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見つかった、との連絡を聞いたものの、秋の学会シーズンと重なったこともあって、ひと月近く経っての再訪となった。
秋も深まり、朝晩は肌寒さを感じるほどだ。三橋は黒いジャケットの下に薄手のベストを着こんでいる。
看板もなく、暖簾も上がっていないが、『鴨川食堂』のなかからは、芳ばしい出だ汁しの香りが漂ってくる。小さく鳴った腹を押さえて、店の引き戸を開けた。
「おこしやす。お待ちしとりました」
和帽子を取って流が出迎えた。
「よく捜しだしていただきました」
三橋は腰を折ってからジャケットを脱いだ。
「礼を言うのは食べてもろてからにしてください。今回は捜しだすのに苦労しまして、わしの推理っちゅうか、想像で再現してみただけですさかい、正直言うと自信ないんですわ」「承知しました。どういうわけか、あの焼きおにぎりの味だけは、はっきり記憶に残っておりますので、もしも違っていたら、はっきり違うと申し上げることにします」三橋は正面から流を見すえた。
「どうぞお掛けください。すぐにご用意しますよって」こいしが厨房から出てきた。
「あいにくこの季節になると、ええトウモロコシがなかったもんで、ほんまに焼きおにぎりだけしかご用意できてませんねん」テーブル席に着いた三橋に流が言った。
「それで充分です。今日はお茶だけをいただいて、しっかり焼きおにぎりを味わわせていただきます」「どうぞお手柔らかに」
微かすかに笑みを浮かべて、流が厨房に入っていった。
「お父ちゃんが言うてはったように、今回は見つけられへんかったんで、想像だけで作らはった焼きおにぎりですねん。もしも的外れやったらごめんなさいね。先に謝っときます」こいしがちょこんと頭を下げた。
「もともとが無理なお願いをしたのですから、別ものだったとしても当然だろうと思っております。違っていたとしても、ちゃんと探偵料はお支払いさせていただきます」「そう言うてもろたら、ちょっと気が楽になりますけど、もしも違うたときは、交通費やらの実費だけいただくことになってますんで」「遠くまで足を運んでいただいたのでしょうか」「焼きおにぎりを食べてもらうまでは、一切しゃべったらあかんてお父ちゃんに言われてますねんけど、遠いとこまで行かはったんですよ」「そうでしたか。おそれいります」「こいし、余計なこと言わんでええ」
厨房との境に掛かる暖簾のあいだから、流が顔を覗かせると、こいしが舌を出して、首をすくめた。
「お茶を置いときますよって」
信楽しがらき焼の土瓶と湯ゆ吞のみを置いて、こいしが厨房に戻っていった。
交通費という言葉がこいしの口から出たので、遠くまで、と言葉を返したものの、焼きおにぎりを捜すのに遠方まで行く必要があったのだろうか。だとすれば、それはいったいどこなのか。京都のなかで見つかると思い込んでいた三橋には意外な展開だった。
「今でこそ、ありきたりの料理に思えますけど、五十年前にはめずらしかったと思いまっせ。たぶんガス火に餅焼き網を載せて焼いてはったんやないかと思うて」流がテーブルにカセットコンロを置き、餅焼き網を載せた。
「石川さんの茶の間は台所とは別になっていましたから、どうやって調理されたかは、まったく分からないんですよ。こういうことだったかもしれませんし、違ったかもしれません」腕組みをした三橋が餅焼き網をじっと見つめている。
「一から焼いてると、味が染みるまでに時間が掛かりますさかい、ここでは最後の仕上げだけにさせてもらいます」染付の丸皿に載せた二個の焼きおにぎりからは、すでに芳ばしい醬油の香りが、湯気とともに立ちあがっている。
「それが秘密のタレですか」
カセットコンロの真横に置かれた唐から津つ焼の片口を三橋が指さした。
「そうです。これをなんべんも刷毛で塗って焼き上げます。わしの推理が間違うてなんだら、きっと石川さんが作らはったんと同じ味がするはずです」流は餅焼き網におにぎりを載せ、片口に入ったタレを刷毛でていねいに塗った。
「匂いはおんなじだと思いますな」
三橋は焼きおにぎりに近づけた鼻を鳴らした。
「味もおんなじやとええんですが」
流は不安そうな目つきで、焼きおにぎりを見つめた。
「三橋さんが食べはったんと、おんなじかどうかは分からへんけど、美味しいのは間違いないですよ。味見させてもらいましたけど、こんな美味しい焼きおにぎりを食べたんは初めてです」流のうしろに立って、こいしが三橋に笑顔を向けた。
「ますます愉しみです」
焼きおにぎりから目を離すことなく、三橋は生唾をごくりと吞みこんだ。
「そろそろ食べごろやと思います。わしらがおったら食べにくおすやろさかい、奥に引っ込んどきますわ。どうぞゆっくり召しあがってください。昔はもっと大きいに握ってはったと思いますけど、今日はちょっと小さめにしてます。まだまだ用意してありますんで、お代わりが要るようやったら声掛けてください」コンロの火を消し、焼きおにぎりを皿に戻して、流が厨房に戻っていくと、こいしが一礼してからあとに続いた。
すぐにでも手を伸ばしたい気持ちだったが、少し間を置いて、ふたりの気配が消えてから、おもむろに箸を手に取った。
「いや、やっぱり手づかみのほうがいいな」
ひとりごちて三橋は箸を置き、手づかみで焼きおにぎりを口に入れた。
焼きたての焼きおにぎりは、舌を焼いてしまいそうなほどに熱々で、口をすぼめた三橋は、空気を吸い込んで冷ましながら味をたしかめている。
ひと嚙かみして、歯形の跡をたしかめ、焼きおにぎりの角度を変え、また口に入れる。
三度ほどそれを繰り返すと、焼きおにぎりは小さなかたまりになった。
いとおしむように、それを手のひらのくぼみに載せ、またひとりごちた。
「火傷やけどするから気を付けなさい、って石川さんはいつも言ってたけど、冷めるまで待つなんてできるわけがないんだよ。若いってことはそういうことだ。けがなんて何も恐れちゃいないから」指にくっついた飯粒と一緒に残りを口に入れると、三橋は満足そうにうなずいてから、ふたつ目の焼きおにぎりに手を伸ばした。
「夜食にと言って、石川さんはいつも三つ焼いてくれた。ふたつ目を食べるときは、あともうひとつしかない、と思ってだいじに食べたものだ。それがどうだ。今ではふたつも食べればお腹がいっぱいになる。歳は取りたくないものだ。ねえ石川さん」半分ほど残った焼きおにぎりを手にし、じっと見つめていた三橋の頰をひと筋の涙が伝った。
傍らに置いてあったおしぼりを広げて、三橋はそっと両目に当てた。
親の財布からくすねたくらいのことだ。当時はそう思っていた。思おうとしていたのかもしれない。あのころには無いに等しかった罪の意識が、歳を重ねるごとに重くのしかかってきた。ついには自分の胸の裡うちだけにおさめることができず、妻にも話してしまった。その結果がこうして赤の他人にまで話すこととなった。告白したことが免罪符にはならないのはよくよく承知しているが、気持ちが楽になったことは間違いない。
空の皿をぼんやり眺めていると、流が厨房から出てきた。
「どないです? おんなじ味でしたか? それとも的が外れてましたやろか?」「そんなことを考える余裕もありませんでした。おんなじ味、というより、同じものだと思って食べてしまいました」三橋は正直に答えた。
食べる前には、同じ味がするかどうかをたしかめようと思っていたのだが、ひと口食べたときにはすでにそんなことはすっかり忘れ去っていたのだ。
「よろしおした。ホッとしましたわ」
流が口元をゆるめたのを合図とするように、こいしが小走りで厨房から出てきて横に並んだ。
「よかったなぁ、お父ちゃん」
ふたりの笑顔を見て、また三橋の涙腺がゆるんだ。
「ありがとうございます。さぞやご苦労をお掛けしたんでしょうな。感謝の言葉しかありません」「確証はありまへんでしたさかい、どきどきしとりました」「よっぽど心配やったんやとみえて、昨日は夜中になんべんも目ぇ覚ましてはりました」「こいし、余計なこと言わんでええ」流が怒ってみせたが、目は笑っている。
「捜しだしていただいたお話を聞かせていただけますか」「失礼して座らせてもらいます」テーブルをはさんで三橋と向かい合って流が腰かけると、こいしは少し離れてパイプ椅子に座った。
「この前お越しいただいて、こいしにお話しになったことが、ええヒントになりました。
まずは石川さんっちゅうかたを捜しださんと」流がファイルケースをテーブルに置いて、地図を取りだした。
「当時の下宿は今も空地で、コインパーキングになってました。ご近所はすっかり入れ替わったみたいで、石川さんのことはどなたもご存じありませんでした。しかたなしに〈黒谷さん〉を訪ねてみたんですわ。そしたら塔たっ頭ちゅうの和尚さんが、当時のことを覚えておられましてな、わしの思うてたとおり、石川さんは京都のかたではないと断言しはったんですわ」「違ったんですか? でもたしか言葉が……」納得できないといったふうに、三橋が二、三度首を横に振った。
「三橋さんが覚えてはった、石川さんの言葉遣いは、うちも妙やなぁと思うてたんです。
京都の人は、〈何をしはんのや〉と違うて〈何してはるん?〉て言いますし、〈気い付けて〉とはアクセントが違うて、〈気ぃ付けて〉て言いますねん。微妙やけど」こいしが横から口をはさんだ。
「たしか、会津のひとがそういう言葉遣いをしはると思うて、うちの近所で〈会津屋旅館〉をやってはったお婆さんに訊いてみたんですわ。そしたら、会津の人がよう使う言葉やと教えてくれはって、確信を持ちました」流が身を乗りだした。
「会津? 福島の? そんなふうには見えませんでしたが。なぜ会津のかたが……」三橋も同じように前のめりになった。
「そうや、〈黒谷さん〉と会津藩は深い関係にあったんやと、気が付きました。ダメもとで、もういっぺん〈黒谷さん〉を訪ねて、古い資料をいろいろ調べてもろたら、石川さんのおうちの辺りは当時〈黒谷さん〉の借地やったことが分かりましたんや。借地の契約書は、ほんまは見せられんけど、もう借地契約も終結しているし、事情が事情やさかい言うて、当時の石川さんの実家の住所を教えてくれはったんです。最初はうるさがってはったお寺さんも、だんだん興味を持ってくれはるようになって助かりました」「お父ちゃんは絶対あきらめはらへんのです」こいしが胸を張った。
「そうなったら、もう行くしかありまへんがな。お寺さんで教えてもろた住所だけを頼りに会津若松まで行ってきました」流が会津若松市の地図を広げた。
「遠くまで足を運んでいただいたのですね。山陰の人間からすると、はるか遠くといった気がします」三橋は地図に目を輝かせた。
「ここが有名な会津若松城で、ここがお寺さんから教えてもろた住所。城東町ていうとこですけど、残念ながらその番地には四階建てのマンションが建ってました。予想はしとったんですけど、ここでとん挫してしまいましてな」流は、こいしが差しだした冷水を一気に飲みほして続ける。
「周りには団地もようけ建ってましてな、こら聞き込みしても無駄やろなと思うたんで、とりあえず一番近いビジネスホテルに泊まることにしました。『センターホテル』、ここですわ。ここに泊まって、近所の食堂か居酒屋行ったら、なんぞ分かるんと違うやろか。
そう思いましてな、夕方になって歩いとったら、白壁造りっぽい、ちょっと気を引く居酒屋がありましたんや。ここですわ。『居酒屋きさく』。早い時間からようけお客さんが入ってまして、なかなか渋い造りのええ店でした」「お父ちゃんはええお店見つけるのも得意ですねん」こいしが横から言葉をはさんだ。
「京都みたいな鰻の寝床っぽい店で、カウンターに座って飲んでました。桜っちゅう馬刺しやら、モツ煮をアテにしてたんですが、ちょっと気になるメニューがあったんで、頼んでみました。それがこれです」小鉢に入った煮物の料理写真を三橋に見せた。
「なんですか? 見たことのないものですが。鯖? 鰺あじかな」三橋が老眼鏡をかけて写真に目を近づけた。
「にしんの山さん椒しょ漬け。会津の郷土料理やそうです。これを食べてピンときましたんや」「にしんが何か?」
「肝心なんはにしんやのうて、この煮汁。これを使うて焼きおにぎりにしてはったんやないかと思うたんです」「つまり、さっきの焼きおにぎりは、この汁を使って味付けされたということですか?」三橋の問いかけに、流は黙ってうなずいた。
「その居酒屋の大将がええ人やったみたいで、にしんの山椒漬けのレシピを教えてくれはって、それをお父ちゃんが再現しはったんが、これですねん」こいしがガラスの小鉢をテーブルに置いた。
「よかったらつまんでみてください。ワインにもよう合うと思います」流がほっこりとした笑顔を三橋に向けた。
「味は同じだったが、こんなに強い山椒の匂いはしなかったような」三橋が小鉢に鼻を近づけた。
「この煮汁を濾こしてから、醬油、酒と一緒に煮詰めて寝かせると、ちょうどええ具合に山椒の匂いが抜けます。けど、ちょこっとは残ってるさかい、鰻の蒲焼を食べはったときに、この味を思いださはったんやと思います」「なるほどそういうことだったのか」にしんを食べて三橋が納得したように大きく首を縦に振った。
「会津では家庭でも、にしんの山椒漬けを作る習慣が今も残っているそうで、おそらく石川さんも漬けてはったんやないかと思います。ようけ山椒の若葉を入れるとこやら、子どもさんの多い家庭は山椒を少なめにしたり、家々によって味が違うそうです」「いやいや、感服いたしました。こういう言い方は失礼かと思いますが、きっと無理だろうと思っていましたから。まさか会津まで行って捜してきてくださるとは。本当にありがとうございました」三橋が小鉢のにしんに目を落とした。
「これでお気持ちが軽ぅなりましたやろか」
「え、ええ。家内にも報告いたします。それではお支払いのほうを。いかほどになりますか?」三橋がバッグから財布を取りだした。
「うちは特に金額を決めてません。お気持ちに見合うだけをこちらに振り込んでください」こいしが振込先を記したメモ用紙を三橋に渡した。
「承知しました」
メモ用紙を財布にはさみ込んで、三橋がジャケットを羽織った。
「奥さんに作ってもらわはるときのためにと思うて、袋詰めのにしんの山椒漬けを土産に買うてきました。『会津高砂屋』っちゅう店のもんです。もし一から作らはるんやったら、このレシピどおりにしてください。身欠きにしんと、醬油と酢と味醂、酒、山椒の葉の刻んだもんがあったら簡単にできます」流がメモを手渡した。
「何から何までありがとうございます」
三橋はメモを受け取って、無造作にジャケットのポケットに放りこんだ。
「どうぞお気を付けて」
こいしの声に送られて、三橋が正面通を西に向かった。
「三橋さん」
流がその背中に声を掛けると、足がぴたりと止まった。
「なんぞ忘れもんしてはりまへんか?」
「忘れもの、ですか」
三橋がバッグのジッパーを開けた。
「ほんまに捜してはったもんをお忘れになってまへんか」流が二歩、三歩と三橋に向かって歩み寄った。
「……」
三橋は無言で流の目を真っすぐに見た。
「写真も一緒に入れときます」
流が白い角封筒を三橋に手渡した。
足元にボストンバッグを置き、あわてて封筒の中身をたしかめた三橋は、封筒を捧ささげ持って深々と一礼した。
「ご安全に」
三橋の姿が見えなくなるまで見送って、ふたりは店に戻った。
「あの封筒に何が入ってんの?」
店に入るなり、こいしが詰問するように訊いた。
「石川さんのお墓の写真と『龍りゅう沢たく寺じ』の住所を書いた地図や」テーブルの片づけをしながら流が答えた。
「石川さんのお墓の話、なんでうちに内緒にしてたん? どうやって見つけたん?」追いかけるように、こいしが立て続けに訊いた。
「別に内緒にしてたわけやない。居酒屋で隣り合うたお客さんが、偶然石川さんの親戚の人やったんや。わしが京都から来たと聞いて、向こうから石川さんの話を持ちださはった。三橋さんの強い気持ちが石川さんの霊に乗り移って、引き合わせてくれはったんやろ」流が厨房に入っていくと、こいしはくっつくように追いかけた。
「なんで、三橋さんが石川さんのお墓を捜してはると思うたん?」「なんで、て、懺悔の気持ちを表すにはお墓参りするしかないやろ。たぶん三橋さんは、石川さんのお墓をさんざん捜さはったと思う。けど、石川さんが京都人やて思いこんではったから的外れに終わったんや。それで焼きおにぎりを捜す名分でうちに頼んできはった。石川さんに辿り着かんことには、その焼きおにぎりは見つからへんさかいな」「そうかぁ、そういうことやったんか。やっぱり頭のええ人は考えることが違うな。うちにはそんなこと思いもつかへんかったわ」「わしは罪を犯した人間と、さんざん向き合うてきたさかいな」「けど、ほんまにようそんなうまいこと、石川さんの親戚の人と出で会おうたなぁ。偶然にしてもでき過ぎやんか」「偶然やない。三橋さんの深い懺悔の気持ちと、それを許そうと思うてはる石川さんの霊が引っ張ってきはったんや」流が仏壇の前に座り、掬子の写真に手を合わせた。
「気になってたんやけど、石川さんは三橋さんがお札をくすねたことに気付いてはったんやろか」「気付かんはずがないと思う」
流が線香に火を点つけた。
「なんでとがめはらへんかったんやろ」
「確証もないし、三橋さんがそんな悪い人やないと思うてはったやろし。お金に困ってることも分かってはったしな。ええ気はせんかったやろけど」「霊になったら、やさしいなって、人を許そうと思わはるねんな。お母ちゃんもお父ちゃんのこと許したげてな」こいしが手を合わせて目をつぶった。
「掬子は生きてるうちにぜんぶ許してくれよった。ええやつやった」「ええ人と違うてええから、もっと長生きしてほしかったわ」線香の煙のなかの掬子がかすかに微笑んだ。