第六話 天丼
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立春間近とは言え春はまだまだ遠い。京都駅の改札口を出た藤ふじ川かわ景けい子こは、寒風で飛ばされた黒いピクチャーハットを慌てて追った。
聞いてはいたが、京の底冷えは故郷石巻いしのまきに勝るとも劣らない。黒革の手袋を通して冷気が刺し込んで来る。目深に帽子を被かぶった景子は、両手に息を吹きかけてから駅ビルを出た。
分厚いグレーのコートに毛皮の襟巻。ひと時代前のファッションだなと、去年五い十そ路じに入った景子は自嘲した。地図を片手に、京都駅から真まっ直すぐ北に伸びる烏丸通を歩く。すれ違いざまに藤川景子だと気付かれたことは一度しかなかった。サングラスのせいではないだろう。人々の記憶から自分がとうに消え去ったからに違いない。
七条通を越え、正面通を東に進むとやがて、目指す建屋が姿を現した。
「これかな」
サングラスを外した景子は、モルタル造りの二階屋を見上げた。
看板も上っておらず、一見したところは普通の民家だが、中からは飲食店らしき匂いが漂って来る。
「いらっしゃい」
戸が開くと同時に、鴨川こいしが怪け訝げんそうな顔を景子に向けた。
「食を捜していただきたいのですが」
景子が手袋を外して、店の中を見回した。
「そっちのお客さんでしたか。ま、どうぞ、お掛けください」銀盆を小脇に挟んで、こいしがパイプ椅子を引いた。
「ありがとう」
景子は黒いトートバッグをテーブルに置き、スマートフォンを取り出した。
こいしは手早くカウンターの上に残った食器を銀盆に載せている。横目で見て、景子はスマートフォンのディスプレイに指を滑らせた。
「お食事もされます?」
カウンターを拭きながらこいしが訊きいた。
「何を食べさせてもらえるのかしら」
スマートフォンからこいしに視線を移した。
「初めての方には、おまかせを食べてもろてますんやが」厨房ちゅうぼうから鴨川流が出て来た。
「こんにちは」
景子が腰を浮かせた。
「おこしやす……。お腹なかの具合はどないです?」暫しばらく景子の横顔に見とれていた流が、気を取り直して訊いた。
「朝、東京を出るときにトーストを食べたきりなので」景子が腹を押さえて、微苦笑した。
「苦手なもんはおへんか」
「何でもいただきます」
景子がスマートフォンをバッグに仕舞った。
「ちょうど今日は、味にうるさいお客さんが来られましてな、あれこれご用意しましたんで、東京からお越しやったら喜んでいただけると思います。ちょっと時間をくださいや」流が勢い込んで厨房に戻って行った。
がらんとした店の中に出だ汁しの香りが漂い、大きな音で腹の虫が鳴った。景子は思わず腹を押さえ、辺りを気遣った。
「ようここが分かりましたね」
片付けを終えて、こいしが景子の傍そばに立った。
ホッとしたような顔付きで景子がバッグから雑誌を取り出した。
「この本を拝見して来たんですよ」
「けど『料理春秋』の広告には住所も何も書いてないでしょ?」こいしが微かすかに首を斜めに曲げた。
「大道寺さんが教えてくれたんですよ」
景子が微笑ほほえんだ。
「茜さんと知り合いなんですか」
「五年ほど前にお仕事を一緒にしてから」
「雑誌の仕事とかしてはるんですか?」
こいしが景子の顔を覗のぞき込んだ。
「そんなようなもんです」
景子が口の端で薄く笑った。
「ええなぁ、マスコミて華やかな世界なんでしょ?」「そう見えるでしょうね」
景子は肩をすくめた。
改めて店の中を見回す。メニューもなく、レジらしきものも見当たらない。カウンター席の左右に出入口があり、右側には暖の簾れんが掛かっている。出入りの隙に見ると、立派な仏壇が鎮座している。なんとも不思議な店だと景子は首をかしげた。
「お待たせしましたな」
流が景子の前に黒塗りの折お敷しきを置いた。
「楽しみです」
景子が座り直して姿勢を正した。
「お飲みもんはどないしましょ? 冷えますしお酒でもお持ちしましょか」こいしが訊いた。
「せっかくですから、少しだけ」
景子が微笑んだ。
「こいし、二階の冷蔵庫にたしか『谷風』が入ってるはずや。あれをぬる燗かんにして。
信しが楽らきの徳利でな」
流の言葉にこいしがうなずいた。
「『谷風』を置いてらっしゃるんですか?」
大きく目を見開いて、景子は流に問いかけた。
「相撲が好きなもんでっさかいな。陸む奥つの国の大横綱の名を付けた酒は欠かしまへん。邪道かもしれまへんけど、大吟醸を人肌くらいに燗すると味が丸ぅになって、ええもんです」
言い置いて、厨房に戻った流と入れ替わりにこいしが徳利を持って、景子の傍に立った。
「さっと湯煎しただけですねんけど、もうちょっと温めましょか」「ちょうどいいかしらね」
徳利に手を触れて、景子が微笑んだ。
「今日は一段と冷えますさかいに、温ぬくいもんを温いままで食べてもらおうと思いましてな」
流が折敷の上に藁わらの鍋敷を置いた。
「覚悟はして来たんですけど、本当に京都って寒いんですね」景子が信楽の徳利を傾けて、織部の杯に酒を注いだ。
「気分的には東北よりこっちの方が寒いそうですな」大ぶりの炮ほう烙ろくを鍋敷の上に置いて、流が景子に笑顔を向けた。
「お酒が美お味いしい」
景子がホッとため息を吐ついた。
「この時季の旨うまいもんを、ちょこちょこと盛ってます。左の上から、三河湾で獲とれたフグの唐揚げ、加か能のう蟹がにの茹ゆでたん、その右は鴨かもつくねと九条ネギの串焼き、グジの天ぷら。田楽味み噌そを塗ってあるのは聖護院しょうごいん大根と粟あわ麩ふ、堀川ごぼうに射込んであるのは鱧はもの真しん蒸じょ。その下は蛤はまぐりの酒蒸し、金時人にん参じんと九条ネギの炊いたん、真ま魚な鰹がつおの西京焼です。炮烙の底に焼いた石を敷いてありますさかい、火傷やけどしはらんよう、気ぃ付けてくださいや」炮烙の蓋を持ったまま、流が料理の説明をした。じっと聞き入っていた景子は、箸を持ったまま、目を左右に動かし、何度もうなずいた。
「どれからお箸を付けたらいいのか、迷いますね。決まった順番ってありますかしら」「食べたいもんを、食べたいように召し上がってもろたらよろしい。決まりはおへん」そう言って、流が厨房に戻って行った。
「お酒が足らんかったら言うてくださいね」
こいしが流の後を追った。
ほんのりと湯気の上る炮烙に顔を近付けて、景子は鼻を鳴らした。
「いい匂い」
手を合わせてから、最初に箸を付けたのはグジの天ぷらだった。抹茶塩をまぶした天ぷらを口に入れ、景子はうっとりと目を閉じる。二度、三度噛かみ締めて、ふわりと頬をゆるめた。
「美味しい」
大根の田楽、フグの唐揚げ、真魚鰹と次々に口に運び、そのたびに景子は大きくうなずき、笑顔を見せた。
「お口に合うてますかいな」
銀盆に小皿を幾つか載せて、流が景子の傍に立った。
「どれも美味しいです。本当に」
景子が小さく頭を下げた。
「箸休めを置いときますわ。小こ鯛だいの笹ささ漬づけを千枚漬けで巻いたん、モロコの南蛮漬け、黒豆の甘煮。ご飯が要るようやったら言うてください。今日は鰯いわしの身をほぐした炊き込みご飯を用意してまっさかいに」流が銀盆を小脇に挟んだ。
「もう一本、いただいてもいいですか」
景子が徳利の首を指でつまんだ。
「もちろんですがな」
受け取って、流は厨房に駆け込んだ。
景子は串を手に取り、横にして口に挟んだ。
鴨のつくねから肉汁が溢あふれだし、唇から顎へと伝う。慌ててバッグからハンカチを取り出して念入りに拭う。
「力のある酒やさかい、料理が負けてるかもしれまへんな」徳利を傾けて、流が苦笑いした。
「いえいえ。いい勝負ですよ」
杯を受けて、景子が流に笑顔を投げた。
「お話もお聞きせんなりませんし、暫くしたらご飯をお持ちしますわ」「よろしくお願いします」
景子がテーブルに指を揃そろえた。
がらんとした店の中に、酒を注ぐ音だけが響く。景子は幾らか心を軽くし、天井を仰いで目を閉じた。
──寒空に 浮かぶ星ひとつ きらきらと わたしを向いて 光ってる──消え入るような小声で口ずさむ。小節を利かせた歌詞が胸に何度もこだまする。
黒豆が箸からこぼれ落ち、景子は慌てて指でつまんだ。
音を立てて千枚漬けを噛んでいると、流が土鍋をテーブルに置き、しゃもじで小ぶりの茶ちゃ碗わんにご飯をよそった。
「節分鰯と言いましてな、京都では節分の日に焼いた鰯を食べるんですわ。厄やく除よけになります。食べた後の骨を柊ひいらぎの枝に刺して、玄関先に吊つるしとくと鬼が逃げて行きよりますねん」
流が飯茶碗を景子の前に置いた。
「うちの田舎では豆まきはしますけど、節分に鰯を食べた記憶はありません。でも美味しそう」
飯茶碗を手に取って、景子が鼻を鳴らした。
「土鍋ごと置いときますさかい、よかったらお代わりしてください。今お汁つゆをお持ちします」
流が厨房に戻って行った。
ことのほか青魚が好きな景子は、勢いよく鰯ご飯をかき込んだ。刻んだ大葉とゴマの香りが余計に食欲をそそる。あっという間に平らげて、しゃもじを取った。
「鰯のつみれをお汁にしました。生しょ姜うがと柚ゆ子ずをようけ絞ってますんで、温もると思います」
根ね来ごろ椀わんを置いて、流が蓋を取ると、湯気と共に柚子の香りが立ち上った。
「わたし鰯が大好きなんです。このご飯、とっても美味しいです」大きく目を見開いて、景子が鰯ご飯をこんもりと飯茶碗に盛った。
「そない言うてもろたら嬉うれしおす。どうぞ鍋底までさらえてください。おこげも出来てると思いますわ」
鍋の中を覗き込んでから、流はまた厨房に戻って行った。
椀を取って汁をゆっくりと啜すすると、柚子の香りが鼻先をくすぐる。目を閉じてつみれを噛み締めると故郷の海が浮かんだ。さざ波のように懐かしさが口の中に広がっていく。潤んだ瞳がキラリと光る。
一瞬ためらった後、しゃもじで鍋底をこそげるように、鰯ご飯をさらえた。
やがて飯茶碗を空にすると、景子は手を合わせて箸を置いた。
「足りなんだんと違いますやろか。もうちょっと炊いといたらよかったですな」常とこ滑なめ焼やきの急須を持って、流が景子の傍に立った。
「もう充分です。本当に美味しくいただきました。お腹いっぱい」景子が腹をさすった。
「お気に召して何よりです。きれいに食べてもろて嬉しおすわ」空になった土鍋を見て、流は笑顔を景子に向けた。
「大道寺さんから聞いてはいましたけど、素晴らしいお料理でした」「茜のヤツ、余計なこと言いおってからに。そない言うてもらうほど、大した料理やおへん」
流が照れ笑いを浮かべ、話の向きを変える。
「こいしが待ってますさかいに、そろそろご案内しまひょか」「そうでしたね。肝心なことを忘れるところでした」湯ゆ呑のみの茶を飲み干して、景子が腰を浮かせた。
「急せかしてしまいましたな」
探偵事務所に通じる廊下を、流が先導して歩く。両側の壁に貼られた写真を興味深げに見ながら、景子がその後を追う。
「これ全部お作りになったんですか?」
「負けず嫌いな性分でしてな、頼まれたら意地でも作りますねん」振り向いて流が笑った。
「このお寿す司し、美味しそう」
歩みを止めて景子が写真に目を近付ける。
「鰯の棒寿司ですわ。コハダみたいに酢す〆じめにしましたんや。けど、ホンマに鰯がお好きなんですな」
流が立ち止まった。
「父が漁師でしたから、子供のころは毎日のように鰯を食べさせられて、イヤで仕方ありませんでした」
景子が苦笑いを浮かべると、ふたたび流は歩き出した。
「子供のころは嫌いやったのに、なんや歳とし取ると好きになって来る。味覚っちゅうのは、不思議なもんです」
流がドアを開けると、こいしが迎えた。
「どうぞお入りください」
「失礼します」
景子が敷居をまたいだ。
「そない端っこやのうて、真ん中に座ってくださいな」ロングソファの隅に腰掛けた景子に、こいしが笑顔を向けた。
「なんだか気後れしてしまって」
景子が僅かに尻をずらした。
「面倒ですけど、ざっと記入してもらえますか」向かい合って座るこいしが、ローテーブルに依頼書を置いた。
景子は揃えた両膝の上にバインダーを置き、ペンを走らせる。
「書き辛づらいとこは飛ばしてもろてもいいですよ」景子のペンが止まったのを見て、こいしが声を掛けた。
「そうじゃないんですよ。自分の生年月日を忘れるなんて……。歳は取りたくないものです」
景子が口の端で笑い、書き終えたバインダーをこいしに手渡した。
「藤川景子さん。お仕事は音楽関係。マスコミと違うたんですね。失礼しました」「似たようなものです」
「お住まいは東京の新宿ですか。高いビルがようけ並んでるんでしょうね。夜景とかきれいなんやろなぁ」
「ひとりで見てると寂しくなりますけどね」
景子が小さく吐息を漏らした。
「ご結婚はされてないんですね」
「その言葉すら忘れてしまって」
「うちと一緒やわ」
こいしが手を打った。
「あなたはまだ若いから。わたしみたいなァ⌒アサンになってしまうと……」「ァ⌒アサンやなんて、とんでもない。五十を過ぎてはるようには、全然見えしません」「お世辞でも嬉しいですわ」
景子が首を傾けて微笑んだ。
「本題に入りますけど、何を捜したらええんです?」こいしが膝を前に出した。
「天丼なんです」
「天丼? 天ぷらの載った丼ですよね。京都ではあんまり食べへんのですけど、やっぱり東京の人は好きなんですか」
「わたしは東京の人間じゃないんですよ。生まれは東北、石巻なんです。二十歳のときに東京に出て来て、こんなに美味しいものが世の中にあるんだ、と思ったのがその天丼なんです」
景子がこいしを真っ直ぐに見つめた。
「どんな天丼なんか、詳しいに聞かせてもらえますか」ノートを広げて、こいしがペンを構えた。
「東京に出て来て、一年と少し経たったころです。仕事がうまくいったご褒美だと言って、事務所の社長さんがご馳ち走そうしてくださったんです。お店は浅草にありました」「お店の名前は?」
「たしか『天ふさ』だったと思います」
「今はもう無いんですね」
「あったら食べに行けばいいのですもんね」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「何か特徴がありました?」
こいしが訊いた。
「天ぷらもですけど、特にタレが美味しかったんです。コクがあるって言えばいいのかしら。甘辛くて、でもあっさりしていて」
「けど、東京の天丼て、どこでも似たような味と違うんですか。うちらには考えられへんような、甘辛ぅて真っ黒けの濃いタレが掛かってる」「それが違うんです。その後わたしも何軒か有名な天ぷら屋さんへ行って、天丼を食べたんですけど、何か物足りないっていうか、あのお店で食べた味とは違うんです」「もうちょっと具体的に、何か覚えてはることありません? 実際に捜すのはお父ちゃんなんやけど、これだけではナンボお父ちゃんでも無理違うかな」こいしが腕組みをし、首を斜めにした。
「海え老びと穴子と白身のお魚、青唐と海の苔り。天ぷらのタネは普通だったように記憶しています。タレの色は仰おっしゃるほど黒くなくて、他のお店より薄い色だったような気がします」
天井を仰いで、景子が記憶の糸を辿たどっている。
「特に変わったもんは入ってへんけど、タレがよそと違う、と」こいしがノートに書き付けた。
「そうそう、添えられたお汁がとっても美味し……」景子の言葉が止まった。
「どうかしはりました?」
心配そうにこいしが景子の顔を覗き込んだ。
「さっきいただいたお汁、なんか似たようなお味だった気が……。懐かしいお味……。いや、違います。あの時は鰯じゃなかった。気のせいですね」自分を納得させるように、景子は首を縦に振った。
「はっきりした場所は覚えてはります? 浅草ていうても広いやろし」「観音さまの裏手にあったと思います。細い道で、たしか隣がお寿司屋さんだったような」
「それだけ美味しかったんやったら、もう一回食べに行こうと思わはらへんかったんですか。新宿に住んではったら、いつでも行けますやんか」こいしがもどかしげな顔をした。
「今度また仕事がうまく行ったら、食べに行こうと社長さんがおっしゃってくださって、きっとその日が来ると思っていましたから。ゲン担ぎっていう気持ちもあって……」ローテーブルに目を落とし、景子が小さく吐息を漏らした。
「ま、お父ちゃんやったら、なんとかして捜して来はるやろ」「ありがとうございます」
景子が顔を上げた。
「けど、なんで今になって、その天丼を捜そうと思わはったんです」一旦閉じたノートをこいしが開いた。
「故く郷にの両親も年老いて来ましたし、そろそろ帰ろうかなと……。その前にもう一度あの天丼を食べておきたいと思ったんです」
「そしたら心置き無のぅ、故郷に帰れるということなんや」こいしが二度ほどうなずいた。
「それと、作り方が分かったら、両親に食べさせてあげたいんです。あのとき、あんまり美味しかったんで、思わず家に電話したんです。東京にはこんな美味しいものがあるんだ、って。次の仕事がうまくいったら東京へおいでよ。最高に美味しい天丼を食べさせてあげるから、って言って、三十年も経ってしまいましたけど」両肩をすくめ、景子が苦笑いを浮かべた。
「わかりました。なんとかお父ちゃんに頑張ってもらいますわ」吹っ切るように、こいしはノートを閉じた。
「よろしくお願いします」
立ち上がって景子が頭を下げた。
「あんじょうお聞きしたんか」
パイプ椅子に腰掛けていた流が、新聞を畳んでこいしに顔を向けた。
「ちゃんと聞いていただきました。ただ、わたしの記憶が頼りないものですから、ご面倒をお掛けするかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」景子が深く腰を折った。
「どんなご依頼かは分かりまへんけど、せいだい気張らせてもらいます」立ち上がって流が景子の目を見つめた。
コートを着て、景子が店の外に出ると、トラ猫が足元に駆け寄って来た。
「あら、可愛かわいい猫ちゃんだこと。お名前はなんて言うのかな」屈かがみ込んで猫の顎を撫なでた。
「ひるねて言うんです。こんな寒い日でも店に入れてもらえへん哀れな猫なんですよ」こいしが流に鋭い視線を送った。
「食いもん商売の店に猫なんか入れられるかい」流がにらみ返した。
「うちの田舎なんか家の周りは猫だらけですよ」ひるねを抱き上げて、景子が目を細めた。
「旨い魚がようけあるさかいですやろな」
「そうなんです。猫って新鮮な美味しい魚をよく知っているんです」「猫またぎ、て言うくらいやから、古なった魚はまたいで行きよる」「匂いを嗅いで、プンと横を向くんです」
猫の真似をして、景子が笑った。
ふたりのやり取りが途切れるのを待って、こいしが口を挟む。
「次ですけど、二週間後くらいでよろしいですか」「わたしは大丈夫ですけど……」
うなずいて、景子が流の顔を覗き込んだ。
「なんとかなりますやろ」
一瞬の間を置いて、流が笑顔を返した。
「うっかりしてました。今日のお食事代を」
ひるねを下ろして、景子がバッグから財布を取り出した。
「探偵料と一緒にいただきますさかい、今日はお気遣い無ぅ」「分かりました。首を長くして待っております」財布を戻して、景子がふたりを交互に見た。
「お気をつけて」
正面通を西に向かって歩く景子の背中にこいしが声を掛けた。
「こら。ひるね、店に入ったらアカンぞ」
流がひるねを牽けん制せいした。
「こんな寒い日くらいエエと思うんやけどな」振り返りながら、こいしが引き戸を閉めた。
「ものは何や?」
パイプ椅子に腰掛けて、流が訊いた。
「天丼」
「そう来たか」
「年輩の女性やのに意外やろ?」
「藤川景子やったら、たぶん海鮮系やろと思とった」「なんで名前知ってるん?」
手渡そうとしたノートを胸に抱き、こいしが目を剥むいた。
「知ってるも何も、誰が見ても藤川景子やろうが。おまえ、ひょっとして知らんと応対しとったんか?」
「もしかして有名人?」
「そうか、藤川景子を知らんか。一発屋やったさかいなぁ。気の毒なこっちゃ」こいしの持つノートを取って、流がページを開いた。
「音楽関係、藤川景子……。そうか、思い出したわ。そんな歌手の名前聞いたことあるわ。なんちゅう歌やったかな」
こいしが眉を八の字にして、こめかみを押さえた。
「〈北のひとつ星〉や」
ページを繰りながら、流がぼそっとつぶやいた。
「どんな歌やった?」
「亡のうなった恋人が星になって見守ってくれてる、っちゅう切ない歌や」「後で検索してみよ」
エプロンを着けて、こいしが厨房に入って行った。
頬ほお杖づえをついて、流がノートに目を通している。パラパラとページを繰りながら、歌を口ずさむ。
「──お空の上で あなたがわたしを見てるから──」「なんや、その歌やったんか。お父ちゃん、ときどきお風呂で歌うてるやん」暖簾を上げて、こいしが顔を覗かせた。
「お父ちゃんのお汁、て書いてあるけど、これは何のこっちゃ」照れ隠しに流が問いかけた。
「あ、それ消しといて。さっき出したんが、天丼に付いてきたお汁に似てるて言うてはったんやけど、やっぱり思い違いやったて」
こいしが暖簾を下ろした。
店の中は玄冬ならではの静けさに包まれている。洗い物の水音が厨房から響いて来る。
流はノートに目を落としたまま、じっと考え込んでいる。
「こいし、お父ちゃんな、東京行って来るわ」茶を啜った後、流がノートを閉じた。
「東京やったら、うちも行きたい。一緒に行こか」厨房から出て来て、こいしが目を輝かせた。
「足手まといや。それにお母ちゃんひとりにしたら、寂しがりよるがな」「一緒に行ったらエエやんか。写真持って行こ」「浅草にな、掬子の好きな寿司屋があるんや。連れて行ったろか」「嬉しい。そうしよ、そうしよ」
こいしが抱きつくと、流は頬を赤く染めて念を押す。
「旅費はそっち持ちやで」
「お母ちゃん、笑うてるで。セコい人やなぁて」「掬子に笑われとうないわ。しっかり財布握って、ちょびっとしか小遣いくれんかったんやから」
苦笑いして、流が窓の外に目を遣やると、いつの間にか街は雪化粧していた。