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桜咲く京都は人で埋まる。人波をすり抜け、ピンクの小さなショルダーバッグを提げた佳奈は『鴨川食堂』の前に立った。
店の前に寝そべるひるねが、ちらっと佳奈を見て、大きなあくびをした。
「こんにちは」
引き戸を開けて、佳奈が敷居をまたいだ。
「ようこそ。今日はええお天気ですね」
こいしは春空を見上げてから、引き戸を閉めた。
「お待ちしとりました」
厨房から出て来て、流が帽子を取った。
「よろしくお願いします」
佳奈が小さく頭を下げ、バッグを肩から外した。
「お急ぎかもしれまへんけど、せっかくですさかい、出来たてを食べて帰ってください。
お持ち帰りいただく分も別に用意してますさかい」「じゃあ、そうさせていただきます」
腕時計をたしかめて、佳奈がパイプ椅子に腰をおろした。
「すぐにご用意します」
流が厨房に駆け込んで行った。
「お飲みもんは、どないしましょ」
テーブルを拭きながら、こいしが訊いた。
「とんぼ返りしないといけないので、今日はお茶にしておきます」スマートフォンに指を滑らせながら、佳奈が素っ気なく答えると、こいしはポットの湯を急須に注いだ。
しばらくは、静寂に包まれていた店に、厨房から大きな音が響き始める。餅もちを搗つくような粘っこい音が規則正しく続き、やがてそれは、火花が爆はぜるような高い音に変わった。香ばしい薫かおりが佳奈の許もとへと漂い始める。
「いい匂い」
スマートフォンのディスプレイから目を離し、佳奈は鼻をひくつかせた。
「うちも最初はそう思うたんですけど、毎日この匂い嗅いでると、ええ加減飽きて来ましたわ」
苦笑いを浮かべて、こいしが清きよ水みず焼の湯呑に茶を注ついだ。
「ご迷惑を掛けていたんですね」
スマートフォンをバッグに仕舞って、佳奈が小さく頭を下げた。
「いえいえ、これが仕事ですし。お父ちゃんは完璧主義ですよって、納得するまで、何遍でも作り直さはるんです。おかげで試食係のうちは、こんなになってしもうて」こいしは、黒いエプロンの上から腹を平手で叩いた。
「こいし、用意出来てるか」
暖の簾れんの間から、流が顔を覗かせた。
「こっちは大丈夫」
佳奈の前に黄色いランチョンマットを敷き、小さなフォークと箸を置いた。
「ミッキーのフォークと、ドナルドダックのお箸って、お子さまランチみたい」佳奈の顔が華やいだ。
「これも味のうちや、てお父ちゃんが用意しはったんですよ」こいしが苦笑いすると、流が銀盆に載せて、ハンバーグを運んで来た。
「これが勇介くんお気に入りのハンバーグやと思います。熱いうちに召し上がってください」
流が白い洋皿をランチョンマットの上に置いた。
「急須ごと置いときますけど、お茶が足らんかったら言うてくださいね」こいしは佳奈に笑みを向けて、銀盆を小脇に挟んだ流と一緒に厨房へ戻って行った。
バッグからデジカメを取り出し、佳奈はシャッターを二、三度切った。
白い丸皿の真ん中に載るハンバーグは、何の変哲もないありきたりに見える。ドミグラスソースというよりは、ケチャップを煮詰めたような赤いソースが掛かっている。半熟の目玉焼きが上に載り、付け合せのフライドポテト、人にん参じんのグラッセ、バターコーンも普通だ。如い何かにも子供が喜びそうなトマトスパゲッティが添えられている。
佳奈は深いため息を吐いて、渋々といった風にハンバーグを口に運んだ。
「ん? 何の味だ?」
噛み締めて直すぐ、大きな声を上げた。
「これって……」
箸をフォークに持ち替え、ハンバーグを大きめに切り取って、赤いソースに絡めて口に放ほうり込んだ。
ゆっくりと噛み締めながら、佳奈は天井を仰ぎ、やがて目を閉じた。
まるで谷を渡って来るそよ風のように、ざわめきが佳奈の耳にこだまする。酒に酔った父親のダミ声、甲高い母の笑い声、何事か叫ぶ弟の声。四畳半の茶の間で、小さなちゃぶ台を囲んで食事をしながら、笑い合っていた。その時の味だ。だが食卓に出たのは、たしか蕎そ麦ばだったような気がする。
首をかしげて、佳奈は黄身をつぶし、目玉焼きをハンバーグに絡めて食べた。人参、ポテト、コーン。フォークで刺して立て続けに口に運んだ。
食べ進むうち、肩の力がすーっと抜けて行くことに気付いた。肩だけではない、手の先、頭のてっぺん、膝から踵かかとと、ふわりふわりと宙に浮くような気さえする。
「どないです。お口に合うてますやろか」
益まし子こ焼やきの土瓶を持って、流が佳奈の傍に立った。
「いろんなお店のハンバーグを試食して来ましたけど、これは初めての味です。なのに、なんだか……」
顎を上げて、佳奈が吐息を漏らした。
「懐かしおすやろ」
流が柔らかい笑みを佳奈に向けた。
「なぜ? どうしてなんです? 家でハンバーグを食べた記憶はないんですが」眉を八の字にして、佳奈が口調を強めた。
「人間の味覚っちゅうのは不思議なもんでしてな」唐津焼の湯呑を置いて、流が茶を注ぎながら続ける。
「家庭という言葉がありますわな。家族が暮らす場所。ここには食いもんだけやのうて、人の味、っちゅうもんがありますんや。家族に囲まれてる安らぎやとか、互いの気遣いやらが味を醸し出すんですわ。あなたもきっと、小さいときは、こないして子供用の食器を使うて食べてはったはずや」
流の言葉に反感を覚えながらも、佳奈は言葉を返せずにいる。
「このお皿と箸とフォークは、ご実家のお店で実際に、小さなお客さんに出してはるもんなんですて。お父ちゃんが借りて来はったんですよ。『料理春秋』の写真を撮るて言うて」
こいしが佳奈に目配せした。
「冷や汗のかき通しでしたで。お店には、茜から電話を入れてくれてたんで、お父さんは信用し切ってくれてはりました。騙してるのが、なんや後ろめたかったですわ」流が言葉を挟んだ。
「じゃあ、わたしのことは言わずにいてくださったんですね」ホッとしたように、佳奈は頬を緩めた。
「わしは言うてまへんけど、お父さんからあなたの名前が出ました」「え?」
佳奈が顔をこわばらせた。
「料理雑誌の編集者やと思い込んで、わしを待ち構えてはりましてな。いきなり〈竹田佳奈を知ってるか〉ですわ」
苦笑いして流が、佳奈の父、竹田佳よし生おの写真を見せた。
「全然変わってないなぁ」
佳奈が写真を手に取った。
「わしが曖昧な返事をしたんが、気に入らなんだらしいて、食の仕事をしてるんなら竹田佳奈の名前くらい覚えておけ、てエライ怒られました」「自慢の娘ですやん。うちとはえらい違いや」こいしが頬を膨らませると、佳奈は肩をすくめた。
「お店のメニューにハンバーグ定食がありましたんで、作り方を聞いてきました」ファイルケースから取り出して、流がレシピを見せた。
「勇介が食べたのと同じでしたか?」
心配そうに佳奈が訊いた。
「わしもそこが気になったんで、試食しながら、ちょっと話を振ってみましたんや。〈お孫さんとかが居られたら、きっと喜ぶでしょうな〉と。そしたら竹田さん、身を乗り出して〈孫は美味しいを連発して、お代わりしました〉と胸を張ってはりました。間違いないと思います」
流がきっぱりと言い切った。
「大豆の粉?」
レシピを見て、佳奈が首をかしげた。
「ハンバーグのつなぎに大豆の粉を使うてはるんやそうです。弘前名物の津軽蕎麦もつなぎに大豆粉を使うんですてな」
流が津軽蕎麦のリーフレットを見せた。
懐かしさの理由を知って、佳奈は鼻を白ませた。『竹田食堂』の一番人気は津軽蕎麦だ。雑誌の取材もたいていはそれを目当てにしている。上京するまでは、毎日のように食べさせられたが、十割蕎麦とは程遠い味だったと記憶する。貧しさの象徴のような大豆の粉に、郷愁を覚えたことを幾分なりとも後悔した。
「食べやすい味だったとは思いますけど、ステーキの美味しさに比べたら……」流し読みして、佳奈はレシピをファイルケースに戻した。
「そんなん、比べるのが間違うてると思いますけど」こいしが色をなした。
「この前も言いましたけど、勇介には、違いが分かる男になって欲しいんです。食でも何でも、一流のものを身に付けさせてやりたい」こいしに向き直って、佳奈が眉をつり上げた。
「親が勝手にそう思うてるだけで、お子さんには迷惑なんと違います?」こいしが佳奈をにらみつける。
「そうかもしれません。でもわたしは、勇介を立派な男に育て上げないといけないんです」
自分に言い聞かせるように繰り返して、佳奈は何度もうなずいた。
「それは親のエゴなんと……」
「こいし」
険しい顔で、流がこいしの言葉を制した。
不満そうに口を尖らせるこいしが横目で見ると、佳奈は一点をじっと見つめて、身じろぎひとつしない。三すくみのような状態のまま、しばらく沈黙が続いた。
「ご主人とは死別やったんやそうですな」
最初に口を開いたのは流だった。こいしが意外そうな顔付きで目を向けると、佳奈は一瞬驚きの表情を見せ、少し間を置いてから、こっくりとうなずいた。
「わたしがあんな頼み事さえしなければ、主人は事故なんかに遭わずに済んだんです」佳奈が唇を噛んだ。
仕事に没頭するあまり、佳奈がするべき買い物を主人に頼み、その途上で事故死した。
佳奈にとって痛恨の出来事として深く心に刻まれている。
「事故で……」
こいしが眉を曇らせた。
「あらかたの話はお父さんからお聞きしました。わしがあなたと同業やと思うて、気を許さはったんでしょうな。お母さんと交互に経緯をお話しになって」流がしんみりと語った。唇を噛んだまま、佳奈は床に目を落とした。
「母親だけでも大変やのに、あなたは父親の役割も果たさんならんと思うて、ずっと気張ってきはったんや。それが、一流を目指すことに繋つながってるんですな」流の言葉に、佳奈は小さくうなずいた。
「ひとりで、よう頑張って来はった。けど、もう充分ですがな。これからは、子供を甘えさす母親になりなはれ。きっとご主人も、そう望んではると思いまっせ」流が佳奈の肩にそっと手を置いた。
ぴくりとも動かなかった佳奈の肩が、小刻みに揺れ始め、やがて大きく震える。
「片親だからと言って、肩身の狭い思いをさせたくない。そう思って生きて来ました」佳奈が唇を真まっ直すぐに結んだ。
しんと静まり返った店の中に、時折り外のざわめきが流れ込んで来て、やがて潮が引くように、また静寂が戻る。
「たしかに上等のステーキには負けるかもしれまへん。けどハンバーグには、ひと手間掛けるという味わいが加わります。ミンチ肉につなぎを入れて、手でこねて形にする。その間に心も混ざり込むんです。おむすびと一緒ですがな。作り手の気持ちが掌てのひらから伝わっていきます。勇介くんは子供ながらに、お祖じ父いちゃんの愛情を感じ取らはったんでしょう」
諭すように流が言った。
「うちも試食したけど、なんかホッとするハンバーグですやん」目尻を小指で拭いながら、空になった戦隊ヒーローの皿をこいしが指した。
「母親の愛情が籠ってたら、子供はどんなもんでも旨いと感じます」流が笑顔を佳奈に向けた。
「はい」
マスカラで目の周りを真っ黒にして、佳奈が頭を下げた。
「お化粧、直さんと」
こいしが佳奈の顔を覗き込む。
「平気です。駅の化粧室で」
佳奈が柔らかい笑顔を見せた。
「勇介くんに食べてもらう分と一緒に、レシピを入れときますよって」こいしが紙袋を佳奈に手渡した。
「そうだ、この前の食事代も忘れてました。今日の分と合わせてお支払いを」ピンクのバッグから、同じ色の長財布を佳奈が取り出した。
「お気持ちに見合うた分を、こちらに振り込んでもらえますか」白い封筒に入れて、こいしがメモを渡した。
「わかりました」
佳奈は財布に挟んでバッグに仕舞う。
「どうぞ、お元気で」
店を出た佳奈に流が声を掛けた。
「お世話になりました」
腰を折る佳奈の足元に、ひるねが駆け寄って来た。
「こら、洋服を汚したらあかんぞ」
流がにらみつける。
「大丈夫ですよ」
屈かがみ込んで、佳奈がひるねの頭をなでた。
「春本番やね」
こいしがまぶしそうに春空を見上げる。
「ハンバーグのお弁当を作って、勇介とお花見に行かなくちゃ」立ち上がって佳奈が同じ空を見上げた。
「よろしいな」
流がぽつりとつぶやいた。
「そうそう、聞き忘れてました。あのソース、不思議な味がしたんですが」立ち去りかけて、佳奈が踵を返した。
「ウスターソースとケチャップを煮詰めたとこに、けの汁を足すんやそうです」「けの汁……」
佳奈の視線が宙に浮いた。
「やさしいお父さんですがな」
流の言葉に背中を押されて、佳奈はゆっくりと歩き出した。
「勇介くんによろしゅう」
こいしが背中に声を掛けると、佳奈は振り向いて小さく手を振った。
「どや。今晩、夜桜でも見に行こか。ハンバーグ弁当持って」カウンターに腰掛けて、流が新聞を開いた。
「ええなぁ。お酒も持って行こ」
「御所がちょうど見頃やそうな」
流が新聞の花便りを目で追った。
「さっき言うてた、けの汁て何のこと?」
テーブルを拭きながらこいしが訊いた。
「大根やら人参やとかの野菜を細こぅ刻んで、お揚げさんやこんにゃくと一緒に昆布出汁で煮込んだ汁もんや。大豆を摺すり潰つぶしたんを、じんだ、っちゅうてな、これを最後に混ぜるのが特徴らしい」
「それを混ぜることが、なんでお父さんのやさしさなん?」厨房に入って、こいしが流に顔を向けた。
「向こうはな、雪が深いさかい七草が摘めんやろ。けの汁を七草粥がゆの代わりにするんやそうな。ようけ作っといて、小正月は毎日こればっかり食べるんやと。普段、台所仕事で忙しいしてる女の人を楽させる、という意味もあるらしい」流が新聞を畳んだ。
「そういうことなんやて、お母ちゃん。青森の男の人はやさしいなぁ」こいしが仏壇の前に正座した。
「京都の男はもっとやさしい。掬子が一番よう知っとる」「ホンマかなぁ」
手を合わせてこいしが薄目を開けた。
「ハンバーグ弁当、三つ作らんとな」
仏壇に目を遣やって、流が腕まくりした。