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第六卷 第六話 お好み焼き 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3337
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  連絡があって、幸一が二度目に『鴨川食堂』を訪れたときは、京都も梅雨が明けていて、京都駅には祇園囃ばや子しのテープが流れていた。
  天気予報を聞いて、アロハシャツとクロップドパンツという軽装で来たものの、食を捜してもらった相手に失礼ではないかと思いはじめている。
  沖縄と違って湿度が高いせいか、京都のほうが暑く感じる。幸一は顔の汗が染みこんだタァ‰ハンカチをポケットにねじこんでから店の引き戸を開けた。
  「こんにちは。糸数です」
  「お待ちしとりました」
  間髪をいれずに流が厨房から出てきた。
  「ご連絡ありがとうございました。こんな格好で失礼します」幸一が最敬礼した。
  「いやいや、京都は沖縄より暑ぅ感じはるやろから、なんにも失礼やおへんで。お好み焼きを食べてもらうんやさかい気楽な格好が一番ですわ」「やっぱり沖縄の人はアロハシャツがよう似合わはりますね。さまになってますやん」「ありがとうございます」
  こいしにほめられて、幸一が照れ笑いを浮かべた。
  「鈍なことで、こいしがこの前お訊きするのを忘れとったんですが、そのときのお好み焼きは皿に載っとりましたか? 鉄板とかは使つこうてはりまへんでしたやろか」流が訊いた。
  「お皿に載ってたと思いますが……、いや、鉄板だったかもしれません。どっちだったか」
  目を閉じて幸一が記憶の糸をたぐっている。
  「それによって味が違ちごうてきますねん。この前お越しいただいたときに、ちゃんと訊いとくべきやったのに、すんまへんなぁ」
  流が横目でこいしをにらんだ。
  「いえいえ、僕がちゃんと覚えていなかったのが悪いんです。こいしさんにはかえってご迷惑をお掛けしました」
  ふたりの様子を見ながら、幸一がこいしに向き直って頭を下げた。
  「幸一さんに頭下げてもらうようなこと違います。うちの詰めが甘かったんです」こいしが肩身をすぼめた。
  「思いだしました。木の皿の上に置いたフライパンみたいな鉄板でした。それを、焼きたてだと言って父が僕の前に置いて、仕上げに上からタレを掛けると、ジュワーと音がして、いい匂いが広がって」
  宙に目を遊ばせながら幸一が生唾を吞み込んだ。
  「やっぱりそうでしたか。それを聞いて安心しました。間違いのうお父さんが作らはったんとおんなじお好み焼きを、これから食べてもらいます。しばらく待っとぅくれやっしゃ」
  流が急ぎ足で厨房に入っていった。
  「これでひと安心やわ」
  こいしが幸一に冷茶を出した。
  「お皿に載っていたか、鉄板だったかなんて訊かれると思ってませんでした」「お父ちゃんが捜しだして来はったお好み焼きを、最後はふたつに絞らはったんです。このふたつのうちのどっちやろて、えらい悩んではって、ふと気付かはりましたんや。お皿に盛ってあったか鉄板やったかで分かる、て」「なんだかすごいですね」
  「うちのお父ちゃんすごいでしょ。わが親ながら感心しますわ」こいしが胸を張った。
  「自分の親を尊敬できるっていいですね。とってもうらやましいです」幸一は寂しげな表情で肩を落とした。
  厨房からは芳ばしい香りが漂ってくる。パチパチと油がはぜる音もする。すでにお好み焼きは焼き上がりが近いようだ。幸一は湯吞の茶をゆっくりと飲んで口を湿らせた。
  厨房のなかからは、流とこいしのやり取りが聞こえてくる。娘となら父はこんなふうに滑らかに語り合えるのだろうか。
  「お待たせしましたね。もうすぐできあがりますし」こいしが茶を注ぎたしながら、厨房に目を遣やった。
  「愉しみです」
  幸一が深い息をついた。
  「さあ、焼き上がりましたで」
  ジュージューと音を立てる鉄板を木皿に載せて、湯気をまといながら流がお好み焼きを運んできた。
  「そうそう、たしかにこんな感じでした」
  お好み焼きを目の前にして、幸一は顔をほころばせた。
  小さなガラスポットに入った黒っぽいタレを、流がゆっくりとお好み焼きの上に掛けまわした。タレはお好み焼きの上をすべり、やがて鉄板に流れ落ちると、大きな音を立て、芳ばしい香りはより一層強くなった。
  「熱いうちに召しあがってください」
  緊張気味だった流の表情も、ホッとしたようにゆるんでいる。
  「火傷やけどせんように気ぃ付けてくださいね」こいしの言葉にうなずくと、幸一は両手を合わせ、箸をお好み焼きに伸ばした。
  「どうぞごゆっくり」
  こいしの肩を押しながら、流が厨房に戻っていった。
  ふたりの姿が見えなくなると同時に、幸一はお好み焼きを口に運んだ。
  口をすぼめて息を吸いこみ、焼きたての熱さを冷ましながら舌にからませる。嚙みしめると甘辛い味が口いっぱいに広がる。記憶違いかと思ったが、やはりすき焼きっぽい味がする。ふつうのお好み焼きのようなソースの味はまったくしない。これほど個性的な味なら、食べてすぐに気付くはずだろうに、なんの驚きもなかったというのは、幸信との別れという衝撃が胸のなかに渦巻いていたからに違いない。家族を捨てて家を出ていく幸信であっても、父親であることに間違いはない。どんなに身勝手で薄情な人間であっても、幸信は自分の父親なのだ。
  ふと宙に浮いたような気になった。
  なぜか、幸信に肩車をしてもらったときのことを思いだした。
  冬と春のあいだだった。たしか浦うら添そえの野球場だと記憶する。幸信とふたりでプロ野球のキャンプを見に行ったのだ。大勢の見物客にはばまれて、小柄な幸一は何も見えないと泣きだした。オーケーオーケーと言って、幸信が幸一を肩車した。ようやく選手の姿が見えたとき、幸一は幸信の頭をたたいて喜んだ。ノーノーと言いながらも幸信は、嬉しそうに幸一を何度も頭上に差しあげた。
  コワイようと言ったものの、ずっとその時間が続いてほしいと願ったことも思いだした。
  幸一の目から涙が溢れだした。
  長く幸信のことを恨んでいた幸一だが、それは寂しさから派生したのだったのかもしれないと思いはじめた。突然家を出ていった衝撃はあまりに重く、それゆえ幸信と過ごした時間を消し去っていたのだ。
  肩車はこのときだけではなかった。
  近所に大きなスーパーマーケットがオープンしたとき、アニメヒーローのショーを見に行ったときも、ずっと幸一は幸信の肩に足を載せ頭をたたいていた。
  残ざん波ぱ岬へ夕ゆう陽ひを見に行ったときもそうだった。
  陽が沈む前から、海に陽が落ちて空が赤く染まり、やがて紫色になるまで、ずっと幸一は幸信の肩に乗っかっていた。
  ふた口目もまだ火傷しそうに熱い。それはきっと鉄板のなせる業なのだろうが、そこまで熱さを保ちつづけることの意味はあるのか。そう思いながらも幸一は箸を止めることができずにいる。
  「どないです? お父さんが作らはったんとおんなじ味でっか」傍らに立って流が訊いた。
  「はい。ようやくはっきりと思いだしました。こんな味でした」「よろしおした。ゆっくりと味ぉうて食べてください」それだけ告げると流はまた厨房に戻っていった。
  なぜ今になって、幸信が作ったお好み焼きをもう一度食べたいと思ったのか。食べ進むうちにそれが分かってきた。今ここにいて欲しいと思ったからなのだ。幸信に判断して欲しいことがあったからなのだ。相談したかったのだ。お好み焼きを食べてようやく自分の気持ちをたしかめることができた。
  お好み焼きを捜す過程で、幸信の消息も分かるのではないか。そんな淡い期待を自分が抱いていたことも分かった。幸一は手を合わせてそっと箸を置いた。
  「なんやったらもう一枚焼きまひょか」
  暖簾のあいだから顔を覗かせて、流が真顔で訊いた。
  「いえ、もう充分です。ごちそうさまでした。それより、どうやってこのお好み焼きを見つけてこられたのか。その話をお聞かせください」幸一が立ちあがった。
  「お茶でよろしい? お酒でも持ってきましょか?」こいしがふたりに訊いた。
  「よかったら泡盛でもどうです? お客さんからもろたんがありますねん」「じゃあ少しだけいただきます」
  流が目で合図すると、こいしが泡盛の酒瓶と、氷の入ったグラスをふたつテーブルに置き、流は幸一と向かい合って座った。
  「『瑞ずい泉せん』っちゅう泡盛ですわ。ご存じでっか」氷の入ったロックグラスに流が泡盛を注いだ。
  「ええ。たしか十七年熟成の濃いお酒だったと思います」幸一がグラスに鼻を近づけて香りをたしかめた。
  「さすがによう知ってはる」
  そう言いおいて、こいしが厨房に入っていった。
  向かい合ったふたりはグラスを上げ、氷の音を立てながら、ゆっくりと口に運んだ。
  話を切り出すタイミングを計っているのか、流はそれを二度三度と繰り返し、幸一もそれを真似た。
  「沖縄にもお好み焼きの店はようけありますけど、お父さんはきっと関西で味を覚えはったんやと当たりを付けました。となれば、きっとお父さんが通うてはったジャズ喫茶にヒントがあるはずや。そう思うて、順番にあたってみましたんや」口を開いた流は、作務衣のポケットからマッチ箱を取りだしてテーブルに並べた。
  「ご足労をお掛けしました」
  「気にせんといてくださいや。京都は地元やし、神戸かて電車一本ですわ。それに、とっくに店仕舞いしてるとこばっかしで、結局この八軒は全滅でした。けど決して無駄足やなかったんでっせ。店は無のぅなっても、昔からのジャズ好きの人はようけいてはりますし、ここらの店のこともよう覚えてはった。最初のヒントになったんは、神戸の北野坂にある『ソノ』っちゅうライブレストランへ行ったときに、隣の席のお客さんから聞いたむかし話ですわ」
  タブレットを出して、流が店のなかの写真を幸一に見せた。
  「立派なお店ですね。沖縄にもライブレストランはたくさんありますが、やっぱり神戸のお店は洒落しゃれてますね。でも、なぜこのお店に? 父のマッチのなかにはなかったと思いますが」
  「神戸のジャズ好きの人に聞いたら、みな真っ先に『ソノ』の名前を上げはります。この店に行ったらなんぞ分かるんやないかと当たりを付けたんですわ」「なるほど。ジャズの好きなひとはどこかでつながっているんですね」「そない詳しいことはおへんけど、わしも若いときはジャズをよう聞いとったもんやさかい、話はそこそこ通じますねん。京都のことやら話をしながら、ちょっとずつ糸数幸信さんのことを探りました。そないすぐにはつながりまへんでしたけど、いろんな糸口を教えてもろて、それを辿たどっていったら、たいていは見つかるもんです。そのお客さんから聞いたんは、この『パンピ』っちゅうジャズ喫茶のことですねん」流が『パンピ』のマッチを手に取った。
  「でもこのお店はもうないんでしょ?」
  「こういうお店は無ぅなっても、ファンの人らの胸のなかにはいつまでも残ってるもんなんです。京都の『しあんくれ』というお店もおんなじですわ。京都だけやのうて、神戸の人でもよう知ってはる店やったんです」
  「このマッチのお店ですね。河原町通荒神口東北角……。どの辺なんでしょう。見当もつきません」
  「京都御所のすぐねきです。鴨川にも近いとこで、橋わたったら京大も近いし」流が地図アプリの場所を指で示した。
  「京都ってすごいですね。こんな町はずれの辺へん鄙ぴな場所にジャズ喫茶があって、その店のことが今でも、それも神戸でも語り継がれているって」幸一が感心したように首を横にふった。
  「それは違いまっせ。むかしはこの御所の辺りが京都の中心地でしたし、今でも辺鄙でも町はずれでもおへん。四条やとか京都駅に比べたら歩いてる人は少のうても、文化の中心はこの辺です」
  地図を指して流がきっぱりと言い切った。
  「失礼しました。まだ京都のことがよく分からなくて」「京都のホテルに勤めはるんやったら、しっかり勉強せんとあきまへんな」流が釘くぎをさすと、こいしが横よこ槍やりを入れる。
  「お父ちゃんはすぐに本筋を外さはるさかい困ったことや。そんなことやのうて、お好み焼きのことをちゃんと話してあげな」
  「そやったな。つい力が入ってしもうて」
  和帽子を取って頭をかいた流が話を戻す。
  「どこまで話したんやったか。そや、『しあんくれ』やのうて『パンピ』の話やった。
  『ソノ』で隣り合おうたお客さんと、関西のジャズ喫茶の話で盛り上がりましてな。あなたのお父さんのことを訊いてみましたんや。沖縄の人でよう関西のジャズ喫茶に通うてた人の覚えはありまへんか、て。そしたら自分は知らんけど、むかし京都にあった『ザボン』っちゅう店の落書き帖ちょうを保管してる人がやはるさかい、その人を訪ねてみたらどうやて言うて、住所を教えてくれはったんですわ。なんぞの手がかりになるかと思うて訪ねてきました」
  タブレットを操作して、流が町家の写真を見せた。
  「京都らしい佇たたずまいのおうちですね」
  幸一が無難な感想を述べた。
  「今は隠居してはりまっけど、呉服屋の旦那さんのおうちですわ。その旦那さんのお話やと『ザボン』は河原町三条近くの横道を入ったとこのビルの地下にあったんやそうです。
  いわゆるジャズ通が通う店やったみたいで、客どうしの横のつながりがあって、今でも交流があるらしいんですわ。その旦那さんが落書き帖を保管してはりましてな、二十冊ほどあったんを見せてもらいました。糸数幸信さんの名前を必死で捜したんですけど見つかりまへん。あきらめて帰ろうかと思うたら、その旦那さんが、──ひょっとしたらコウシンさんのことと違うか──て言うてくれはりましてな」「そうです。コウシンは父です」
  幸一が即座に反応した。
  「こいしもわしも、てっきりユキノブさんやと思うてたんで。そう言うたら沖縄の男の人は音読みする人が多いんやったと思いだしたんです。それであらためて落書き帖を見てみたら、ようけコウシンさんの書き込みがありましてな」流がタブレットを幸一に向けた。
  「間違いありません。この悪筆は父です」
  幸一が顔をほころばせた。
  「その旦那さんも直接会わはったことはなかったらしいんですけど、コウシンさんはその筋では有名やったらしいて、いろんなエピソードを話してくれはりました」「おかしなことをしてなければいいのですが」「まったくその逆です。誰からも好かれてはったみたいです。貧乏学生にメシ食わしてやったり、学費が払えんでアルバイトしてた子には小遣いを渡してたりとか、ええ話ばっかりでした」
  「そうでしたか」
  ホッとしたように幸一が小さくため息をついた。
  「肝心のお好み焼きのことですけどな、おもに神戸で食べてはったみたいです。味がどうとかは書いてはりまへんでしたけど、長田っちゅう地名がよう出てきたんで、たぶん〈ぼっかけ〉やないかと思うたんです」
  「〈ぼっかけ〉?」
  幸一が高い声をあげた。
  「牛スジとコンニャクを、お醬油と味み醂りんやらで甘あま辛かろぅ煮た料理を神戸のほうでは〈ぼっかけ〉て言いますねん。長田ていう地区の名物です」こいしが横から返答した。
  「その〈ぼっかけ〉をお好み焼きの具にするのも、ようありますさかい、コウシンさんがあなたに作らはったんも、それやないかと思うたんです。たしかにソースやのうて醬油味になりますけど、それだけではすき焼きっぽい味にまではならん。最後に上から掛けたタレがすき焼き味やったんやないやろか。そうも思うたんです」「ご面倒を掛けたみたいで申しわけないです」「いやいや、とことんまでやらんと気が済まん性た質ちですさかい。もういっぺん『ザボン』の落書き帖を読み直してたら、『ザボン』と同じビルの二階に上海シャンハイ料理の店があったみたいで、そんでコウシンさんはえらいその店をお気に入りやったみたいで、なんべんも〈上海風ネギ油そば〉を食べた話が出てきますねん。で、ひょっとしたらコウシンさんはそのメニューに使うタレを、お好み焼きに掛けはったんやないかと思いつきましたんや」
  流が目を輝かせた。
  「お父ちゃんは、ちゃんと思いつかはりますねん」こいしが自分のことのように誇らしげに胸を張った。
  「フライパンでネギを油煮にして、半時間ほど煮詰めて、ネギが焦げてきたら、醬油と砂糖、味醂を混ぜたタレを流し入れてでき上がりです。そのタレがこれですわ」流がガラス瓶の蓋を開けて、中身をスプーンで掬すくった。
  「たしかにすき焼きの味がします。油まみれなのに油っぽさを感じないのも不思議です」手のひらに受けたタレをなめて、幸一は大きく目を見開いた。
  「このタレのレシピも詳しいに書いときました。ただこのタレを掛けただけでもええんですが、それより鉄板に載せたお好み焼きに掛けて、鉄板でタレを焦がしたらもっと芳ばしいなる。コウシンさんはそう思わはったに違いありまへん」流がきっぱりと言い切った。
  「たかがお好み焼き一枚のために、そこまで……。その気持ちを仕事に向けてくれてたらよかったのに」
  幸一が寂しげな声で言った。
  「人にはいろんな生き方があります。コウシンさんにはコウシンさん流の人生いうもんがあったんでっしゃろ」
  「家族には納得できる話じゃありませんけどね」「家族と仕事のどっちを取るかてなこともよう言いますけど、その場になってみんと分からん、っちゅうのがほんまのとこですやろ」
  「仕事ならいいんですよ。それも家族のためですから。でも父は趣味を選んだんです。たいした仕事もせず、家族を置き去りにして出ていったんですよ」幸一は目を真っ赤にして憤った。
  「仕事にもいろいろあります。たいしてお金にならんことでも、人のためになる仕事もあれば、山ほど稼いどっても自分だけが贅ぜい沢たくしとるような仕事もあります」「そりゃあそうですけど。父にとってジャズは単なる趣味ですから」「その趣味を仕事にしよう。コウシンさんはそう思わはったんやないかと思います。けど、その仕事はたいして金にならん。むしろ持ち出しのほうが多いかもしれん。となったら家族にも迷惑が掛かる。そう判断しはったんやないですかな」「そんな勝手な話。僕には信じられませんし、あり得ないことです。趣味のジャズを仕事にするために家族を捨てる? バカげ過ぎてます。第一、趣味でジャズを聴くだけのことが仕事になんかならないでしょう」
  幸一は鼻息を荒くした。
  「わしはむかしねぇ、刑事っちゅう仕事してましたんや。悪いことしたヤツを捕まえる仕事ですわ。ほんで今はこないして食堂の主人してます。どっちもたいした金にはならん仕事ですわ。わしが仕事したさかいに家族が楽になるか言うたらそうも言い切れまへん。特に刑事っちゅう仕事はそうでした。世のため人のため、てなたいそうなことは言いまへんけど、そういう仕事も世の中にはあるんですわ」「人のためになるなら、稼げなくてもたしかにそれは仕事でしょう。でも……」幸一は流の言葉を素直に聞けなくなっていることに、いらだちを覚えた。
  「人それぞれ。いろんな人生があるっちゅうことだけは覚えといて損はおへん」「分かりました。この前の食事代と併せてお支払いをさせてください」流の言葉に納得がいかないそぶりを見せて、幸一が財布を取りだした。
  「お食事も探偵料も特に決めてません。お気持ちに見合うた分をこちらに振り込んでください」
  流の顔色をうかがいながら、こいしは幸一にメモ用紙を手渡した。
  「分かりました。できるだけ早く振り込みます」幸一はメモ用紙を折りたたんで財布にしまった。
  「ほんまにもうええんですか?」
  帰り支度をする幸一に流が訊いた。
  「なにがです?」
  「お父さんの消息を知りとうて、お好み焼きを捜してはったんやないんですか?」流は幸一の目を真正面から見つめた。
  「父のことでなにか分かったんですか?」
  手を止めて幸一が流に真剣な顔を向けた。
  「アメリカのルイジアナ州っちゅうとこの、小さな街でジャズレストランを開いてはるそうです」
  流がタブレットの写真を見せると、幸一は食いつかんばりに目を近づけた。
  「立派な店じゃないですか」
  幸一が安心したように言った。
  「お店の名前は『ベースブラウン』です」
  「『ベースブラウン』……」
  幸一の目が細くなり、口元がほころんだ。
  「ふだんはそれほどでもないらしいですが、週一回のコウシンさんのライブの日は五十席が満席になって立ち見まで出るそうですよ」
  こいしがタブレットを手にして動画を映しだした。
  「ライブということは父が演奏するんですか?」「ボーカルやってはりますわ。聴かはりますか?」「はい。聴かせてください」
  幸一が背筋を伸ばすと、こいしは長いコードを取りだした。
  「せっかくやさかいタブレットと違うて、大きいテレビで見はったほうがええでしょ。
  ちょっと待ってくださいね」
  こいしがコードを接続するあいだ、待ちきれないといったふうに、幸一はその様子を間近で見ている。
  「手伝いましょうか」
  「こないだはうまいこといったんやけどなぁ」言いながら、こいしはポートの穴を覗き込んでいる。
  「これ、反対ですよ」
  笑いながら幸一がポートにHDMIケーブルを差し込んだ。
  「ありがとう。あとはこれをテレビのほうに」「それも僕がやりますから」
  素早い動作で、幸一が椅子の上に立ってコードを接続している。
  「お父さんの歌、聴かはったことあります?」椅子を支えてこいしが訊いた。
  「いえ。鼻歌すら聴いたことありません。父が歌を歌うなんて想像もつきませんでした」接続を終えて、幸一は椅子から降りた。
  「英語は得意ですか?」
  流が訊いた。
  「ホテルには外国人のお客さんも多くいらっしゃいますから、ヒアリングのほうはなんとか。でも話すほうはなかなか」
  「それで充分ですわ。お父さんの歌をよう聴いてください」流が目くばせすると、こいしがタブレットを指で操作した。
  幸一は壁掛けテレビの真ん前に立ち、流とこいしはそのうしろに立った。
  やがて映像が流れ、ステージの様子が映しだされた。
  最初はざわついていた客席だが、タキシードに身を包んだコウシンがマイクを取ると、水を打ったように静まり返った。ふた言み言挨拶をしたあと、曲紹介をすると客席からは大きな拍手が起こり、指笛を鳴らす客もいて、コウシンの歌に期待を寄せていることが分かる。
  やがてコウシンは静かなバラードを、語りかけるように歌いはじめる。
  幸一は驚きのあまり声も出せずにいる。歌っているのは紛れもなく父のコウシンだが、自分が知っているコウシンとはあまりに違い過ぎる。
  まるで自分もその客席にいるような気分になって、幸一はコウシンの歌に聴き入っている。流とこいしはそれをうしろからじっと見守っている。
  歌がはじまって一分ほど経たっただろうか。幸一は小さく嗚お咽えつをもらしはじめた。はばかることなく、すすり泣く幸一は何度も目頭をおさえる。
  それは幸一だけではなかった。映像に映る多くの観客も、幸一と同じように目頭をおさえている。
  やがて数分間の歌が終わると、映像のなかでは万雷の拍手が起こり、すべての客がスタンディングァ≠ーションでコウシンを讃たたえている。鳴りやまない拍手を耳にする幸一は、その場でしゃがみこんだ。
  テレビ画面ではアンコールをせがむ客のリズミカルな拍手が続いていた。
  幸一は幼子のように両手で顔を覆って泣きじゃくっている。
  「ネットの動画サイトでうちが見つけた映像ですねんよ。お帰りになってからゆっくり続きを見てくださいね」
  こいしがサイトのアドレスを記したメモを幸一の手に握らせた。
  「ありがとうございます」
  ようやく立ちあがった幸一は、真っ赤に泣きはらした目を手の甲で拭った。
  「立派なお父さんやと思います」
  流の言葉に幸一は何度もうなずいた。
  「誇りに思って生きていきます」
  涙声で幸一が応えた。
  「よろしおした」
  店を出る幸一に流が声を掛けた。
  「最後にもうひとつお聞きしたいのですが、なぜ父はあのとき僕にお好み焼きを作ってくれたんでしょう」
  「わしもそこがよう分からなんだんです。なんぞ息子はんに伝えたいことがあったんやないか。そう思うて、あれこれ考えました。沖縄の人にとってお好み焼きはどういうもんやろ。ほんで行きついたんが、ヒラヤーチーです。チヂミみたいな、お好み焼きみたいな郷土料理。よう知ってはりますやろ?」
  「もちろんです。塩味ですから、味は違いますけど焼きかたはお好み焼きと同じですね」「ヒラヤーチーっちゅうのは、平たく焼く、っちゅう意味やそうですな。あなたには、平たく生きて欲しい、そういう願いを込めてはったんやないかと思うてます。あくまでわしの推測でっけどな」
  「平たく、ええ言葉やねぇ。平とぅ生きるのて、けっこう難しいけどなぁ」こいしが幸一に笑みを向けた。
  「京都に引っ越したら、またあらためてご挨拶に伺います。本当にお世話になりました」一礼した幸一は吹っ切れたように軽い足取りで、正面通を西に向かって歩いていく。
  流とこいしは並んでその後ろ姿を見送った。
  「よかったなぁ。一時はどうなるかと思うたわ。いつあの映像を見せるんやろ、ひょっとしてお父ちゃんは幸一さんに見せんと帰すつもりやろか、てハラハラしたわ」店に戻ってこいしが流の背中をはたいた。
  「あんまり早いこと見せてもなぁ。わしもタイミングを計っとったつもりなんやが」「幸一さん、どないしはるやろ。京都のホテルに勤めはるやろか。それとも沖縄にい続けはるやろか。お好み焼きを捜しだしてよかったんやろかな」「どっちでもええがな。そこまではわしらの仕事と違う。まぁ、あの歌を聴かせたんは余計なことやったかもしれんけどな」
  「それにしても、あの〈家族〉てええ歌やなぁ。なんべんも聴いたさかい、今日は泣かんとすんだけど」
  「コウシンさんの作詞作曲らしいけど名曲やな。──家族はきみの夢をかなえるためにいる──」
  「お父ちゃん音痴やなぁ。──家族は人生のために 人生は家族のために──」「おまえもたいして変わらんやないか。なぁ掬子。わしのほうがまだましやろ」あきれ顔をして流が仏壇の前に座った。
  「──たとえどんなに離れていても 心はいつも近くにある──。そうやな、お母ちゃん」こいしが掬子の写真に手を合わせた。
 

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