三十 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
カスト氏は、八百屋やおや の店の前に立っていた。
かれは、道路の向こうを、じっと見つめていた。
そうだ、あれがそうだ。
アッシャー夫人、新聞、煙草タバコ 販売店……窓にも、文字が書いてある。
貸家。
がらんとしている……
人の気配もない……
「ごめんなさいよ、旦那」
八百屋のおかみさんが、レモンを取ろうとして、いった。
かれは、あやまって、脇へよった。
ゆっくりと、かれは、足を引きずって――町の本通りの方へ引き返して行った……困って――とても困った――もう金も残っていない……一日じゅう、なにも食べていないと、ひどくおかしな、ふらふらするような気がする……かれは、新聞屋の店先にはってあるポスターに、目をやった。
ABC事件。殺人犯人、いまだ逮捕されず。エルキュール·ポワロ氏との会見。
カスト氏は、ひとり言をいった。
「エルキュール·ポワロ。あの人にもわかるかな……」かれは、また歩き出した。
いつまでも立って、じろじろ、あのポスターを見ていちゃ、まずい……かれは、思った。
「あまり遠くまでは行けない……」
足の前へ、足を……歩くということは、おかしなことだな……まったく、ばかげたことだ……しかし、人間というものは、ばかげた動物だよ、とにかく……そして、おれ、アレグザンダー·ボナパート·カストという人間は、とりわけばかげているよ……おれは、いつでも、そうだった……
世間の人間は、いつでも、おれのことを笑ったものだ……おれには、奴らを責めることはできん……おれは、どこへ行けばいいのだろう? おれには、わからない。もう最後のどんづまりまで来てしまった。足のほか、もうどこも見えない。
足の前に、足を。
かれは、目をあげた。目の前に灯あか りがあった。そして、文字が……警察署。
「おかしいぞ」と、カスト氏はいった。かれは、ちょっと、くすくすと笑った。
それから、かれは、中へ足を運んで行った。不意に、足を運びながら、かれは、よろめいて、前に倒れた。