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第七卷 第一話 ビフテキ 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3335
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  一気に季節が進んだ。前回の京都行では半袖でも蒸し暑く感じたのに、今回は長袖のジャケットでもまだ肌寒い。ダウンとまではいかないものの、ウールを重ね着してもちょうどいいくらいだ。
  茂にはツイードのジャケットの下に、ウールのベストを着せた。いちおうマフラーも持ってきてはいるが、そこまでは要らないような気温である。
  茂の症状は京都を離れた瞬間からまたもとに戻った。
  『鴨川食堂』からあのまま回復してくれるのかと思ったが、さすがにそれは甘かった。
  新幹線のなかでも、起きているより眠っている時間のほうが圧倒的に長かった。京都駅に着く寸前に起こしても、これからどこへ行くのか、まったく覚えていない。乗車前には何度も伝えたにもかかわらず、だ。
  『鴨川探偵事務所』でどんな結末が待ち受けているのか。茜には愉しみより不安のほうが大きい。
  JR京都駅八条口から乗りこんだタクシーは、前回とおなじ道筋をたどって、『鴨川食堂』の前で停とまった。
  「こんばんは」
  前回と異なるのは日が暮れかける時間の訪問だということだ。
  「ようこそおこしやす。思うてたより早かったですね」こいしが出迎えた。
  「ごめんなさいね、こんな遅くから」
  茜は茂の背中を抱えるようにして店に入った。
  「またお会いできて嬉うれしいです」
  出迎えて、流が茂の右手を両手で包みこんだ。
  「以前にもお会いしましたかな」
  首をかしげながら茂が手を握り返すと、流は苦笑いしながら、もう一度手に力を込めた。
  「ごめんなさいね。失礼なこと言って。お父さん、二週間ほど前にお会いしたばっかりじゃないの。美味しいものもたくさんいただいたし」「気にせんでええ。お年寄りはむかしのことをようけ覚えてはるから、最近のことは頭に残らへんのや」
  「失礼した」
  茂が帽子を取った。
  「それより、お父さん、お腹減ってはるでしょ。すぐに用意しまっさかい、ちょっと待っとぉくれやっしゃ」
  表情を固くして、流が厨房に急いだ。
  「そう言えば腹が減ったな」
  茂が腹を押さえた。
  流の提案で、空腹状態にするため昼食を抜いてきた。茂がいつそのことに不満を言いだすかと案じていたが、何も言わずに京都までたどり着いた。空腹であることにさえ気付かないのか。流が捜しだしたというステーキに反応できるか、茜の不安は募るいっぽうだ。
  「お父ちゃんがこないに緊張してはるのは、はじめて見ました。失敗は許されん、て昨日はほとんど寝てはらへんと思いますよ」
  背伸びして厨房に目を向けたこいしは、茜の耳元で声を低くした。
  「面倒なことをお願いしてごめんなさいね。流さんにも申しわけないことしたと後悔してる」
  茜は半分本気でそう思っている。
  「そんなこと言わんといてください。お父ちゃんも茜さんのお父さんのことやから、全力投球しはりましたし。やっぱりお父ちゃんにとって、茜さんて特別な人なんやなぁて、妬やいてしまいましたわ」
  こいしの言葉のほうが本気度は高そうだ。
  「メシはまだ出てこんのか」
  怒ったような口調で、茂が大きな声をあげた。
  「すんまへん。もうすぐ肉が焼けまっさかい、もうちょっと待っててくださいや」茂に負けじと、厨房のなかから流が大声で応酬した。
  「やっかいな客でほんとうにごめんなさいね」茜は平身低頭している。
  「こいし、ライスを先に持っていってくれ」
  流が暖簾のあいだから顔を覗かせると、こいしは小走りで厨房に向かった。
  厨房からは肉を焼く音と一緒に、芳こうばしい香りが漂ってくる。鼻をひくつかせて、茂がごくりと生つばを吞んだ。茂が食べたいと望んでいた〈テキ〉が本当に出てくるのだろうか。茜は胸を高鳴らせながらも、少なからず疑問も抱いている。
  自分で依頼しておいて言うことではないが、何も具体的なことに触れていないのに、はたして捜しだすことができるのだろうか。向かい合って座る茂の顔色を茜は何度もうかがっている。
  「お待たせしてすんませんねぇ。先にご飯をお持ちしました」赤いチェックのランチョンマットを向かい合わせに二枚敷き、丸い洋皿に盛られたライスをその上に置いた。
  「さあさあ、焼き上がりましたで。鉄板が熱ぅなってまっさかい、火傷せんように気ぃ付けとぉくれやっしゃ」
  木皿の上に載った楕だ円えん形けいの鉄皿からは、もうもうと湯気があがり、焼けた肉の脂がパチパチとはぜている。
  「お父さんのほうは切ってあるんで、お箸で食べてください。茜さんはナイフで切りながら食べてもろたほうがええと思います」
  こいしがそれぞれに箸とナイフ、フォークを添えた。
  「熱いうちにどうぞ」
  こいしと流は早足で厨房に戻っていった。
  「いただきます」
  茜が手を合わせてカトラリーを手にすると、茂は箸を持つ手を肉に伸ばした。
  鉄皿にはローストしたタマネギが敷かれていて、その上には絵に描いたような形のステーキが載っている。肉の真ん中にはレモンスライスとバターがトッピングされていて、ふるき佳よき洋食といった風情を醸しだしている。
  バターをまぶした肉をライスに載せ、箸で口に入れたあと、茂がボソッとつぶやいた。
  「こいつは旨いな」
  ホッと胸をなでおろした茜はナイフで切った肉にレモンを押し付け、バターを絡ませてからフォークで口に運んだ。
  肉ブームと言われて久しい。都内に肉料理専門店がオープンするたびに足を運んでは、試食を続けてきた。どれほどの期間熟成させたか、何度でどれくらいの時間加熱したか。
  まるで理科の実験のように数字を並べて、料理人たちは饒じょう舌ぜつに語る。
  仕事柄、口が裂けても言えないのだが、いつも、それがどうした、と思ってしまう。料理を数値化してしまえば、やがてAIに取って代わられる。そんな簡単な理屈にも気付かないのか、数字重視の傾向は強くなるばかりだ。
  おそらくはかれらから一番遠いところに居るのが流なのだろう。肉を美味しく焼く。ただただその一心で調理したに違いない。見た目は武骨だが、嚙みしめるほどに味わい深く、それは胃袋から心へと、じわじわ沁しみわたっていく。
  「こいつは旨いな」
  茂がまたおなじ言葉を繰り返した。百五十グラムほどあっただろうステーキは、もう残り少なくなっている。
  「お父さんが食べたいって言ってた〈テキ〉はこれだった?」茜の問いかけに、しばらく無言で肉を嚙みしめていた茂が、箸を置いて、こっくりとうなずいた。
  「流さぁん。ちょっとこっちに来てくださる?」いきなり立ちあがった茜が、厨房に向かって大声でさけんだ。
  「どないしたんや。なんぞまずいことでもありましたかいな」厨房から飛びだしてきた流は、タァ‰で手を拭いながら、怪け訝げんな顔つきで茜に訊いた。
  「その逆よ。お父さんが言ったの。これが食べたかった〈テキ〉だって。ありがとう流さん」
  嬉しさのあまり、茜が流に抱きついた。
  「そうでしたか。それはよろしおした」
  茜に抱かれたままの流は、引きつった笑顔を茂に向けた。
  「よかったですね」
  白けた顔のこいしが傍らに立った。
  「こいしちゃんもありがとう。父さんもこれでもっと元気になってくれると思う」目に薄らと涙を浮かべて、茜がこいしに頭を下げた。
  「捜してきはったんはお父ちゃんやし、うちはなんにもしてしません」こいしは、しれっとした顔で茜から視線をそらせた。
  「きれいに食べてくれはっておおきに。ありがとうございます。足りなんだんと違いますか? お代わりをお持ちしまひょか」
  皿のライスは半分近く残っているが、茂の鉄板からは肉がすべて消えてしまっている。
  「そうだな。もう少しもらうか。いや、やっぱりやめておくか」茂が迷っているのを見て、茜が口をはさんだ。
  「それくらいにしておいたほうがいいんじゃない? それより、流さんがどうやって、お父さんが食べたかった〈テキ〉を捜してこられたか。そのお話を聞かせてもらいましょうよ」
  「まぁ、そない急せかさんでもええがな。お父さんにはもうちょっと〈テキ〉を食べてもらおと思うてる」
  流はこいしに目で合図を送った。
  「そんなに食べられるかしら」
  「食べるかどうかを決めるのは百合子じゃなくてわしだ」茂が口をへの字に結んだ。
  「次はこいしが肉を焼きよるさかい、そのあいだにこの〈テキ〉の話をしとくわ」茜の横にパイプ椅子を持ってきて流が腰をおろした。
  「お願いします」
  神妙な顔つきで、茜が流のほうに身体からだの向きを変えた。
  「茜が書いてくれた、お父さんの履歴書っちゅうか、経歴と、お母さんの百合子はんが書き残してはったノートを突き合わしてみて、ひょっとすると、これやないか、というのを見つけたんや。それがこれや。──銀の祝。町内のレストラン──て、百合子はんがメモしてはる。茜が言うように、ほとんど毎晩のように茂はんは会食してはったから、珍しいことやったんやろ」
  流がタブレットに写真を映しだして見せた。
  「銀婚式のお祝いってこと? でも町内なんだ。父さんらしいわ。そのころってどこに住んでたのかなぁ」
  「それも百合子はんのノートと経歴を突き合わせて分かった。京都市上かみ京ぎょう区南上善寺町。千せん本ぼん今いま出で川がわの近くや」地図アプリを開いた流が、地図のマークした地点を指さした。
  「いわゆる西にし陣じんって辺りね。こんなとこに住んでたんだ。わたしは東京の大学に入って下宿していたから、京都の家はぜんぜん知らないのよ」「さっき、茜は町内の店やて、バカにしたように言うとったけど、京都っちゅうとこは、こういうとこにこそ、ええ店があるんや」
  「バカにしたわけじゃないわよ。でも、銀婚式のお祝いだったら、ホテルだとか遠くの名店とかに連れて行ってあげなきゃ、と思った。お気を悪くされたのなら謝りますけど」「今は別の場所に移転しはったけど、そのころはここに『ビフテキスケロク』っちゅう洋食レストランがあったんや。店の名前どおりビフテキが名物で、さっき食べてもろたんは、シェフからレシピを聞きだして、わしが再現したもんなんや」「なるほどねぇ。理路整然としてる。さすが流さんの推理だ。ねぇ父さん」茜が話を振っても、茂はなんの反応も示さず、ぼんやりとした顔つきで天井を見上げている。
  「京都っちゅうとこはな、店は移転しても料理はほとんど変えへんもんなんや。金閣寺の近くに移転しはった『ビフテキスケロク』はんも、お父さんらが食べはったんと、おんなじ〈テキ〉が今でも食べられる」
  流がビフテキの写真をタブレットに映しだした。
  「ずっと続けておられるお店もすごいけど、レシピを聞いて忠実に再現できる流さんも、やっぱりすごいわ。食欲旺盛な父さんを久しぶりに見た気がする」「そろそろ焼きあがるんやけど」
  こいしが暖簾のすき間から顔を覗かせた。
  「こっちはいつでも大丈夫や」
  「わたしは少しでいいからね。これ以上太ったら大変だから」「そうはいかんのや。今から出す〈テキ〉は大きいなかったら美味しない。残してもかまへんから、まぁ食べてみ」
  こいしが両手にふたつの洋皿を持って厨房から出てきた。おそらくニンニクだろうが、さっきの〈テキ〉とは比べものにならないくらい強烈な匂いだ。
  「どうぞ召しあがってください」
  こいしがテーブルにふたつの皿を置いた。
  「これはまたすごい迫力ね」
  分厚い〈テキ〉は大きさも半端ではない。さっき食べた上品なビフテキとはまったく別ものだ。一枚肉に切りこみが入っていて、それはまるで手のひらのようだ。
  以前に取材したことがある〈とんてき〉だ。三重県の四日市の名物のはずだ。いっとき四日市に住んでいたことと話がつながるのだろうが、なぜ流はこの武骨な〈テキ〉を出してきたのか。それよりなにより、小さなポーションとは言え、さっきビフテキを食べたばかりの茂には負担でしかないだろう。
  せっかく百合子との思い出につながる〈テキ〉と出会えたのに、こんな料理が出てきたら、あと味が悪くなるだけではないか。茜は茂の様子をうかがった。
  さっきまでの茂とは別人のように背筋を伸ばし、現役時代とおなじような姿勢で両腕を組んだまま、じっと〈テキ〉を見つめている。
  そんな茂がどういう反応を示すのか、三人は固かた唾ずを吞んで見守っていた。
  やがて茜に微笑ほほえみを向けてから、茂はおもむろに口を開く。
  「あのころはこれぐらいの肉をぺろりと平らげたものだが、もうこの歳としになれば、半分も食えそうにないな。百合子はどうだ? おまえなら食えるだろう」茂が顔を向けると、茜がすぐさま言葉を返す。
  「わたしはあなたの娘の茜よ。母さんはとっくにこの世から……」茜の口元を手のひらで覆い、流が静かに首を横に振った。
  「なんでもいいから食べなさい。思い出の味だからな」茂は手を合わせてから箸を取り、〈テキ〉を切りこみから割って、ゆっくりと口に運んだ。
  流にうながされ、茜は仕方なくといったふうに、茂とおなじようにした。
  「どうだ。懐かしいだろう。あのときとおなじ味だ」「ほんとそうですね」
  茜は百合子になろうと決めた。
  「百合子にはずいぶんと寂しい思いをさせたが、これからは、その埋め合わせをせんと。
  まずはあのときの約束を果たさんといかんな」「約束ってなんでしたっけ」
  「なんだ。覚えとらんのか。百合子が言いだしたんじゃないか。世界一周する船旅に連れて行ってくれと。それも豪華客船でと付け加えて」「遠いむかしの約束を、よく覚えていてくださいましたね」自然と口をついて出た自身の言葉に、茜は胸をつまらせた。
  「忘れるもんか。この〈テキ〉を食いながら百合子が言いだしたときは、びっくり仰天したな。あのころは自分がどこまで出世できるか、まったく分からんかったから」茂は千切りキャベツと一緒に〈テキ〉を口に運んだ。
  「わたしは信じていましたよ。あなたならきっと」茜は声色まで使って、百合子になり切っている。
  「あの日は銅婚式だったが、金婚式にはかならず、と約束してしまったんだな。おまえの喜びようは尋常じゃなかった。家のことはすべてわたしが守りますから、茂さんは仕事に専念してください。百合子がそう言って、そのとおりに今日まで続けてきてくれたから、わしもなんとかここまで来られた。ほんとうにありがとう。心から礼を言うよ」中腰になった茂は、目に涙を浮かべて頭をさげた。
  「茂さんらしくないですよ。いつものようにえばっていてくださいな」ひと筋の涙が頰を伝う。ほんとうに百合子が乗り移ったのではないかと茜は思った。
  「おまえにはずいぶんと寂しい思いをさせてきた。その時間はもう取り戻せんが、せめてもの罪滅ぼしに約束を果たそうと思っている」ひょっとしてなにかが憑ひょう依いしているのではないか。そう思ってしまうほど、近年の茂とはまったくの別人に見える。言っていることもまともだし、口調もたしかだ。生き生きとした表情、胸を張った姿勢も八十を超えた老人にはとても見えない。
  「そうだ。たしか茜が旅行雑誌の仕事をしているはずだから、あの子に手配をさせよう」「違いますよ。茜が編集長をしているのは料理雑誌。旅行雑誌じゃありません」茜は泣き笑いをしている。
  「うちのお客さんに『飛鳥あすかⅡ』っちゅう豪華客船の船長はんがやはりますさかい、あんじょう頼んどきますわ」
  流も話の流れに乗った。
  「それはありがたい。港はすぐそこだから、船長さんもよく来るんだろう」ここが四日市だと思っていることに、ホッとしてしまう茜だ。
  さらに驚くべきは茂の食欲だ。大きな〈とんてき〉が半分以上減っている。
  「〈テキ〉の量が多いさかい、ぜんぶ食べてもらわんでもよろしいで」流がそう言うと、茂は首を横に振った。
  「これくらいは食べんといかん。船旅では毎日旨いものがたくさん出てくるらしいからな。腹をきたえておかんと」
  「無理してお腹をこわさないでくださいよ。長い旅に出ないといけないのですから」「そんなことは百合子に言われんでも分かっとる」茂は意地になったように〈とんてき〉を食べ続けている。
  「豪華客船で世界一周やなんて、うちらには夢のまた夢です。うらやましい限りですわ」こいしが茂に茶を淹れた。
  「旦那さんにお願いしておきなさい」
  「残念ながらまだひとり身なんです」
  「それはいかん。早くいい人を見つけて結婚しなさい。夫婦というのはいいものだよ」茂とこいしのやり取りを聞きながら、驚くとともに茜は少しばかりの疑いも持ちはじめた。
  こんな真っ当に会話が成立するということなら、ひょっとして茂はボケたふりをしていただけではないのか。
  たえず一緒にいるわけではないが、茂がこれほどまともな対話をするのを聞いたことがない。野球のキャッチボールにたとえれば、投げて返してが二度続けば上等だと思っていた。それがどうだ。ずっとキャッチボールが続いているではないか。
  「トイレはどっちだ」
  茂が腰を浮かせた。
  「こいし、ご案内せい」
  こいしは茂の背中を抱えるようにして食堂から出ていった。
  その背中を見送ってから、茜は流に向き直って腰を折った。
  「まいりました。流さんはドラマのディレクターでもあったのね。最後にこんなどんでん返しがあるとは思ってもいなかった」
  茜は涙でマスカラを滲にじませて目の周りを黒く染めている。
  「お母さんのノートにあった、銀の祝っちゅうのが大きいヒントになったわ。銀があるんやったら銅もあるはずや、と遡ったら見つかった。それが四日市に住んではるときやった。銀婚式のときは京都のステーキ屋はんやったが、銅婚式は四日市の中華料理屋はんやった。なるほどと思うたんや」
  「なぜ? 中華料理屋さんにステーキはないでしょう」茜が訝いぶかしんでいる。
  「お父さんが、旨い〈テキ〉を食いたい、て言わはったんは、テレビで野球を観てるときやていうのもヒントになった。さっきの〈とんてき〉やけど、なんかに似てへんか?」「手のひら?」
  「野球のグローブやがな」
  「わかった。思いだした。そうそう、四日市の〈とんてき〉って、通は〈グローブ〉って言うんだよね。自分で記事を書いておきながら、ぜんぜん結びつかなかった。今になってそう言われればつながるんだけど」
  「お母さんのノートに〈豚肉のタレ焼き〉と書いてあったんを見て、〈とんてき〉のことやないかと思うた」
  「さすが、としか言いようがないですね。銀婚式の〈ビフテキ〉でシャンシャン。両親にはそんな思い出があったんだ、って。ふつうはそこで終わるのに、まだ何かあるんじゃないかって、捜すのはやっぱり元刑事だからかしらね。そして、ちゃんとそれ以上のドラマを探し当てるんだから脱帽ですよ」
  「銅婚式になんぞ思い出があるんやないか、とは思うたけど、金婚式に向けてそんな約束をしてはったことは、わしにも想定外やった」「あれはほんとうのことだと思います? 父さんの妄想のような気もするけど、事実だったのかもしれない。母さんがそんな贅ぜい沢たくを望んでいただろうかと不思議に思うんだけど、ただひとつのわがままを言ったのだとしたら、いかにも母さんらしいとも思うし」
  「神のみぞ知る、っちゅうことやな。お父さんが自責の念から、勝手に想像してはっただけかもしれんし、ほんまにそんな約束をしてはったのかもしれん」「どっちにしても約束は果たせなかったんだから、きっと母さんは悔しかったでしょうね」
  「さあ、それも分からん。お母さんがずっと付けてはった食日記からは、恨みつらみてなもんはいっさい感じんかった。お父さんの健康を気き遣づこうてはったんは伝わってくるけどな」
  「父さんのことで愚痴っぽいことは言ったことがなかったから、それはたしかなんでしょうけど、心底そんな一生でいいと思っていたのかしら。しあわせとはほど遠い一生だったと思うんだけど」
  茜は何度も首をかしげ、深いため息をついた。
  「しあわせっちゅう言葉から、どんな絵を思い浮かべるか。人それぞれや。みんながみんな、おんなじ絵を描いたらつまらんがな」
  流が茜の肩を二度叩いた。
  「茜、そろそろ帰るぞ」
  茂が手洗いから戻ってきた。
  「はいはい。お勘定を済ませてからね」
  茜がトートバッグから財布を取りだした。
  「探偵料もお食事代も、お気持ちに合う金額をこちらに振り込んでいただくことになってますので」
  こいしがメモ用紙を茜に渡した。
  「そうだったわね」
  茜が折りたたんだメモ用紙を財布に仕舞った。
  「お母さんが残さはったノートは宅配便で送っておきます」「もう要らない、って言ったら母さん怒るかしら」茜が舌を出した。
  「船旅のことはわしにまかせといてください」流が茂に声を掛けた。
  「船旅? なんのことだ。船酔いするから、わしは船は嫌いだ」茂がむくれ顔を作ると、三人は顔を見合わせて笑った。
  「今日もお泊まりですか?」
  店を出たふたりにこいしが訊いた。
  「ええ。いつもの『からすま京都ホテル』」
  茜が答えた。
  「どうぞいつまでもお元気で」
  流の言葉に、茂が小さく会釈した。
  「広告はまだ続けてくれる?」
  「もちろんやがな」
  茜の問いかけに流は笑顔を返した。
  「お気を付けて」
  こいしの声を背中に受けて、ふたりはゆっくりと正面通を西に向かって歩いて行った。
  「ちょっと冷えてきたな」
  店に戻って、流は両手をさすった。
  「こういうのを、あやかして言うんかなぁ。どこまでがほんまの話で、どこからが夢物語なんか、うちにはよう分からんかったわ」
  こいしがカウンター席に腰かけて、百合子が書き残したノートを積み上げた。
  「しょせん人生はうたかた。どんな泡もいつかは消える。生きとることが夢物語なんや」流が仏壇の前に座った。
  「なあなあ、世界一周の船旅を約束しはったていう話。あれはほんまやと思う? もしほんまやったらロマンチックやなぁ。夫婦ふたりで人生を振り返りながら長~い船旅する。
  憧れるわ。な? お母ちゃん」
  こいしが流のうしろで正座した。
  「ほんまでも、お父さんの妄想でも、どっちでもええがな。そういう気持ちを持ってはったことは間違いないんやから。もしかしたら、あの世でのことを言うてはるのかもしれん」
  流が線香を立てた。
  「お母ちゃんも、お父ちゃんとそんな船旅したかったんと違う?」こいしが問いかけると、写真の掬子はかすかに笑った。
 

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