそっぽを向いて足を組んだ。
「うちには分からへんけど、お父ちゃんやったら分からはると思います」こいしがぶっきらぼうに言葉を返した。
「奥さまを亡くされて苦労なさったお父さまなら、きっと分かってくださると思います」佳代子は冷ややかな目をこいしに向けた。
「ところでその屋台は今もあるんでしょうか」こいしが話の向きをくるりと変えた。
「豊原さんには見つけられなかったそうです。わたしも品川へ行ったときに立ち寄ってみたのですが、それらしきものはありませんでした」「うちは東京の地理はさっぱり分からへんのですけど、どの辺のことなんです?」タブレットの電源を入れたこいしが、地図アプリを開いた。
「ここが品川ですから、大崎はここです。富岡が勤めていた会社のビルがここで、大崎駅と反対方向……は、この道ですね」
佳代子が人さし指で地図をたどった。
「この辺ですね。お父ちゃんやったら分からはるやろ」こいしがマーキングした。
「なんでもお父さま頼りなんですね」
佳代子が皮肉っぽい笑みをこいしに向けた。
「ありがたいことやと思うてます」
こいしは同じような顔つきを佳代子に返して、ノートを閉じた。
ふたりが食堂に戻ると、流は開いていた新聞を素早く閉じた。
「どや。あんじょうお聞きしたんか」
「はい。長い話をしっかりとお聞きいただきました」こいしを横目で見ながら、佳代子が涼しい顔をした。
「捜しだせたらの話ですけど、次にお越しいただくのは、だいたい二週間後やと思うといてください。こちらから連絡させてもらいます」「分かりました。のんびりと暮らしておりますので、何も急ぎません」佳代子が財布を出して流に視線を向けた。
「今日のお食事代は探偵料に含まれとります。またこの次にでも」「承知しました。ではご連絡いただくのを愉しみにお待ちします」佳代子が黒いコートを腕に掛けた。
「寒いことですさかい、どうぞお召しになってください」流が引き戸の向こうを覗きこんだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
佳代子がウールのコートを着込んだ。
「今日はこれからどうされますのん?」
こいしが店の外に出た。
「せっかくの京都ですから、一泊してから帰ろうと思っています」外に出て佳代子がコートの襟を立てた。
「まだ紅葉を見られるとこがありますさかい愉しんで帰ってください」「ご親切にありがとうございます。それでは二週間後に」身体を斜めにして会釈した佳代子は、正面通を西に向かってゆっくりと歩いていった。
「なんでそんなむずかしい顔してるんや。難問か?」店に戻った流が後ろ手に引き戸を閉めた。
「難問かどうかは分からへんけど、なんとのう好かん人やねん」「こいし」
「分かってるって、うちらは食を捜すのが仕事やさかい、依頼人さんの好き嫌いを言うたらあかん、でしょ。けどなぁ、一方的に離婚しといて、その別れたご主人が倒れはったいうのに、心配したはる様子もないし、自分はのんびり京都見物やなんて身勝手すぎるわ」「わしに怒ってもしゃあないがな。別れるにはそれなりの理由があったんやろ。傍はたのもんには分からん」
表情ひとつ変えない流に、こいしは苛いら立だった表情を返した。
「ほんまにお父ちゃんはきれいな人には甘いんやから」「それとこれは別や。わしはいつでも冷静に判断しとる」「そんなふうには全然見えへんのですけど」
流の背中を叩たたいて、こいしは厨房に入っていった。