【第八章の人々】
推すい古こ天てん皇のう
容姿・実力ともに優れた、日本で最初の女帝
崇す峻しゆん天皇の暗殺のあと、蘇我馬子をはじめとする有力豪族たちの推挙により即
位したのが、日本で初めての女性天皇、第三十三代の推古天皇である。
推古天皇は、崇峻天皇の異母姉で先の敏び達だつ天皇の大后、父は欽きん明めい天皇で
蘇我馬子の姪という身分であり、天皇暗殺という衝撃の後の『日本書紀』が記す「みつぎ
の位、既に空し」という混乱を回避するために即位することとなったといわれてきた。
だが一方で、推古天皇が即位できた本当の理由は、彼女が実際に優れた執政能力を持っ
ていたからともいわれている。「姿色端麗、進止軌制(容姿は美しく、行動は規範に沿っ
ていた)」とされる推古天皇は、他にもいた王位継承の候補者たちよりも評価が高かった
のである。即位したのは五九二年で、推古天皇は三十九歳であった。敏達天皇の大后とし
て政治を補佐し、その後の用よう明めい天皇・崇峻天皇の時代も執政に携わった経験があっ
たと考えられる。
推古天皇は、蘇我氏に近い位置にあったことから、天皇家と蘇我氏の中継点としての役
割も負っていた。即位の翌年、甥にあたり、やはり蘇我氏の血を引く 戸皇子が摂政に
立ったことはよく知られており、実際の政治は 戸皇子が執ったという説もあるが、当時
は「摂政」という地位はまだ公的なものではなかった。 戸皇子が推古天皇を補佐して政
治の中枢に立ったのは、それより少しあとの六〇〇年前後になってからと思われる。
この頃から、遣隋使や冠位十二階の制定、憲法十七条といった斬新な政策が次々に打ち
出されているのである。この時代の多くの政策は、すべて 戸皇子の功績とされる傾向が
あるが、推古天皇の存在が国政を安定させ、のちの律りつ令りよう国家への道を拓いたと
考えられる。
推古天皇が崩御したのは、 戸皇子も蘇我馬子も世を去ったのちの六二八年で、その在
位は三十六年という長きにわたった。