第六話 ハヤシライス
1
京都駅で新幹線を降りた坂さか下した紗さ羽わは、ゆっくりとした足取りで改札に向かった。
薄紫のトートバッグを肩からさげ、同じ色のロングスカートが巻き込まれないよう、注意深くエスカレーターを降りると、すぐに改札口が見えた。
辺りから漂ってくる匂いに、空腹を覚えないでもないが、先に目的を済ませたほうがいいだろう。
七十歳近くになっても、さほど足の衰えは感じないから、店まで歩いて行ってもいいけれど、迷い道しそうな気がする。
タクシーに乗りこんで、サーモンピンクのスプリングコートをドアに挟まれないよう、手で押さえてから運転手に合図した。
手描きの地図を見せ、目的地の住所を告げたあと、紗羽は言った。
「途中でどこか山が見えるところはないかしら」「山? 東山でよかったら、すぐそこから見えまっせ」運転手は進行方向を指さして、車を発進させた。
──雪が融とけて春になると山が笑うんだよ。赤子みたいにね──「春の京都の山はさぞやきれいでしょうね」
語りかけるでもなく、ひとり言のように口に出してみた。
「ほれ。山、もう見えてきましたやろ。けど、新緑のころに比べたら、お世辞にもきれいとは言えまへんわ。なんやしらんボンヤリしとると思いまへんか」線路をまたぐ高架橋に差し掛かると、速度をゆるめた運転手は東山を指さして首をかしげた。
たしかに新緑に彩られた山とは比べるまでもないが、今日のスカートのように、ほんのりと紫色に染まる峰は笑っているように見えなくもない。
あっという間に高架橋を降りたタクシーは塩しお小こう路じ通を左に折れ、京都タワーを間近に見上げる信号で停とまった。
一年前の今ごろには、今日のこの行動などまったく予想もしていなかった。毎年同じように、友だちと花見に行く算段をし、衣替えの準備をする。彼岸を前にして、掃除がてら墓参りに行く。
ひとつだけ違うことがあったとすれば、夫の三十三回忌を終えて、長いあいだ張りつづけていた緊張の糸が、ゆるゆると解けていったことだろうか。それがひとり旅に結びついただろうことは否めない。そしてそのひとり旅が、今日の京都につながった。
「さっき言うてはった住所やと、この辺になるんですけど。お店かなんかでっか?」スピードをゆるめて、運転手がルームミラー越しに問いかけてきた。
「『鴨川食堂』というお店なんですけど、看板も暖の簾れんもないって聞いてますから、すぐには分からないようです。自分で捜しますからこの辺で停めてください」紗羽はエナメルの財布を取りだして、五千円札を差しだした。
「こまかいのおへんのか」
振り返った運転手は不機嫌そうに眉をしかめた。
「おつりはけっこうです。山が笑っているのも見せていただいたことだし。でも旅人にはもう少し親切になさいな。わたしのような年寄りには、細かくお金を準備するのもひと苦労なのですから」
紗羽が自分でドアを開けた。
「えらいすんまへん。おおきにありがとうございます。ほんまにもろてもよろしいんか」手のひらを返すというのは、まさにこういうことを言うのだろう。顔中じゅうで笑った運転手は、拝むように両手で五千円札を受け取った。
長年住んでいる鎌倉もそうだが、たくさん観光客が来るとそれが当たり前のようになってきて、ぞんざいな態度で接するようになってしまう。それもこれも観光でいくら儲もうかるのかばかりを、世間が喧けん伝でんするからだ。
住み慣れた鎌倉を離れてもいい。最近の紗羽がそう思うようになったのには、利益ばかりを求めるようになった、観光ファーストの空気に嫌気がさしているせいでもある。
目指す店はおそらくここだろう。あたりを付けた紗羽は、不快感を吹っ切るように勢いよく引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
細身のジーンズに黒いソムリエエプロンを着けた若い女性が出迎えたことに、少しばかり驚いた。
「こちらは『鴨川食堂』ですよね」
敷居をまたぐことなく訊きいた。
「そうですけど」
互いの戸惑い顔がぶつかった。
「食を捜していただきたくて伺ったんですが」「それやったら、うちの仕事です。『鴨川探偵事務所』の所長をしてます鴨川こいし言います。よろしゅうに」
こいしの頰がふわりとゆるんだ。
「ずいぶんお若い探偵さんなのでびっくりしました。鎌倉からまいりました坂下紗羽と申します」
敷居をまたいで、紗羽が頭を下げたところへ、茶色い作さ務む衣え姿の男性が出てきた。
「うちのお客さんや。鎌倉から来はった坂下紗羽さん。お父ちゃんの鴨川流、食堂の主人してます」
こいしが互いを紹介した。
「遠いとこからようこそ。鴨川流です。よろしゅうに」茶色い和帽子を取って、流が挨拶した。
「坂下です」
紗羽が流に身体からだを向けて頭を下げた。
「お腹なかの具合はどないです? たいしたもんはできまへんけど、おまかせでよかったらご用意できます」
流の提案に躊躇った表情を見せた紗羽だが、京都の食堂ではどんなものが出てくるのか。持ち前の好奇心が首を縦に振らせた。
「こんな年寄りですから量は食べられませんが、せっかくなのでいただきます」「苦手なもんとかはおへんか?」
「しつこい味のものは苦手ですが、たいていのものは美お味いしくいただきます」「承知しました。ちょっと待っとぉくれやっしゃ。すぐに支度します」帽子を深くかぶり直して、流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
「こんな古臭い店ですけど、どうぞおかけください」こいしがパイプ椅子を奨めると、脱いだコートをていねいに畳んで椅子に腰かけた。
「なんだかとても不思議なお店ですね。外には看板も暖簾もないというのは知ってましたけど、中に入ってもメニューもないんですね」店の中をぐるりと見まわして、紗羽がこいしに笑みを向けた。
「ほとんど常連さんばっかりやさかい、気ままにやらせてもろてます。食捜しに来はったお客さんには、おまかせを食べてもらいますし」益子焼の土瓶から唐津焼の湯ゆ吞のみに茶を注つぎながら、こいしは紗羽に笑みを返した。
「お父さまが料理をお作りになって、あなたが探偵の仕事をなさる。お母さまは?」紗羽が訊たずねると、こいしは厨房の奥にちらりと見える仏壇を指さした。
「そうでしたか。余計なことをお訊きしてごめんなさいね。年寄りは無遠慮でいけません」
紗羽が両手で湯吞を包みこんだ。
「お飲み物はお茶だけでよろしい? お酒もご用意できますけど」「ワイン、なんて置いてらっしゃいませんよね」紗羽が目を左右に動かした。
「こんな食堂でっさかい、上等のもんはおへんけど、手軽なワインでよかったらお出しします。赤白どっちがよろしい?」
厨房との境にかかる暖簾のあいだから、流が顔だけを覗かせた。
「あまり重くない赤があるようでしたらそれを」腰を浮かせて紗羽が答えた。
「ワイン、お好きなんですか?」
ワイングラスをクロスで拭きながら、こいしが訊いた。
「ひとり暮らしが長いとね、どうしてもお酒に頼っちゃうのよ。でも、わたしのようなおばあさんが、ひとりで日本酒を飲んでるというのはちょっとね」「ずっとおひとりなんですか」
紗羽の前にこいしがワイングラスを置いた。
「若いときに主人を亡くしてしまって。それからずっとひとり」「うちも余計なこと訊いてしもた。ほかにご家族は?」「子どもはいないし。妹がひとりいるんだけど、あまり気が合わないの」紗羽が空のワイングラスを手のひらでもてあそんでいる。
「井筒ワインのマスカットベリーAです。口当たりはほんのり甘いんですけど、和食によう合うと思います」
ボトルを手にした流が厨房から出てきて、紗羽のグラスにゆっくりと注いだ。
「日本のワインはあまり飲んだことがなくて……。イチゴのような甘い香りがしますね」紗羽がグラスに鼻を近づけた。
「匂いほどには甘いことおへん。どうぞ愉たのしんでください」ボトルを置いて、流が厨房に戻っていった。
「うちはどっちかいうたら日本酒党やけど、この赤ワインは好きでよう飲みます。口当たりがええさかい、つい飲み過ぎてしまうのが難ですわ」紗羽がグラスを傾けるのを横目にしながら、こいしが生唾を吞みこんだ。
「美味しい。たしかに和食によく合いそうですね」紗羽がそっとグラスを置いた。
「えらいお待たせしましたな」
流が小判形をした曲げわっぱの弁当箱を盆に載せて運んできた。
「あら。かわいいお弁当箱だこと」
紗羽が目を輝かせた。
「大きさはこんなんですけど、二段になってますんで、ちょっと多いかもしれまへん。量が多かったら遠慮のう残してください」
流がそう言うと、紗羽は両手で蓋を外した。
「上の段がおかずで、下の段はご飯になってます」「どれも美味しそう」
両手で蓋を持ったまま、紗羽が目を細めた。
「簡単に料理の説明をさせてもらいます。おかずのほうですけど、染付の小鉢に入ってるのは赤貝とわけぎのヌタです。串に刺してあるのは海え老びの旨うま煮に、鴨団子とイカのウニ焼きの三つです。揚げもんはアサリとタケノコのかき揚げ。その横はサワラの西さい京きょう焼。お肉はヒレ肉の幽ゆう庵あん焼です。出だ汁し巻きには煮穴子が入ってます。左端はアマダイの身を湯葉で包んで揚げてあります。下の段は四つに仕切ってます。
左上は小こ鯛だいの小こ袖そで寿ず司し。右上は山菜の炊き込みご飯をおにぎりにしてます。右下の貝殻に入ってるのが煮ハマグリのひと口寿司。左下は白ご飯。好きなもんから好きなように食べてください」
説明を終えて、流が盆を小脇にはさんだ。
「まあまあ、どれもお手間入りですわね。お行儀悪く迷い箸をしてしまいそう」紗羽が蓋を傍らに置いて、箸を取った。
「いまお汁を作ってまっさかい、あとでお持ちします」「どうぞゆっくり召し上がってくださいねぇ」流とこいしが揃そろって下がっていった。
下の段を左に、おかずが盛られた上の段を右に置き、じっくりと見まわした。
しんと静まった店で、紗羽はこほんとひとつ咳せきばらいをしてから、串を手にして蓋の裏に置いた。
ワインで喉を湿らせてから三つを箸で外し、最初はイカを口に運んだ。練りウニをぬって焼いてあるのだろうか。少し焼き色が付いたところが芳こうばしくて美味しい。鴨団子は骨ごと刻んだ鴨の身を団子状にして煮てある。山さん椒しょうの味がするのは練り込んであるのか。京都の人は山椒が好きだと聞くが、隠し味にも使うのだ。海老も煮てあるのだが、嚙かむほどに複雑な香りと味わいが口の中に広がる。
「吸いもんをお持ちしました。甘エビと百ゆ合り根ねの真しん蒸じょ椀わんです」流が黒漆の椀を右手に置いた。
蓋を取ると、湯気とともに柚ゆ子ずの薫りが立ち上った。
ひと口すすると、自然とため息が出た。
こうして、ひとりでちゃんとした和食を食べるのはいつ以来だろうか。若いときは、洋食や中華料理に目が行きがちで、亡くなった夫と一緒に和食を食べた記憶はほとんどない。
ここ十年ばかり毎日のように焼魚を食べている。何も身体にいいとかという話ではなく、自然と身体が求めるとでもいえばいいのだろうか。出入りの魚屋に届けてもらうのは、刺身ではなく干物や焼魚だ。餅は餅屋、魚は魚屋だ。家の台所にも魚焼きグリルは付いているが、焼き上がりの見た目も味も、魚屋が焼いてくれたものとは段違いなのである。
そんな毎日だから食べ慣れているはずなのだが、このサワラは別格だ。西京焼というのだから白味み噌そに漬けて焼いたのだろうが、甘すぎることなく、でも関東で食べるような塩辛さも感じず、焼魚本来の旨みが出ている。
それにしても大きなハマグリだ。貝殻を手に取るとほんのりあたたかい。煮含めたハマグリの下には酢飯が詰められている。少し迷ったあとに殻をさじ代わりにして、丸ごと口に入れた。
江戸前鮨ずしのネタに煮ハマグリがあるが、それを京都風にするとこうなるのか。ここにも山椒の実がひそんでいる。
ヒレ肉は白ご飯に載せて食べ、出汁巻きをつまみ、もちろんその合間にワインを飲んで、炊き込みご飯のおにぎりで〆しめた。
「どないです。お口に合いましたかいな」
タイミングよく流が傍らに立った。
「大変美味しくいただきました。量もちょうどいい加減で」紗羽がハンカチで口元を拭った。
「きれいに食べてもろて嬉うれしおすわ」
盆を持ったままの流が頰をゆるめた。
「ワインもお料理にとてもよく合いました」
半分近く残ったボトルと、空になったワイングラスを揃えて、紗羽が流に顔を向けた。
「奥で娘が用意しとりますんで、落ち着かはったら言うてください。ご案内します」「ちょっとお手洗いをお借りしてよろしいかしら」トートバッグから化粧ポーチを取りだして、紗羽が腰を浮かせた。
「右手のドアから入ってください」
流の言葉に従った紗羽は、手早く化粧直しを済ませ、すぐに食堂へ戻った。
「えらい急せかしたみたいですんまへんなぁ」「お嬢さんをお待たせしては申し訳ありませんので」紗羽がトートバッグを肩からさげた。
流から三歩ほど後ろを歩く紗羽の目に、長い廊下の両側に貼られた写真が留まった。
「ぜんぶ鴨川さんがお作りになった料理ですか」歩みを遅らせて紗羽が訊いた。
「わしはレシピとかを書き留めたりせんもんで、写真で残しとります」振り向いて流が答えた。
「おきれいな奥さまだったのですね」
色あせた家族写真の前で紗羽が立ち止まった。
「こいしが小学校のときですさかい、掬子の若いときの写真ですわ」流が照れ笑いを浮かべた。
流はめったにすることのない、掬子の昔話を語った。似たような境遇だと思い、紗羽もかいつまんで身の上話をした。
「奥さまが亡くなってから、鴨川さんはずっとおひとりで?」「化けて出てきよったら敵かないませんしな」苦笑いして流が歩きだした。
妻を亡くした男性と、夫を亡くした女とでは、世間の見る目が違う。そんなことも言いたかったが、廊下での立ち話には重すぎると思って、紗羽は口をつぐんだ。
「あとは娘にまかせてますんで」
流がノックしたドアを開けると、黒いパンツスーツに着替えたこいしが出迎えた。
「どうぞおかけください」
廊下を戻ってゆく流の靴音に重ねて、こいしがソファを奨めた。
「こういうのを鰻うなぎの寝床と言うんですね。表からだと奥にこんな広いお部屋があるようにはまったく見えませんでした」
ロングソファの真ん中に浅く腰かけた紗羽が、ぐるりと部屋の中を見まわした。
「むかしからの古い家は、みんなこんなんやったみたいですよ」合あい槌づちを打ちながら、こいしは紗羽に向けて、バインダーをローテーブルに置いた。
「こちらに記入すればいいんですね」
察しのいい紗羽は、揃えたひざの上にバインダーを置いた。
「簡単でええのでお書きください」
こいしが紗羽の手元に目を遣やった。
よどみなく書き終えて、紗羽がこいしに向けてバインダーを手渡した。
「ありがとうございます。坂下紗羽さん。六十九歳。えっ? ほんまですか。六十九にはぜんぜん見えしません。さっきご自分のことを年寄りて言うてはったんで、何を言うてはるんやろう、と思うてたんですけど。ウソと違いますよね。へーえ。六十九なんや」こいしは繰り返し首を左右にかたむけた。
「何度も六十九って言わないでください。歳としのことは忘れようと思っているのですから」
紗羽がむくれ顔を作ってみせた。
「えらい失礼かもしれませんけど、そういうお顔とか可愛かわいいです。五十歳て言うても誰も疑わへんと思います」
「年寄り相手に悪い冗談はいけませんよ」
「冗談と違います、て。まぁそれは置いといてと。紗羽さんはどんな食を捜してはるんです?」
こいしがローテーブルにノートを広げ、綴とじ目を手のひらで押さえた。
「ハヤシライスです」
紗羽が顔を引きしめた。
「ハイシライスですか。最近食べてないなぁ」こいしがノートにイラストを描いている。
「ハイシじゃなくてハヤシ、です。ハヤシライス」紗羽が語尾に力を込めた。
「鎌倉ではそう言うんですか。うちらは昔からハイシライスやけどなぁ。略してハイライ」
紗羽が書いた住所を横目にしながら、こいしがまた首をかしげた。
「日本中どこでもハヤシライスと言うはずです。富山でも同じですから」紗羽が顎を上げた。
「富山? 捜してはるのは富山のハイライ、いや、ハヤシライスなんですか?」こいしの言葉に顔を斜めにして、紗羽がゆっくりとうなずいた。
「富山のお店で食べはったんですか?」
こいしがペンをかまえた。
「いえ、食べたことがないのです。だから捜していただきたいんですよ」「分かりました。ちょっと順を追うてお話ししてもらえますか」こいしが両腕をまわして、肩をほぐした。
「さっきお話ししたように、若いときに主人を亡くしてから、ずっとひとりで生きてきました。そしてようやく去年の夏に三十三回忌を終えたんです」「長いあいだご苦労さんでした」
こいしがちょこんと頭を下げた。
「長いと言えば長いし、あっという間だったような気もします」「うちには想像がつきませんわ。三十二年やなんて」「一緒に過ごした時間より、ひとりになってからのほうがはるかに長い。今更ですが、そんなことに気付きましてね」
紗羽が短くため息をついた。
「夫婦ていろんな形があるんですねぇ」
こいしが熱い茶を出した。
「幸か不幸か、子どもを授かっていなかったので、本当にひとりになってしまいました。
当時はまだ両親も健在でしたから、実家に戻る手もあったのですが、それも気が進まなくて」
紗羽がゆっくりと湯吞をかたむけた。
「うちやったらどうするやろ。寂しがりやから実家に帰るな」ペンを走らせながら、こいしが自問自答した。
「朝から晩まで、一日誰とも話をしない日なんてざらでしたから、ちょっと精神的に参ってしまいましてね」
茶を吞んで紗羽が続ける。
「あなた洋裁ってご存じ?」
「洋裁。洋服のお裁縫、ですか」
ペンを持ったまま、こいしが顔を上げた。
「わたし洋裁が得意なの。それでね、自宅で洋裁教室をはじめたのよ」「洋裁を教える教室。そう言うたらうちの近所にもあったなぁ」「でしょ。昔はあちこちにあったんだけど、洋裁っていう言葉も廃れちゃって。だから料理教室も一緒にやることにしたの。昔から料理も得意だったから。最初は近所の知り合いばかりだったけど、だんだん生徒さんが増えてきてね。週一回が週三回になって、寂しがってるひまもなくなったわ」
「よかったですね。月謝とかで収入にもなるし一石二鳥ですやん」こいしは紗羽の言葉を、単語だけ並べて書き留めた。
「みんな親しくなって、ときどき一緒に食事に行くようになったの。今はほら、女子会って言うでしょ。あんな感じね。今はふつうだけど三十年近く前はめずらしがられたわよ。
十人ほどの女性がレストランでフランス料理を食べながら、昼間っからワインを飲んでるんだから」
「そのころからワイン派やったんですね」
「ワインだと明るいうちから女が飲んでも大目に見てもらえそうに思ったの。料理教室でも試食の時間には生徒さんたちと一緒にワインを飲むわけ。たまに親戚の人に会うと嫌味を言われましたけどね。旦那がいなくなって気楽でいいですね、って」「そういうことて京都だけかと思うてましたけど、どこでもあるんですね」こいしが湯吞に急須の茶を注いだ。
「女がひとりで生きているといろいろ言われますよ。失礼だけど、あなた独身?」こいしが笑顔でうなずいた。
「だったら分かるでしょ。早くいい人みつけろ、だとか周りから言われるんじゃない?」「そんなんしょっちゅうです。お見合いの話もよう持ってきてくれはるし。ありがたいことなんやろけど、全部断ってます」
「同じね。再婚したほうがいいってよく言われます。でもひとりで充分生きていけるし、洋裁教室や料理教室の生徒さんも大勢いらっしゃるから、話し相手には困らないし。ずっとそう思って来たの」
紗羽の目がその色を少し変えたことに、こいしは気付いた。
「思うて来はったけど、ちょっと違うかなと今は思うてはる?」「いつなんどきどうなるか分からないから、ふだんは慎ましく暮らしているんだけど、たまには贅ぜい沢たくもしないと。そう思って二十年ほど前から教室の生徒さんたちと、年に一度旅行することにしたの。飛びきりいいホテルに泊まって美味しいもの食べて。毎回十人くらいは集まるんだけど、そのうち独身はわたしだけ。みんな寛容な旦那さんをお持ちなの」
「なんや愉しそうやなぁ。女性ばっかりやと気が許せるし、ちょっとくらいはめを外しても心配なさそうやし。みんなで温泉も入ったりして」こいしは露天風呂のイラストを描いている。
「そう。最初はあちこちの温泉や北海道、沖縄なんかにも行ったんだけど、いつの間にか行先は上高地に決まってしまって。毎年初夏に『上高地グランドホテル』で二、三泊するのが恒例になったんです」
「超が付くような高級ホテルですやん。そこに女性ばっかり十人で……。うらやましい話やなぁ」
こいしは露天風呂にバツ印を書き、ホテルらしきイラストを描き足した。
「贅沢というのは、こういうことを言うのだなと、毎年上高地に行くたびに思っていました。ありのままの自然が残っていて、そこに素晴らしいホテルがある。そして何よりも気の置けない仲間たちと、くだらない話をしながら過ごす。きっとこれ以上のしあわせなどないと確信していたのです。でも……」
よどみなく語りながら、最後に思わせぶりな言葉を残した紗羽に、こいしは直球を投げた。
「お話の続きも聞きたいんですけど、そろそろ本題に入ってもらえますやろか。ハヤシライスの話」
「お急ぎになっているのかしら?」
何ら動じることもなく、視線を鋭くした紗羽がこいしに笑みを向けた。
「急いではいませんけど、早はよぅハヤシライスのことを聞きたいなぁと思うて」気合負けしたように、こいしは声を落とした。
「お捜しいただくには、少しでもたくさんヒントがあったほうがいいと思って、最初からお話ししているのですよ。すぐ本題に入りますから、もう少しお付き合いくださいな」軽やかに声を弾ませる紗羽に従うしかないと、こいしはあきらめた。
「深い意味は何もなかったんですよ。ただ主人の三十三回忌を終えて、ちょっと今までと違う生き方をしてみたくなったんです。とうに亡くなった主人の面影と、ずっと一緒に歩いてきたような気がして、別の道を歩いてみたい。そう思って、友だちに話したんです。
今年の上高地行きは休みましょうと。ひとりで行ってみたくなったんです」紗羽が目を輝かせた。
「ひとり旅ですか。それも山の中。うちやったら寂しいて泣いてしまいそうですわ」こいしは所在なげにイラストを描き続けている。
「長いこと海のそばに住んでるとね、山が恋しくなるものなんです。寂しさには慣れっこになっていますしね」
紗羽がさらりと言ってのけた。
「うちみたいな寂しがりでも慣れるんやろか」こいしがひとり言のようにそう言ったが、紗羽は聞こえなかったのか、何も反応せずに話を続けた。
「寂しいどころか、なんだか晴れ晴れとした気持ちになって。自分で言うのもなんだけど、若返ったような」
紗羽の頰が淡く紅色に染まった。
「そういうもんなんかなぁ」
こいしはノートの上にペンを置いて、両腕を首のうしろで組んだ。
「新宿から『あずさ』に乗って、松本までは三時間くらいかかるの。いつもはみんなとおしゃべりしっ放しだったから、あっという間に着いた気がしてたんだけど、ひとりだと長いのよ。でも窓から景色を見てると飽きないのよね。列車の中で読もうと思って、文庫本を二冊持っていったんだけど、結局一行も読まないうちに松本に着いちゃった。みんなと一緒のときにはできないことをやりましょうと思って、立ち食い蕎そ麦ばにも挑戦してみたわ。あれ、安くて美味しいのよ。びっくりしちゃった。ちょっと周りの目が気になったけど」
愉し気な顔つきになった紗羽は、こいしに話すというより、ひとり語りのような口調で話を続けた。
「思いきり贅沢してやろうと考えていたから、上高地まではタクシーよ。運転手さんと山の話なんかをするうちにホテルに着いて、玄関の車寄せに停まると、ドアボーイさんがさっとドアを開けてくれて、ちょっとしたお姫さま気分ね。いつもと同じホテルだとは思えないくらいキラキラしてるの。毎年行ってるから顔見知りのスタッフの方もたくさんいらっしゃるし。あれ、不思議ね。お友だちと一緒のときは会釈なさるだけだったのに、ひとりだと話しかけてくださるの。うきうきするわけよ」喉の渇きをおぼえたのか、紗羽が湯吞の茶を飲みほした。
「コーヒーでも淹いれましょか」
すっかり聞き役になり、手持ちぶさたになってしまったこいしが、ソファから立ち上がった。
「ホテルの玄関を入るとね、右手に暖炉があって、冬でなくても赤々と燃えてるの。それを見ると帰って来たっていう気分になるのよ。火を見るとなんだかこう、胸が熱くなるっていうか、興奮してくるのね。三泊予約しておいたから、これから毎日この暖炉の薪が燃える音や匂い、灯あかりをずっと見られるんだと思うとワクワクしてきて」話を止められなくなっている紗羽は、こいしがコーヒーを淹れているあいだもずっと、その背中に言葉を投げ続けた。
「ひと息入れてください。よかったらこれも」こいしはコーヒーの横に、小さなチョコレートケーキを置いた。
「ありがとう。わたしチョコレート大好きなの」紗羽は小さなフォークでチョコレートケーキを口に運んだ。
その様子を横目に見て、コーヒーカップをゆっくり傾けながら、こいしはしばし耳を休ませた。
紗羽は立て続けにふたつのケーキを口にし、それを流しこむようにコーヒーを飲んだ。
「お部屋はね、いつもと同じツインルームなんだけど、ひとりだと広く感じるわね。お風呂に入る順番とかも考えなくていいし。窓を開けて外の景色をずっと眺めていても、寒いから早く閉めて、っていう人もいないし。極楽気分なのよ」コーヒーカップを手にしたまま、再び紗羽の話が始まった。
「いくらリゾートって言っても、グランドホテルなんだからおしゃれしなくちゃね。黒のロングドレスを着てダイニングルームに行ったの。もちろんフランス料理のフルコースよ。とっても美味しかったけど、フランス料理をひとりで食べるのって、やっぱり寂しいわよね。美味しいって言いあう相手がいないと」紗羽が宙に目を遊ばせた。
「うちなんか最後にフランス料理をいつ食べたか、思いだせへんほど昔ですわ。ええ人とふたりでフレンチやなんて、夢のまた夢やなぁ」こいしも同じように視線を天井近くに浮かべた。
「一日目の夕食を終えて、暖炉の前の椅子に座ってコーヒーを飲みながら、薪が燃えるのをじっと見ていたら、ひとつ置いて隣の椅子に座っていた男性が話しかけてきたの。暖炉の火はいいですな、って」
紗羽の頰が紅色から赤に変わった。
「ひょっとしてナンパですか?」
こいしが冗談めかして訊いた。
「この歳でそんなことはないわよ」
まんざらでもないような笑顔を浮かべて、紗羽がコーヒーをひと口飲んだ。
「どんな人やったんです?」
「後で分かったんだけど、わたしより三歳下で、十年前に奥さまと離婚なさったそうなの。きれいな白髪で、グリーンのタータンチェックのシャツがとってもよく似合っていたわ。低い声でお話なさるんだけど上品な紳士っていう雰囲気」紗羽が目を輝かせた。
「恋におちはったんと違います?」
「自分でもまさかと思ったんだけど、ひと目惚ぼれしちゃった」紗羽はまるで少女のようにはにかんだ。
「ええなぁ。高級リゾートホテルでフレンチ食べて、食後の暖炉で出会うやなんて。うらやまし過ぎますわ」
こいしが頰をふくらませた。
「岡おか崎ざき次じ郎ろうさんておっしゃって、富山の八やつ尾おという街で喫茶店をなさってたの。だからコーヒーのことも食べもののこともとても詳しくて、お話が愉しいわけよ」
紗羽の声に張りが出てきたことに、こいしは驚きを隠せなかった。同じ歳になった自分もこんなふうになれるのだろうか。
「上高地に行くとね、いつもハイキングっていうかウォーキングに出かけるのよ。河かっ童ぱ橋から梓あずさ川がわ沿いに歩いて一時間くらいかしら。明みょう神じん池いけっていうきれいな池まで。そんな話をしたら、明日一緒に行きましょうって次郎さんがおっしゃって。もう胸がどきどきして眠れなくて大変だったのよ」紗羽が胸を押さえてみせた。
「そうか。そのハイキングの途中にどこかの店で、ハイシ、と違うてハヤシライスを食べはったんや」
しびれをきらしたこいしは、強引に話を結び付けた。
「あたらずといえども遠からず。ハイキングから帰ってきて、ホテルのレストランでふたりでハヤシライスを食べたの」
「そんな高級リゾートホテルにもハヤシライスがあるんですか」ペンの手を止めてこいしが訊いた。
「正確にはァ∴ライスにハッシュドビーフが添えてある料理なんだけど、次郎さんは高級ハヤシライスだっておっしゃってた。そしてね、シェフを呼んで作り方を教わってらしたの」
「そんなん教えてくれはるもんなんですか。企業秘密やて言うて教えはらへんのと違います?」
「そのへんが次郎さんのじょうずなところで、ほめちぎるんですよ。こんなに美味しい料理は食べたことがないって。そうしたらシェフだって嬉しいでしょ。だからついしゃべっちゃったんでしょう」
紗羽が片目をつぶった。
「なるほど。それを訊きだして、次郎さんは自分の喫茶店で出そうと思わはったんや」こいしがひざを打った。
「あなた察しがいいわね。さすが探偵さん。と言いたいところだけど、少し違うわよ。そのままだと物まねになっちゃうじゃない。次郎さんは自分流のアレンジを加えて最高のハヤシライスを作ろうとされたの」
「喫茶店のカレーとかピラフとか美味しいですもんね。ときどき無性に食べとうなります。そこにグランドホテルの味が加わったら、たしかに最高ですね」「鎌倉もカフェの多い街だから、わたしもお友だちとよく行くけど、最近は観光客向けのお店ばっかりになってしまって」
紗羽が空になったコーヒーカップをソーサーに置いた。
「どこもおんなじですねぇ。京都もそんな感じですわ」「次郎さんがおっしゃるには、八尾も最近はそうなってきたんだそうで、でも自分は地元のお客さんを大事にしたいから、ガイドブックとかの取材は断ってるって」「そういうとこも気が合わはったんでしょ?」「あなただんだん冴さえてきたわね。そのとおり」紗羽が嬉しそうに笑った。
「その日の晩もご一緒やったんですか?」
コーヒーを注ぎ足しながらこいしが訊いた。
「ええ。次郎さんも三泊なさってたんだけど、一日ずれてたからその日が最後の夜だったの」
「高級リゾートホテル。ひと目惚れした相手と最後の夜。なんか起こりそうやなぁ」こいしが上目遣いになって、紗羽の表情を窺うかがった。
「わたしもだけど、次郎さんはお肉が好きだということだったので、ディナーは鉄板焼きにしたの。ほら、目の前の鉄板でコックさんが焼いてくれる、あれよ。炎が上がったりして盛りあがるじゃない。赤ワインのボトルをふたりで空けちゃったわ」「なんか映画みたいな展開やな。映画やったらそのあとはたいてい……」「お互い歳も歳だから、あなたが期待なさっているようなことにはならなかったけど、九月の風の盆のときに八尾へお邪魔する約束をしたの。風の盆はご存じ?」「聞いたことはありますけど、見にいったことは……」こいしが首を横に振った。
「わたしもおなじ。生徒さんたちとも、行きたいわねって言ってたんだけど、なかなかチャンスがなくて。知り合いが民泊をやってるからといって宿も彼が取ってくださったから、行くしかないじゃない」
「チャンスは逃したらあきませんよね」
こいしが合槌を打った。
「そのときまでに自分流のハヤシライスを完成させておきます。そうおっしゃってね。それも愉しみにしていると、あっという間に九月になってしまって」きっとその間にもいろいろやり取りがあったのだろうが、こいしの性分も考えて途中ははしょったのだろう。
「すんません。話を急いでもろて」
「こちらこそごめんなさいね。話し出すと止まらないものだから」紗羽が冷めた茶で口を湿らせた。
「テレビで見たんですけど、ようけの人が見に来はるんでしょ」こいしは紗羽の湯吞に茶を注ぎ足した。
「あんなに大勢の見物客がいるとは思わなかったわ。鎌倉も休日になると観光客であふれるけど、比べものにはならないわね。次郎さんが案内してくださらなかったら、人の背中しか見えなかったでしょうね」
「そんなにようけの人なんですか。京都のお寺のライトアップとおんなじですね。紅葉どころやなかった、てよう聞きます」
「そんな貴重な経験をさせてもらうことになるだろうと、ある程度は予測してたこともあってね、何か手土産が要ると思って、いろいろ悩んだのよ。京都ほどじゃないけど、鎌倉にもいいお菓子屋さんがあるし、鎌倉彫なんていう工芸品もあるから。あれこれ迷ったあげく、せっかくだから、手作りのものにしようと思ったわけ」紗羽はゆっくりと湯吞をかたむけてから、はにかんだ笑顔をこいしに向けた。
「洋裁の先生やからお手のもんですね」
「ありきたりだけど、八尾って寒いところらしいから、マフラーか何かがいいだろうと思って、一生けんめい編んだわよ」
「手編みのマフラーもろたら、男の人は絶対グッとくるみたいですね」「あなたも編んだことある?」
「高校のときに一回だけ編んだことありますねんけど、うちには向いてへんなぁと思いましたわ。ちょっと考えごとしたり、テレビ見てたりしたら、編み目を間違うて、またやり直しせんならん。イライラしっ放しでした」
こいしが眉根を寄せた。
「お料理なんかも同じだけど、ほかのことを考えちゃダメよ。相手のことを一生けんめい思いながら編まないと。お顔を思い浮かべながら、目の前にその人がいる気持ちになって、思いを込めて編めば、いいものになるのよ」「なるほど。そこやったんか。今さら気付いても遅いんやけど」こいしが半笑いした。
「真っ赤なマフラーに、次郎さんていうお名前だから、Jの文字を白く抜いておいたんだけど、お渡ししたら、マフラーと同じくらいに顔を真っ赤にされてね。とっても喜んでくださったわ」
紗羽が顔をほころばせた。
「ハートをわしづかみにされた気ぃにならはったんやろね」「これが次郎さんのお店なの」
紗羽がスマートフォンをローテーブルに置いて、指を滑らせるとすぐに画像が表示された。
「おしゃれなお店ですやん。立派なログハウスやなぁ。看板になんて書いてあるんやろ」こいしが覆いかぶさるようにして目を凝らした。
「〈ウィンドトレー〉。分かりやすいでしょ」紗羽が微笑んだ。
「そういうことか。ベタやけどお店の外観にはぴったりですね」「それで肝心のハヤシライスだけどね。上高地で教わったレシピに自分なりのアレンジを加えて作ってみたのだけれど、まだ納得のいくものができてないから、食べさせられないって次郎さんがおっしゃるわけ。ちょっとがっかりしたけど、風の盆が本当に素晴らしいお祭りだったから、それで充分だと思ったわ。次郎さんが淹れてくださったコーヒーもとても美味しかったし。寄せ書きノートがお店のテーブルに置いてあったから、幻のハヤシライスをいつまでも待ってます! って書いておいたわ」「こんなん言うたら失礼やけど、喫茶店のハヤシライスてそない面倒くさいもんと違うと思いますけどね」
こいしが何度も首をかしげた。
「次郎さんは完璧主義の人だから、とことんあのホテルで食べたハッシュドビーフを再現したかったのだと思いますよ」
「まぁ、うちのお父ちゃんも似たようなもんですけどね」こいしがペロッと舌を出して肩をすくめた。
「一泊二日なんてすぐに過ぎちゃうのよね。風の盆の余韻に浸りながら、車で次郎さんが駅まで送ってくださったの。駅に着いていよいよお別れってときにね、次郎さんが直立不動の姿勢をされて……」
そのときのことを思い返しているのか、紗羽が頰を紅潮させた。
「もしかして……」
こいしは固唾をのんで、紗羽の口元を見つめ、続く言葉を待っている。
「お正月にまた来てください。そして〈ウィンドトレー〉流のハヤシライスを完成させるのを手伝ってください。九割九分できあがっています。でも最後の一分は一緒に作り上げたいのです。よければ僕の店のマダムになっていただけませんか。突然そうおっしゃって」
「プロポーズですやん。急展開ですね。それでどう返事しはったんですか」こいしが両ひざを交互に前へ出した。
「まだ二度しかお会いしてませんし、急なお話なので、気持ちの整理ができません。正直にそう申し上げました。まだ次郎さんのことをほとんど存じ上げませんし、こんなお婆ばあさんと一緒になってやろうと言ってくださるお気持ちは、とてもありがたいと思いますが。そうお伝えしました」
紗羽がすとんと肩を落とした。
「そらそうやわねぇ。若気の至りやったらあるかもしれんけど、二回しか会おうてへん人と結婚やなんて。うちでもそう返事するやろなあ」「わたしは子どもがいませんし、親しい身内はいないに等しいのですが、聞くところによると、次郎さんには息子さんも娘さんもいらっしゃるみたいだし、その方たちのお考えもあるでしょうしね。そう簡単に答えが出せる話ではないと思いますよ。そして申し上げました。年が変わるまでにはお返事しますって」「ふつうはそうなりますよね。ふたつ返事でプロポーズ受けたら、軽い女性やと思われる気もするし」
こいしはペンをもてあそんでいる。
「がっかりなさった次郎さんを置いて、鎌倉に帰ったものの、とっても哀かなしくて寂しいんです。胸が張り裂けそうになって。少女のころみたいにしくしくと泣いてばかりいました。十月になり、十一月になって秋が深まってくると思いはつのるいっぽうで、何も手に付かない毎日なの。まさか人生の最後が近づいてきて、恋をするとは思わなかった。生徒さんたちも心配してくれるんだけど、恥ずかしくてこんな話はできないし。メールでのやり取りはしてましたけど、声を聞くのが怖くて電話なんてできやしない。そうこうするうち、とうとう師走に入ってしまってね」
「答えを出さんとあきませんやん」
「そうなの。でもまだ迷いに迷って。ある夜は決心して八尾に行こうと決めたんだけど、次の日の朝になったら急に怖くなって。またその夜はきっぱりお断りしようと思って手紙も書いたのだけど、夜が明けたら手紙を破いてしまう。そんなことの繰り返しで日にちだけがどんどん過ぎていったの」
「そのお気持ち、ものすごよう分かりますわ。恋をしてるときは年齢なんて関係ないんですね。うちも絶対迷うやろな」
こいしが繰り返しうなずいた。
「でも、迷ってばかりだとダメね。手遅れになってしまうの」紗羽がこぼした手遅れという言葉に、こいしはどきりとした。
「クリスマスイブの朝だった。郵便受けに黒い縁取りをしたハガキが入ってたの。わたしくらいの歳になると、喪中欠礼というお知らせは年々増える一方だから、それほど珍しくないわけ。誰が亡くなったんだろう、と見ると岡崎啓けい太たさんからで、亡くなったのは岡崎次郎さんと書いてあった。きっと寄せ書きノートに書いた人たちみんなに出したんでしょうけど、番地も書かなかったのによく届いたと思うわ。鎌倉市腰こし越ごえ 坂下紗羽様と表書きがしてあった」
紗羽の瞳が見る間に潤んだ。
「そんな」
こいしの頭にはその三文字しか浮かばなかった。
「運命のいたずらと言えばそれだけのことだけど」「ご病気やったんですか?」
「そんなふうにも見えなかったし、何もおっしゃってなかったから、すぐにお店に電話してみたの。電話番をされてた方のお話では、雪降ろしをしていて、大屋根から落ちたっていうことだった。打ちどころが悪かったらしく、事故の翌朝に亡くなったそう。そんなことがあるのね。なんだか狐きつねに化かされたみたいな気になってしまったわ」時おりハンカチを目に当てながら、紗羽がゆっくりと語った。
「どう言うてええのか分かりませんけど、人間の命てほんまにはかないもんですね」眉を八の字にしたこいしは、声を落とした。
「わたしは若いときに主人を亡くしているでしょ。だからヘンな言い方になるかもしれないけど、慣れてるの。こういうことに。だから哀しいという気持ちももちろんあるけど、それより何より悔しいのね。自分の決断がもう少し早ければ、こうはならなかった。そう思えてならないのよ」
紗羽が悔しそうに顔をゆがめた。
「紗羽さんのこととは関係ありませんやん」
こいしが声を張りあげた。
「もちろん亡くなった主人も愛してましたよ。主人を亡くしたあとの喪失感というのかしら。胸にぽっかり穴があいたような感じはずっと続いてました。でもね、それとは少し違うの。この歳になって恥ずかしいんだけど、わたしやっぱり恋していたと思う。主人を亡くすのと、恋人を亡くすのって、こんなに違うものなのか。そう思いました」うつろな目とは裏腹に、しっかりとした口調で紗羽が続ける。
「主人のときは長患いだったから、精いっぱい看病しましたし、自分で言うのも何だけど、尽くし切ったという達成感みたいなものもあった。でも、次郎さんに対してはなんだか悔いが残るのよ。告白してくださったことにも、一緒にハヤシライスを完成させようとおっしゃったことにも、何ひとつお応えできないまま、こんな結末を迎えてしまった。だから……」
かたく閉じてしまった紗羽の唇がいつ開くのか、こいしは固唾をのんでじっと待った。
紗羽は冷めたコーヒーで唇をうるおしてから、身を乗りだした。
「わたしね、次郎さんが作ってらしたハヤシライスを食べてみたいの。どこがどう未完成なのか知りたいんです」
紗羽は見開いた目をきらきらと輝かせた。
「未完成て言うてはったんやから、美味しないかもしれませんやん。それでも食べてみたいて言わはるんですね?」
こいしの問いかけに、紗羽はこっくりとうなずいた。
「分かりました。そういうことやったんか。えらいお話を急かしてしもうてすみませんでした。長いお話やったけど、ちゃんと聞かせてもろてよかったです。頑張ってお父ちゃんに捜しだしてもらいます」
ノートを閉じて、こいしが真っすぐに紗羽を見つめた。
「よろしくお願いします」
腰を浮かせて、紗羽が頭を下げた。
ふたりが食堂に戻ると、カウンター席に腰かけていた流が大きな伸びをした。
「どないやった。あんじょうお聞きできたか」「たっぷり聞かせてもろた」
こいしが紗羽に目くばせした。
「お嬢さまには、くだらない話を長々と聞いていただきました。感謝いたしております」紗羽がていねいに腰を折った。
「よろしおした。せっかちなこいしにしては上出来です」「お父ちゃんにだけは言われとないわ」
こいしがぷいと横を向いた。
「今日いただいたお料理のお支払いを」
紗羽がトートバッグから財布を出した。
「この次ご一緒に。いつも二週間後くらいにお越しいただいてますけど、今回はちょっと日にちがかかるかもしれません」
こいしが流の顔色を窺った。
「お捜しするもんによっては」
流はこいしと調子を合わせた。
「面倒なお願いをいたしましたが、どうぞよろしくお願いいたします」紗羽は流とこいしに顔を向けてから、サーモンピンクのコートを羽織った。
「まっすぐ鎌倉へお帰りですか」
店を出た紗羽の背中に流が声をかけた。
「せっかくこんないい時期に京都に来たのですから、今夜は泊まるつもりです」振り向いて紗羽が笑みを向けた。
「桜にはまだ早ぉすけど、梅やとか桃がきれいに咲いとります」「お奨めの場所はあります?」
「京都御ぎょ苑えんがええと思います」
「ありがとうございます。明日の朝にでも行ってみます」会釈して、紗羽は正面通を西に向かって歩きだした。
夕ゆう陽ひと重なりだしたサーモンピンクの背中を見送って、ふたりは店に戻った。
「何を捜してはるんや」
こいしから受け取ったノートを広げて、流が訊いた。
「ハヤシライス。ちょっと難問やと思うけど、絶対捜したげてや」「なんや。えらい力入ってるやないか」
流がノートを流し読みしはじめた。
「せやかて……」
目を潤ませながら、こいしは紗羽から聞いた話を流に伝えた。
「上高地か。あのホテルにはひと晩でええから泊まりたい。掬子がよう言うとったけど、結局叶かなえてやれなんだなぁ」
流がノートを閉じた。