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第五卷 第四話  おでん 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
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  京の底冷えという言葉があるのを、佳代子は新幹線の座席に備えてある雑誌で初めて知った。
  北海道からやって来た観光客ですら、京の師走の寒さに震えあがるほどだとも書いてあった。
  関東ではしばらく好天が続いていたこともあって、佳代子は薄手のコートを羽織ってきたことを少しばかり後悔していた。
  正面通を歩いていると時おり突風のような強い風が吹き渡る。思わず佳代子は赤いコートの襟を立て、白いマフラーを巻き直した。
  二週間のあいだ、佳代子はなぜ食捜しを依頼したのかと自問する毎日だった。
  富岡とはこの先ずっと関わりをもたずに生きていこうと固く決めたのだから、彼がどんなものを食べていたのかなど、どうでもいいことではないか。それを知ったからといって、何をどうこうするものでもない。
  前回の食事代だけを支払って、探偵のほうはキャンセルしようかと、何度も思ったのだが、それも決断できないまま、ずるずると日にちだけが過ぎていった。
  二週間前と同じく、引き戸を開けることを躊躇った佳代子は、前を通りすぎて『渉成園』まで歩いた。
  このまま帰ってしまうという選択肢もなくはない。時間とお金を無駄に使うことになるが、心をざわつかせずに済むかもしれない。
  行きつ戻りつする、お決まりの優柔不断な姿が、法衣店のガラスに映りこんでいるのを見て、ようやく心が決まった。
  離婚を機にすべてを変えようと思って髪も染め、ファッションもそれに合わせるようになったせいか、若く見られるようになった。
  ショートブーツの靴音を狭い通りに響かせて、まっすぐ『鴨川食堂』に向かった。
  「こんにちは」
  勢いよく引き戸を開けると、ジーンズ姿のこいしが迎えた。
  「おこしやす。寒かったでしょ。どうぞお入りください」「こういうのを底冷えと言うのですか」
  佳代子は脱いだコートをコートかけにかけた。
  「こんなもんと違います。靴を履いてても足の指先が氷みたいに冷とうならんと、底冷えとは言えしません」
  こいしがさらりと言った。
  「ようこそ、おこしやす。京都は寒おすやろ。おでん日和ですけどな。すぐにご用意しますさかい、ちょっと待っとぉくれやっしゃ」
  茶色い和帽子をかぶりなおして、流が厨房に入っていった。
  流の晴れやかな表情から察するに、きっと見つかったのだろう。佳代子は厨房から漂ってくる馨かぐわしい出だ汁しの薫りにも胸を躍らせることなく、心静かにそのときを待った。
  「お茶置いときますね」
  益まし子こ焼の土瓶と唐津焼の湯吞を佳代子の前に置いて、こいしは厨房と客席を隔てる暖簾をくぐっていった。
  杯を傾けたいところだが、そういう空気でもない。佳代子は表情のひとつも変えることなく、湯吞に茶を注いだ。
  「お待たせしとりますな」
  流が大きな四角い鍋を両手に持って現れた。おでんの大根が載ったお皿が出てくるものだとばかり思い込んでいた佳代子は意表をつかれ、目を丸くした。
  「できるだけご主人が食べはったときと同じようにせんと、と思いましてな」流が木の蓋を取ると、もうもうと湯気が上がった。
  テーブルの半分以上を占領するほどの銅鍋は、銅板で中が六つに仕切られていて、そこには十を超える種類のおでんが入っている。
  「ご主人が通うてはった屋台のおでん屋では、常時これくらいの種類のおでんを出してはったそうです。がんもどき、しらたき、ごぼ天、たまご、厚揚げ、それに大根あたりが定番で、夜八時くらいに屋台を出して、日付が変わるころまで営業してはったらしいです」
  「わたしが捜して欲しいとお願いしたのは、おでんの大根だけなんですが……」鍋の中を見まわして、佳代子は困惑した表情を浮かべた。
  「承知しとります。食べていただくのは大根だけですが、ご主人が食べてはったのは、こないなふうにいろんなタネが一緒に入っとったおでんです。この状態で何時間も経つと、当然ほかのタネの味も大根に染みこみます。それをお分かりいただくために、こないしてお出ししましたんや」
  そう言いながら、流は菜箸で大根を取って白い小皿に載せ、その上から木き杓じゃく子しで掬すくった汁をかけた。
  「これを富岡は毎晩食べていた……」
  目の前に置かれた大根はべっこう色に染まり、複雑な薫りを放っている。
  「どうぞごゆっくり召し上がってください。五切れほど入っとりますんで、いくつでも」流が厨房に戻ったのをたしかめて、佳代子は皿を持ち上げ、しげしげと大根を見つめた。
  特に変わったものには見えない。おでんの大根といえば、どこでもこんなふうで、それも素人が家庭で作り過ぎて、煮つまってしまった残り物のような見てくれだ。こんなものを毎晩のように何十年も食べ続けた富岡は、何を思っていたのか。どうにも納得できない。
  誰にも見られていないのを幸いに、仕方なくという表情を隠すことなく、佳代子は箸で大根を適当に切り、ひと切れを口に運んだ。
  箸にはさんだときの感触そのままに、ふわりとやわらかい嚙かみごこちで、あっという間に舌の上でその形を崩してしまった。
  そして無意識のうちに、皿に残った半分に箸を伸ばしたことは、佳代子自身を驚かせた。
  ふた切れ目の大根も、最初と同じように舌の上でほろほろと崩れてしまい、その味わいだけが口の中に残った。
  見た目と同じく、その味もありきたりのもので、プロの味と言い切るほどでもなく、どちらかといえば素人っぽさを感じる。
  白い小皿には、薄茶色した汁がわずかに残っている。もうひと切れ食べようかと、箸を持ったまま迷っていると、突然何かが込みあげてきた。
  いったい何が自分に起こっているのか、佳代子にはまったく見当もつかないうちに、白い皿がゆらゆらと滲にじみはじめた。
  雨のあとの水たまりのようなおでんの汁が、数少ない富岡との時間を思い出させた。
  長男が生まれた日、病室に飛び込んできた富岡が涙で顔をくしゃくしゃにしながら、佳代子の手をしっかり握ってくれたとき。長女が幼稚園から逃げ出したことを聞き、腰まで水に浸かって、家族でよく遊んだ川を探していたとき。
  この人と結婚してよかった。心底そう思ってしあわせを嚙みしめていたときもあったのだ。ありきたりではあったが、家族円満に暮らしていた。それを失ったのはいつ、どこでだったろう。
  だが失ったと思ったのは自分だけで、子どもたちにとってはよき父親、しあわせな家族であり続けていたのかもしれない。
  長男も長女も、それまでは頻繁に孫を連れて遊びに来ていたのが、ひとり暮らしをするようになってからは、ぴたりとその足が途絶えた。四人の孫たちが遊べるようにと、多少古びていても広い庭のある家を借りたのに、夏になると伸び放題の雑草が草いきれを放つだけになっている。
  佳代子は人さし指で目じりを拭いながら、記憶も気持ちも整理できずにいた。
  躊躇いつつも、ふたつ目の大根を鍋から皿に取り、あらためて真上からじっと見てみた。
  元は真っ白だった大根は、出汁やほかのタネの味を染みこませ、外側だけでなく芯までその色を変える。
  二個目の大根は箸で四等分してみた。小さく切ったせいか、一個目とはまた違った味がする。隣り合っていた厚揚げの味を吸い込んだのだろうか。かすかに油っぽい豆の味がするが、後味のやさしさは増したような気がする。頰を伝って顎にたまった涙が皿の上に落ちた。
  ──僕は何ごとも時間をかけてコツコツ進めるタイプだから、辛気臭いかもしれないけど、そのつもりで末永く付き合ってください──ふと思いだしたのは見合いの席の最後に、富岡が言った言葉だった。あまり話が弾まなかった席で、ただひとつ印象に残った言葉。あれはどういう意味だったのだろう。
  「お味のほうはどないです?」
  いつの間にか後ろに立っていた流が声をかけた。
  「こういう味だったのですね。富岡が毎晩口にしていたのは」佳代子は慌てて白いハンカチで目じりを拭った。
  「わしら関西の人間にとっては、ちょっと味が濃いように思いますが」「わたしにはちょうどいいお味です」
  佳代子の言葉に小さくうなずいた流が、佳代子の前に立った。
  「お話しさせてもろたほうがよろしいやろな」「お願いします」
�には、薄茶色した汁がわずかに残っている。もうひと切れ食べようかと、箸を持ったまま迷っていると、突然何かが込みあげてきた。
  いったい何が自分に起こっているのか、佳代子にはまったく見当もつかないうちに、白い皿がゆらゆらと滲にじみはじめた。
  雨のあとの水たまりのようなおでんの汁が、数少ない富岡との時間を思い出させた。
  長男が生まれた日、病室に飛び込んできた富岡が涙で顔をくしゃくしゃにしながら、佳代子の手をしっかり握ってくれたとき。長女が幼稚園から逃げ出したことを聞き、腰まで水に浸かって、家族でよく遊んだ川を探していたとき。
  この人と結婚してよかった。心底そう思ってしあわせを嚙みしめていたときもあったのだ。ありきたりではあったが、家族円満に暮らしていた。それを失ったのはいつ、どこでだったろう。
  だが失ったと思ったのは自分だけで、子どもたちにとってはよき父親、しあわせな家族であり続けていたのかもしれない。
  長男も長女も、それまでは頻繁に孫を連れて遊びに来ていたのが、ひとり暮らしをするようになってからは、ぴたりとその足が途絶えた。四人の孫たちが遊べるようにと、多少古びていても広い庭のある家を借りたのに、夏になると伸び放題の雑草が草いきれを放つだけになっている。
  佳代子は人さし指で目じりを拭いながら、記憶も気持ちも整理できずにいた。
  躊躇いつつも、ふたつ目の大根を鍋から皿に取り、あらためて真上からじっと見てみた。
  元は真っ白だった大根は、出汁やほかのタネの味を染みこませ、外側だけでなく芯までその色を変える。
  二個目の大根は箸で四等分してみた。小さく切ったせいか、一個目とはまた違った味がする。隣り合っていた厚揚げの味を吸い込んだのだろうか。かすかに油っぽい豆の味がするが、後味のやさしさは増したような気がする。頰を伝って顎にたまった涙が皿の上に落ちた。
  ──僕は何ごとも時間をかけてコツコツ進めるタイプだから、辛気臭いかもしれないけど、そのつもりで末永く付き合ってください──ふと思いだしたのは見合いの席の最後に、富岡が言った言葉だった。あまり話が弾まなかった席で、ただひとつ印象に残った言葉。あれはどういう意味だったのだろう。
  「お味のほうはどないです?」
  いつの間にか後ろに立っていた流が声をかけた。
  「こういう味だったのですね。富岡が毎晩口にしていたのは」佳代子は慌てて白いハンカチで目じりを拭った。
  「わしら関西の人間にとっては、ちょっと味が濃いように思いますが」「わたしにはちょうどいいお味です」
  佳代子の言葉に小さくうなずいた流が、佳代子の前に立った。
  「お話しさせてもろたほうがよろしいやろな」「お願いします」
  腰を浮かせた佳代子が小さく頭を下げると、一礼して流が真向かいの椅子に腰かけた。
  「ご主人、いや富岡さんが通い詰めてはった屋台のおでんはこんな味でしたんや。屋台が出てたんはちょうどこの辺り。神社の鳥居の前のここに屋台を出してはったんは、今年八十三歳にならはる今いま村むらさんというかたで、五十年近いこと屋台のおでん屋をしてはりました。おふたりが離婚なさってからしばらく経った、二年半ほど前に廃業されたんやそうです。神社の神職さんに訊いたら、今村さんのお住まいを教えてくれはったんで、五ご反たん田だにあるおうちまで行ってきました」テーブルにタブレットを置いて、流が何枚かの写真を見せた。
  「いつごろから富岡はここへ行くようになったんでしょう」佳代子が流に訊いた。
  「日にちははっきりせんけど、富岡さんが初めてこの屋台に来はったときのことを、今村さんは鮮明に覚えてはりました」
  流の言葉に、佳代子は背筋を伸ばし、視線を鋭くした。
  「梅雨の終わりころで強い雨が降る夜やったそうです。傘も差さんとずぶ濡ぬれのスーツ姿で現れはってびっくりしたて言うてはりました。店のタァ‰を借りてなんとか落ち着かはった富岡はんは、よっぽどお腹を減らしてはったらしいて、大根を立て続けに五個も食べはった」
  「よほど気に入ったのでしょうね。わたしが料理教室で習ったのはほとんどが洋食でしたから、おでんなんて家で作ったことはありませんでした」佳代子が口をはさんだ。
  「わしは経験ないんでっけど、会社勤めは大変らしいですな。その日富岡はんは上司と大きくぶつかって、えらい落ち込んではったんやそうです。上司とそこまで深刻に衝突したんはその日で二度目やったらしいです。一度目のこと、奥さんは覚えてはりますか」流の問いかけに、一瞬首をかしげた佳代子だったが、すぐに思いだしたようだ。
  「ちょうどわたしが今でいう産後ウツで苦しんでいたときでした。夕食を食べている間中ずっと仕事の愚痴ばかり言っていたので、仕事のゴタゴタは家に持ち帰らないでと怒鳴ってしまったんです。死にたいくらい苦しんでいるのに、と」佳代子は天井を仰ぎながら覚えているままを語った。
  「それがよほど応こたえたんでっしゃろな。富岡はんは二度と仕事で抱えたストレスを家に持ち帰らんと決めはった。どうしたらええか迷うてはるときに、屋台の灯あかりが目に入ってきたんでしょう。それがきっかけやったみたいですが、会社勤めの富岡はんには、ストレスのない日てなもんがあるわけがない。それで今村はんの屋台に通わはるようになったんですわ」
  富岡がまっすぐ帰宅しなくなったのには、そういうわけがあったのか。分かったようで、しかし佳代子はまだ納得はできずにいる。
  「人の心の中っちゅうもんは、ほんまに分からんもんですな。今村はんもそう言うてはりました。まさかそない長いこと続くとは思うてなかったと」「続くって、何のことです?」
  「初めて富岡はんが濡れねずみになって、屋台の暖簾をくぐらはったときに、奥さんとのいきさつも聞かはって、今村はんはこう言わはったそうです。仕事でいやなことがあったら、この大根にぜんぶ吸い込まして食べてしもうたらええ。そしたら奥さんに愚痴を言うこともないし、ストレスを家に持ち帰らんで済む。今村さんがそう言わはったのを忠実に守り続けはったんでしょうな。厚揚げやとかごぼ天、たまごのほかに、必ず一個か二個、多いときは三個の大根を食べはったんやそうです。気の毒に毎日ようけのストレスを抱えてはったんですな」
  流が深いため息をついた。
  「つまり富岡が家で夕食を摂らなくなったのは、わたしのために、ということですか?」佳代子は口調を険しくした。
  「わしにはよう分かりまへん。けど、今村はんはこんなことを言うてはりました。あれは奥さんのために積み立てしてはったんやと」
  「積み立て?」
  佳代子は声のトーンを上げた。
  「わしも最初はなんのことか分からんかったんですけど、富岡はんは大根の数を記録してはったんやそうです。その数だけ奥さん孝行するつもりやった。遊び半分もあったらしいですけど、五十個でフランス料理、百個でブランドバッグ、二百個で温泉旅行、五百個で……」
  「もうやめてください」
  大声で叫んだ佳代子は、耳をふさいで顔を伏せた。
  慌てて厨房から走りでてきたこいしが、佳代子の背中にそっと手を置いた。
  「要らんこと言わんでええやんか。ほんまにお父ちゃんはデリカシーがないんやから」こいしににらみつけられて、流は口をすぼめた。
  「わたしはそんなにひどい人間なんですか」
  崩れた化粧を隠すこともなく、佳代子が顔を上げた。
  「わたしのことを慮ってくれていた主人の気持ちも知らず、一方的に離婚してしまったあげく、その主人は病に倒れて意識もない。そんな主人を見舞うこともなく、人でなしというのはわたしのこと……」
  誰はばかることもなく、佳代子は嗚お咽えつを漏らし、顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
  「誰が悪いんでもおへん。ボタンのかけ違いいうのはようあることです」「ボタンをかけ違ったのはわたしなんですか? わたしが原因で富岡は家で夕食を摂らなくなったのですか」
  眉根にしわを寄せて、佳代子が語気を荒らげた。
  「奥さんが悪いとか、富岡さんが悪いやとか、そういう話やないんですわ。人の思いっちゅうのは、あんじょう伝わるときもあれば、伝わらんときもあります。人間の気持ちは難しいもんです。すぐに誤解が解けたらええんですが、お互いの思いがすれ違ちごうたまま、長い時間が経ってしまうこともある。あとから思うたら悔しいてたまりまへんけど、それが人間っちゅうもんですわ」
  天井を見あげる流の目に、薄らと涙が滲んでいるのを見て、佳代子は震える肩を少しずつ鎮めていった。
  こいしは口を開こうとして思いとどまった。
  天井を仰いだまま肩で息をする流。その後ろに立ちつくすこいし。そしてテーブルに落とした目を動かせずにいる佳代子。空気を重くするような沈黙の時間がしばらく続いた。
  「ありがとうございました」
  ようやく立ち上がった佳代子は、吹っ切ったような顔つきで深く腰を折った。
  「礼を言うてもらえるようなこともできてしまへん」流が悔しそうに顔をゆがめた。
  「遅すぎるかもしれませんが、ボタンをかけなおすことにします」佳代子がきっぱりと言い切った。
  「よかった」
  こいしが頰をゆるめて目を細めた。
  「必ずわたしが作ったおでんの大根を富岡に食べさせます」佳代子がこぶしを握りしめた。
  「よろしおした」
  流がホッとしたような顔を佳代子に向けた。
  「お出汁の取り方やら、詳しいレシピを書いときました。食材と調味料もひと通り入ってますので」
  こいしが手提げの紙袋を佳代子に手渡した。
  「ずいぶん重いんですね」
  受け取って、佳代子がにこやかな笑みを浮かべた。
  「大根は重いほうが身がつまって旨いんですわ」流が大根を持つしぐさをした。
  「この前にいただいたお食事代と併せてお支払いを」紙袋をテーブルに置いて、佳代子が長財布を手にした。
  「お気持ちに見合うたぶんをこちらに振り込んでいただけますか」こいしが折りたたんだメモ用紙を佳代子に渡した。
  「分かりました」
  佳代子はメモ用紙を財布にしまった。
  「また一段と寒ぅなりましたな」
  敷居をまたいで流が表に出た。
  「どうぞお気をつけて」
  こいしが言葉をかけると、佳代子は微笑ほほえみながら一礼した。
  「ほんとうにありがとうございました」
  「寒いほどおでんは旨ぅなります」
  流の言葉に応えるように、空から白いものが落ちてきた。
  「初雪やなぁ」
  こいしが灰色の空を見上げた。
  「雪は天から送られた手紙である。そんな言葉がありましたなぁ」流が佳代子に笑みを向けた。
  「手紙には何が書いてあるのでしょうね」
  言い置いて、佳代子が正面通を西に向かって歩きだした。
  「美味しいに炊たいてあげてくださいね」
  その背中にこいしが声をかけた。
  振り返って佳代子が斜めに頭をさげた。
  見送って、ふたりは店に戻った。
  「もちろん今夜はおでんやね」
  テーブルを拭きながらこいしが厨房に目を遣った。
  「絶好のおでん日和やさかいな」
  鍋の味見をしてから、流は仏壇の前に正座した。
  「お父ちゃん」
  こいしが流の真後ろに座った。
  「なんや」
  振り向いた流の顔を見た瞬間、こいしの目から涙があふれた。
  「どないしたんや」
  流がこいしの顔を覗きこんだ。
  「お母ちゃん、つよい人やったなぁ」
  こいしは掬子の写真を見上げて手を合わせた。
  「今さら何言うとる。つよいだけやのうて、やさしいやつやった。ほんまに」流はかたく目を閉じた。
 

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