2
暮れも押し迫っているころに、仕事以外で京都を訪れるとは思ってもみなかった。それも敬一とふたりで。
子どもがいれば、どこの家庭でも一大イベントとなるはずのクリスマスも、ふた親だけが空回りして、肝心の敬一は笑顔ひとつ見せることはなかった。
着ている真っ赤なダウンコートは、サンタクロースに扮ふん装そうするためのものだったが、空振りに終わってしまい、仕方なくそのまま玄関先に掛けておいたものだ。
このままお正月を迎えるのかと思うと、気分は滅め入いるばかりだ。
炊きこみご飯を見つけたと連絡をもらっても、さほど心が動かなかったのは、敬一のふさぎ込み方が、日に日にひどくなってきたからでもある。冬休みになってからは、ほとんど一歩も家を出ない。せめてゲームにでも興じてくれればいいのだが、それもしない。一日中自分の部屋に閉じこもっているだけの暮らし。朝晩の食事は一緒に摂とるのだが、ただただ空腹を満たしているだけにしか見えない。
夫の敬男は相変わらず忙しくしていて、ビジネス本にシーズンァ≌はないと言い放ち、今日も早朝から出社して行った。
義母の炊きこみご飯を食べに行こうと言うと、敬一は久方ぶりに屈託のない笑顔を見せた。そこに義母はいないと言葉を足しても、敬一の表情が変わらないのは、夕夏には意外だったのだが。
好きで続けてきた仕事も、そろそろ潮時なのだろう。たとえ炊きこみご飯が見つかり、それを喜んで敬一が食べてくれたとして、それで終わりではない。そこから始まるのだ。
そんなことを考えるうちに、気が付くと『鴨川食堂』の前に立っていた。
「お早いお着きで」
背中から聞こえてきたのは、こいしの声だ。
「こんにちは。ご連絡ありがとうございます。気が急くもので。息子の敬一です。ほら、ちゃんとご挨拶しなきゃ」
夕夏が敬一の頭を押さえた。
「こんにちは。武藤敬一です」
敬一が首だけを曲げた。
「お父ちゃんもお待ちかねですよ」
こいしが抱いていたトラ猫を地面におろすと、夕夏の足元にすり寄ってきた。
「猫を飼ってらっしゃるんですか?」
夕夏が屈かがみこむと、敬一もその横に並んだ。
「食べもん商売の店に犬猫は入れられん、てお父ちゃんが厳しい言わはるもんやさかい、飼うてるわけやないんですよ。〈ひるね〉ていう名前だけ付けて、この辺にずっと居ついてますけど」
こいしが敬一の隣に屈んだ。
「年中さんのころに、敬一が猫を飼いたいと言って捨て猫を拾ってきたんですが、主人が許可しませんで。自分が面倒をみるからと義母が後押ししたのですが、結局飼えず終じまいで」
敬一を横目にして、夕夏がひるねの頭を撫なでた。
「寒ぉっしゃろ。どうぞお入りください」
気配を感じたのか、店の引き戸を開けて流が手招きした。
「ありがとうございます。今日は愉しみに参りました」赤いダウンコートを手にして、夕夏が敷居をまたぐと、ぎこちない動きで敬一がそれに続いた。
「こんにちは。武藤敬一です」
黒いスタジアムジャンパーを着た敬一が同じ挨拶を繰り返した。
「なんとか見つかってよかったですわ。たぶん合うてると思うんやけどな、違ちごうてたら違うて正直に言うてや」
流はしゃがみ込んで敬一に笑顔を向けた。
「すぐに用意するさかい、ここに座って待っててや」敬一の背中を抱くようにして、流がテーブル席に案内した。
「おばちゃんも食べてみたんやけど、ほんまに美味しかったわ。愉しみにしててな」こいしがふたりの湯吞に茶を注いだ。
「愉しみだね」
並んで座る夕夏が言葉を掛けると、敬一はこわばった姿勢のままで小さくうなずいた。
「ジャンパーぬいでいい?」
「いいわよ。暑い?」
「なんかきゅうくつ」
座ったままの敬一は、ぎこちない動きでジャンパーを脱いだ。
「こっちに掛けとくわね。お母さんのコートも一緒に」こいしがコート掛けにふたつのハンガーを掛けた。
短い言葉ではあったが、敬一が自分の気持ちを言い表したことに、夕夏は少しばかり驚いた。何かを訊たずねてもうなずくばかりで、最近は自分から口を開くこともめったにない。今朝も新幹線に乗っているあいだ、ずっと窓の外を見ていた敬一が発した言葉は「トイレ」だけだった。
敬一は身体の向きを変え、ときには中腰になり、顔を上げ下げし、店のなかを興味深げに見まわしている。何かが敬一のなかで変わりつつある。それが何なのか、いい兆しなのかどうかも、まだ夕夏には分からない。
「さあさあ、お待ちかねのかやくご飯が登場やで。敬一くんらは炊きこみご飯て言うんやろけど、おっちゃんらのとこではな、かやくご飯て言うんや。なんでか分かるか?」小ぶりのふた付き丼をふたりの前に置いて、流が敬一に訊いた。
「わかりません」
少し間をおいてから、敬一が答えた。
「かやくっちゅうのはな、爆弾の原料やねん。そやから火ぃ点けたら爆発する。おっちゃんが炊いたかやくご飯もな、ときどき爆発することがあるんや」そう言って流がふたに手をやると、敬一が大きく身体をのけぞらせた。
「こわい」
「大丈夫よ。ママが付いてるから」
夕夏が敬一の肩を抱いた。
「どうぞばくはつしませんように」
流が呪文を唱えるようにつぶやき、両手でふたを開けようとすると、こいしは手で両耳をふさぎ、それを見た敬一は仕草を真似た。
「ぱーん」
小さく声をあげて、流がふたを取るとかすかに湯気が上がった。
「よかったなぁ、爆発せんで」
こいしが顔を向けると、敬一は目を輝かせて丼を見つめた。
「たくさん炊いてあるさかい、いっぱい食べてや」両手にふたを持ったまま、流が敬一に言った。
「クニちゃんのご飯……」
笑顔を丸くして、敬一が口を開いた。
「義母は邦子って言います。敬一はクニちゃんと呼んでいるんです」「どや。クニちゃんのご飯とおんなじやろ」
流が言うと敬一はこっくりとうなずいた。
「王さまがもえてる」
ご飯の上には紅生姜で〈王〉の字が描かれている。
「ほんとにクニちゃんのご飯だね」
「食べていい?」
敬一が箸を取った。
「もちろん」
夕夏が答えるのと同時に、敬一は丼のご飯に箸を付けた。
紅生姜を箸でつまみ、三本ほど口に入れてから、たっぷり載った具を食べ、そのあとに黄色いご飯をかきこんだ。
「美味しい?」
夕夏が訊ねると、敬一は無言でうなずき、箸を動かしつづけた。
「どうやら合うとったみたいやな」
ホッとしたような顔つきで流が見ると、こいしが満面の笑顔で流の背中をはたいた。
「ママも早く食べなきゃ」
箸を付けずに様子を見ていた夕夏に、敬一が強い口調で言った。
「けいちゃんの食べっぷりが、あんまりいいから見とれちゃった」夕夏が慌てて箸を取った。
「どうぞごゆっくり」
笑顔を残して、流とこいしが下がっていった。
食堂に残ったふたりは並んで箸を動かし、時おり箸が丼に当たる音だけが響いている。
「美味しいね」
敬一が屈託のない笑顔を夕夏に向けるのは、いつ以来だろうか。何ヵ月も前に遡らなければならない。
「うん」
涙目になった顔を、夕夏は天井に向けた。
夢中で箸を動かす敬一の姿を見るのも久しぶりのことだ。邦子と別居するようになってからは一度もなかったような気がする。それがしかし、たった一杯の炊きこみご飯の力だとすると、どう解釈すればいいのだろう。これから先もずっとこれを食べさせ続けることになるのか。食べ進むうち、複雑な気持ちが夕夏の胸のなかを行き来し始めた。
そしてもうひとつ。敬一の食べっぷりを見るに、邦子が作っていた炊きこみご飯と同じと言ってもいいだろうこれを、流はどうやって捜しだしたのか。更に言えば、邦子の作ったいろんな料理のなかで、なぜ敬一はこの炊きこみご飯にこだわったのか。そんな疑問が夕夏の胸のなかに渦まいている。
「お代わりもらってもいいのかな」
敬一が空になった丼を見せた。
「おじちゃんがたくさん炊いたって言ってたから大丈夫。すみません、お代わりをお願いできますか」
立ちあがって夕夏が大きな声をあげた。
「気に入ってくれたんやな。おっちゃんも嬉うれしいけど、きっとクニちゃんも喜んではるわ」
勢い込んで流が厨房から出てきた。
「クニちゃんのご飯はやっぱり美味しい」
敬一が空の丼を流に差しだした。
「よかったなぁ」
土瓶を持ってきて、こいしがふたりの湯吞に茶を注いだ。
「記憶があいまいだったのですが、義母の炊きこみご飯はこんなふうだったのですね」丼の底をさらえながら、夕夏が流に言った。
「あとで詳しいに説明しますけど、正確には炊きこみご飯と違うんです。ご飯と具は別々に炊きますねん」
流は丼にご飯を盛り、その上からたっぷりの具を載せた。
「そうだったんですか。てっきり一緒に炊くものだと思い込んでいました」「美味しいんだから、どっちでもいいじゃん」敬一の言葉に、流と夕夏は顔を見合わせて笑った。
「まだまだようけあるさかいに、たんと食べてな」こいしがそう言うと敬一が即座に反応した。
「クニちゃんとおんなじ言いかただ。ようけある……」「そうやねん。おばあちゃんの田舎の大分と、関西はおんなじ言いかたをするんや。たくさんある、ていうのを、ようけある、て」
流が手で大きな円を作ってみせた。
「そう言えば、義母の故郷は大分のほうだって聞いたことがあります。たしかに、ようけ、って言ってました。でも、よく覚えているね、けいちゃん」夕夏が頭を撫でると、敬一は得意そうに笑った。
「邦子はんにそれをたしかめるために、施設に伺いました。紅生姜で〈王〉の字を描いて、燃えるて言うてはった。それだけが唯一のヒントでしたさかいに。大分の臼うす杵きっちゅうとこには、昔から〈王〉の字を燃やす火祭がありますねん。京都の大文字みたいですけど、臼杵の人には馴な染じみが深い行事ですわ。せやからきっと邦子はんの田舎は臼杵やろうと思うたんです。それさえ合うとったら、料理には心当たりがありましたんで、なんとか捜しあてることができました」
タブレットを操作して、流が夕夏と敬一に何葉かの写真を見せた。
「このお祭り見たい」
敬一が画面におおいかぶさった。
「赤い生姜とおんなじ〈王〉の字が勢いよう燃えるんや。おっちゃんも見てみたいわ」「火祭と炊きこみご飯は何か関係があるのですか?」夕夏が訊いた。
「火祭だけやおへんけど、臼杵では赤飯の代わりに、お祝いごとがあったりしたら、黄飯を炊くんやそうです。クチナシの実を使うて米を黄色ぅ染めたんですやろな。その上に載せたんが、かやくっちゅう具です。黄飯とかやくはセットみたいなもんです。それを混ぜたら炊きこみご飯みたいに見えたっちゅうわけで、おそらく邦子はんは臼杵のやり方で作ってはったと思います」
流の説明を神妙な面持ちで聞いていた敬一が口を開いた。
「クニちゃんが作ったんじゃなくて、おじちゃんが作ったんだけど美味しい。ママにも作れるかな」
「もちろんやがな」
「ほんとうに?」
上目遣いになって、敬一が夕夏の目をじっと見ている。
「あんなぁ敬一くん。料理で一番だいじなんは、作る人の気持ちやねん」敬一と向かい合い、椅子に座って流が続ける。
「食べる人の顔を思い浮かべながら作るんや。美味しいて言うて食べてくれるかなぁ、たくさん食べて欲しいなぁ、と思いながら作るやろ。その気持ちが相手に通じて、美味しい顔して、たくさん食べてくれたら嬉しい。また次も美味しい料理作ろと思うわけや。ママはきっとそう思うて作らはるに決まってる。せやから絶対作れるっちゅうわけや」流が話している最中、何度もうなずいていた敬一は、最後に夕夏の顔を見つめ直して満面の笑みを作った。
「敬一くん。もうひとつだいじなことがあるんや」流が真っすぐに瞳を見つめると、敬一は背筋をピンと伸ばした。
「そうして作ってもろた料理を食べるほうも、作ってくれた人のことを思わんとあかんのや。自分のために一生懸命作ってくれはったことに感謝せんとあかん。分かるな?」「うん」
「これからはクニちゃんに代わって、ママが作ってくれはるから、愉しみにしときや」「でも……」
伏し目がちになって敬一が声を落とした。
「敬一くんはおばあちゃんのクニちゃんが大好きなんやな。そやからクニちゃんに作って欲しい。その気持ちはおっちゃんもよう分かる。けどな、交代せんならんときが来てしもたんや。たしか敬一くんは野球を観るのが好きやったな」「うん。一番好き」
「そしたら分かるはずや。ピッチャーでもバッターでも、ここっちゅうときには交代するやろ? 疲れてしもたときとかに。それと一緒や。クニちゃんも疲れはったんやから休ませてあげんと。また次の試合でがんばってくれはる」「うん。分かった。クニちゃんは疲れたから、ママと交代するんだね」「そうや。敬一くんはかしこいな。すぐに話が分かるんや」流が両肩に手を置くと、敬一は照れ笑いを浮かべた。
納得したのか、ふたたび箸を手にした敬一は、さっきにも増して勢い込んで食べ進めた。
「本当にありがとうございます。久しぶりの食べっぷりが何より嬉しいです」夕夏が目を細めて敬一の口元を見つめた。
「レシピもお渡ししますね。お父ちゃん流の作り方やさかい、そない難しないと思います」
「レシピどおりやのうて、適当にアレンジしはったらよろしいんやで。今日はエソっちゅう魚のすり身を使うてますけど、なかなか手に入りまへんさかい、かまぼこの刻んだんでもいけます」
「何から何までありがとうございます。料理を作るのが愉しみになってきました」レシピに目を通しながら、夕夏が目を輝かせた。
「あんじょう作ったげなはれや」
「でも、ひとつだけ不思議に思っていることがあるのですが」黙々と箸を動かしている敬一を見ながら、夕夏が小声で流に問いかけた。
「なんです?」
流が声のトーンを下げた。
「義母はほかにもたくさんの料理を作って食べさせていたのに、敬一はなぜこの炊きこみご飯にこだわったのでしょう。あまり子どもが好きそうなものには思えないのですが」「わしにもそこまでは分かりまへん。敬一くんの好みなんかもしれまへんけど。あくまでわしの想像ですけどな、たぶんこういうことやないかと思うんですわ」流が郷土料理の本を開き、臼杵のページを夕夏に見せた。
「質素倹約を旨とし……、赤飯の代わりにクチナシの実をつぶして黄色いご飯を炊き……お祝いごとや労をねぎらうときに作られた料理……」夕夏が説明文を読むと、流が言葉をはさんだ。
「テストの成績がよかったときやとか、運動会でがんばったときやとか、敬一くんになんぞええことがあったときに、邦子はんがこの料理を作って食べさせてはったんやないかと思います。せやから敬一くんのなかでは、嬉しいことと、この料理が重なるんと違いますやろか。料理を作るのにだいじなんは、食べるもんの身になることです。気持ちに寄り添うっちゅうことです。邦子はんは敬一くんの喜びを自分の喜びに重ねて、この料理を作ってはった。料理を作る側と食べる側が一緒に喜び合う。子どもながらに、敬一くんはそのことをちゃんと胸にしもうてはったんですやろ」流がそう言うと、夕夏は瞳を潤ませた。
「自分の都合を敬一に押しつけていたのかもしれませんね。おっしゃることが身に沁しみます」
「そや、敬一くん、ママにこの料理を作ってもろて、クニちゃんに届けてあげたらどう?」
「うん。そうする。クニちゃんにも食べてもらう」店に入ってきたときとは別人のように、やわらかな笑顔をふりまく敬一に、夕夏は穏やかなまなざしを向けた。
「そうそう、この前の食事代と合わせて、探偵料のお支払いを」夕夏が財布を取りだした。
「うちは特に料金を決めてませんねん。お気持ちに見合う金額をこちらに振り込んでおいてください」
こいしがメモ用紙を夕夏に手渡した。
「承知しました。帰りましたらすぐに」
名残を惜しむかのように、ゆっくりとジャンパーを羽織った敬一が立ちあがり、夕夏がその肩に手を添えた。
「敬一くん、元気でがんばりや」
こいしが声を掛けると、敬一は小さくうなずいた。
「これでいいお正月を迎えられそうです。本当にありがとうございました」夕夏が深々と頭を下げると、敬一がそれを真似た。
「どうぞ佳よいお年を。ご安全に」
店の外に出て、流が夕夏に声を掛けた。
手をつないだふたりが、何度も振り返りながら正面通を西に向かって歩いていく。流とこいしはその度に手を振って笑顔を向けた。
見送って、ふたりが店に戻ろうとすると、ひるねが飛びだしてきた。
「こら。店に入ったらあかんで」
「分かってるやんなぁ。ひるねのことも忘れんといて、て言いに出てきただけやわ」屈みこんでこいしが喉をさすると、うっとりと目を閉じてから、ひるねは走り去っていった。
「今年ももうちょっとで終わりやなぁ。おかあちゃん、来年もよろしゅうに」店に戻ってこいしが仏壇の前で正座した。
「あれもせなあかん、これも片づけなあかん、て忙しがってるんと違うか。ゆっくりしたらええんやで。のんびりしとき。正月は冥土の旅の一里塚や。わしももうすぐそっちへ行くさかいな」
線香をあげて、掬子の写真に流が語りかけた。
「まだ来んといて。もうちょっとひとりでゆっくりしたいさかい、ておかあちゃん言うてはる」
こいしが舌を出した。
「黄飯とかやく、掬子の好きそうな料理やな。ちょっと食うてみるか?」流が立ちあがった。
「お母ちゃん、黄色も好きやったしな」
こいしがあとに続いた。
「ようゲンかついどったさかい、これで金運がようなるて喜びよる」流は飯茶碗に黄飯をよそった。
「敬一くんがこの料理にこだわってたんがよう分かるわ。なんか食べたらええことがありそうな気がするもん」
こいしが上から具をたっぷり載せた。
「子どもは素直やさかい、直感で分かるんや。しあわせを呼ぶ料理やてな」仏壇に供えて、ふたりが手を合わせた。