十三 会議
会議! また会議!
ABC事件の思い出といえば、大部分が会議ばかりだったような気がする。
ロンドン警視庁スコットランド·ヤード での会議。ポワロの部屋へや での会議。正式の会議。非公式の会議。会議会議だった。
この特別会議は、匿名の手紙に関するいろいろな事実を、新聞に公表するかどうかをきめるために開かれた。
べクスヒルの殺人事件は、アンドーバーの事件よりも、いっそう世間の注意をひいていた。
もちろん、この方には俗受けをする要素がはるかに多かった。なにしろ、まず第一に、被害者が若い、きれいな娘だったし、その上に、評判の、海岸の行楽地での出来事だ。
事件の詳細を残るくまなく取材しては、毎日のように、でかでかと書き立てた。ABC鉄道案内も、注意のお裾すそ わけをもらった。一番人気のあるのは、犯人がどこかある一地方で、その鉄道案内を買ったのだから、それは、犯人の正体を突きとめる貴重な手がかりだという説だった。なおその上に、犯人が汽車で現場へやって来たことも、ロンドンに帰るつもりだということも、示しているというのだった。
鉄道案内のことは、アンドーバー殺人事件の簡単な記事では、ちっとも紙面にあらわれなかったので、一般大衆の目には、この二つの事件が関係があるとは見えなかったのだ。
「方針をきめなければならんね」と、犯罪捜査課担当の副総監がいった。「問題は――どちらの方法が、最良の結果をもたらすか? ということだ。事実を公衆に知らせて――公衆の協力を求めるか――そうなれば、数百万の協力を得られるわけだ、一人の狂人を捜すのに……」「かれは、狂人とは思えませんね」と、トンプスン博士が口をはさんだ。
「――ABCの販売店の聞きこみ――その他についてだが。それに対しては、秘密に行動するというのは、有利だろうね――われわれの相手に、われわれがなにをしているかわからせないという有利な点はあるだろうが、しかし、事実は、相手はわれわれが知っているということを、よく知りぬいているというのが実状だからね。相手は、あの手紙で、わざと自分に注意をさせているほどだからね。え、クローム、きみの意見はどうだね?」「わたしは、こう見ています。もし公表なされば、ABCと勝負をなさることになるわけです。それは、奴やつ の思う壺つぼ にはまることです――評判になり――有名になることです。それこそ、奴の望んでいるところです。そうでしょう、博士? 奴は、世間をあっといわせたがっているんです」トンプスンは、うなずいた。
副総監は、考え深くいった。
「それで、きみは、相手のじゃまをしようというのだね。奴が渇望している評判を断とうというのだね。いかがです、ポワロさん?」ポワロは、しばらくは口をきかなかった。話しはじめてからも、一言一言、慎重に言葉を選んでいるような様子だった。
「むずかしいことですね、わたしには、ライァ⊥ルさん」と、かれはいった。「わたしは、おっしゃるとおり、利害関係者です。挑戦ちょうせん は、わたしに向けられているのです。
かりに、わたしが『事実を秘密に――公表するな』といえば、わたしの虚栄心からそういっているのだと思われないでしょうか? わたしが自分の評判を気にしているのだと思われないでしょうか? ですから、むずかしいことです! 打ち明けて話すこと――すべてを公表すること――そうすることは、確かに有利です。すくなくとも、警告にはなります……しかし、その反面、クローム警部も思っていられるように、犯人の思う壺にはまることだと、わたしも思いますね」「ふむ!」といいながら、副総監は、顎あご をなでた。かれは、トンプスン博士の方に視線をもどして、「もし、かりに、われわれがその気ちがいに、かれの熱望している世間の評判を断ち切って満足させなかったら。奴は、どうするでしょう?」「またもう一つ、犯罪を重ねるでしょうね」と、即座に博士はいった。「万難を排してでも」「それでは、もし、われわれが、事件をはでな見出しで公表するとしたら。その反応はどうでしょうな?」「同じ結果になるでしょうね。その場合は、奴の誇大妄想こだいもうそう を助長することになり、もう一つの場合は、それを抑圧することになって、結果としては同じで、もう一つの犯罪が犯されることになるわけです」「いかがです、ポワロさん?」
「トンプスン博士と同意見です」
「進退きわまる――ですか? いったい、どのくらい殺すつもりなんだろう――この気ちがいは?」トンプスン博士は、ポワロの方に目を走らせた。
「AからZまでということになりそうですね」と、かれは、愉快そうにいった。
「もちろん」と、かれは、言葉をつづけて、「そこまではいかないでしょう。その近くにもいかないでしょう。それほどにならないうちに、あなたの方でつかまえてしまうでしょうからね。Xという字をどう始末するか、興味津々しんしん たるものですね」かれは、この興味本位の推理に気がとがめて、はっとわれに返った。「しかし、そうならないうちに、あなた方がつかまえてしまうでしょう。せいぜい、GかHというところですかな」副総監は、どんと、げんこつでテーブルをたたいた。
「冗談じゃない。このさき、まだ五つも殺人があるというのですか?」「そんなにたくさんはさせません」と、クローム警部がいった。「どうか、ご信頼ください」かれは、確信をもって、いった。
「アルファべットのどの文字でとまらせようというお考えです、警部?」と、ポワロがたずねた。
かれの声には、かすかに皮肉な響きがあった。警部は、いつもの落ちつきはらった優越感の値打ちを下げるような、むっとした色を浮かべて、かれを見たようだった。
「このつぎには、奴を捕えられるでしょうよ、ポワロさん。とにかく、Fになるまでには、必ず捕えるとお約束しておきます」かれは、副総監の方に向き直って、
「わたしは、この事件の心理的な面を、かなりはっきりつかんでいると思います。もし間違いがありましたら、トンプスン博士が訂正してくださるでしょうが、奴は、一つ犯罪を立派にやってのけるたびに、百パーセント自信を増していると思います。『おれは頭がいい――奴らに、おれがつかまえられるもんか!』と思うたびに、奴やっこ さんは思いあがってきて、軽率になります。自分の頭のよさを過大に考えるとともに、誰もかれもほかの者はみんなばかだと誇張して考えるようになります。もうすぐ、警戒などする気がまるでなくなりますよ。そうですね、博士?」トンプスンは、うなずいて、
「普通の場合は、そうですね。医学上の用語でなくては、それ以上の説明はつきませんがね。こういうことはご存じでしょう、ポワロさん。いかがです?」わたしは、トンプスンがポワロに話しかけるのが、クロームには気に入らないのだなと思った。かれは、自分が、そして自分だけが、この問題のエキスパートだと思いこんでいるのだ。
「クローム警部のいうとおりですね」と、ポワロが同意した。
「偏執狂だ」と、博士がつぶやくようにいった。
ポワロは、クロームの方を向いて、
「ベクスヒル事件の方には、なにかおもしろい物的証拠がありますか?」「これといって決め手になるようなものは、なにもありません。イーストボーンの『スプレンディッド』の給仕が、死んだ娘の写真を見て、中年の、眼鏡めがね をかけた紳士といっしょに食事をした、若い婦人だと申しました。それからまた、ベクスヒルとロンドンの中ほどにある、『スカーレット·ランナー』という旅館でも確認しました。そこの話では、海軍の士官らしい男といっしょだったということです。両方とも間違いないとはいえませんが、どちらか一方は、ありそうなことですね。ほかにも証言がたくさんありますが、ほとんどが、たいして役に立ちそうにもありません。ABC鉄道案内の方も、まだ手がかりがありません」「うむ、きみは、打てるだけの手は打っているらしいね、クローム」と、副総監はいった。
「いかがですか、ポワロさん? この捜査の線で、なにか気のおつきになったことはありませんか?」ポワロは、ゆっくりといった。
「非常に重大な手がかりが一つ、あるような気がします――動機の発見ということです」「それは、かなりはっきりしているのじゃありませんか? アルファべット·コンプレックス。そうおっしゃったのじゃなかったかな、博士?」「そうです」と、ポワロがいった。「確かに、アルファべット·コンプレックスです。しかし、特殊な狂人は、常に、自分の犯す犯罪に、きわめて強い理由を持っているものです」「ちょっと、ちょっと、ポワロさん」と、クロームがいった。「一九二九年のストーンマンのことを考えてごらんなさい。かれは、しまいには、ほんのちょっとでも自分に気に入らない人間は、誰でも殺そうとしたんですよ」ポワロは、かれの方を向いて、
「まったくそうです。しかし、もしあなたが、十分にえらくて、重要な地位にある人物だとすれば、小さな不愉快なことは我慢しなければならないものなのです。もし、一匹の蠅はえが追っても追ってもあなたの額ひたい にとまって、うるさくて仕方がなかったら――あなたは、どうします? その蠅を殺すでしょう。それについて、呵責かしゃく など感じないでしょう。あなたは、重要な人だ――が、蠅は、そうじゃない。あなたは、蠅を殺せば、いやな気持ちが静まる。あなたの行為は、健全で、正当なものだと、あなたには思われる。もし、あなたが衛生というものに強い関心を持っていれば、もう一つ、蠅を殺す正当な理由ができるわけですね。蠅というやつは、社会に対する危険のかくれたもとである――だから、蠅は殺されなければならない、とね。精神の狂った犯罪者の心理も、同じような作用をするのです。しかし、いまは、この事件を考えてみましょう――もし、被害者がアルファベットの順に選ばれるのだということになると、かれらが個人的に、かれを不愉快にさせるから殺されるというのではないということです。この二つを結びつけるのは、あまりにもこじつけすぎますね」「そこが、問題のポイントですね」と、トンプスン博士がいった。「わたしは、夫を死刑にされた、ある婦人の事件をおぼえています。その女は、その時の陪審員を一人ずつ殺しはじめたのです。そのいくつかの犯罪を関連のあるものだとわかるまでには、かなりの時間がかかりました。というのは、いくつかの犯罪が、まったく、行きあたりばったりのような気がしたからです。が、ポワロさんのおっしゃるように、手あたり次第に、人を殺す犯人などというものはいないものなんです。かれは、(どんなつまらないことでも)自分のじゃまになる人間を殺すか、でなければ、信念を持って殺すか、二つのうちのどちらかなのですね。かれが僧侶そうりょ なり、警官なり、娼婦しょうふ なりを殺すのは、それらの者は殺されるべきだと固く信じているからなのです。わたしの知る限りでは、この場合、どちらが当てはまるかはわかりません。アッシャー夫人とべッティ·バーナードとを同じ種類の人間としてつなぐことはできませんからね。もちろん、性的コンプレックスがあるということはありそうなことです。両方とも、被害者は女性ですからね。もちろん、つぎの犯罪が起これば、もっとはっきりしたことがいえるでしょうが――」「冗談じゃない、トンプスン、そうあっさりと、つぎの犯罪などといわないでおいてもらいたいね」と、ライァ⊥ル卿きょう がいらだたしそうにいった。「つぎの犯罪を防ぐために、われわれは、全力を尽しておるのだからね」トンプスン博士は、黙りこんでしまって、はげしい勢いで鼻をかんだ。
「どうぞかってに」と、その音は、いっているようだった。「事実に、面とぶつかるつもりがないのなら――」副総監は、ポワロの方を向いて、
「あなたのおっしゃることはわかりますが、まだ、はっきりよくはわからないのです」「わたしも自分に聞いているのです」と、ポワロは口を開いて、「いったい、犯人の心の中では、どんなことが起こっているのだろうか? かれは、人を殺しているのですが、それは、かれの手紙からみると、一種のスポーツとして――おもしろ半分に、殺しているようにみえます。ほんとうに、そういうことがありうるでしょうか? かりに、それがほんとうだとしても、いったいどういう原則で、同じアルファべットの中から犠牲者を選び出しているのでしょう? もし、たんにおもしろ半分に人殺しをしているのだったら、その事実を知らせたりはしないはずです。その方が、ずっと無難に殺せるはずですからね。ところが、事実はそうじゃない。われわれみんなが一致して認めるように、かれは、世間の目をあっといわせようとしている――つまり、自分の存在をはっきり認めさせようとしているのです。いったいかれの個性が、いままでにかれが選んだ二人の犠牲者と結びつけられるような、どんな形で圧迫されていたというのでしょう? 最後の、一つの疑問は――かれの動機が、わたくし、このエルキュール·ポワロに対する、直接的な個人的な憎しみか? ということです。
かれが公然と、わたしに挑戦してきたのは、わたしの生涯しょうがい のどこかで(自分にはそれと知らずに)かれを征服したからでしょうか? それとも、かれの憎しみは、個人的なものではなく――外国人というものに対するものでしょうか? もしそうだとすれば、いったいなにが、かれにそうさせるにいたったのか? 外国人の手によってどんな害を、かれは受けたのでしょうか?」「みんな、非常に示唆しさ に富んだ質問ですね」と、トンプスン博士はいった。
クローム警部は、咳せき ばらいをした。
「はあ、そうですか? おそらく、いまのところでは、ちょっとこたえられない問題ですね」「そうはいいますがね、あなた」と、まっすぐ相手を見つめながら、ポワロはいった。「こたえは、いまの疑問のうちにあるのです。もしも、正確な理由を――おそらく、わたしたちには、空想的ではありますが――かれには論理的な――なぜ、われわれの気ちがいが、これらの犯罪を犯したかという正確な理由がわかりさえすれば、つぎの犠牲者は誰かということが、おそらく、わかるのではないでしょうか」クロームは、首を横に振って、「奴は、行きあたりばったりに選んでいる――わたしは、そう思います」「この寛大な殺人がね」と、ポワロはいった。
「どういうことですか、あなたのおっしゃるのは?」「この寛大な殺人――といったのです! フランツ·アッシャーは、妻殺しのかどで逮捕されたでしょうし――ドナルド·フレイザーも、ベッティ·バーナード殺しのかどで逮捕されていたかもしれません――もし、ABCの予告の手紙がなかったとすれば、ね。だとすれば、かれは、他人が無実の罪に問われて苦しめられるのに耐えられないほど、やさしい心の持ち主だというのでしょうか?」「わたしは、これまでに、いろいろ奇妙なことがあったのを知っています」と、トンプスン博士がいった。「一人の被害者が即座に死なずに、もがき苦しんだという理由で、ばらばらに惨殺ざんさつ された半ダースもの被害者を知っています。だからといって、それが、この男の理由だとは、わたしも思いません。かれは、自分自身に名誉と栄光を、これらの犯罪がもたらすことを望んでいるのです。それが一番妥当な解釈でしょうね」「公表の件は、結論に達しなかったというわけだね」と、副総監がいった。
「わたしに一つ提案をさせていただければ」と、クロームがいった。「つぎの手紙を受けとるまで、待ってみたらどうでしょうか? その時になって、公表するのです――号外か、なんかで。指定されたその町には、すこしは恐慌が起こるでしょうが、Cの字をはじめに持っている人たちには警戒させることになり、ABCを奮起させることになるでしょう。かれは、どうしてもやりとげようとするでしょう。そこですよ。われわれが奴をつかまえる時は」しかし、将来どうなるかは、誰にもわからなかった。