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二週間後と聞いていたが、鴨川こいしから珠江に連絡が入ったのは十日後だった。
自宅を出て、高知空港、伊丹空港、JR京都駅と、目指す『鴨川探偵事務所』へ近づくにつれて、クリスマスの飾り付けが増えてくる。京都駅の地下街にはクリスマスソングが流れていた。
山村に生まれ育った健夫は、クリスマスとは縁遠く、結婚してからもクリスマスだからといって、ふだんと違うことは何もしなかったが、虫の報しらせでもあったのか、亡くなる前の年のクリスマスには、高知市内のホテルへクリスマスディナーを食べに連れて行ってくれた。
食事を終えてホテルの部屋に戻ると、きれいに包装されたクリスマスプレゼントが用意してあり、武骨な指でオープンハートのネックレスを付けてくれたのだ。
──大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃないですか?──照れくささもあって、そんな冗談を言いながら、嬉うれし涙を流したのだった。
そんなことを思いだしながら、烏丸通を北に向かって歩く。
昼間でよかったと思った。クリスマスイルミネーションがきらきらと光る夜道をひとりで歩けば、きっと胸が締め付けられる思いになっただろう。
それもしかし表通りだけで、細い正面通に入ってしまえば、ふだんどおりの空気が流れていて、クリスマスのかけらもない。
「こんにちは」
「おこしやす」
この前と違って、出迎えてくれたのは流のほうだ。
「お待ちしとりました。ちゃんと捜しだしてきましたさかい、愉しみにしてとぅくれやす」
「お嬢さんはお出かけですか?」
珠江が赤いウールのロングコートを脱いで、コート掛けに掛けた。
「動物病院へ行っとります。飼い猫やないんでっけど、こいしにようなついてる猫がいましてな。ひるねっちゅう名前を付けてこいしが可愛かわいがっとるんですが、ここしばらく調子が悪いみたいで、今朝もぐったりしとったんでお医者はんにみてもろてますんや。
なんや入院ささんならんみたいで、たいそうなこってすわ。もうじき帰ってくる思います」
「そうでしたか。飼ってらっしゃらないのに、よく面倒をみられてますね」「こいしは飼こうてる気分ですやろ。こんな食べもん商売してますさかいに、わしが頑として家に入れんだけで。自転車の前カゴがひるねの住まいですわ」「お嬢さんには申しわけないけど、わたしもご主人とおなじです。犬も猫もきらいではありませんが、食べもの屋さんにいると、いい気持ちはしませんね。いろんなことが気になって、食べることに集中できないんです」
「そうでっしゃろ。動物好きとこれは別の問題やてこいしには言うとるんですが」「噂うわさをすればなんとやら。お帰りになったんじゃありませんか?」珠江の言葉どおり、自転車のブレーキ音がして、がらがらと引き戸を開けてこいしが戻ってきた。
「どうやった?」
建前は別として、流も気になっているようだ。
「ひるねももう歳としやさかいなぁ。風邪が長引いてるんやて」珠江に一礼して、こいしが白いダウンジャケットを脱いだ。
「猫も風邪ひくんかいな。それはええとして早ぅ支度せんと。珠江はんにはずっと待ってもろてるんやで」
流がゆがめた顔をこいしに向けた。
「いえいえ、さっき来たばかりですから。それに、何も急ぎませんし」「すんませんでした。すぐに用意しますよって」こいしが急いで黒いソムリエエプロンを着けた。
流とこいしが厨房に入っていくと、食堂のなかはしんと静まり返った。
それとは逆に、厨房からはにぎやかな音が響きはじめる。フライパンを火にかけた音。
皿を並べる音。何かを切っている包丁の音。そこに混ざり合うふたりの声。
どうやら調理がはじまったようだ。
いよいよあの日食べ損ねた五目焼きそばと対面できるのだ。はたしてどんな料理が出てくるのだろうか。
きっと流は小樽まで出向いて捜しだしてきたのだろうが、健夫が一緒に食べようとしていた五目焼きそばがそれかどうかは判別できない。
うろ覚えで店の名前のヒントになるだろうことを伝えたが、それとてたしかではない。
そんな気がする、という程度だ。健夫の口から五目焼きそばという言葉が出た瞬間から、珠江の関心は寿司に移ってしまっていて、健夫の言葉はほとんど耳に入ってこなかったのだから。
音がだんだん大きくなる。フライパンを激しく動かす音がする。そばを炒いためているのだろうか。芳こうばしい香りが漂ってくる。珠江はごくりと生つばを吞のみこんだ。
「今日はお酒はどうしましょ?」
暖簾のあいだからこいしが顔を覗かせた。
「ちゃんと味わって食べないといけないので、今日は遠慮しておきます」「ほな、あっちのお店とおんなじようにお水をお出ししますわ」こいしが引っ込むと、代わりに流が首を伸ばした。
捜して欲しいと頼んだものの、いざそのときが迫ってくると、なんのためにそれを食べようとしているのかが分からなくなってきた。
こいしを納得させるために、あれこれと理由を話したものの、それがこじつけだということは自分でもよく分かっている。それを食べたからと言って、これからの自分の人��べもの屋さんにいると、いい気持ちはしませんね。いろんなことが気になって、食べることに集中できないんです」
「そうでっしゃろ。動物好きとこれは別の問題やてこいしには言うとるんですが」「噂うわさをすればなんとやら。お帰りになったんじゃありませんか?」珠江の言葉どおり、自転車のブレーキ音がして、がらがらと引き戸を開けてこいしが戻ってきた。
「どうやった?」
建前は別として、流も気になっているようだ。
「ひるねももう歳としやさかいなぁ。風邪が長引いてるんやて」珠江に一礼して、こいしが白いダウンジャケットを脱いだ。
「猫も風邪ひくんかいな。それはええとして早ぅ支度せんと。珠江はんにはずっと待ってもろてるんやで」
流がゆがめた顔をこいしに向けた。
「いえいえ、さっき来たばかりですから。それに、何も急ぎませんし」「すんませんでした。すぐに用意しますよって」こいしが急いで黒いソムリエエプロンを着けた。
流とこいしが厨房に入っていくと、食堂のなかはしんと静まり返った。
それとは逆に、厨房からはにぎやかな音が響きはじめる。フライパンを火にかけた音。
皿を並べる音。何かを切っている包丁の音。そこに混ざり合うふたりの声。
どうやら調理がはじまったようだ。
いよいよあの日食べ損ねた五目焼きそばと対面できるのだ。はたしてどんな料理が出てくるのだろうか。
きっと流は小樽まで出向いて捜しだしてきたのだろうが、健夫が一緒に食べようとしていた五目焼きそばがそれかどうかは判別できない。
うろ覚えで店の名前のヒントになるだろうことを伝えたが、それとてたしかではない。
そんな気がする、という程度だ。健夫の口から五目焼きそばという言葉が出た瞬間から、珠江の関心は寿司に移ってしまっていて、健夫の言葉はほとんど耳に入ってこなかったのだから。
音がだんだん大きくなる。フライパンを激しく動かす音がする。そばを炒いためているのだろうか。芳こうばしい香りが漂ってくる。珠江はごくりと生つばを吞のみこんだ。
「今日はお酒はどうしましょ?」
暖簾のあいだからこいしが顔を覗かせた。
「ちゃんと味わって食べないといけないので、今日は遠慮しておきます」「ほな、あっちのお店とおんなじようにお水をお出ししますわ」こいしが引っ込むと、代わりに流が首を伸ばした。
捜して欲しいと頼んだものの、いざそのときが迫ってくると、なんのためにそれを食べようとしているのかが分からなくなってきた。
こいしを納得させるために、あれこれと理由を話したものの、それがこじつけだということは自分でもよく分かっている。それを食べたからと言って、これからの自分の人生が大きく変わるかといえば、たぶんそんなことはないに決まっている。望む望まないにかかわらず、最さい期ごの日まで、ずっと柚子と寄り添いながら生きていくのだろう。
「お待たせしましたな」
小走りで厨房から出てきた流が、銀盆に載せた丸皿を珠江の前に置いた。
五目焼きそばという言葉から、珠江は勝手に炒めたそばだと決め込んでいたが、目の前に出てきたのは、五目餡がたっぷり載った焼きそばだった。
もうもうと湯気を上げ、中華料理独特の脂っぽい匂いが立ちのぼっている。
「出来たて熱々なんですね」
「熱いうちに食べとぉくれやす。この料理は熱さもごちそうのうちでっさかい」「お口のなかを火傷せんように気ぃ付けてくださいねぇ。うちも試食したときに口のなかが火傷だらけになってしまいましたわ」
こいしがコップに入った冷水とピッチャーを皿の横に置いた。
たしかに油断すると火傷しそうなほどの熱さだ。箸を持つ手を近づけただけで五目餡から熱が伝わってくる。だからといって冷めるのを待っていたら美味しくないだろう。
具ぐ沢だく山さんとはこういう料理のための言葉だ。餡には豚肉、白菜、筍に海え老び、モヤシとニンジン、しめじにグリーンピースまで入っている。五目どころか八目餡だ。
たっぷりの餡に隠れている麺には、ほどよく焦げ目がついている。数本の麺を引っ張りだし、餡を絡めてゆっくりと口に運んだ。
想像していた以上に濃い味だが、麺と一緒に食べればちょうどいい。とろみが強いせいで麺を持ち上げにくい。箸を重く感じてしまう焼きそばははじめてだ。
ひと口食べて思ったのは、いかにも健夫の好きそうな料理だということ。
味噌汁でも麺類でも、具がたくさん入っていないとダメな人だった。いかにも濃い味を好んだ健夫らしいセレクトに、思わず苦い笑いが込みあげてくる。
そうか。二週間ものあいだ、ずっと珠江の好みに合わせていて、最後くらい自分の食べたい料理に付き合って欲しいという思いだったのだ。
北海道旅行をあらためて思い返せば、ずっと柚子畑の世話をさせ続けた珠江を不びんに思い、健夫は精いっぱいのもてなしに努めていたのだ。本当は札さっ幌ぽろでもジンギスカンを食べたかっただろうに、珠江の好物の蟹かに料理を選んだし、お昼どきだって、蕎麦屋さんよりラーメン屋に行きたかっただろう。きゅうくつそうな古いジャケットで、微笑ほほえみながらホテルでフレンチディナーを食べていたけど、心のなかでは炉端焼きの店にでも行って、あぐらをかいて寛くつろぎたかったに違いない。
長い北海道旅行のなかで一度ぐらいは、自分の好物を存分に食べたい。健夫がそう思っていたことを、この五目焼きそばが教えてくれているのだ。
食べ進んでもなかなか冷めない。量もほとんど減らない。今ここに健夫がいたら、どんなに喜んだだろう。柚子を収穫するときのように、満面の笑みを浮かべながら鼻歌を歌いだしたかもしれない。
あなたが食べたかった五目焼きそばは、こんなにボリュームたっぷりで、こんなに美味しいものだったんですね。語りかけても返事がないのは心底つらい。食べものの恨みは恐ろしいと言うけれど、ひょっとして恨んでいたのだろうか? こうして捜しだしたのだから、許してくれるだろうか。
珠江の目が潤んだ。
「お口に合うてますかいな」
流が珠江の傍らに立った。
「はい。とても美味しくいただいてます。ぜんぶ食べられるかしらと思ったのですが、もうこんなに」
小指で目尻を拭ってから、珠江は皿を流に向けた。
「よろしおした。わしも小樽の店で食べたとき、おんなじように思いました。結局は完食しましたけどな」
「やっぱり小樽まで行っていただいたんですね。ありがとうございます」腰を浮かせて珠江が頭を下げた。
「座らせてもろてもよろしいかいな。お話をさせてもらわんとあきまへんさかいに」流はテーブルをはさんで珠江と向かい合った。
「ぜひお聞かせください」
「いっつもはね、どないでした? 捜してはったんはこれでしたか? てお訊きするんでっけど、今回は勝手が違うもんやさかい、ちょっとまごついとります。奥さんはもちろん、亡のうなったご主人も食べてはらへんのやさかい、お出ししたもんが合うとるかどうか分かりまへん。お話を聞いて、わしなりにあれこれ推測して、たぶんこれやないかと思うたもんを作ってみましたんや」
「ほんとうに厄介なことをお願いしてしまって。でも、これをいただいて主人の気持ちもよく分かりましたし、すっかり気分が晴れました」「よろしおした」
「小樽のどんなお店のものだったか、お教えいただけますか」「ここですわ。『八番館』っちゅう街の中華屋はん。亡うなったご主人が、屋号に数字が付いてるやとか、二軒のうちどっちか迷うてる、て言うてはったみたいなんで、この『八番館』と『三菜飯店』の二軒に目星を付けたんですわ。どっちも小樽では五目焼きそばで人気の店でしてな。そうそう、そもそも、なんで小樽で五目焼きそばかて言うたら、五目餡かけ焼きそばは、知る人ぞ知る小樽の名物料理やったんですわ。わしも知らなんだんですが、昭和三十年ごろから小樽のあちこちの店で出すようになったんやそうです。戦前に京都の料理人を雇うた中華屋はんで、まかない料理として出してたんが広まった、っちゅう説もあるみたいで、詳しいことはよう分かっとらんみたいです。小樽っちゅうとこはことのほか寒いとこでっさかい、餡掛けやったら身体が温ぬくたまるし、ボリュームもあるさかい腹持ちもええ。そんなことで広まったんでっしゃろな。奥さんもそうやったように、小樽っちゅうと、どうしても寿司やとか海鮮もんに目ぇが行きがちですわな。それであんまり有名やないんやろけど、わしも小樽の何軒かで五目餡かけ焼きそばを食べましたんやが、なかなか旨いもんです」
「そうだったんですか。それで小樽の五目焼きそばを食べたかったんですね。てっきり二週間の北海道旅行でがまんしていたのを、小樽で取り返そうと思っていたものとばっかり」
珠江が口もとをゆるめた。
「ご主人が食べたかったかどうかは、わしには分かりまへん。けど、奥さんと一緒に食べようと思うてはったことだけは間違いおへん」流は真正面から珠江の目を見つめた。
「わたしはとくに五目焼きそばが好きなわけではありません。なぜ主人はわたしと一緒に食べたいと思ったのですか?」
「こっから先はわしの憶測やさかい、見当はずれかもしれまへん。そのつもりで聞いとぉくれやす」
流が座りなおすと、珠江は背筋をまっすぐに伸ばし、前かがみになった。
「ご主人は池本幸太郎のファンやったそうですな。わしも昔から好きで、小説はほとんどぜんぶ読んでます。けどエッセイはあんまり読んでへんかったんですわ。それでちょっと読んでみましたんやが、食いもんの話はさすがにじょうずに書いてますわ。今の作家はんらはうんちく話が多いんでっけど、池本はんは違います。ちょっとした機微が効いとって、がんちくがありますねん。食いもんの話やのに、ほろっとさせられたりします。なんちゅうても、食いもんの描写はさすがですなぁ。読んでるとよだれが出ますわ」〈むかしからの味〉と書かれた池本幸太郎の文庫本を、流が珠江の前に置いた。
「たしかこの本も主人の本棚にあったように思います」珠江は小さくうなずいた。
「そうでっしゃろ。池本ファンやったらみな読んでるみたいですわ。このなかに五目焼きそばの話が出てきますねん。ただ、小樽の話やないんです。信州の旅日記みたいなとこに出てきます。おそらくご主人はこの話を読んではった思います。奥さん、ちょっと読んでみてもらえますやろか」
流がページを開いて、文庫本を珠江に向けた。
「──五目焼きそば 五目汁ソバより五目餡かけ焼きそばのほうが味に深みがある。なぜかというと麺の存在が大きいからで、地味な麺は派手な五目餡のかげに隠れているが、実はこちらが主役なのである。五目汁ソバの麺なんぞはずっとツルッとしていて、最後まで同じ味なのだが、五目餡かけ焼きそばは違う。フライパンに接することを免れた、するりと艶っぽい麺と、フライパンにずっとくっついていて、武骨に焦げた麺と、その中間もあって、いろんな麺の味が愉しめる。しかしそこにはなんの法則性もなければ、無論計算ずくでもない。ただの気まぐれなのである。かねがね思っているのだが、五目餡かけ焼きそばの麺は、なんとなく連れ合いに似ている。男というものは主役のような顔をしてエラそうにしているが、かげで支えてくれる家人が居るから安心して主役を演じられるのである。
本当の主役は連れ合いのほうだ。感謝の気持ちしかない。常々そう思ってはいるが、決して口に出して言わない。そんなことを言ってしまえば、それから先は頭が上がらなくなるからで、口が裂けても言わない。まぁしかし、どっちかが死ぬ直前には言ってやってもいい。世話になったな。お前のおかげでいい人生になった。もちろん五目餡かけ焼きそばを食いながらでないと言えないのだが──」
最後は涙声になりながら、珠江が短文を読み上げた。
「さすが浴、ナウンサーやなぁ。久しぶりに朗読ていう言葉を思いだして、うちも泣きそうになりましたわ」
こいしが両手でまぶたをふさいだ。
「泣きそうて、お前もう泣いとるがな」
流は目尻を指で拭った。
「お父ちゃんかてやんか」
「わたしが鈍感だったせいで、取り返しのつかないことをしてしまって……」珠江が嗚お咽えつをもらす。
「珠江さんが自分を責めはることはありませんやん。うちかてきっとそこまでは気付かへんと思います」
こいしが掛けた言葉に、珠江はかぶりを振って頰を濡ぬらした。
「奥さん」
流が強い言葉で呼びかけた。
「はい」
流の声の大きさに、珠江は赤子のような泣き声をぴたりと止め、濡れた目を白黒させた。
「今日のこと、不思議や思わはりまへんか」
穏やかな口調で流が語りかけると、珠江はハンカチを持つ手を止めた。
「ご夫婦で何千回、何万回と一緒に食事をしはったやろに、ただ一回、それも一緒に食べなんだ食が気になって捜そうとあなたは思わはった。よう考えたらこない不思議なこともありまへん。美味しいか美味しないかも分からん、どころか、どんな料理かも分からんもんを、しかも十年近ちこぅ前のことを今になってあなたは気に掛けて、わざわざ京都まで捜しに来はった。それは間違いのうご主人の思い、っちゅうか念が、長い長い時間を経て、あなたに届いたからや思います。小樽で五目焼きそばを食べながら、あなたに感謝の気持ちを伝えたい。そう願ねごうてたのに叶かなわなんだ。津波で流されていかはるとき、ご主人のただひとつの心残りは、それやったんと違いますやろか」流の言葉を聞き終えて、珠江はまたハンカチを目に押しあてた。
「あのとき、わたしに遠慮なんかせず、強引にでも五目焼きそばを食べに連れて行ってくれたらよかったのに」
「脇役は主役の気持ちをだいじにせんとあかん。ご主人はそう思わはったんですやろ」「うちの主役はあのひとです。わたしは脇役で充分しあわせだったんですよ」真っ赤に染まった目を珠江が向けると、流はゆっくりとうなずいた。
「こういうのもボタンの掛け違いに入るんやろか。人間の気持ちてむずかしいもんやなぁ」
誰に言うともなくこいしがつぶやいた。
「いちおうレシピを書いときました。て言うてもたいしたもんやおへん。ちょっと太めの中華麺をフライパンで焼いて、お好みの具を炒めてとろみを付けて麺の上に掛けるだけです。味付けの調味料も書いときましたけど、このとおりの味付けやのうてもよろしい。塩味を効かせてもええし、ァ·スターソースを強めにしても美味しおす。麺の焼き加減がだいじです。五目焼きそばの主役はあくまで麺でっさかいな」流がにこりと笑った。
「ありがとうございました。なんだか急に力が抜けてしまいました」珠江の姿は放心状態という言葉が似つかわしい。涙も涸かれ果てたようだ。
「涙は心の浄化装置やて言いますやん。もやもやしてたもんがスッキリしたんと違います?」
「そんなような気もしますし、重くなったようにも思います。お世話になりました。お食事代も併せて代金をお支払いさせてください」気を取り直したように、珠江が財布を取りだした。
「うちは特に料金とか決めてませんねん。お気持ちに見み合おうたぶんだけこちらに振り込んでください」
こいしが折りたたんだメモ用紙を手渡した。
「承知しました。高知に戻りましたらすぐに」受け取って、珠江はメモ用紙を財布にしまった。
「京都もさぶおすけど、高知の山のなかも寒いですやろ。風邪ひかんように気ぃ付けてくださいや」
「ありがとうございます。おふたりもどうぞよいお年を」「ほんまや。もうそんな挨あい拶さつせんならん時季になってたんですねぇ。珠江さんもええお正月迎えてくださいね。お身体をだいじにしてご主人のぶんまで長生きせんと」「ありがとうございます。そうでしたね。主人のぶんも生きていかないといけませんね。
いいお正月になりそうな気がしてきました」
店を出た珠江が晴れやかな顔をふたりに向けた。
「よろしおした」
流がおだやかな笑みを浮かべた。
「そうそう。猫ちゃんはどうです? 元気になりました?」「気に掛けてもろておおきに。おかげさんで元気になって、出かけとるようです。お腹が減ったり、眠とうなったら戻ってきますねん」「よかったですね」
珠江がほほをゆるめ、正面通を西に向かって歩きだした。
「どうぞお気を付けて」
珠江の背中に流が声を掛けて、こいしはその横で小さく頭を下げた。
「人間の運命てほんまに不思議やなぁ。今の今までそこにやはったご主人が突然いんようになってしまう。そんなことがあちこちで起こってるんや」「そういうこっちゃ。今の時代、明日は我が身っちゅう言葉も現実味を帯びてきた」先に流が店に戻り、こいしはそのあとに続いた。
「もうすぐお母ちゃんは居んようになる。そう思うて一緒に居られた時間があったぶん、うちらはしあわせやったんかもしれんなぁ」
「さあ。それはどうや分からんで。あとに残るこいしのことを案じたら、心配で、悔しいて、掬子はたまらんかったかもしれん」
流はそう言いながら、仏壇に線香をあげた。
「よう言うわ。お母ちゃんが心配なんは、うちやのうてお父ちゃんのほうやんかなぁ。
ちゃんと見張っとくさかい、心配せんでええよ」こいしが掬子の写真に手を合わせた。