1
黒革のトートバッグを右脇に抱えて、武む藤とう夕ゆう夏かはJR京都駅に降り立った。仕事では幾度となく繰り返してきた京都旅だが、プライベートとなると、遠い記憶に頼るしかない。中学の修学旅行で訪れたことは間違いないのだが、友達とのおしゃべりに夢中だったせいか、どこをどう歩いたのかは、ほとんど覚えていない。
仕事を離れての旅だから、もっとカジュアルな服装にすればよかった。新幹線の改札口を出てすぐにそう思ったが、習慣はなかなか抜けないものだとも実感した。
十四年も前、出版社に就職してすぐ女性誌の編集部に配属され、先輩から教わった心得を夕夏は忠実に守り続けてきた。
観光スポットや店の取材に当たっては、相手に失礼のないように、と言うより軽く見られないようにとの配慮から、たいていは黒のツーピースに白いシャツという出いで立たちだった。トレンチコートの襟を立てて風を防ぐ。
万事控えめに。派手は禁物。怒らず、腐らず、常に笑顔で。まるで魔法の呪文でもあるかのように、仕事場では一日に幾度となくそれを唱えてきた。
予想できたことだが、その反動はそのまま家庭に表れた。
怒ったり、腐ったりは日常茶飯で、作り笑顔は苦手だとうそぶき、夫の敬よし男おも義母の邦くに子こも、いたっておとなしい性格なのをいいことに、奔放にふるまってきた。
だが、そのことと今起こっている事態とは、なんの因果関係もないはずだ。そう自分に言い聞かせて夕夏は、慣れた足取りで『東本願寺』を目指した。
出版界の慣例とも言える年末進行も一段落し、師走にできたエアポケットを利用してやって来た京都はやっぱり寒い。
取材で訪れる京都は、たいてい祇ぎ園おん界かい隈わいか、もしくは嵐あらし山やまや東ひがし山やまなどの観光地で、京都駅界隈は縁が薄い。そのなかで唯一の例外と言っていいのが東と西の本願寺だ。世界文化遺産として登録されている『西本願寺』と、登録されていない『東本願寺』はどこがどう違うのか、という記事を担当し、ふたつのお寺をつぶさに取材したのは、たしか八年ほど前のことで、夕夏にとっては産休明けの初仕事になったので、はっきり記憶に残っている。
『渉しょう成せい園えん』という『東本願寺』の飛び地境内の庭園へ向かう道筋に、目指す探偵事務所があるはずだ。夕夏はトレンチコートのボタンを留めて歩を進めた。
通りの左右を見渡しながら、夕夏は勘をはたらかせ、それと思おぼしきしもた屋の前に立った。
「料理春秋」という雑誌の、〈鴨川食堂?鴨川探偵事務所──食捜します〉と記された、たった一行だけの広告を頼りにやって来た夕夏は、そこがまるで取材先でもあるかのように、トレンチコートを脱いで居住まいを正し、ひとつ咳せきばらいをしてから、引き戸に手をかけた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
夕夏の予想を裏切って、若い女性の声が返ってきた。
「突然お邪魔して申しわけありません。こちらは『鴨川探偵事務所』でよかったでしょうか」
「そうですけど」
拒んではいないが、歓迎しているようにも見えない。京都人が初対面の相手に向ける表情はたいていこんなふうだ。ここでひるんでしまうと向こうのぺースに巻きこまれてしまう。
「よかった。もし違ったらどうしようかと思って」大げさに喜んでみせた夕夏は、取材のときと同じように名刺を差しだした。
「武藤夕夏と申します。出版社に勤めておりまして、雑誌を作っているので、京都にはよく参ります。今日は仕事ではなく、プライベートなことでお願いにあがりました。実はわたし食を捜しているのです」
「『料理春秋』の広告を見てきてくれはったんですか」「はい。あちらの出版社にも知り合いがいるもので、あらましを教えていただきました」夕夏が笑顔を浮かべると、厨ちゅう房ぼうらしきスペースから作さ務む衣え姿の男性が出てきた。
「『鴨川食堂』の主人をしてます鴨川流と言います。茜とはお知り合いでっか?」「お名前だけは存じておりますが、まだお会いしたことはないんです」「まぁ、どうぞお掛けください。うちは『鴨川探偵事務所』の所長をしてます鴨川こいしと言います」
白いシャツにソムリエエプロンを着けたこいしが一礼した。
「では失礼して」
夕夏はパイプ椅子にコートとトートバッグを置いた。
「お腹なかのほうはどないです? おまかせでよかったらお作りしますけど」「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか。突然お邪魔したのに恐縮です」
夕夏が深く腰を折った。
「そないたいそうに言うてもらうようなもんやおへん。お酒はどないです?」「せっかくお料理をいただくのですから、少しだけちょうだいいたします」「苦手なもんはおへんか」
「特にございません」
「ほな、しばらく待っといてください。すぐにご用意します」小走りで流が厨房に戻っていった。
「お酒は何がよろしい? 日本酒、焼酎、ワインといちおうのお酒はありますけど」こいしが訊きいた。
「だいじなお話が控えてますので酔っぱらわないようにしないといけませんよね。少しだけ日本酒をいただきます。お奨すすめがあれば」「そうやねぇ、どんなんがお好みです?」
「淡麗辛口とかよりも、どっしりしたのが好みです。なんて言うと大酒飲みみたいに思われますね」
「そんなん気にせんとってください。うちも一緒ですし。新潟やねんけど、しっかり重いお酒で『鶴かく齢れい』ていうのがありますねん。それでよろしい? ちょっと甘あもぅ感じはるかもしれません」
「少しくらい甘くても大丈夫ですからそれでお願いします」「分かりました。ちょっとだけ冷やしてお持ちしますわ」笑顔を残してこいしが厨房に入っていった。
気持ちを落ち着かせて、夕夏はあらためて店のなかを見まわしている。
これまで取材してきた京都の店とはまったく趣きが異なる。言ってしまえば、まったく京都らしさを感じないのだ。はんなりもしていないし、侘わびた風情を漂わせるのでもない。生まれ育った姫路にはこんな店はいくらでもあった。駅近くの商店街を歩けば、雑多な飲食店がすぐ目に入る。そんな店はたいていがこんなふうだった。
夕夏は少なからぬ不安を感じはじめていた。
「料理春秋」は信頼のおける雑誌だ。明確な意図を持って編集されていて、時流に流されず、必要以上に店を持ちあげることもなく、ときには厳しい論評を付け加えることもある。そんな雑誌に出ている広告だからと信用して訪ねてきたのだが、徒労に終わってしまうかもしれない。そんな不安は、流が運んできた料理を見た瞬間に消え去ってしまった。
「お待たせしましたな。寒い時季でっさかい、あったかい料理をようけ盛り込んどきました」
流がテーブルに信楽しがらきの大皿を置いた。
「すごいご馳ち走そうですね」
夕夏は思わずトートバッグに手を伸ばし、デジカメを取りだそうとして思いとどまった。
「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左の上は殻ごと焼いた牡か蠣きです。胡ご麻ま味み噌そを載せてますんで、そのまま食べてください。その右は聖しょう護ご院いん蕪かぶらとビワマスの重ね蒸し。添えてある酢す橘だち塩で召しあがってください。上の右端は鴨かもをつくねにして揚げたもんです。そのままでもいけますけど、辛から子しをつけてもろても美お味いしおす。その下の小鉢は香こう箱ばこ蟹がにの酢のもんです。土佐酢を掛けてありますんで、内うち子こと外そと子こを混ぜながら食べてください。その左は鯛たいの昆こ布ぶ〆じめ、ちょこっとだけ、かんずりをつけてもろたら風味が出ます。左端は堀ほり川かわごぼうの炊いたん。牛のスネ肉をなかに射こんでます。その下はフグぶつのフライです。ライムを絞ってから塩を振ってください。下のまん中はイカのウニ焼き。粉こな山さん椒しょうを振ってますんで、そのままどうぞ。右端の角鉢は金時人にん参じんと伊勢海え老びの炊き合わせ。白味噌で味付けてます。よかったら煮汁も飲んでください。あとでご飯をお持ちします。今日は鰻うなぎの蒸し寿ず司しを用意しとります。
ええとこで声を掛けてください」
言い置いて、流は厨房に戻っていき、入れ替わりにこいしが一升瓶を抱えて出てきた。
「瓶のまま置いときますよって、好きなだけ飲んでください」大ぶりの蕎そ麦ば猪ちょ口こと『鶴齢』を夕夏の前に置いた。
「なんだかすごい大酒飲みに思われたみたいですね」「お顔見たら分かりますねん。たぶんよう飲まはるんやろなと思うて。お食事が終わらはったら、食捜しのお話を聞きますよって、奥にお越しください」いたずらっぽい笑顔を残して、こいしも厨房に入っていった。
ひとり食堂に残った夕夏は、あらためて大皿の料理を見まわして、深いため息をついた。
取材を通してある程度は理解していたつもりだったが、これまで自分が見てきた京都はほんの入口に過ぎなかったのだ。三ツ星料亭や二ツ星割かっ烹ぽうを取材して試食もしてきたが、それをはるかに凌りょう駕がする料理だろうことは、ひと目で分かる。
夕夏が最初に箸を付けたのはフグぶつのフライだった。流の指示にしたがい、ライムを絞って軽く塩を振って口に運ぶと、それは至福という言葉しか思い浮かばないほど美味しいものだった。
酔ってはいけないと自制しているのに、蕎麦猪口に注ついだ酒がすぐになくなってしまう。
こんな料理をお酒抜きで食べるなんてあり得ない。自分にそう言い訳をして、重い一升瓶を何度も持ち上げた。
大げさな蟹ではなく、小さなメス蟹にこそ旨うまみが凝縮しているのだ、と尊敬する料理人から聞かされたとおり、香箱蟹の酢のものは香りといい、味わいといい、申し分のない逸品だ。なぜこの店に星がついていないのか。そんな疑問を抱かせる店はきっと京都には山ほどあるのだろう。
先ほどの不安が杞き憂ゆうに終わった今となっては、ここから先の展開を期待するしかないのだが、それで目的は果たせるのか。絶えず不安を抱えてしまうのは、ある種の職業病なのかもしれない。すべてに目をつぶって、今は料理とお酒を愉たのしむことに専念したい。
赤いかんずりをつけて、鯛の昆布〆を口に運ぶ。その旨みをしっかりとたしかめてから、夕夏は手に持つ箸を猪口に替えた。
比べることが間違っていると、頭では分かっているのだが、ついこれまでに取材してきた店の食と比較してしまう。比べたからといって、何がどう違うのかまでは、ちゃんと理解できていないのだが、ただひとつ、はっきりしているのは、この食堂の料理には角がないということだ。
味わいがまろやかだとか、そういうことではなく、食べていて心が丸くなっていくのだ。
祇園の有名割烹で取材したあとに試食してみて、気持ちをとがらせる料理だと感じた。
経験値が足りないせいだったかもしれないが、料理人から押さえつけられているように感じてしまった。それに負けてはいけないと力が入ってしまい、食べ終えると、どっと疲れが出て、ホテルに戻るとすぐに眠ってしまった。
そんな料理と対極にあるような料理だ。もちろんそれは、目の前に料理人がいるというプレッシャーから解放されているせいでもあるが、料理そのものも実に穏やかなのである。
ひと品食べるたびにうなずき、空になった猪口に酒を注ぎ、また料理に箸を付ける。繰り返すうち、大皿に空白が目立ってきた。
「どないです。お口に合おうてますかいな」
流が厨房から出てきた。
「合うどころか、夢中でいただいています」
「よろしおした。そろそろご飯をお持ちしまひょか」「蒸し寿司でしたね。よろしくお願いいたします」夕夏と目を合わせて、流は厨房に戻っていった。
初めて京都で蒸し寿司の取材をしたときは、その熱さに驚いた。そもそも寿司をあたためるという発想がなかった。器を手に持つことすらできないほどの熱い寿司はしかし、食べるとクセになるような美味しいものだった。
錦糸玉子がたっぷり載ったビジュアルもいいし、取材し甲が斐いのある料理だった。東京ではまず出会うことがないだけに、夕夏は愉しみに蒸し寿司を待った。
「お待たせしましたな。早めに蒸しといてよかったですわ。火傷やけどせんように気ぃ付けてくださいや」
思ったより早く出てきた蒸し寿司は蒸せい籠ろに入っている。
「以前に京都のお寿司屋さんでいただいたときは、磁器の器に入っていたと記憶しているのですが」
「うちもたいていそうしてるんですけど、今日は鰻を使つこうてますので、香りも愉しんでもらお思いましてな」
そう言って、流が蒸籠のふたを外すと、もうもうと湯気が立ち上った。
「鰻うな重じゅうみたいですね」
蒸籠のなかにはびっしりと鰻が詰まっている。
「琵び琶わ湖このええ鰻が入りましたんで、いっつも蒸し寿司は穴子を使うんでっけど、今日は鰻にしてみました。直じか焼やきにしてタレは甘みをおさえてますんで、軽ぅに召しあがってもらえる思います」
流の言葉が耳に入ってこないほど、蒸籠のビジュアルは魅力的だ。
「こんなの初めて。混ぜてしまっていいんですか?」「混ぜながら食べてもらうのが一番やと思います。ご飯は酢めしですさかい、ワサビもよう合います。お好みで粉山椒を振ってください」ひつまぶしに似ているようで、食べるとまったくの別ものだと分かる。刻んだ大葉と煎り胡麻が酢めしに混ぜ込んであり、鰻の脂っこさを和らげている。なんとも不思議な味わいなのだが、違和感はまったくない。はるか昔からこんな料理があったと言われれば、すんなり納得するくらいだ。
外食をすると、つい深みにはまってしまう。編集者魂に火が点つく、と言えば格好良すぎるだろうが、どんな食材を使って、どんな料理法で、その料理の魅力はどこにあるかと考えてしまっている。
明らかにその反動だと思うが、家で食べるときは空腹さえ満たせばいいといったふうになる。同居するようになってからは、義母にまかせっきりだし、それまでは既製品の惣そう菜ざいやデリバリーに頼っていた。同業である敬男はビジネス系専門なので、食事には無頓着そのものだからそれで何も問題はなかった。
ひとり息子の敬けい一いちも、義母と同居するまでは与えられたものを喜んで食べていた。もっとも好物ばかりを食べさせていたのだから当然のことなのだが。
「よかったらお代わりもありまっせ」
空になった蒸籠を前にして、思いを巡らせていると、いつの間にか流がうしろに立っていた。
「もう充分です。探偵さんがお待ちになっているでしょうから」「急いでもらわんでもええんでっせ。ゆっくり召しあがってくださいや」「ご案内くださいますか」
ハンカチで口を拭って夕夏が立ちあがった。
「急せかしたみたいで申しわけなかったですな」奥へと続く廊下を歩く流が振り向いた。
「久しぶりにゆっくり食事を愉しませていただきました」廊下の両側に貼られた写真を横目にして、夕夏が流のあとを追う。
「よろしおした」
前を向いたままで流が応えた。
廊下の壁に貼られているほとんどは料理写真だ。ひと皿のカレーライスもあれば、中華料理の満漢全席のようなものまで、和洋中のあらゆる料理が並んでいて、写真のテクニックはプロとはほど遠いが、美味しさは充分伝わってくる。
「ぜんぶ流さんがお作りになった料理ですか?」「いくつかは家内が作ったもんやら、料理屋のもんも混ざってますけど、ほとんどはわしが作った料理です。レシピてなしゃれたもんを書き残しまへんので、写真で記録してますんや」
廊下の突き当たりにあるドアの前で流が立ちどまった。
「どうぞ」
間髪をいれずにドアが開き、こいしが顔を覗かせた。
「あとはこいしにまかせますんで」
身体からだの向きを変えて、流が廊下を戻っていった。
夕夏がロングソファのまん中に座るのを待ってから、ローテーブルをあいだにして、こいしが向かい合うシングルソファに腰かけた。
「簡単でええので、これに書いてもらえますか」手渡されたバインダーには申込書と書かれた紙がはさんである。夕夏は膝の上に置いてペンを持った。
氏名、年齢、職業、住所、家族構成と記入を終えて、夕夏はこいしにバインダーを返した。
「早速ですけど武藤夕夏さん。どんな食を捜してはるんです」こいしは黒いパンツスーツに着替えていて、向かい合うふたりは似たような空気を醸しだしている。
「炊きこみご飯です。関西だとかやくご飯と言いますよね」夕夏が答えると、こいしはノートを開いた。
「お揚げさんと刻んだ野菜を一緒に炊いた、味付きご飯のことやね」「はい」
「どこかお店のんですか?」
「いえ。義母が炊いていた炊きこみご飯です」「ご家族はご主人と息子さんと三人になってますよね。お義か母あさんはどちらに? て言うか失礼ですけどご存命なんですか?」
「しばらく一緒に住んでいたのですが、一年ほど前から義母とは別に住むようになりました」
「いろいろ事情はあるんやろと思いますけど、差支えのない範囲で詳しいに話してもらえますか?」
こいしが両膝を前に出した。
「義母は武藤邦子といいます。年齢は七十六歳。鹿児島にある夫の敬男の実家でひとり暮らしをしていたのですが、うちは共働きで子育てが大変になってきたので、東京に呼び寄せて一緒に住むことにしたのです。息子の敬一が幼稚園の年中さんのときでしたから、四年半ほど前のことです」
「ちょっと整理させてくださいね。お義母さんを東京に呼んで一緒に暮らしてはったんは、息子の敬一さんが年中組のころから一年前までていうことやから三年半のあいだですね」
こいしがノートに表を書いた。
「はい。そのあいだずっと敬一の世話をしてくれたので助かりました」「それやのに、一年前に別居しはるようになったんはなんでです?」「義母が可愛かわいがってくれるのはいいのですが、度を超えて甘やかし過ぎになってしまって、敬一が学校で問題を起こすようになってしまったんです」「そうなんや。難しいもんなんやぁ。また鹿児島に戻らはるのも大変やったんと違います?」
「鹿児島の実家はもう処分してしまってましたので、主人がうちの近所のマンションを借りて、そこでひとり暮らしをするようになりました」「七十六歳やったら、ひとり暮らしも気楽でええでしょうね。なんかあっても近所やったら安心やし。そのお義母さんの炊きこみご飯は、どんなんでした?」本題に入ったこいしはノートのページを繰って、ペンをかまえた。
「具だくさんの炊きこみご飯でした。油揚げ、ごぼう、人参や椎しい茸たけを細かく刻んだのが入っていました。かまぼこのようなものも入っていたような気がします。味はけっこう濃いめでしたね」
天井に視線を遊ばせながら夕夏が答えた。
「ふつうのかやくご飯やなぁ。ほかに何か特徴はありませんでしたか」ノートにイラストを描きつけて、こいしが夕夏に顔を向けた。
「それが特徴と言えるかどうか分かりませんが……」答えようとして、夕夏が言いよどんだ。
「なんです?」
こいしが身を乗りだした。
「ご飯が黄色いんです」
夕夏が声をひそめた。
「黄色いかやくご飯……変色してたていうことですか」こいしも声を落とした。
「ほら、ジャーに長く置いておくと、ご飯って色が変わってくるじゃないですか」「古ぅなったご飯を使わはったんやろか。けど、お醬しょう油ゆやらの調味料で茶色ぅなると思うんですけどね」
こいしがイラストを描きながら首をかしげた。
「敬一はそれが美味しいと言って、がつがつ食べるんですけど、わたしはなんだか気持ちが悪くて、ほとんど食べませんでした」
「たまたま、やったんと違います?」
「いえ。義母の炊きこみご飯はいつも黄色っぽいご飯でした。敬一が好んで食べていたのは、きっと味の濃い具がたくさん入っていたからだと思います。敬一の唯一の趣味というか愉しみは野球を観みることなんですが、野球中継を観ながら義母の炊きこみご飯を食べるのが一番の愉しみみたいです。変わった子どもでしょ」夕夏は眉をひそめた。
「そんな炊きこみご飯を、なんで今になって捜してはるんですか。お義母さんが元気なんやったら作ってもらわはったら済むんと違います?」夕夏の気持ちが理解できないとばかりに、こいしは突き放すような口調で言った。
「一からちゃんと説明しないといけませんでしたね。失礼しました」腰を浮かせて頭を下げると、こいしは慌てて両方の手のひらを夕夏に向けて左右に動かした。
「謝ってもらうような話と違います。うちの言い方が間ま違ちごうてたんです。食を捜してはる人はたいてい、もう一回食べたいと思うてはるんで、ちょっと不思議に思うただけです。お話を聞かんうちからいらんこと言うてしもて、こっちこそすみません」こいしが一礼した。
「元をただせば、こちらの都合で義母に東京へ出てきてもらって、敬一の面倒をみてもらっていたのに、別居してほしいなんて言いだすのは人として間違ってますよね。それも敬一が甘え過ぎてしまうから、なんていう勝手な理由で。義母には本当に申しわけないことでした」
夕夏がローテーブルに目を落とした。
「お義母さんも気ぃ悪ぅしはりましたでしょ。帰る家もないのに別居したいて言われたら、怒らはっても当然ですやろね」
こいしの語気には義憤めいた気持ちが表れているようだ。
「おっしゃるとおりです。つい義母に甘えてしまったんです。ひとり暮らしには充分な広さと、整った設備のマンションだったので文句はないだろうという、おごった気持ちもありました」
「それで敬一くんのほうは?」
「最初のころはひんぱんに義母のマンションを訪ねていってましたが、それではいけないと義母が思ったのでしょうね。以前のように甘やかすことがなくなったので、敬一もだんだん足が遠のくようになって」
「なんやお義母さんが可哀かわいそうになってきた」こいしが肩をすくめた。
「ひと月ほど前のことです。義母の住むマンションの管理人さんが訪ねてこられて、義母の言動がおかしいと言われました。夜中に突然外出したり、何もないのに火事だと叫んだり、あげくにお隣の部屋のかたに泣きついたり」夕夏が顔を曇らせた。
「認知症……やろか」
「慌てて主人がお医者さまに診てもらったら、やはりそうでした。急激に進行したようで、かなりの重症だと言われました。施設に入れたほうがいいとも言われたので、すぐにそうしました」
「気の毒としか言いようがないなぁ。夕夏さんには悪いけど、そのまま一緒に住みながら解決する方法もあったんと違いますやろか」
こいしが言うと、夕夏はこっくりとうなずいた。
「わたしたちが間違っていたんです。義母から引き離すことが敬一のためだと思い込んでしまって。でも結果はまったく逆でした。問題行動がエスカレートして、暴力事件まで起こすようになってしまったんです」
「お義母さんは認知症にならはるわ、息子さんは荒れてしまわはるわ、て、ええことなんにもありませんやん。きつい言い方になってしまいますけど」「本当にそのとおりなんです。考えが甘かったというか、足りなかったというか、毎日主人と反省ばかりしています」
「そのことと、今捜してはるかやくご飯と関係あるんですか」「はい。八方ふさがりにしてしまった状況を打開するのには、義母が作ってくれていた炊きこみご飯を、もう一度敬一に食べさせるのが一番ではないかという結論になったんです」
夕夏がすがるような目でこいしを見た。
「そこをもうちょっと詳しいに説明してもらえますか」こいしはペンを握る手に力を込めた。
「義母と別居するようになって、一番困ったのは食事です。義母は料理上手で、特に高価な食材を使うわけではないのに、手早く美味しい料理を作ってしまいます。残りものもうまく活用して、京都で言うおばんざいのような料理が得意なんです。ふつうの男の子だったら、そんな地味なおかずよりハンバーグだとかフライドチキンやラーメンなんかを好むはずなのに、小さいときから食べ慣れているせいか、敬一は義母が作る料理だと喜んで食べるのですが、それ以外のものだと渋々といった感じなのです」「ほんまのおばあちゃんっ子なんですねぇ。そういう話はよう聞きますわ」こいしが合いの手をはさんだ。
「暴力事件を起こして、担任の先生に付き添われて下校してきた日の夜のことです。主人が説教していたら突然暴れだして、手が付けられなくなったんです。どうしていいのか、おろおろしていたら、敬一が叫んだんです。おばあちゃんの炊きこみご飯が食べたい、って。うろ覚えだったのを急いで作ったのですが、ひと目見るだけでそっぽを向いてしまって。さっきもお話ししたように、わたしは好きじゃなかったし、大して興味もなかったので、似ても似つかぬものだったと思います。主人も食べることには興味のない人なので、自分の母親が作った炊きこみご飯なのに覚えていないと言うんです。それ以来敬一はほとんど口もきかなくなって、大きな問題を起こすことはありませんが、学校にも行ったり行かなかったりを繰り返しています。そして何かあると決まって、おばあちゃんの炊きこみご飯が食べたいと泣き叫ぶんです」
困り果てた表情で夕夏が深いため息をついた。
「お義母さんに作り方を訊いてみはりました?」「もちろんです。主人が何度も訊きに行くのですが、料理を作るどころか、食べることも忘れてしまっているくらいですから」
「そらそやわね。認知症になってしもてはるんやから。敬一くんに訊いても分からへんのですか?」
「なにせ九歳の子どもですからね。こんなんじゃない、を繰り返すばかりで」「なんぼお父ちゃんでも、もうちょっとヒントがないと捜しようがないやろなぁ」「食を捜してくださるのは、あなたじゃなくてお父さんのほうですか?」驚いたように夕夏が大きく目を見開いた。
「まだ言うてませんでしたね。うちはお話を聞くだけで、ほんまに捜すのはお父ちゃんですねん」
「そうでしたか」
夕夏はホッとしたような表情を見せた。
「ご主人の実家は鹿児島やて言うてはりましたね。東京へ出て来はるまでお義母さんが住んではったとこ、鹿児島のどの辺です? ひょっとしたらヒントになるかもしれません」タブレットの地図アプリを開いたこいしが訊いた。
「市内です。鹿児島駅の西のほうで城しろ山やま公園のすぐ南側、『照てる國くに神社』の傍そばです」
夕夏が地図を指さした。
「でも、もうご実家はないんですよね」
「もし残っていたとしても、たいしてヒントにはならなかったと思いますよ」「なんでです?」
「主人も義父も炊きこみご飯が嫌いで、家で食べた記憶がないと言ってましたから」「そうなんや。でもお義母さんは敬一くんの好物になるくらい、しょっちゅう作ったげてはった。なんでなんやろなぁ」
「そうそう、少しヒントになるかもしれませんが、義母は敬一の炊きこみご飯にだけ、紅べに生姜しょうがで字を描いて載せてました」「千切りの紅生姜でですか?」
「はい。いつも〈王〉という字でした。義母は敬一に、──王さまが燃えるぞ──と言って炊きこみご飯を盛ったご飯茶ぢゃ碗わんを手渡すんです。すると敬一はいつもキャッキャッと笑って」
夕夏が白い歯を見せた。
「それが愉しかったんかもしれませんね。やってみはりました?」こいしがノートに赤色のペンで王の字を描いた。
「恥ずかしながら真ま似ねしてみました。でも敬一はまったくそれには反応しませんでしたから、それ目当てではなかったと思います」「ええヒントになるかなぁと思うたんやけどあかんかったか」ペンを置いて、こいしが腕組みをした。
「むずかしいお願いだということはよく承知していますが、なんとか捜していただけないでしょうか。短絡的だとも思うのですが、今のわたしたち夫婦には、ほかに解決策が見いだせないのです。どうぞよろしくお願いいたします」立ちあがって夕夏が深いお辞儀をした。
「あとはお父ちゃんに頼るしかないんですけど、なんとかがんばってもらいます」こいしも立ちあがってノートを小脇に抱えた。
先を歩くこいしのあとを追いながら、夕夏は廊下に貼られた写真に時おり足をとめる。
そのたびにこいしも立ちどまって、説明を加える。何度かそれを重ねるうち、ふたりは食堂に戻った。
「あんじょうお聞きしたんか」
待ちかまえていたように、流がこいしに声を掛けた。
「お話はたんと聞かせてもろたんやけど……」あとの言葉を吞のみこんで、こいしが夕夏に顔を向けた。
「ヒントらしきものはほとんどありませんので、ご苦労をかけると思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
「せいだい気張らせてもらいます」
「美味しいお料理もいただいて、難問を残して帰るのも大変心苦しいのですが、神さまにもすがる思いですので。とりあえず今日の食事代を」夕夏がトートバッグから財布を取りだした。
「探偵料と一緒にいただくことになってますねん」「分かりました。では次回に。いつお伺いしたらよろしいでしょうか」「だいたい二週間ほど時間をいただいとります。こっちから連絡させてもらいますわ」流の言葉にうなずいて、夕夏はコートとバッグを手にして店の外に出た。
「お気を付けて」
「どうぞよろしくお願いいたします」
見送って、流とこいしはカウンター席に並んで腰かけた。
「ものはなんや?」
「かやくご飯。東京では炊きこみご飯て言うみたいやけど」「たしかにヒントが少ないなぁ。難儀しそうや」流がノートを繰った。
「けっこう粘ったんやけど、これくらいしか訊きだせへんかったんよ」「なんやこの赤い印しるしは?」
流の問いに、こいしは笑いながら説明した。
「王かぁ」
流が両腕を組んでつぶやくと、こいしも同じ仕草をした。
「王やねん」
「九州に行かんとあかんな」
「行っても無駄やって。もう実家もないんやから」「行ってみんと分からんことがようけあるんや。九州には旨いもんもあるし」「ほな、うちも行こうかな」
こいしが甘えた声を出した。