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第六卷 第五話 カツ弁 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3339
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  二週間前とは打って変わって、京都は春らしい陽気に包まれていた。
  若草色のスプリングコートを脱いだ純子は、JR京都駅の中央口から『鴨川食堂』を目指して歩きはじめた。
  駅の時計は午前十時を指していた。約束の時間まではまだ三十分ほどあるが、ゆっくり歩いていけば、ちょうどいい時間になるだろう。それにしても朝十時半までに来店して欲しいという、時間指定には何か意味があるのだろうか。おそらくランチタイムまでに食捜しの仕事を済ませたいということなのだろう。
  捜しだしたという連絡をもらってから今の今まで、待ち焦がれる、という言葉以外に自分の感情を言い表すものは、まったく見つからなかった。
  博多に移り住んでから、祇園山やま笠かさの〈追い山〉が行われる夏の朝を心待ちにするようになったが、規模はうんと小さくても、故郷の『冨とみ吉よし建たけ速はや神社』の〈須す成なり祭〉を待ち焦がれる気持ちのほうがはるかに大きかった。
  提ちょう灯ちんを灯ともした船が川を上る〈宵祭〉をGと一緒に観みた夜のことは今も鮮明に覚えている。祭で気分が昂こう揚ようしたせいもあって、ほんの一瞬だが手をつないで胸をときめかせた、あの手のひらの感触は忘れることができない。
  その次の年の〈須成祭〉が始まると、居てもたっても居られなくなった。〈宵祭〉に何が起こるだろうか。期待と不安がない交ぜになったまま、その夜を待ち焦がれたときとまったく同じ気持ちで、この三日間を過ごした。
  自分の気持ちがどう動くのか、まったく予想できないまま、純子は『鴨川食堂』の引き戸を開けた。
  「お待ちしとりました」
  作さ務む衣えに身を包み、茶色の和帽子をかぶった流が出迎え、ブラックジーンズに白いシャツ、ソムリエエプロンを着けたこいしはそのうしろに控えている。
  「愉しみにして参りました。どうぞよろしくお願いいたします」深々と頭を下げる純子は、黄色いロングカーディガンの前を合わせた。
  「準備はできとりまっさかい、いつでもお出しできます。すぐにお持ちしてもよろしいかいな」「はい。わたしも食べる準備はできておりますので」畳んだコートとトートバッグを横に置いて、純子がパイプ椅子に腰かけた。
  「せわしいことですんません。お茶を置いときますよって」こいしは土瓶と湯吞を置いて下がっていった。
  土瓶から湯吞にほうじ茶を注ぎ、ふた口ほど飲んだところで、流が風呂敷包みを持ち、純子の傍らに立った。
  「おそらくこんなカツ弁やったと思います。どうぞゆっくりと召しあがってください」「ありがとうございます」ふわりと腰を浮かせた純子が小さく頭を下げた。
  紫色の風呂敷包みに触れただけで、指先から胸の奥底まで電流が走ったような気がした。
  わずかに震える指先で結び目を解くと、黄色く変色したアルマイトの弁当箱が現れた。
  少しゆがんだ蓋のすき間から甘酸っぱい香りが漂ってくる。
  もしかするとパンドラの箱なのかもしれない。そう思いながら開けずにおられなかった、あの日の記憶がよみがえってきた。
  両手で持って、蓋を外そうとすると、金属どうしがこすれ合う、耳障りな音がした。
  細かな水滴がびっしり付いた蓋裏を表向きにして、その上に弁当箱を重ねた。
  茶色く染まった小ぶりのカツが表面を埋め、そのすき間からは千切りキャベツが顔を覗かせている。ご飯の姿がまったく見えないところも、あの日のカツ弁と同じだ。
  空色をしたプラスティックの箸は、きっとGが愛用していたものに違いない。そう思っただけで心臓が破裂しそうなほど胸の鼓動が高まったあの日。
  箸を手にした純子は、カツとキャベツと白飯を一緒に掬すくって口に運んだ。
  ゆっくり、じっくり、味わいをたしかめるように嚙みしめる。こんな味だったような気もするが、ぜんぜん違っていたようにも思う。
  カツにまぶしてあるのは中濃ソースのようだが、いくらか醬しょう油ゆの味も感じられる。いずれにせよ、ご飯によく合う味付けであることだけは間違いない。
  同じことを二度繰り返した直後だった。〈宵祭〉の帰り途みちでGがぽつりと漏らした言葉が、どこかから聞こえてきたような気がしたのは、列車のなかとまったく同じだった。
  ──来年も再さ来らい年ねんも、その次の年も、またその次の年も、純ちゃんと一緒に〈宵祭〉を観たいな──きっとその言葉どおりになると確信したのに。そのときから列車のなかで涙が止まらなくなったのだ。
  二度と一緒に観ることができなくなったのは自分のせいなのか、Gのせいなのか、それともGの母親のせいなのか。それが分からずに赤子のように泣きじゃくってしまったのだ。
  あの日と同じように声をあげて泣けば、どれほど気持ちが楽になるだろう。灰色に固まった胸のつかえがおりるだろうか。
  三分の一ほど食べた辺りで、あの日のカツ弁と同じように佃煮が出てきた。箸でつまんでじっくり眺めてみると、どうやら貝を佃煮にしているようだ。佃煮にしてはあっさりしているそれは、ほんのひとつまみほどだ。箸休めというところだろう。
  カツのコロモをはがして、中身を見てみたい気もするが、きっとあとで種明かしをしてくれるだろうから、あの日の列車のなかと同じように、何を揚げてあるのか分からないまま食べていくうちに、カツ弁が残り少なくなってきた。
  はたしてこれが六十年近く前と同じ味かどうかは分からないが、深い味わいだということに驚いた。母ひとり子ひとりで、慎ましやかな暮らしぶりだと思っていたが、内情は少し違ったのかもしれない。
  Gの好物で、週に一度か二度は、このカツ弁を朝ご飯代わりにしていると言って、Gの母親はこれを純子に手渡した。
  当時、純子の家の朝ご飯と言えば、ご飯と味み噌そ汁しると海の苔りの佃煮、漬物くらいだった。それに比べればはるかにご馳走ではないか。
  貧しい暮らしのなかでの、ただひとつの希望の光としてGの出世を夢見た母と息子だったからこそ、純子は身を引く覚悟を決めたのに。そう思うといくらか気持ちが萎えてしまった。
  「どないでした? 捜してはったカツ弁とおんなじでしたか」流が純子の傍らに立った。
  「あいまいな記憶ですから、同じだったかどうかはよく分かりませんが、とても美味しいものだったのだ、というのは少し意外でした。お肉の代用品として何かを揚げていたのだろうと、長いあいだ思っていましたが、どうやら違ったようですね。贅ぜい沢たくなカツの中身は何だったんです?」カツ弁の中身を少し残したままで純子が箸を置いた。
  「順を追うてお話しさせてもろてもよろしいかいな」「もちろんです」「ほな、失礼して」
  和帽子を脱いで、流が純子と向かい合う形で腰かけた。
  「最初に種明かししますとな、これはハマグリのカツなんですわ」「なんとなく高級な食材だろうなと思いましたが、ハマグリでしたか。贅沢なカツ弁だったのですね」カツ弁を横目にして、純子が冷めた表情を見せた。
  「たしかに今の時代やと、高級カツ弁になりまっけど、六十年近く前とは何もかも違いますさかい。それに加えて、Gくんのおうちの事情もありましたんで、贅沢とはほど遠いカツ弁やったと思います」流が色いろ褪あせた写真をテーブルに置いた。
  「これは?」
  純子が写真に目を近づけた。
  「三重県の桑くわ名なにあるハマグリ屋はんに残ってた写真です。この右から二番目の女性がGくんのお母さんみたいですわ」「そう言われれば、こんな人だったように思います。そう。たしかにこの人です」じっと写真を見つめるうちに記憶が呼び覚まされたのか、純子が断言した。
  「でも、なぜGくんのお母さんが桑名に?」
  「ここが当時のGくんのお母さんの仕事場やったんです。このころはようけハマグリが採れたもんやさかい、その選別をする仕事は大忙しやったみたいです。Gくんのお母さんはここで毎日休むことものう、朝から晩まで精出して働いてはったみたいです。女手ひとつで息子を育てるのは大変なことですわ」「県はお隣ですけど、たしかに蟹江と桑名はそう離れていませんものね。そうでしたか。
  桑名のハマグリ屋さんで……」
  「仮にお母さんのことをF子はんとしますと、F子はんは人一倍よう働いてはって、後輩の面倒見もええ人やったそうです。F子はんが仕事を辞めて上京しはる前に入らはった当時の新人さんが、今は最古参になってはるそうで、そのかたからいろいろとF子はんのことをお聞きしてきました」「ひとつお訊ねしたいのですが、鴨川さんはどうやってF子さんのことをお知りになったんですか?」「わしねぇ、今は食堂の主人をしてますけど、長いあいだ警察に勤めとりましてなぁ」流が意味ありげな視線を向けると、純子はハッとしたような顔をして、こっくりとうなずいた。
  「純子はんがGくんと呼んではるのは、警察官僚のトップまで昇りつめはった、あの人のことですやろ。蟹江町出身のGと聞いてピンと来ましたんや。伝説の人ですわ。一般にはあんまり出回ってまへんけど、退職されるときに回想録を出版しはりましてな、ここにふるさとのことやら、F子はんのことも書いてありますんや。わしらにとっては雲の上の、そのまた上の人ですわ」流が冊子をテーブルに置いて、表紙を純子に向けた。
  「すっかり偉くなったことは、テレビの国会中継なんかを観て知ってましたけど、Gくんはふるさとのことを忘れてなかったのですね。ホッとしました」「忘れるどころか、蟹江という街に生まれていなかったら、今日の自分はなかった、とまで書いてはります。特にお母さんのF子はんのことは、書いても書いても書ききれん、っちゅう気持ちがよう出てます。一緒に上京して、警察組織に入るのを見届けるようにして、F子はんは亡くなったみたいです」「そうでしたか」
  「桑名のハマグリですけどな、純子はんが博多へ行かはったあとの昭和四十年代が漁獲高のピークやったみたいで、三千トンほども揚がったんやそうです。忙しかったやろ思います。F子はんの仕事はハマグリの殻をたたいて、売りもんになるかどうかを瞬時に判断する、っちゅう作業で、殻が割れとったり、鈍い音がするハマグリをハネてはったんですな。お店に頼んで、それを持って帰って、カツにしたり天ぷらにしておかずにしてはった。せやから、もちろんほんまに好物やったかも分かりまへんけど、息子のGさんにとっては、母親の苦労が染み付いたハマグリやと思うて、好んで食べてはったんやと思います」「話は聞いてみないと分からないものですね。今のお話を聞かなければ、勘違いしたままだったかもしれません。カツ弁はとても贅沢なお弁当だったのかと」「Gさんにとっては、最高に贅沢なおふくろの味やったんでしょうな。味もやけど、F子はんの心が最高のご馳走やった」「それくらいたいせつにしてはったカツ弁を、お弁当箱ごと渡さはったんは、お母さんの精いっぱいの気持ちやったんと違います? F子さんは純子さんに申しわけないと思う気持ちを込めはったんや」こいしが横から言葉をはさんだ。
  「F子さんだけじゃない。わたしだって、精いっぱいの気持ちを形にしましたよ。何もかも捨てたんですから。ふるさとも、家族も、そして一番愛している人も」堰せきを切ったように、純子の目から涙が溢あふれ出た。
  「純子はんの気持ちはよう分かります。けど、あなたの決断によって誰か不幸になりましたやろか。人生を狂わされた、そう思う人がひとりでも出ましたやろか」流の言葉に、純子は溢れ出る涙を拭いながら、ゆっくりと顔を左右に向けた。
  「辛かったやろ思います。悔しかったかもしれまへん。なんぼ愛する人のためやというても、なんで自分がこんな目に遭わんならんのや。そう思わはって当然です。後ろ指さされてもええ。罵ば詈り雑言を浴びてもええ。この人と一緒に生きて行くんや。ほんまはそう叫びたかったやろうと思います。けど、あなたは、そうなさらなんだ。自分を生かすより、捨てるほうを選ばはった。立派なことやないですか」純子の首の動きが縦に変わり、小さく嗚お咽えつがもれはじめた。
  「立派やと思うけど、こんなせつないこともない。うちには無理やわ」こいしが深いため息をついた。
  「慣れてへんとハマグリを殻から取りだすのに手こずります。身を取りだして、軽ぅ塩胡椒します。薄力粉、溶き玉子、細目のパン粉の順番に付けて揚げます。このときにコメ油を使うのが、冷めても美味しい食べられるコツです。桑名では昔からコメ油をよう使うとったみたいです。弁当に添えてあったんはハマグリのしぐれ煮ですわ。佃煮よりあっさり味に炊いたもんで、その煮汁とウスターソースを混ぜたタレをカツに染みこませて味付けする。弁当箱に白ご飯を敷いて、千切りキャベツを載せて、その上にハマグリカツを載せて弁当箱の蓋をする。半日ほど寝かせたころがちょうど味がキャベツとご飯にも染みて食べごろになるんですわ」流がカツ弁の作り方を純子に教えた。
  「出来たてより、時間を置いたほうが美味しいもんもあるんやなぁ」こいしが弁当箱に目を遣やった。
  「十時半という時間にはそういう意味があったんですね」いとおしむように純子が弁当箱を撫なでた。
  「念のために当時の時刻表を調べてみましたんや。昭和三十七年ころやったら、たぶんこのダイヤで〈あさかぜ〉は運行されとったやろうと思います。名古屋を出たんは二十三時二十一分。夜中の二時ごろに大阪、博多着は十一時五十五分。純子はんがカツ弁を食べはったんは十時半に下関に着いたころやないかと思いましたんで、それに合わせたんですわ。Gさんの回想録に、──母は毎晩七時前に帰宅し、わたしに夕食を食べさせたあと、すぐに翌日の弁当を作っていた──て書いてありましたさかい、わしも夕べ、それくらいの時間にこのカツ弁を作らせてもらいました。こういう弁当は時間の経過によって味が変わりますさかいな」流が時刻表のコピーを見せた。
  「そこまでしていただけてしあわせです」
  「お父ちゃんは完璧主義やさかい」
  こいしが嬉うれしそうに言った。
  「ありがとうございます。これですっきりしました。この前のお食事の分と併せてお支払いを」純子がトートバッグから財布を取りだした。
  「お気持ちに見み合おうた金額をこちらに振り込んでもらうことになってますんで、よろしゅうお願いします」こいしがメモ用紙を手渡した。
  「承知しました。戻りましたらすぐに」
  メモを折りたたんで財布にしまった純子は、トートバッグとコートを手にして立ちあがった。
  「どうぞお気を付けて」
  流とこいしが店の前に並んだ。
  正面通を西に向かって歩く純子は、二週間前よりも小さく見えた。
  「ようそんな古い時刻表見つけてきたなぁ。さすがお父ちゃんや」店に戻るなり、こいしが流の背中をはたいた。
  「痛いがな。お父ちゃんが元刑事やったっちゅうことを忘れたらあかんで」一瞬顔をしかめたあと、流が鼻を高くした。
  「えらいこっちゃ。お弁当箱、返すの忘れたやん。まだ間に合うやろか」アルマイトの弁当箱を見つけたこいしが、慌てて手に取った。
  「もう要らんさかいに置いていかはったんや」「けど、六十年近くもだいじに残してはったもんやで」「その区切りをつけるために、うちへ来はったんやがな」「区切りて?」「ご主人が亡のうならはって、純子はんは寂しいなって、カツ弁やら、その当時のことを思いださはった。なんやモヤモヤするもんが出てきて、それを引きずったまま、あっちでご主人に会うのが嫌やったんやと思う。茜から聞いたんやが、純子はんは去年の暮れに、余命半年やて医者から言われはったそうや」流が仏壇の前に正座した。
  「そうやったんか。思い出を整理してから、向こうでご主人と会いたかったんか。ええ話やなぁ。お父ちゃんは、そういうモヤモヤはないやろな」こいしが線香に火を点つけた。
  「そんなもんあるかい。いつでも掬子に会いに行けるわいな」「こんなん言うてはるけど、ほんまやどうや分からへんよ。そっちに行かはったら、お母ちゃん、きっちり追及しいや」こいしが手を合わせた。
 

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