二十四 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
小さな声で、リードベター氏は、じれったそうなうなり声を出した。隣りの席にいた男が立ちあがって、かれの前を通る時、ふらふらと不恰好によろめいて、前の席に帽子を落とし、身を乗り出して、それを取ろうとしたからだった。
小さな声で、リードベター氏は、じれったそうなうなり声を出した。隣りの席にいた男が立ちあがって、かれの前を通る時、ふらふらと不恰好によろめいて、前の席に帽子を落とし、身を乗り出して、それを取ろうとしたからだった。
それは、「一羽の雀も」の最高頂に達した時だった。このオールスターの、哀愁と美の血湧わ き肉躍おど る大ドラマを、リードベター氏は、一週間も前から見ようと、楽しみにして待ち構えていたのだ。
キャザリン·ロイヤル(リードベター氏の意見によれば、世界第一の映画スター)が扮している金髪の女主人公が、ちょうど、荒々しい怒りの叫びをあげているところだった。
「いやだったら、いや。そのくらいなら、いますぐ餓え死にした方が、よっぽどましよ。でも、餓え死になんか、あたし、しないわ。この言葉をおぼえとくがいいわ。一羽の雀も落ちはしない――」リードベター氏は、いらいらして、首を左右に動かした。なんていう人たちだ! いったい、なんだって、世間の人間どもは、映画のおわりまで待っていられないんだ……それに、こんなに魂をかき立てるようなときに出るなんて。
ああ、よかった。あのうるさい紳士もいってしまった。リードベター氏は、スクリーンを、ニューヨークのバン·シュライナー·マンションの窓辺に立っている、キャザリン·ロイヤルの姿を、たっぷり眺なが めることができた。
すると、こんどは、かの女は、汽車に乗っていた――両腕に、子供を抱いて――それにしても、なんと珍らしい汽車がアメリカにはあるのだろう――イギリスの汽車とは、似ても似つかぬものじゃないか。
ああ、またスティーブだ、山の小屋に……
映画は、どんどん進んで、感動的な、なかば宗教的な結末に来た。
ぱっと電燈がつくと、リードベター氏は、満足そうなため息をもらした。
かれは、ちょっと目をぱちぱちさせながら、ゆっくり立ちあがった。
かれは、けっして大急ぎで、映画の世界からぬけ出さなかった。いつでも、平凡な、日常生活の現実にもどるには、しばらく時間がかかるのだった。
かれは、あたりを見まわした。その日の午後は、あまりたくさん見物人がいなかった――まあ当然のことだ。みんな、競馬場に行ってしまっていたのだ。リードベター氏は、競馬も、トランプ札も、酒も、煙草タバコ も、いいものだとは思わなかった。だから、映画を見て楽しむ精力が残っているというわけだ。
誰もかれも、出口の方へ急いでいた。リードベター氏は、都合よく後について行こうと身じたくをしていた。かれの前の席の男が、眠りこけていた――すっかり椅子に落ちこんだようになって。リードベター氏は、こんな「一羽の雀も」のような、すばらしい映画がうつっている最中に、眠っていられる人がいるなどと思うと、腹が立ってきた。
一人の紳士が、眠っている男が脚あし を大きく伸ばして、路みち をふさいでいるので、腹立たしそうに、いっていた。
「ごめんなさい」
リードベター氏は、出口にたどり着いて、うしろを振り返った。
なんだか騒ぎが起こっているようだった。守衛……それから、ひとかたまりの人たち……たぶん、かれの前にいた男は、眠っているのではなくて、泥酔でいすい していたのだろう……かれは、ちょっとぐずぐずしていたが、そのまま、出てしまった……そして、そのために、その日の大事件――セント·レジャーで、八十五対一で勝つなどという大事件よりも、もっともっと大きな大事件を見落としてしまった。
守衛がいっていた。
「大丈夫ですか、お客さん……病気ですよ、この人は……なんだって――どうしたんです、お客さん?」もう一人の男が叫び声をあげて、手を引いた。そして、まっ赤な、べとべとするしみを、じっとみつめた。
「血だ……」
守衛は、息がつまったような叫び声をあげた。
かれは、席の下からのぞいている、なにか黄色い物のはしに目をとめた。
「や、こいつは!」と、かれはいった。「本だ――ABCだ」