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【第八章の人々】   継けい体たい天てん皇のう_日本の「神話」と「古代史」がよくわかる本_走进日本_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
【第八章の人々】
  継けい体たい天てん皇のう
  出自、即位、死――すべてが謎だらけの大王
 武ぶ烈れつ天皇は、後継の男子を持たないまま崩御した。その後、皇位についたのが継
体天皇であるが、その出自から死に至るまで謎に満ちた、異色の天皇なのである。武烈天
皇の死後、大和の豪族らは仲ちゆう哀あい天皇の五世孫にあたる丹たん波ばの倭やまと彦
ひこ王おうを迎えて皇位に就けようとした。ところが倭彦王は、迎えに来た一団を見ると
恐れて逃げ出し、それきり行方知れずになってしまった。そこで、応神天皇の五世孫で、
越前あるいは近江にいた継体天皇を迎えて、河内国樟くす葉は宮で即位させたのである。
継体天皇はこのとき五十七歳。このとき、ほかに適当な皇位継承者がいなかったのは、度
重なる皇位継承争いのため、大和にいたほとんどの皇族がすでに殺されていたためと思わ
れる。倭彦王が逃亡したのも、それを知っていたため恐れたのであろう。
 継体天皇は即位したものの、朝廷を樟葉宮から山背国の筒つつ城き宮、同じく山背国の
乙おと訓くに宮と遷し、大和に足を踏み入れたのは二十年後であった。大和の豪族たちか
ら擁立されたはずなのに、これはどうしたことであろうか。
 継体天皇には多数の妃がいたが、そのほとんどが北近江の豪族の娘である。このことか
ら、継体天皇の本拠地は北近江で、即位についてもそこの豪族らの後押しがあったと考え
られている。そのため継体天皇は、本拠地に近い南山背にまず朝廷を開いたのではという
仮定も成り立つ。
 だが、それにしても大和にごく近い場所で、二十年も過ごすというのは不自然である。
大和の豪族らが、継体天皇の大和入りを拒んだというような記録は何も残っておらず、経
緯は不明のままである。
 これについて一説には、継体天皇は地方豪族出身の皇位簒奪者であり、そのため正統な
天皇として認められなかったことが原因ともいわれている。
 継体天皇の時代には、九州で磐井の乱が起こっている。大陸では百済と新羅が勢力を伸
ばし、日本は後退せざるをえない状況であった。朝廷が統一に欠けている間、内外ともに
多難であった。『百済くだら本ほん記ぎ』の辛しん亥がい三月の項には、「日本の天皇及
び太子・皇子、ともに崩薨りましぬといえり」と記されている。辛亥年とは継体二十五(五
三一)年のことで、天皇・太子・皇子といえば継体・安あん閑かん・宣せん化かのことである。
三人が同時に死亡するなど、暗殺以外に推測のしようがない。日本側の史料ではこのとき
死亡したのは継体だけで、次には安閑が、さらにその次は宣化が皇位に就いたとされてお
り、事件があったことをうかがわせる記述は何もない。継体天皇は、その死後にまで続く
謎を残しているのである。

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