日语学习网
第七卷 第五話 ハムカツ 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
  1
  新幹線が京都駅に着いたというのに、米よね山やま清せい三ぞうはまだ迷っていた。それを捜しだすことにどんな意味があるというのか。
  手のなかの切符は京都までだが、このまま新大阪まで行ってもいい。
  いっそ博多まで行ってしまえば、フグでもアラでも、この時季ならではの旨うまいものがたくさん待っている。向こうの料理人仲間とバカ騒ぎしながら博多の夜を愉たのしむのも悪くない。
  いや、やっぱり初志貫徹だ。発車のベルが鳴りはじめると同時に、清三はバッグをひったくるようにして席を立ち、小走りで新幹線から降りた。
  日帰りのつもりだったから小ぶりのトートバッグひとつ持って、東京の自宅を出たのは朝八時過ぎだ。朝食を摂とるひまもなかったせいで腹は減っている。
  地図で見るかぎり京都駅から『鴨川探偵事務所』までは歩いて十分ほどだ。烏丸通という京都のメインストリートを通って行くのだから、目についた店に入ればいいだろうが、駅ビルのテナントのほうが無難なような気もする。いつからこんな優柔不断な性格になったのだろうか。ほとほと自分でも嫌気がさしている。
  ガラスに映りこんだ自分の姿に、清三は思わず目をそむけた。
  黒のダウンコートにダメージジーンズ、トートバッグにショートブーツ。どれもファストファッションだ。人一倍ファッションには気を遣うほうだったのが、いつの間にか楽なスタイルを選ぶようになった。すべてのエネルギーを料理に費やすようになったからだ。
  スマートフォンで軽いブランチによさそうな店を検索すると、次々と店が出てくるがどこも気を引くにはいたらない。
  そう思って歩いているとパン屋が目に入ってきた。『志津屋』と言えばたしか、古くから京都にある店だ。テレビのバラエティ番組でも紹介されていた〈カルネ〉と名付けられた惣そう菜ざいパンが旨そうだ。これで小腹を満たしておいて、うまくいけば『鴨川食堂』なる店でも食べられる余地が残る。
  「カルネふたつください。袋は要いりません」こんなときにダウンコートはありがたい。両側のポケットに一個ずつ〈カルネ〉を放り込み、地図を見ながら地下道を出て北に向かって歩く。
  京都というのは本当に寒いところだ。マフラーで首を隠し、両手をコートのポケットに突っ込んで、〈カルネ〉を握りしめても、自然と身震いしてしまう。
  地図ではもっと遠いように見えたが、どうやら目指す『鴨川探偵事務所』はすぐ近くのようだ。烏丸七条の交差点を北へわたり、公園でもないかと捜してみたが、まるで見当たらない。向かい側には大きなお寺が並んでいるのだが、寺の境内でパンをかじるというのは、いかにも行儀が悪い。かと言って歩きながら食べるわけにもいかない。
  どうしたものかと案じるうちに、とうとうそれらしき場所まで来てしまった。おそらくここに違いない。モルタル造の二階家。暖簾も看板も出ていないが、辺りに食べものの匂いが漂っている。こうなったら入るしかない。ふたつの〈カルネ〉をトートバッグに入れ、玄関の前に立ってゆっくりと引き戸を開けた。
  「こんにちは。どなたかいらっしゃいますか」しんと静まり返った店のなかに低い声が響く。
  カウンターがあり、テーブル席もある。間違いなくここは『鴨川食堂』だろう。奥なのか二階なのかは分からないが、この建家のどこかに『鴨川探偵事務所』もあるはずだ。今の今まで人が居た気配があるものの、返事は返ってこない。出だ汁しの香りが漂っているだけだ。
  「こんにちは」
  さっきより少しだけ声を大きくしてみた。
  「はーい。すぐ行きますよって、ちょっと待ってくださいね」若い女性の声が返ってきて、清三はホッと肩の力を抜いた。
  昼まではまだ時間がある。仕込みの最中なのか。それにしては静かだ。
  デコラ張りのテーブル、ビニール張りのパイプ椅子。信州の田舎にもこんな食堂はあったが少し趣きが違うのは、その端正な佇たたずまいだ。コミックや雑誌が積んであるわけではなく、壁にメニューも貼っていない。テーブルにもカウンターにもメニューブックらしきものはない。カウンターやテーブルを白木に変えれば立派な和食店になる。カウンターの奥に見える厨ちゅう房ぼうも清潔に保たれているのがよく分かる。ステンレス張りの壁も、そこにぶら下がる鍋もまぶしいほどに光っている。
  「お待たせしました」
  白いシャツに黒いジーンズ、黒いソムリエエプロンを着けた若い女性が現れた。
  「突然おじゃましてすみません。食を捜してくれる『鴨川探偵事務所』はこちらでしたでしょうか」
  「探偵のほうのお客さんやったんですか。うちが所長の鴨川こいしです」「いきなり伺って捜してもらえるものなんですか?」清三がおそるおそる訊きいた。
  「大丈夫ですよ。お腹なかのほうはどうです? 空すいてはるようやったら、先に食べてもろて、それからお話を訊くていう感じですねんけど」「いいんですか? そいつは嬉うれしいなぁ。申し遅れました。僕は米山清三といいまして、東京でレストランをやっているんです」
  清三は名刺を差しだした。
  「港区元麻布……『ア?ロー』。フレンチのお店をやってはるんですか」両手で受けとって、こいしがじっと見つめている。
  「おいでやす。食堂の主人をしとります鴨川流です。どうぞお掛けください」「ありがとうございます」
  清三はダウンコートをコート掛けに掛け、パイプ椅子に浅く腰かけた。
  「『ア?ロー』っちゅうたら、二ツ星を取ってはるフレンチやったんと違いますかな。そんな二ツ星シェフにお出しできるような料理やおへんけど、よかったら召しあがってください。おまかせしかできまへんのやが」
  「ありがとうございます。でも、その二ツ星シェフ、というのはやめてください。星の数がどうとか、に疲れてしまったものですから」清三が深いため息をついた。
  「苦手なもんはおへんか」
  「なんでも美お味いしくいただきます」
  「ほな、ちょっと待っとぅくれやっしゃ。旨いもんを見つくろうてきますわ。こんな店でっさかい、大したもんはできまへんけど」
  和帽子をかぶり直して、流は厨房へ駆けこんでいった。
  「お飲みもんはどうしましょ。いちおうワインとかもありますし、日本酒でも焼酎でもなんでも」
  「日本酒を常温でいただけますか。ブランドはおまかせします」パイプ椅子に座ったまま、清三はあらためて店のなかを見まわしている。
  「すぐにお持ちしますよって」
  こいしが流に続いた。
  こんな気楽な店で料理を作るのも悪くないなと清三は思った。いや、やっぱり違う。店構えはグランメゾンふうでありながら、素朴な料理を出すほうがサプライズは大きい。仕事も人間関係も、なにもかもに迷っていて、なにひとつ決断できない自分に、ずっと清三はいらだっている。
  「先にお酒をお持ちしました。『秀しゅう鳳ほう』ていう山形のお酒なんですけど、常温で飲まはるんやったらこれがええ、てお父ちゃんが言うてはるんで」こいしが緑色の四合瓶をテーブルに置いた。
  「はじめて見る酒です。純米酒。お米はつや姫を使っているんですね」「うちも最近こればっかり飲んでますねん。吟醸と違うさかい香りも強すぎひんし、飲み口も甘あもぅ感じるんで、ついつい飲み過ぎてしまうのが難点です」こいしが染付の猪ちょ口こにたっぷりと注ついだ。
  「辛口の吟醸酒ばかりがもてはやされて、日本酒の個性が失われているような気がしていたのですが」
  清三がゆっくりと猪口をかたむけて続ける。
  「こいつはいい。ちょっと酸味も利いていて、これなら和食だけでなく、どんな料理にでも合わせられそうですね」
  大皿を両手で抱えて、流が厨房から出てきた。
  「お待たせしましたな。腕利きのシェフに出せるようなもんやおへんけど、まぁ、話のタネやと思うてもろたら嬉しおす。さぶい時季でっけど、ちょっとだけ春を先取りしてみました。九品の大皿盛りですわ。左上の白磁の小鉢に入っとるのは筍たけのこの木の芽和あえ。歯ごたえのええ根っこだけを使つこうてます。その横はグジのフライ。柴漬けを使うたタルタルソースを掛けてます。その右の切子の杯にはハマグリのマリネを入れとります。ハーブの刻んだんを混ぜてもらえますか。その下、織部の小皿に載っとるのは才さい巻まき海え老びの酒蒸し。柚ゆ子ず胡こ椒しょうがよう合います。真ん中の塗ぬり椀わんには穴子ちらしが入っとります。実み山ざん椒しょうの煮たもんを添えてますさかい、それを載せてみてください。ええアクセントになる思います。その左のデミカップは牛タンの煮込み。辛から子しを付けてもろたらええと思います。お嫌いやなかったらパクチーも載せてください。その下は山菜の天ぷら。フキノトウ味み噌そを付けて食べてください。
  下の段の真ん中は鰻うなぎの白焼き。刻みワサビを載せて、大葉で巻いたらさっぱりします。右端はトリ肝のソース煮。一味トウガラシを多めに振って食べてください。わしが好きなもんやさかい、酒のアテみたいなもんばっかりでっけど、かんにんしとぅくれやっしゃ。あとでご飯をお持ちしますんで声を掛けとぅくれやす。今日はアワビ飯を炊いとります」
  一気に料理を説明して、流が清三に笑顔を向けた。
  「いやはや。なんとも。どう言ったらいいのか。いったいこちらはどういうお店なんですか。僕は今日こうして突然伺ったのですから、そのために用意されたものではないわけですよね。つまり、いつでも、これだけの料理をスタンバイされているということですか? どうにも信じられないのですが」
  両腕を組んで、清三が何度も首をかしげている。
  「たまたま、ですがな。ご覧のとおりヒマな店でっさかい、自分の食いたいもんを仕込んどるだけです。お客さんがなかったら、これがまかないになるんですわ」「お話はあとでよろしいやん。ゆっくり召しあがってもらわんと」こいしが話に割って入った。
  「そやな。お酒も瓶ごと置いときますんで、好きなだけ召しあがってください」ふたりはそそくさと下がって行った。
  ひとり食堂に残った清三は、大皿をにらんだまま微動だにしない。黒目だけが気ぜわしく動き、ひとつひとつの料理を凝視している。
  たいして暖房が効いているわけではないのに、清三の額には汗がにじんでいる。箸を取り、料理に手を付けようとかまえてはいるが、皿にまで箸が届かない。
  箸を置いた清三は猪口に手を伸ばし、四合瓶から酒を注いだ。
  口を湿らせるように酒を飲んで、清三はようやく料理に箸を付けはじめた。
  最初は鰻の白焼きだ。流の指示どおり、刻みワサビを載せて大葉で包んで口に運ぶ。皮はパリッと芳こうばしく、身はふんわりとやわらかい。川魚特有の臭みはまったくなく、串の跡から推測すると炭火を使った焼きたてだろう。まさかこんな小さな切り身だけを焼いたのではなかろう。とすれば残りの鰻はどうしたのか。
  次に箸を付けたグジのフライにも驚かされた。揚げたてのグジはウロコが立っていて、皮目にはコロモを付けず揚げたようだ。甘みを抑え、酸味を利かせたタルタルソースも旨い。揚げ油はなんだろう。植物性であることは間違いないが、ふつうのサラダ油ではこれほどのコクが出ない。
  九品のうち、たったふた品食べただけで、鴨川流という料理人の腕前に怖おそれすら感じてしまう。
  清三は自分のレストランを振り返ってみた。自分を含めて六人の料理人がいるのだが、こんな短時間にこれだけの質の料理を出せるかと問われれば、瞬時にNOと答えざるを得ない。
  ならばかつての店。自分ひとりで何もかも切り盛りしていた、カウンター五席だけの店。あのときならできただろうか。答えを出すのに時間は掛からない。絶対に無理だ。
  余計なことは考えず、食べることだけに集中しよう。そう決めて、清三は猪口の酒を一気に飲みほした。
  ハマグリはたしかマリネと言っていたが、どんなマリネ液に漬けたのか。淡く桃色に染まっているから、ベリーを使ったのか。そしてまたしても油が分からない。ァ£ーブァ·ルでないことだけはたしかだが。ピリッと辛い香辛料はなんだろう。食べたことのない味わいだ。そうだ。ハーブを混ぜなきゃ。細かく刻まれたハーブはおおよそ分かる。イタリアンパセリ、フェンネル、タイム、ァ§ガノ。ざっとそんなところだろう。だが、正直に言うならこのハーブは要らない。ほんの一年ほど前だったらこういう趣向を喜んだものだが、今の自分なら余計なものは足さない。マリネしたハマグリの旨さをストレートに味わいたい。
  などと偉そうな口をきいているが、これまでさんざん自分でもやってきたことで、今でもしばしばこういう足し算をしている。これはある意味で料理人の性さがだとも言える。
  なにかしらひと手間加えないと、手を抜いているように思えてしまうのだ。
  もっと美味しくできないか。料理と対たい峙じしてそう思わない時間などいっときもなかった。きっと流もおなじなのだろう。
  もっとも気になっていたのは牛タンの煮込みだ。
  牛タンをアレンジすることは少なくない。精肉以外のビーフを嫌うシェフもいるが、清三は内臓肉も好んで使う。それは食材を極力無駄なく使いきりたいという思いからでもある。コールド?タン、タンシチューはもちろん、コートレットにすることもある。
  見たところドミグラスソースで煮込んだタンシチューのようだ。洋辛子を添えるあたり、むかしながらの洋食を意識しているに違いない。
  デミカップに入った牛タンを箸で取ろうとして、そのやわらかさに指先が驚いている。
  ほろほろと崩れそうになる牛タンに洋辛子を付けて、そろりと口に運ぶ。口のなかで繊維が解ほどけ、広がる味わいに予想を裏切られた。
  味噌味なのである。辛さと甘さが絡み合う味わいからすると、八丁味噌と白味噌、それに麦味噌を合わせているのだろう。そしてかすかに感じるのは山椒の香りだ。
  たしかに牛タンと味噌の相性はいい。仙台で味噌漬けを食べたこともあるから、味噌味で煮込んでもなんの不思議もないのだが、こうして食べてみると、実に新鮮な味に感じるのである。
  酒が進む。四合瓶はすでに半分近く減っている。それほど酒に強くない清三にとっては、めったにない酒量だ。なのにまるで酔ってはいない。頭のなかは研ぎ澄まされ、五感は鋭くなるいっぽうなのが不思議だ。
  まるで心のなかを見透かされているようだ。
  おなじ調理場ではたらくスタッフたちも、月に二度三度と足を運んでくれる常連客も、情報を求めに来るライターや料理評論家たちも、清三が料理のことで悩んでいるなど、みじんも思っていない。五年続けて二ツ星を獲得し、いつ三ツ星に昇格するのかと周囲はみな注目しているのだ。
  ただ料理を無心に食べればいいものを、余計なことばかり考えてしまう。
  「どないです。お口に合おうてますかいな」
  様子を見に流が厨房から出てきた。
  「大満足です。ひと品ひと品に心がこもっていて、何ひとつ奇をてらったわけではないけど、細かな工夫がなされている。僕などにはとても真ま似ねできません」正直な感想を口にした。
  「おほめいただくのはありがたいですけど、同業のかたにそない言われると、なんやお尻のあたりがこそばゆうなりますわ」
  「僕はお世辞を言えない人間なので、正直に言ったまでです。失礼なことを訊きますが、どこで修業なさったんですか?」
  「修業らしい修業はしたことがおへんのや。見よう見まねでここまで来ましたんで」「お師匠さんはどこのどなたです?」
  「それもいてまへんのや。強いて言うなら義父でっけどな、それも不義理して棒折ったもんやさかい、大きい顔して師匠て呼べるもんやおへん」「ということは、すべて独学ですか」
  「まぁ、そうなりまっしゃろな」
  流は、ふっ、と小さなため息をついた。
  流の言葉をどこまで信じていいのか、清三には見極めがつかなかった。
  夜間高校を卒業してすぐ、地元の食堂に勤めてから、洋食屋、フレンチレストランと店を替えながら料理を学び、フランスに渡ってからは十年近く修業を積んだ。その間、師匠と呼ぶべき料理人の数知れず。それぞれから学んだことやレシピを記した大学ノートは、今も百冊ほど手元に残していて、命の次にたいせつなものだと思っている。
  それがあるからこそ、これまで自信を持って料理に立ち向かうことができたのである。
  そういうものが流にはまったくないというのか。
  「ぼちぼちご飯をお持ちしまひょか」
  「お願いします」
  流に声を掛けられなければ、いつまでも飲み続けてぶっ倒れているところだった。
  「最近は土鍋で炊いたご飯をそのままよそうことが多いみたいでっけど、やっぱり椹さわらのお櫃ひつに移して、ちょっとうましてからのほうが旨いんと違うかなぁと思うてますねん」
  清三の前に流がお櫃を置いた。
  「お櫃ですか。そういえば最近は見かけなくなりましたね。和食のお店は土鍋ばかりだ」「土鍋で炊いたご飯も美味しいもんですけど、そればっかり、っちゅうのもねぇ。このごろは流は行やりに乗る料理人がようけおるさかい、しょうがおへんけどな」お櫃から木賊とくさ柄の飯めし茶ぢゃ碗わんに流がよそっているのは、アワビ飯だ。ざく切りにしたアワビが白飯のすきまを埋め尽くすという、なんとも贅ぜい沢たくな〆しめである。
  小ぶりのおろし金に載った擂すり柚子を、流は茶ちゃ筅せんでアワビ飯に振りかけた。
  「お櫃ごと置いときまっさかい、お好きなだけ召しあがってください。漬けもんとおつゆも置いときます。お代わりしはったときは、お汁掛けにしてみてください。ちょっと味が変わって美味しなる思います」
  言いおいて、流は厨房に戻っていった。
  さて、アワビ飯はどんな味付けをしてあるのか。ひと口食べて拍子抜けした。
  なんともあっさりした味付けなのだ。おそらく一番出汁で炊いたのだろう。昆布とかつお節の味わいがかすかに感じ取れる程度で、アワビそのものの味が際立っている。塩も醬しょう油ゆもわずかしか使っていない。何より驚くのはアワビの食感だ。嚙かむまでもなく歯がすーっと入り、舌と上あごですり潰せるほどやわらかく仕上がっている。志摩のリゾートホテルで食べたアワビのステーキとも違い、数寄屋橋の鮨すし屋やで食べた煮アワビとも違う。しかしその旨さは二軒に勝るとも劣らない。
  一膳目を食べ終えてハッとした。具のアワビもだが、ご飯に沁しみこんだアワビの香りが清すが々すがしいあと口を残すのである。なるほどと思い至った。
  あたりまえのことだが、蒸し煮にしたアワビと白飯を一緒にして食べるのと、アワビ飯はまったく別ものなのだ。アワビよりも、アワビの旨みを吸いこんだ飯が主役と言ってもいいかもしれない。
  おつゆがまた旨い。中華料理の清チン湯タンを思わせるスープは青みがかっていて、それはアワビの肝が溶けこんでいるからだろうと思う。
  二膳目を半分ほど食べたところで、流の奨すすめにしたがって汁掛け飯にしてみた。
  見た目は似ていても、リゾットとはまるで違う食べものだ。似た味わいを探して思い当たるのは海の苔り茶漬けだろうか。しかしそれとは比べものにならないほど、高貴な味わいがするのはアワビの力だ。
  肝の香りはすれど、舌には肝特有の臭みなどまったく残らない。どんな下処理をしたらここまで洗練された味わいになるのか。
  いっそのこと、流に弟子入りして教えを乞えば、すべて解決しそうな気がしてきた。
  「いつでも奥にご案内できまっさかい、ええとこで言うとぉくれやす。娘が待っとりますんで」
  「そうでした。あまりに料理が美味しいものですから、ついついお尻が重くなってしまって。ごちそうさまでした。今すぐ参ります」
  あわてて箸を置いて、清三が立ちあがった。
  「急せかしてるんやおへんのでっせ。あとのご予定もあるやろさかいと思うただけで」「料理は作るのも好きですが、食べるのはもっと好きなもので、美味しいものを前にすると時間が長くなる悪いクセがあるので、言っていただいてよかったです」「急かしたようになってしもうて、すんまへんでしたな。どうぞこちらへ」先を歩く流についていくと、細長い廊下に出たが、そこでも清三は驚きの声をあげてしまった。
  「これはなんですか」
  「見てのとおり、料理の写真ですわ。わしはレシピを書き留めたりはせんもんで、写真に撮って残してますんや。ずぼらなこって」
  流が苦笑いした。
  細長い廊下の両側に貼られた写真の数はおびただしいものだ。そしてそこに写っているのは多種多様な料理である。半分以上は和食だが、中華ふうのものもあれば、イタリアンっぽいものもある。
  「まさかこれをぜんぶおひとりで作られたんじゃないでしょうね」「なかには誰ぞと一緒に作ったもんもありまっけど、ほとんどはわしが作った料理です」「くどいようですが、料理は独学なんですよね」「独学てな言葉を使えるほど学んだわけやおへん。見よう見まねです」「これもですか? 比較的新しいフレンチですよね」立ちどまって、清三が食い入るように写真を見つめている。
  「フレンチて言えるようなもんと違いまっせ。グジをアセゾネして、カダイフを巻いて揚げたもんです。たしかソースはシェリー酒で風味を付けたクリームソースやった思います」
  流が清三の真横に立った。
  「ソースに野菜を使っておられるようですが」「タマネギやとかエシャロット、ニンジン、カブラやらを弱火でエチュベしてソースに混ぜたような記憶がありますな」
  学んではいないと言いながら、流は塩胡椒することをアセゾネと言い、やさしく蒸し焼きにするという意味のエチュベというフレンチ用語を使う。
  「あとは娘にまかせてまっさかい」
  いつの間にか廊下の突き当たりまで歩いていた流が、ドアをノックした。あわてて清三が駆け寄るとドアが開いた。
  「どうぞお入りください」
  ソムリエエプロンを外し、黒のパンツスーツに着替えたこいしが迎えた。
  思ったより広い部屋には、むかしふうの応接セットが置かれていて、清三はこいしと向かい合う形でロングソファに腰をおろした。
  「面倒や思いますけど、いちおう探偵依頼書に記入してもらえますか。簡単でええので」こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
  住所氏名年齢からはじまり、職業、家族構成など迷うことなく書き終えて、清三がこいしに返した。
  「米山清三さん。どんな食を捜してはるんですか」こいしがノートを開いた。
  「ハムカツです」
  清三は即座に答えた。
  「うちもハムカツは好物ですねん。どこかのお店で食べはったもんですか?」「ええ。大分駅の近くにあった洋食屋で食べたものです」「あった、ていうことは今はもうないんですね」「一年前に捜しに行ったのですが、見つかりませんでした。お店がなくなってしまったのか、僕の記憶があいまいなのか。どちらかはっきりしませんが」「ちょっと詳しいに教えてください」
  こいしが身体からだを乗りだした。
  「僕は大分県豊ぶん後ご大おお野のの緒お方がたというところで生まれました。近くに石仏の遺跡があるような長閑のどかなところで、両親は農家を営んでいました。特にこれといった特色もなく、いろんな作物を作っていたような記憶があります。はっきり言って貧しい家でしたねぇ。兄弟姉妹が六人もいて、僕は下から二番目でした。食べるのが精いっぱいの暮らしだったので、みんな中学を卒業すると働きに出るようなありさまでした。僕は大分市内の叔父の家に下宿させてもらって、家具工場に勤めながら夜間高校に通っていました」
  清三は固い口調で当時を振り返った。
  「緊張してはります? リラックスしてくださいねぇ」「こういう機会はめったにないので、どう話していいか」清三が頭をかいた。
  「米山さんてまだ四十八歳ですよね。中学を卒業しはったころていうたら、今から三十三年前ですやん。そのころやったらたいていは高校までふつうに行ってたんと違うん�ー酒で風味を付けたクリームソースやった思います」
  流が清三の真横に立った。
  「ソースに野菜を使っておられるようですが」「タマネギやとかエシャロット、ニンジン、カブラやらを弱火でエチュベしてソースに混ぜたような記憶がありますな」
  学んではいないと言いながら、流は塩胡椒することをアセゾネと言い、やさしく蒸し焼きにするという意味のエチュベというフレンチ用語を使う。
  「あとは娘にまかせてまっさかい」
  いつの間にか廊下の突き当たりまで歩いていた流が、ドアをノックした。あわてて清三が駆け寄るとドアが開いた。
  「どうぞお入りください」
  ソムリエエプロンを外し、黒のパンツスーツに着替えたこいしが迎えた。
  思ったより広い部屋には、むかしふうの応接セットが置かれていて、清三はこいしと向かい合う形でロングソファに腰をおろした。
  「面倒や思いますけど、いちおう探偵依頼書に記入してもらえますか。簡単でええので」こいしがローテーブルにバインダーを置いた。
  住所氏名年齢からはじまり、職業、家族構成など迷うことなく書き終えて、清三がこいしに返した。
  「米山清三さん。どんな食を捜してはるんですか」こいしがノートを開いた。
  「ハムカツです」
  清三は即座に答えた。
  「うちもハムカツは好物ですねん。どこかのお店で食べはったもんですか?」「ええ。大分駅の近くにあった洋食屋で食べたものです」「あった、ていうことは今はもうないんですね」「一年前に捜しに行ったのですが、見つかりませんでした。お店がなくなってしまったのか、僕の記憶があいまいなのか。どちらかはっきりしませんが」「ちょっと詳しいに教えてください」
  こいしが身体からだを乗りだした。
  「僕は大分県豊ぶん後ご大おお野のの緒お方がたというところで生まれました。近くに石仏の遺跡があるような長閑のどかなところで、両親は農家を営んでいました。特にこれといった特色もなく、いろんな作物を作っていたような記憶があります。はっきり言って貧しい家でしたねぇ。兄弟姉妹が六人もいて、僕は下から二番目でした。食べるのが精いっぱいの暮らしだったので、みんな中学を卒業すると働きに出るようなありさまでした。僕は大分市内の叔父の家に下宿させてもらって、家具工場に勤めながら夜間高校に通っていました」
  清三は固い口調で当時を振り返った。
  「緊張してはります? リラックスしてくださいねぇ」「こういう機会はめったにないので、どう話していいか」清三が頭をかいた。
  「米山さんてまだ四十八歳ですよね。中学を卒業しはったころていうたら、今から三十三年前ですやん。そのころやったらたいていは高校までふつうに行ってたんと違うんですか」
  「ふつうはそうでしょうね。うちはとくべつ貧しかったんだろうと思います。叔父から聞いてはじめて知ったんですが、ァ′ジは借金の連帯保証人になっていて、破産した友人の肩代わりをさせられたらしいんです。その心労もあってか、両親とも早くに亡くなりましたし、実家は人手に渡ってしまいました。そんな育ちですから兄弟姉妹も散り散りばらばらで、一堂に会するなんて機会も今までまったくありませんでした。叔父も僕が東京に出ていくのを見届けるように、すぐ亡くなったそうです」「そうやったんですか。お気の毒に。すんません。失礼なこと言うてしもて」「いいんですよ。本当のことですから」
  「帰る故郷もないし、身内もいいひん、て寂しいんと違います?」こいしが訊いた。
  「天涯孤独っていうのも悪くないですよ。冠婚葬祭に煩わされることもないし、帰省なんていう面倒もないしね。唯一お墓参りに行くのが帰郷ってことになるのかなぁ。実家があった場所は避けて通りますけど」
  清三が浅いため息をついた。
  「お茶でも淹いれましょか。コーヒーかお茶かどっちがよろしい?」「じゃあコーヒーをいただきます」
  立ちあがって、こいしがコーヒーマシンをセットした。
  「ふつうの高校生やったら、親元を離れて暮らすのはつらい思うんですけど」「叔父はとてもいい人で、ときどき食事に連れて行ってくれたんです。田舎街ですから今にして思えば、飛びきり美味しいものばかりではありませんでしたが、それでも僕にはどれもご馳ち走そうでした」
  「また要らんこと言いますけど、今の二ツ星シェフとはあんまりにもイメージが違いすぎて、信じられへん気がします」
  こいしが清三の前にコーヒーを置いた。
  「そんなもんですよ。子どものころというか、若いときに旨いものを食えなかったのでシェフになった、っていう料理人はけっこういますよ」「そういうもんかなぁ。けど、ものすご料理を勉強せんとあかんかったんと違います?」「一からですからね。学校の勉強はまったくしませんでしたが、料理の勉強は死に物狂いでした」
  清三はコーヒーをひと口飲んで、ソファにもたれかかった。
  「好きこそもののじょうずなれ、ていうのは、こういうことを言うんですやろね。で、そろそろハムカツの話をお願いしてもよろしいやろか」「叔父には、いろんなお店に連れて行ってもらったのですが、一番衝撃を受けたのが洋食屋のハムカツなんです。世の中にこんな旨いものがあったのか。そう思ったのが切っ掛けで僕は料理人を目指すようになったんです」
  「それもまた意外やなぁ。二ツ星シェフの原点がハムカツやったなんて。どんなんやったんやろ。めっちゃ興味あります」
  こいしはノートにハムカツのイラストを描きつけている。
  「ふつうのハムカツですよ。薄いし、上等じゃないし」「そういうのが美味しいんですよね。ウスターソースをたっぷり掛けて」「そうそう。添えてある千切りキャベツがまた美味しくてね。よくこんなきれいに切れるなと。シャキシャキしていて」
  「ほんまにふつうのハムカツでした? なんか特別のんやったとか」「ふつうのハムカツだったのですが、僕には特別なものでした。ひとにたとえるなら、初恋という感じでしょうか。そのハムカツを食べた瞬間、雷に打たれたような気がしました。親元にいるときは貧しいのがふつうでしたから、多少ひもじくてもつらいと思ったことは一度もありませんでした。その理由のひとつに、旨いものを知らなかったということもあったんだと思います。だからハムカツを食べたとき、世のなかにこんな旨いものがあるとも知らずに十五年間生きてきたんだ、って、とても哀かなしくなってしまったんです。食べてるうちに涙をこらえられなくなってしまいました。叔父が不思議がっていたので、辛子を付け過ぎたとごまかしました。そのとき思ったんです。誰もが子どものころから、美味しいものを食べられるような世のなかにしたい。そう言うと政治家志望みたいに思われるかもしれませんが、それは絶対無理なので、料理を作る側にまわろうと思いました」
  清三はゆっくりとコーヒーを飲んだ。
  「十五歳からの夢を叶かなえはるて、すごいことですよね。尊敬しますわ。けど、そのハムカツを食べてなかったら、シェフになってはらへんかったかもしれへんのですよね。そのハムカツもエライ」
  「そうなんですよ。ずっとそのことを忘れてしまっていたのですが、最近それを思いだしてしまって」
  「もうちょっとヒントが欲しいとこなんですけど。なにかあります?」こいしがペンをかまえた。
  「お店なんですけど、大分駅から歩いて行ったので、駅の近くだと思います。その店で食事をしたあと、城じょう址し公園を散歩した記憶があるので、その辺りだったんじゃないかと」
  「ちょっと待ってくださいね。今、地図アプリを開きますんで。大分駅、と。ここが駅ですね。そして城址公園、と。ここですね。駅とお城の址あとて近いんや。ということは、この範囲内にあったんでしょうね」
  こいしがタブレットの地図を指でなぞった。
  「そうなんです。短い時間でしたが、一年ほど前に僕もこの辺りを歩いてみたんです。でも、それらしき洋食屋は見つかりませんでした」「京都でも、フレンチとかイタリアンはようけできますけど、むかしからの洋食屋さんは店仕舞いしはるとこが少のうないですわ。新しい洋食屋さんもできますけど、高い店ばっかりやし」
  「すみません。僕らがいけないんですよね」
  「そういう意味で言うたんと違いますよ。また余計なこと言うてしもた」こいしがぺろりと舌を出した。
  「いいんですよ。僕もおなじことを感じていますから。そもそも僕がハムカツを捜そうと思ったのもそこなんですよ」
  「そこって、どこです?」
  「今、僕が作っている料理って、本当に美味しいものなんだろうか。っていうところです。分かってもらえますか?」
  清三がこいしに顔を近づけた。
  「なんとなく分かったような気ぃもしますけど」気おされて、こいしが身体をそらせた。
  「美味しいものを食べて機嫌が悪くなる人って、絶対いませんよね。美味しいものを食べるとみんな笑顔になるし、それはしあわせってことだと思うんです。そのことを気付かせてくれたのがハムカツだったのに、それをすっかり忘れ去っていた。結果どうなったかというと、料理の評判ばかり気にするようになってしまったんですよ。グルメサイトの口コミや点数も気になるし、インスタやフェイスブックなんかのSNSで、どんなふうに書かれているかが気になってしょうがない。その代表が格付けガイドブックです。あの本の日本版ができたときから、どうやって星を取るか、ばかり考えるようになってしまった。そして幸運にも星を獲得したあとは、もうひとつ上のランクを目指し、最高位まで上り詰めたい、星を減らさないように、だけを目標にするようになってしまった。はたして今の僕の料理はひとを笑顔にしているだろうか。しあわせを感じてもらえているだろうか。疑問に思うようになったんです」
  コーヒーカップを手にしたまま、口を付けずに清三は語り続けた。
  「なるほど。だいぶ分かってきました。お父ちゃんもときどき、そういうようなことを言うてはります。もっと原点に帰らんとあかんて」「お父さんは大丈夫ですよ。ちゃんと技を使いながら、技巧に走りすぎることもないし。
  心に沁みる料理を作ってらっしゃる。弟子入りしたいと思ってるんです」清三が真顔で言った。
  「そんなあほな。うちのお父ちゃんは我流で作ってはるだけやし、二ツ星シェフに教えるようなもんと違いますやん」
  「だからその二ツ星シェフっていうのは……」「そうでしたね。ついうっかり」
  こいしが背中を丸めた。
  「格下げされた夢をみて、何度うなされたことか数えきれません。とある星付きのカリスマシェフは、格下げを苦に自殺したと言われていますが、まんざらその気持ちが分からないでもありません」
  「縁起でもないこと言わんといてください」
  こいしがわざとらしく身震いしてみせた。
  「もう一度、あのハムカツを食べれば原点に戻れるような気がするんです」「分かりました。お父ちゃんに気張って捜してもらいます」こいしがノートを閉じた。
  「よろしくお願いします」
  立ちあがって、清三が頭を下げた。
  こいしの先導で、清三が食堂に戻ると流が待ちかまえていた。
  「えらいお時間取りましたなぁ。お忙しいやろに」「いえいえ。このあとは何も予定を入れておりませんし、ゆっくり話をさせていただきました」
  「それやったらええんですが」
  「この次ですけど、お父ちゃんはだいたい二週間ぐらいで捜しだしてきはりますので、そのころに連絡させてもらいます」
  「承知しました。今日の食事代をお支払いさせてください」「探偵料と一緒にこの次に」
  こいしがそう言うと、清三は黙ってうなずいた。
  「気ぃつけて帰っとぅくれやっしゃ」
  流とこいしが店の表まで送りに出た。
  「ありがとうございます。せっかくなので今日は京都に泊まることにします」「この時季の京都は旨いもんもようけありますさかいな」「ホテルとかは決めてはるんですか」
  「足の向くまま、気の向くまま。のんびりやりますよ」清三は軽い足取りで正面通を西に向かって歩きだした。
  「何を捜してはるんや」
  食堂に入ると、流がお決まりの問いかけをした。
  「ハムカツ」
  こいしが短く答える。
  「ハムカツかぁ。そう言うたら長いこと食うてないな」「食べたときは美味しいさかい、すぐにまた食べたいて思うんやけど、いつの間にか忘れてしもうて、一年とか二年経ってる。ハムカツてそういうもんやね」「たしかにそうやな。で、米山はんが捜してはるのは、どっかの店のか?」「大分の駅前にあった洋食屋さんで食べはったハムカツ」「あった、っちゅうことは今はもうないんやな」「一年ほど前に自分で捜しに行かはったらしいんやけど、それらしい店は見つからへんかったみたい。三十年以上前のことやさかい、お店が無くなってても不思議はないなぁ」「大分の洋食屋……」
  流が小首をかしげた。
  「なに? なんか思い当たることがあるん?」テーブルを拭きながらこいしが訊いた。
  「ハムカツてなもんは食堂やとか、居酒屋で出すもんや。洋食屋でハムカツをメニューに載せるかなぁ」
  流が腕組みをして考え込んでいる。
  「そう言われてみたらそうやな」
  こいしが片付けの手を止めた。
  「とにかく大分へ行かんと。ついでに別府に行って温泉でも入ってくるか」流が手を打った。
  「うちも温泉だけ連れて行って」
  「調子のええやっちゃ」
  流が鼻で笑った。

分享到:

顶部
11/28 21:48