聖徳太子の政治
三頭政治によって進められた日本の中央集権化
◆古代史上最も有名な聖人が登場する
崇峻天皇の暗殺という大事件ののちに擁立されたのは、用明天皇の妹で、敏達天皇の皇
后だった豊とよ御み食け炊かしき屋や姫ひめである。ここに日本初の女帝、推古天皇が誕
生した。
推古天皇は皇位に就くと、甥である 戸豊聡耳皇子を摂政に任じて、政治の中枢を託し
た。この 戸皇子こそが有名な聖徳太子である。推古天皇の兄である用明天皇の第二皇子
で、母は欽明天皇の娘穴あな穂ほ部べの間はし人ひとの皇ひめ女みこ。生まれながらにし
て聡明で、一度に一〇人の話を聞き分けられたとも『日本書紀』は伝えている。
聖徳太子が摂政となった頃、日本と新羅との関係は険悪になっていた。そんななか、六
〇二年、太子の弟の来く目め皇子が将軍となって新羅を討伐することになる。ところが、
筑紫まで出向いたところで病死してしまう。
その代わりに来目皇子の兄、当たぎ麻ま皇子が将軍となるが、同行した妻が明石で亡く
なってしまうと、皇子はそのまま都に引き返し、それと同時に新羅討伐の計画も消滅して
しまったのである。
これをきっかけに、聖徳太子は内政に力を注ぐ。六〇三年にまず行なったのが「冠位十
二階」の制定だ。「徳・仁・礼・信・義・智」の六項目に大小を加えた日本初の冠位制で、氏族の
世襲ではなく個人の業績を評価することで、中小豪族からも優秀な人材を集めるなど積極
的な人材登用が可能になった。また、翌年になると太子は、第一条の「和なるを以て貴し
とし……」から始まる「憲法十七条」を制定した。おもに役人が守るべき社会的・道徳的規
範を説いたもので、天皇を中心として、和を重んじ、仏教を尊び、儒教の徳治思想で政治
を行なうことを宣言している。
さらに太子は仏教の興隆にも力を注いだ。これまでのように、それぞれの氏族が自分た
ちの祖先神を祀るのではなく、仏を崇拝するように命じるなどして精神面の統一を図り、
中央集権化を強めたのだった。六〇一年には太子自身が斑いか鳩るがの地に移り、法隆寺
を建立している。
一方、外交面では、隋ずいとの関係を深めた。六〇七年に小お野のの妹いも子こを遣隋
使として派遣し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を送っ
た。これは隋が高句麗の抵抗に苦しみ、周辺に味方を求めていたという国際情勢を鑑み
て、対等の外交を求めたものとされる。国書を見た隋の煬よう帝だいは怒ったが、拒否す
ることもできず、翌年の小野妹子の帰国に際して使者を送っている。
実は中国側の史料『隋書』には、この小野妹子派遣以前の六〇〇年に倭が使者を送って
きたという記録がある。倭の使者は煬帝の父・文帝に対して「天を兄、日を弟とする倭王
は、夜明け前に政まつりごとを行ない、日が昇るとあとを弟に任せます」と宣伝した。だ
が、文帝はこれに呆れたように、中国式の執政方法を教えて帰国させたという。
この第一回遣隋使を受けて、聖徳太子らは国内政治の改革に乗り出したのではないかと
いわれている。
こうして多くの業績をあげた太子だが、やがて斑鳩で没する。その後は再び蘇我馬子が
力をふるったが、その馬子も六二六年に没する。そして、その二年後には在位三十六年に
して推古天皇も崩御したのである。