【第八章の人々】
天てん武む天てん皇のう
千数百年続く皇室の権威を築いた偉大な王
壬じん申しんの乱で勝利した天智天皇の弟・大おお海あ人ま皇子が、六七三年に即位して
誕生したのが天てん武む天皇である。まず天武天皇は公地公民制を敷き、農民や地方官を
天皇の地位のもとに組み込んだ。そして六八一年には、壬申の乱を前に隠棲を装っていた
地の吉野に、皇后と六人の皇子を集め、草くさ壁かべ皇子を皇太子に立てる。
天皇親政をより強固にするために命じたのが、皇国史の編纂である。これは、天皇によ
る統治の正統性を神話上・歴史上の観点から明らかにするもので、川島皇子、忍おさ壁かべ
皇子らを中心に事業が開始された。『古事記』の編纂も天武天皇の命によるもので、その
序文によれば、「すでに正実に違ひ」た「帝紀」「旧辞」を正すことを目的としたとい
う。そして、およそ三十年後に『古事記』『日本書紀』が完成する。これによって天皇の
地位は万世一系のものとして神格化され、権威が高まることとなった。
天武天皇は、律令法典「浄きよ御み原はら律りつ令りよう」の修定を進めさせ、「八や
色くさの姓かばね」の制度を設けて、皇族、大臣、官人などの身分の区別を明確にした。
また、親王諸王十二階、諸臣四十八階からなる新たな冠位制を創設したため、親王たちで
さえ身分の区別をつけられるようになった。政治に関われるのは、冠位に定められた範囲
内の者だけなのである。
また、寺院や仏舎を各地に建立して人心の安定を図りつつ、伊勢神宮の祭祀も行なわ
せ、日本固有の宗教をもないがしろにしないという姿勢を見せた。
こうして天武天皇は、日本のすべてを律令制のなかに組み込んでいった。もはや、古代
社会の氏族連合の「大王」ではない。「天皇」という称号は、天武天皇によって用いられ
るようになったのである。
その後千年以上も続いて現代まで至る皇室の権威は、天武天皇によって築かれたのであ
る。