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第六卷 第六話 お好み焼き 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3338
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  沖縄那覇空港からは二時間ほどのフライトで関西国際空港に着く。沖縄よりいくらか温度は低いものの、湿度はあきらかにこちらのほうが高いので蒸し暑く感じる。梅雨の明けた沖縄から、梅雨まっただ中の京都への旅だ。
  糸いと数かず幸こう一いちは手荷物を受け取って〈特急はるか〉で京都へ向かった。
  京都駅前の新しいホテルに勤めることが決まっている幸一にとっては、その下見もかねた京都旅だが、一番の目的は食捜しである。
  二十代も半ばになり、これまでとはまったく違う方向に舵かじを切ろうとするにあたって、ひとつだけ乗り越えておきたい壁があり、それには、あの食をもう一度食べる必要があると思っている。
  白いチノパンに花柄のかりゆしシャツを着た幸一は、列車のなかでは場違いにも見える。ゆっくり車窓の景色を愉たのしむひまもなく、〈特急はるか〉はあっという間に京都駅に着いた。長いホームを歩き、中央口から出た幸一は手描きの地図を広げ、京都タワーを見上げた。
  幸一は高い建築物が好きだ。高校を卒業してすぐに就職したのも、海を見下ろす十三階建ての高層ホテルだった。就職説明会のとき、青空に屹きつ立りつする白いホテルを見上げ、仕事の内容も聞かずに就職希望を伝えたのだった。
  信号をわたって、京都タワーの横を通りすぎて、真っすぐ北に向かって歩く。
  ホテルの料飲部長の比ひ嘉がが書いてくれた道順どおりに歩くと七条通に出て、イラストと同じ『東本願寺』が見えてきた。この寺の本堂らしき建物の屋根も驚くほど高い。
  「てっぺんは見上げるだけでいい。てっぺんなんて目指すな」父幸こう信しんの言葉で胸に残っているのは、たったふたつだけ。もうひとつは、「人の上に立とうと思うな。地べたをはいずりまわっててもいいから、自分の好きなことをやれ」
  どっちも言っていることは似たようなものだ。そんな言葉を地で行く人生を歩んだ幸信は、今ごろどこでどうしているのだろう。生きているのか、死んでしまったのかすら分からない。
  七条通を北にわたってしばらく歩くと、今回の旅の目的である、食捜しの探偵事務所に近づいてきたようだ。比嘉が赤い字でゴールと書いてくれている印はすぐそこ。道行く僧侶に訊たずねてみる。
  「すみません。『鴨川食堂』というお店に行きたいのですが、この辺にありますか?」「鴨川はんとこやったら、その通りを越えてすぐ右手にあるわ」きれいに剃そりあげた頭に汗の粒を光らせ、年老いた僧侶が答えた。
  沖縄ではめったに見かけないお坊さんが、ふつうに歩いているのも不思議な光景だ。
  「ありがとうございます」
  「食を捜してはるんか?」
  「ええ。よくお分かりで」
  「なんぞ迷うてはることがおありですんやろ。無事に解決することを祈っております」僧侶が手を合わせた。
  僧侶の言葉にしたがえばこの家になるのだろうが、どこからどう見ても食堂には見えない。
  幸一は思い切って引き戸を開けた。
  「こんにちは」
  しばらく待ってもなんの反応もない。幸一はもう一度声をあげた。
  「こんにちは」
  「すんません、ちょっと待っててくださいね」今度は若い女性の声が奥のほうから返ってきた。
  「急ぎませんからいくらでも待ちますよ」
  幸一は苦笑いしながら後ろ手で引き戸を閉めた。
  ひとりも客はいないが、テーブル席もカウンター席もあり、暖の簾れんの奥は厨房になっているようだ。昆布出だ汁しのような匂いが漂ってくるが、揚げ物の残り香も感じる。たしかにここは食堂だ。だが探偵事務所はどこにあるのだろう。みじんもそんな気配は感じない。
  「お待たせしました。お食事ですか。それとも……」黒のパンツに白いシャツ。ソムリエエプロンを着けた女性が奥から出てきたが、いかにも食堂とは不似合いだ。
  目が合うと幸一はどぎまぎした。好みのタイプにぴったりなのだ。
  「こちらで食を捜していただけると聞いたのですが」おそるおそるといったふうに幸一が訊きいた。
  「そっちのお客さんやったんですか。まぁそちらにお掛けください。うちが『鴨川探偵事務所』の所長の鴨川こいしです」
  こいしがにこりと微笑ほほえんだ。
  「沖縄から来ました、糸数幸一といいます。どうぞよろしくお願いいたします」しゃちこばって、幸一が一礼した。
  「お客さんか?」
  茶色い作さ務む衣えに身を包んだ板前らしき男性が奥から出てきた。
  「探偵のほうのお客さん。沖縄から来はった糸数さんや」「えらい遠いとこからお越しいただいて。食堂の主人をしとります鴨川流です。こいしがお話を聞かせてもらいますんやが、その前にお食事でもどないです? おまかせでよかったらお作りしますけど」
  流が茶色い和帽子を脱いだ。
  「ありがとうございます。お言葉に甘えていいですか。ここを教えてくれた比嘉部長もぜひ食べてこいと言ってましたので、お腹なかを空すかせてきました」幸一が腹をおさえた。
  「比嘉部長さんて、ひょっとしたら『ラグーンガーデンホテル』のかたでっか?」流が訊いた。
  「はい。上司なんです」
  幸一が名刺を差しだした。
  沖縄ではめったに見かけないお坊さんが、ふつうに歩いているのも不思議な光景だ。
  「ありがとうございます」
  「食を捜してはるんか?」
  「ええ。よくお分かりで」
  「なんぞ迷うてはることがおありですんやろ。無事に解決することを祈っております」僧侶が手を合わせた。
  僧侶の言葉にしたがえばこの家になるのだろうが、どこからどう見ても食堂には見えない。
  幸一は思い切って引き戸を開けた。
  「こんにちは」
  しばらく待ってもなんの反応もない。幸一はもう一度声をあげた。
  「こんにちは」
  「すんません、ちょっと待っててくださいね」今度は若い女性の声が奥のほうから返ってきた。
  「急ぎませんからいくらでも待ちますよ」
  幸一は苦笑いしながら後ろ手で引き戸を閉めた。
  ひとりも客はいないが、テーブル席もカウンター席もあり、暖の簾れんの奥は厨房になっているようだ。昆布出だ汁しのような匂いが漂ってくるが、揚げ物の残り香も感じる。たしかにここは食堂だ。だが探偵事務所はどこにあるのだろう。みじんもそんな気配は感じない。
  「お待たせしました。お食事ですか。それとも……」黒のパンツに白いシャツ。ソムリエエプロンを着けた女性が奥から出てきたが、いかにも食堂とは不似合いだ。
  目が合うと幸一はどぎまぎした。好みのタイプにぴったりなのだ。
  「こちらで食を捜していただけると聞いたのですが」おそるおそるといったふうに幸一が訊きいた。
  「そっちのお客さんやったんですか。まぁそちらにお掛けください。うちが『鴨川探偵事務所』の所長の鴨川こいしです」
  こいしがにこりと微笑ほほえんだ。
  「沖縄から来ました、糸数幸一といいます。どうぞよろしくお願いいたします」しゃちこばって、幸一が一礼した。
  「お客さんか?」
  茶色い作さ務む衣えに身を包んだ板前らしき男性が奥から出てきた。
  「探偵のほうのお客さん。沖縄から来はった糸数さんや」「えらい遠いとこからお越しいただいて。食堂の主人をしとります鴨川流です。こいしがお話を聞かせてもらいますんやが、その前にお食事でもどないです? おまかせでよかったらお作りしますけど」
  流が茶色い和帽子を脱いだ。
  「ありがとうございます。お言葉に甘えていいですか。ここを教えてくれた比嘉部長もぜひ食べてこいと言ってましたので、お腹なかを空すかせてきました」幸一が腹をおさえた。
  「比嘉部長さんて、ひょっとしたら『ラグーンガーデンホテル』のかたでっか?」流が訊いた。
  「はい。上司なんです」
  幸一が名刺を差しだした。
  「あのホテルに勤めてはるんですか。うらやましいこっちゃ。向こうはもう梅雨も明けて夏になってますんやろなぁ」
  「沖縄は今が一番いい時季です。比嘉部長からは何も聞いてませんが、鴨川さんとはお知り合いなんですか」
  「知り合いっちゅうほどやおへん。以前に神こう戸べのホテルに勤めてはったんですけど、そのときに家内と一緒にお世話になりましてな。沖縄のホテルに移らはって、何べんも案内をいただいとるのに行けずじまいですんや」「そうだったんですか。ぜひ一度お越しください。って言いながら僕は京都のホテルに勤めることになりそうなのですが」
  幸一の顔がかすかに曇った。
  「話はあとにして、お父ちゃん早はよぅ料理出したげな。お腹空かせてはるんやし」こいしが急せかした。
  幸一が年上の女性に好感を持つのは、こういう気遣いができるからだ。
  「そやな。ほな少しだけ待っとぉくれやっしゃ。すぐにご用意しますさかいに」和帽子をかぶり直して、流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
  キャリーバッグを店の隅に置いて、幸一が赤いビニール張りのパイプ椅子に腰かけた。
  「お酒はどうしましょ。泡盛は置いてませんけど、焼酎やったらあります」「ビールがあれば」
  「ァ£ァ◇ビールと違うけどよろしい?」
  「はい。なんでも。ビールが大好きなので」
  「喉かわいてはるやろから、先にお持ちしますわ」こいしが流のあとに続いた。
  食堂にひとり残った幸一は、あらためて店のなかを見まわしている。
  看板も暖簾もなく、営業しているのかどうかも分からない店。比嘉から聞いたとおりの店である。レストランの仕事にたずさわってきた勘を頼るなら、間違いなく美お味いしい料理が食べられるはずだ。それにしても、なぜひとりも客がいないのだろう。今日がたまたまなのか、いつも似たようなものなのか。なんとも不思議な店だ。
  「あいにくサーバーを置いてへんので、瓶ビールになりますけど、これやったら何本でもありますさかい、追加が要るようやったら声掛けてくださいね」ビールの大瓶とグラスを置いて、こいしが戻っていった。
  自分で注ついだビールを幸一は一気に飲みほす。間髪をいれずにもう一度注いだビールもまた飲みほした。それを三度ほど繰り返したときに、銀盆に載せた料理を流が運んできた。
  「お待たせしましたな。梅雨じぶんは、あんまり旨うまいもんはおへんけど、お腹が空いとったら、美味しい食べてもらえますやろ」
  「ありがとうございます。すごいご馳ち走そうですね」流がテーブルに料理を並べはじめると、幸一は目を輝かせた。
  「縁ふち高だかっちゅう、お茶席やらで使う弁当箱に料理を詰めさせてもらいました。
  ちょっと見えにくいかもしれまへんけど、サイマキ海え老びの天ぷら、蛸たこの旨煮、鰆さわらの西さい京きょう焼が奥のほうに入ってます。真ん中の笹ささの葉に包んでるのは煮穴子のおこわ蒸し、その横は九条ネギの出汁巻き玉子と鴨のつくね。右は小芋の炊いたん、手前に並んでるのは鮃ひらめと細魚さよりの昆こ布ぶ〆じめ。貝殻に入ってるのは鮑あわびの酒蒸しです。とりあえずこれでビールを飲んどってください。若いかたはこれでは物足りんやろさかい、あとで主菜を持ってきますわ」料理の説明を終えて、銀盆を小脇に抱えた流は厨房に戻っていった。
  漆器の四角い重箱に料理が盛られている。仕切り板などはなく、適当に並べられているようでいて、その美しさは箸を付けるのをためらってしまうほどだ。幸一は日本庭園を思い浮かべた。
  サービス担当なので、自分では料理をしないが、その分冷静に評価できる。同じ料理でも比嘉が盛りつけたものと、ほかの料理人が盛りつけたものとは簡単に区別できる。決して整然と並んでいるわけではないが、見た目にも美味しそうと思える盛りつけなのだ。
  その比嘉でも敵かなわないほどに美しい盛りつけを、ひとしきり眺めたあと、幸一は両手を合わせてから箸を手に取った。
  幸一が最初に箸を付けたのは鰆の西京焼だった。
  魚などの切り身を白しろ味み噌そに漬け込んでから焼く料理を西京焼と呼ぶことを知識として知ってはいたものの、それを実際に食べるのは初めてのことだ。思ったほど甘くなく、あと口はさっぱりしているが、魚の旨みはしっかりと舌に残る。さすが本場の和食はひと味もふた味も違う。
  ネギを包んだ出汁巻き玉子を口に入れると、なんとも気持ちがあたたかくなる。出汁の味を強く感じるわけではないが、その名のとおり、これが出汁巻き玉子なのだと実感できる味わいだ。
  あっという間に瓶ビールが空になった。
  「すみません。ビールをお願いできますか」
  立ちあがって、幸一が厨房に向かって声を掛けた。
  「さすがに沖縄の人はよう飲まはるわ」
  小走りになって、こいしが瓶ビールを持ってきた。
  「沖縄の人がみんな酒飲みだってことはないと思いますよ」受け取って幸一が苦笑いした。
  「けど、泡盛とかガンガン飲んではるんでしょ?」「ァ′ジの世代とか、先輩たちはそんな感じですけど、僕らみたいな若者はそれほど飲まないですよ。泡盛じゃなくてビールとかワインとかですし」言いながら、幸一は瓶ビールを傾けてグラスに注いだ。
  「料理のほうはどうです? お口に合いますか」重箱のなかを覗のぞきながら、こいしが訊いた。
  「すごく美味しいです。沖縄ではなかなかこんな日本料理は食べられません」「日本料理いうほどやないけど、お父ちゃんは料理じょうずやから。ビールが足らんようになったら言うてくださいね」
  軽く微笑んで、こいしが戻っていった。
  貝殻に入った鮑は分厚く切ってある。嚙かみ切れるかどうかと思いながら嚙んでみると、思いがけずすんなり歯が入った。沖縄では生で食べるのがほとんどなので、蒸した鮑がこれほどやわらかくなるとは思ってもみなかった。
  最初はかまぼこみたいだと思ったが、嚙みしめると貝のエキスが染みだしてきて、口のなかに磯いその香りが広がってゆく。
  生で食べるときのコリコリした食感も好きだが、やわらかく蒸した鮑のほうが味が深い。うなずきながら幸一が味わっていると、肉の香りをまとって、流が厨房から出てきた。
  「沖縄の人は肉が好きやろさかいに、牛肉を鉄板焼にしました。熱いうちに食べてください」
  木皿の上に載った鉄板からは湯気が立ち上り、芳こうばしい香りがテーブルいっぱいに広がる。幸一は思わず湯気に顔を近づけて鼻から匂いを吸い込んだ。
  「タレは三種類用意しました。酢す橘だち醬しょう油ゆ、山さん椒しょう胡ご麻ま、ウスターソース。薬味は和辛子、おろしニンニク、刻みわさび、柚ゆ子ず胡こ椒しょうと大葉。適当にアレンジして召しあがってください。あとでご飯をお持ちしますわ」小鉢と小皿を並べ終えて流はまた厨房に戻っていった。
  酒好きと同じく肉好きというのも、本土の人が作りあげたイメージなのだろうが、あたらずといえども遠からずだろう。牛肉だけでなく豚肉もよく食べるし、山や羊ぎ肉なんてものまで食べるのだから、肉好きと言われても反論はできない。
  さっきまでの繊細な料理と違って、ただ肉を焼いただけの荒っぽい料理だが、それでも切り身の断面を見ると、そのていねいな仕事ぶりに驚かされる。
  鉄板の余熱を計算してのことだろうが、レアより浅いブルーレアといった感じだ。赤身の肉はおそらくモモだろうがヒレにも見えてしまう。ひと切れ箸で取って、酢橘醬油に付けてから口に入れた。
  しっかりした歯ごたえはやはりモモ肉だろう。嚙むほどに肉汁が溢あふれ出てくる。吞のみ込むのが惜しい気もするが、早くふた切れ目を食べたいと思う気持ちが先に立つ。
  ふた切れ目は和辛子とウスターソースで食べたが、別の部位かと思うほど味わいが変わった。
  「どないです。二五〇グラムほどですけど、足りんようやったら、まだ肉はありますさかいに言うてくれはったら焼きまっせ」
  流がお櫃ひつと飯めし茶ぢゃ碗わんを持ってきてテーブルに置いた。
  「これくらいで充分です。お嬢さんをお待たせしているでしょうから、急いで食べます」幸一はお櫃の蓋を外し、しゃもじで飯をよそった。
  「そない急いでもらわんでもどうもおへん。ゆっくり味おうて食べてください。お茶も置いときます」
  益まし子こ焼の大きな土瓶と砥と部べ焼の湯ゆ吞のみを置いて、流が背中を向けた。
  京都の言葉に慣れていないから、正確な意味合いはよく分からないが、どうもおへん、というのは大丈夫という意味なのだろう。
  何かにつけて〈なんくるないさー〉と言っていた父親の背中と流の背中が重なって見えた。
  たいていは落ち込んでいるときだった。
  試験に落ちたとき。彼女にふられたとき。試合に負けたとき。いつも父、幸信は〈なんくるないさー〉と言って笑い飛ばしていた。幸信はなぐさめていたつもりだったのだろうが、その、あっけらかんとした笑顔のせいもあって、無性に腹が立った。どうせ他ひ人と事ごとだから、幸信はそう思っているようにしか見えなかった。
  幸信のことを思いだすと、食欲が落ちてしまうのはいつものことだが、さすがにこれほどの肉を前にすると、箸が止まることはない。白飯の上に肉を載せると、より一層食欲が増す。幸信の顔を脳裏から消そうとして、お茶を飲むのも忘れ、肉と白飯をかっ込んだ。
  少しばかり京都の予習をしてきたので、こういう家の作りを鰻うなぎの寝床と呼ぶことは知っていたが、表構えからは想像もつかないほどの奥行には驚くしかない。どちらかと言えば横に長い沖縄の家とはまったく逆だ。
  探偵事務所は店のいちばん奥にあるらしく、流が先導して細長い廊下を歩く。その両側にはびっしりと写真が貼られ、ほとんどは料理写真だ。幸一が注目したのは、その料理のバリエーションの豊富さだ。
  「これはぜんぶ鴨川さんがお作りになった料理ですか?」「わしはレシピてなもんを書き残さんので、メモ代わりに写真に撮っときますんや。そうせんと何を作ったか、忘れてしまいますさかいな」幸一の問いに流は振り向いて答えた。
  幸一が勤めている『ラグーンガーデンホテル』には和洋中とり交ぜて五つのレストランバーがあるが、そこで出される料理に加えて宴会やパーティーの料理まで、すべてを鴨川流ひとりで作っているのと変わらない。いったいどんな修業を積めばこれほどの料理をこなせるようになるのか。
  そんな幸一の疑問を見透かしたように、流が両側の写真を見まわした。
  「なんでも自分で作ってみたい性格ですさかい、いろんな料理を手掛けてきましたけど、これっちゅう得意料理はありまへん。器用貧乏というやつですわ」自嘲気味に顔半分で笑った流は、前を向いて歩きだした。
  腕に自信があるからこそ謙遜できるのだろう。作務衣姿の背中が大きく見える。
  「あとは娘にまかせますさかい」
  突き当たりの部屋のドアをノックして、流は身体からだの向きを変えた。
  「どうぞお入りください」
  ドアを開けたこいしが幸一を迎え入れた。
  「失礼します」
  緊張した面持ちで部屋に入った幸一は深く腰を折った。
  「そんな固かとぅならんでええんですよ。取って食べませんし、どうぞお掛けください」笑みを浮かべて、こいしがロングソファを奨すすめた。
  「面接のときを思いだしてしまって」
  額に薄うっすらと汗をかいているのは、食捜しの本題に入るからだけではなく、さほど広くない部屋に若い女性とふたりだけで向かい合うからでもある。奔放な父とは正反対に幸一はおくてだと自覚している。
  若い女性の多い職場ながら、長いあいだ恋人と呼べる相手もなく、いつも比嘉にはっぱを掛けられている始末だ。京都に移り住めばいい出会いがあるだろうと期待していただけに、食捜しの探偵がこいしだったことは幸さい先さきがいい。
  「早速ですけど、申込書に記入してもらえますか。簡単でええので」向かい合って座るこいしが、ローテーブルにバインダーを置いた。
  「はい」
  すぐさま受け取って、幸一はバインダーを膝の上に置き、じっくりと書き込んだ。
  「こんな感じでよろしいでしょうか」
  書き終えて、幸一がバインダーをこいしに返した。
  「糸数幸一さん。二十六歳、独身。ホテルレストラン勤務。沖縄に住んではるんやね。うらやましいなぁ。うちはいっぺんも行ったことないんです。冬でもあったかいんでしょ?」
  「はい」
  幸一が短く答えた。
  「どんな食を捜してはるんです?」
  こいしはローテーブルにバインダーを置いてノートを開いた。
  「お好み焼きです」
  「沖縄にもお好み焼きてあるんですか」
  「いちおうありますけど、たぶん内地ほど一般的ではないと思います」「でも沖縄で食べはったんでしょ?」
  「はい。父が作ってくれました」
  「ご家族はお母さんと妹さんの三人になってますけど」こいしが首をかしげた。
  「父は四年前に母と離婚して、単身渡米しましたが、その後は行方不明なんです。いなくなる直前に父が作って食べさせてくれたお好み焼きをもう一度食べたいんです」「いろいろ事情がありそうやね。込み入ったことを訊くかもしれんけど、話せる範囲でええから答えてくださいね」
  「はい。なんでも訊いてください」
  「お茶かコーヒーかどっちがええかな」
  こいしが立ちあがった。
  「コーヒーをいただきます。手伝いましょうか」幸一も立ちあがった。
  「幸一さんはお客さんやから座っててくれたらええんですよ」苦笑しながらこいしがコーヒーメーカーの電源を入れ、カップをポットの湯で温める。
  こいしの所作に目を奪われていた幸一は、振り向いたこいしと目があった瞬間、思わず視線をそらした。
  「どんなお好み焼きやったんですか」
  座り直して、こいしがペンをかまえた。
  「父とは一緒に過ごす時間がほとんどなかったんです。その父親がたった一度だけ僕に食事を作ってくれて、それがお好み焼きでした。驚きと戸惑いばかり先に立ってしまって、ゆっくり味わう余裕もありませんでしたから、正直なところ、あまりよく覚えていないんです」
  「今は家族と違うかもしれんけど、お父さんの名前もいちおう書いといてもらえますか」幸一の話を聞きながら、こいしはカップにコーヒーを淹いれている。
  「分かりました」
  幸一はバインダーに父の名を書き足した。
  「お好み焼きていうたら、だいたい似たようなもんやわね。生地はキャベツとネギぐらいやし、豚とかが入っててソースが塗ってあって。意外と難問かもしれんなぁ」湯気の上がるコーヒーカップをこいしがローテーブルに置いた。
  「生地はキャベツとネギだったと思いますが、なかの具は豚じゃなかったような記憶があります。たぶん細切れ肉だったと。お好み焼き自体はそれほど特徴がありませんでした。
  ソースが独特の味だったんです。どろっとしたソースじゃなくて、どっちかって言うと、さらっとしたというか、ねとっとした醬油味だったような覚えがあるんです」コーヒーをひと口飲んでから、幸一はこいしのペンを借りてイラストを描いた。
  「ふーん。黒いソースなんやね」
  こいしがノートに顔を寄せると、ふたりの顔が近づき、幸一はあわてて身をそらせた。
  「はい」
  「このお好み焼きのことを、お父さんは何か言うてはった? どこかで食べたもんを真ま似ねたとか」
  「父親とはあまり話をしなかったので。何も言ってませんでした。僕も何も訊きませんでしたし」
  「そうやね。父と息子てあんまり口きかへんみたいやね。お父さんも沖縄の人なん?」「ええ。うちは両親とも代々ウチナンチューです。母親なんかは沖縄から出たこともないって言ってました」
  「お父さんは?」
  「父はしょっちゅう関西に行ってました。母と結婚する前から関西に通いつめていたらしいです」
  「それやったら関西で食べたお好み焼きを真似てはったんと違うかな」「そうかもしれません」
  「しょっちゅうていうのは仕事で?」
  「とんでもない。父が仕事しているところなんか見たことありません。遊びですよ。ジャズの勉強だとかなんとか言って、京都だとか神戸に遊びにいってました」幸一がはき捨てるように言った。
  「お父さんはジャズがお好きやったんですか?」「好きなんてもんじゃないです。沖縄にいるときも毎日ジャズバーに入り浸り。家でもずっとジャズを聴いてました。何かの参考になるかなと思って、こんなのを持ってきたのですが」
  幸一がリュックサックから小さなレジ袋を出して、中身をローテーブルに並べた。
  「ぜんぶジャズ喫茶のマッチやないですか。京都にもこんなジャズ喫茶があったんかぁ。
  むかしの店てええマッチ作ってたんや。なんや懐かしい感じがしますわ」こいしがひとつひとつ手に取って、八つのマッチ箱をしげしげと見つめている。
  「父が残していったものと言えばこれくらいしかありません。ヘビースモーカーだった父らしい置き土産です。置いて帰りますので、参考にならないようでしたら捨てておいてください」
  横目にしながら幸一が鼻で笑った。
  「失礼なことをお訊ねしますけど、どうやって生計を立ててはったんです? お父さんがこないして関西を放浪してはるあいだ、お母さんが働いてはったんですか?」こいしがノートのページを繰った。
  「話が前後してしまいましたね。うちは宜ぎ野の湾わん市の大山というところで家具屋をやっているんです。祖父が始めた店ですが、米軍基地からの払下げ家具や雑貨を売っていて、けっこう繁盛しているんです。祖父から引き継いだ直後は父もまじめに仕事をしていたそうですが、いつの間にか母にまかせっきりになって、自分はジャズ三昧の日々を送るようになったようです。僕が物心ついたころはもうそんな状態でしたから、なぜうちの父は働かないんだろう。母はなぜそれに文句を言わないのだろうと不思議でしかたありませんでした」
  家庭の事情を語る幸一の表情は穏やかで、どこか他人事のように見える。こいしはタブレットの地図アプリを開けて場所を検索した。
  「この辺ですかね」
  「はい。この『ベースブラウン』という店です」「この辺に家具屋さんが集まってるんやね」
  こいしが地図をスクロールした。
  「ファニチャーストリートと呼ばれていて、海外にもよく知られているみたいです。台湾や香ホン港コンからもわざわざ来られるんですよ」幸一がかすかに鼻を高くした。
  「そんなお仕事もお父さんはいっさいかかわらはらへんのですか」こいしの問いかけに、幸一は眉をひそめてうなずいた。
  「お話を整理させてもらいますね」
  ノートのページを繰ってから、こいしが幸一に向きなおった。
  「はい」
  緊張した面持ちの幸一は背筋を伸ばした。
  「捜してはるのは、お父さんが作ってくれはったお好み焼き。具は細切れ肉で味は醬油っぽい味。関西で覚えて来はったお好み焼きかもしれん、と。両親が離婚しはってから、お父さんは所在不明で会おうたこともない。お父さんは無類のジャズ好き。こんなとこですかねぇ」
  こいしは、手がかりが少ないという不安を含んだ顔つきを幸一に向けた。
  「これだけで捜しだしてもらうのは難しいでしょうか」幸一が顔を曇らせると、こいしはうなずきかけて、慌ててかぶりを振った。
  「どんな難しいもんでも必ず捜しだします」
  「ヒントになるかどうかは分からないのですが、なんとなくすき焼きみたいな味がしたような気がするんです。特に最後にお好み焼きの上から掛けまわしたタレが。でもきっと思い違いですよね。すき焼き味のお好み焼きなんてあり得ませんね」「いちおうメモしときます。そうそう、だいじなこと訊くのん忘れてました。なんで今そのお好み焼きを捜そうと思わはったんです?」「父の気持ちが知りたかったからです。別に仲が悪いわけではなく、父が好き勝手に暮らしていることも母は容認していたのに、なぜ離婚したのか。もっと言えば、なんでふつうに働こうとしなかったのか。まったく僕には理解できないんです。あの日のお好み焼きには、なにかそのヒントがあったのか、と思いはじめたんです。とは言っても、あんな父親ですから、何も考えずに思い付きで作っただけだろうとも思いますけどね」幸一が顔半分で笑った。
  「そうやねぇ。お母さんがそれでええて言うてはったんやから、別れんでもええよね」「母が父を甘やかしすぎたんだと思います。なんでも自分のわがままが許されると思ってしまった父は、とうとう家族まで捨てて好きなことをする道を選んだのでしょう。幸一と一緒にメシを食うのも今日が最後だな、と言いながら父が嬉うれしそうな顔をしていたことを僕は一生忘れません」
  幸一が目を真っ赤に充血させた。
  「それは分かりましたけど、なんで今になって?」「実は今、僕も父と同じようなことをしようとしてる、そんな気がしているんです。ホテルマンとして新しいチャレンジをしてみたくなったんです。世界の京都で自分がホテルマンとして通用するのかどうか。もてなしの本場でも僕の接客を認めてもらえるのか。やってみたいのですが、それには母も妹も、そして故郷も置き去りにしなければなりません。
  なんだ、父と同じじゃないか。そう思ったんです。あんな薄情な父親と同じ道を歩んでしまっていいのかどうか。その答えは、あの日のお好み焼きにあるように思えて」「分かりました。お父ちゃんに気張って捜してもらいます」こいしがノートを閉じてペンを置いた。
  「あなたが探偵じゃないんですか?」
  驚いた幸一が声のトーンを高くした。
  「うちは聞き役。捜すのはたいていお父ちゃん」「そうでしたか」
  幸一が声を落とした。
  食を捜すのはこいしだと思い込んでいた幸一は、接触する機会が多くなるのを愉しみにしていた。場合によっては食を捜す現場に同行できるかもしれないと、淡い期待まで抱いていただけに、少なからず落胆したのだ。
  「今は食堂の主人やけど、昔は腕利きの刑事やったさかいに大丈夫え。安心して」立ちあがってこいしが幸一の背中を押した。
  ふたりが食堂に戻ると、洗い物をしていた流が厨房から出てきた。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  「バッチリや、て言いたいとこやけど、今回はちょっと難問やと思うで」こいしが意味ありげな顔を幸一に向けた。
  「どんな難問でも気張って捜しますさかい、ちょっと時間をくださいや」「別に急ぎません。秋に京都に引っ越してくるまでに捜していただければ」「見つかり次第に連絡させてもらいます。京都のホテルに転勤するて言うてはったね。どこのホテルなん?」
  こいしが訊いた。
  「この秋にオープンするホテルで、まだ名前は決まってないようです。場所は京都駅の近くですが」
  「ほなご近所さんになりそうやね」
  こいしの言葉に幸一は嬉しそうな笑顔で応えた。
  「今日のお食事代を」
  「探偵料と一緒にいただくことになってますさかい今日のところは」「分かりました。ではよろしくお願いいたします」一礼して幸一が店を出ていった。
  「何を捜してはるんや」
  引き戸が閉まるとすぐに流が訊いた。
  「お好み焼き」
  「どっかの店のか?」
  流がカウンター席に腰かけた。
  「お父さんが作ってくれはったんやて」
  こいしが隣に座る。
  「亡くなったんか?」
  「行方不明」
  「そら難問やな」
  「せやろ」
  こいしがノートを流に渡した。
  「これだけしか手がかりはないんか」
  ノートを繰って、流が深いため息をついた。
  「ジャズが好きな男の人が作るお好み焼き。なんのヒントにもならへんなぁ」こいしも同じようなため息をついた。
 

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