乙巳の変
天皇をないがしろにし、専横を極める蘇我氏に下された鉄槌
◆新進気鋭の皇子、蘇我氏を討つ
山背大兄王を葬り、皇極天皇の世で権力をほしいままにしていたのが蘇我蝦夷・入鹿親
子。『日本書紀』はそんな彼らを徹底して悪人扱いしている。甘あま橿かしの岡おかに邸
宅を建て、それを天皇の住居と同じく「宮み門かど」と呼ばせたり、子供たちを王み子こ
と呼ばせたりと、天皇をないがしろにする、まさにやりたい放題である。
それに対して強い危機感を持つ者が増えてきた。そのなかには中臣鎌足と皇極天皇の子
である中大兄皇子もいた。蹴け鞠まりの会で出会ったふたりは蘇我氏打倒で意気投合し、
入鹿殺害計画を練っていった。そこに、次々と同志が加わり、慎重に準備が進められた。
そして、六四五年六月。ついに決行の日がきた。
朝鮮三国の使者が贈り物である「三韓の調みつぎ」を天皇に献上する儀式が行なわれる
日、そこには入鹿も必ず出席する。
甘橿岡の邸宅を出て飛鳥板蓋宮へとやって来た。入鹿は常に帯剣していたが、鎌足らは
宮内の雑務を担当する俳わざ優ひとという職務の者と通じて、剣を外させたといわれる。
入鹿と同族でありながら、中大兄皇子に荷担した蘇そ我がの倉くらの山やま田だの石い
し川かわ麻ま呂ろが上表文を読み上げるなか、佐さ伯えきの子こ麻ま呂ろが入鹿に斬りつ
ける手はずとなっていた。だが、恐ろしさのあまりなかなか実行できない。石川麻呂の声
も緊張から次第に上ずり、震えだしてしまう始末。入鹿がいよいよ怪しみ始め、計画失敗
かというところで、物陰に隠れていた中大兄皇子が業を煮やして飛び出し、入鹿に斬りつ
けた。続いて子麻呂らがとどめを刺して入鹿を殺害したのである。暗殺の直前、入鹿が発
した言葉が「臣しん、罪を知らず」であった。
この事件を「乙いつ巳しの変」という。入鹿の父蝦夷も一度は抗戦の構えを見せるもの
の、翌日に自害し、ここに蘇我氏本宗家による専横政治が終わりを告げた。