三十四 ポワロ、理由を述べる
わたしたちは、この事件に対するポワロの最後の説明を聞くために、じっと注意をこらして、すわっていた。
「そもそものはじめから」と、かれは口を開いて、「なぜ、この事件が起こったかということに、わたしは、頭を痛めてきました。ヘイスティングズは、この間、事件はおわったというのです。それで、わたしは、事件はこの男なのだとこたえたのです! 謎は、殺人の謎ではなくて、ABCの謎なんです。なぜ、かれは、こういう殺人を犯さなければならんと思ったのでしょう? なぜ、かれは、わたしを相手として選んだのでしょう?
その男が精神的に狂っているからというのは、こたえにはなりません。気がちがっているから、気ちがいじみたことをするというのでは、ただ無知と愚かさを示すにすぎません。気ちがいといえども、その行動は、正気の人間と同じように、論理的で、思慮のあるものなんです――その特別にかたよった物の考え方さえわかればね。たとえば、ここに一人の男があって、下帯のほかにはなにもつけないで、表に出て、しゃがみこむのだといいはるとするのです。そうすれば、その男の行為は、極端に突飛なものだと思われるでしょう。しかし、その男が、自分はマハトマ·ガンジーだと、固く思いこんでしまっているのだということがわかってしまえば、かれの行為も完全に論理的で、もっともなものとなるわけです。
この事件で必要なことは、四度、あるいはそれ以上に殺人を犯し、しかも、エルキュール·ポワロあてに手紙を書いて、事前に予告することが、論理的で、もっともなことだと考えているような精神を想像することであります。
友人のヘイスティングズは、最初の手紙を受けとった瞬間から、わたしが、取り乱して、動揺していたと、あなたたちにいうでしょう。わたしには、それを受けとったとたんに、なにかその手紙がひどくおかしいぞという気がしたのです」「まったく、そうですね」と、フランクリン·クラークが、ひややかにいった。
「そうです。ですが、そこで、そもそものはじめから、わたしは、重大な間違いをしてしまったのです。わたしは、わたしの感じを――手紙についての、わたしの非常に強い感じを、たんなる印象だと思ってしまったのです。わたしは、それを直観だったというように扱ってしまったのです。よく調和のとれた、推理の発達した頭脳には、直観とか――当て推量などというようなものはないのです! もちろん、臆測をすることはできます――そして、臆測というものは、あたるか、はずれるかのどちらかです。あたれば、直観といい、はずれれば、二度とそのことを口に出さないのが普通です。しかし、よく直観といわれるものは、実は、論理的な推理や経験に基礎をおいた印象のことなんです。その道の専門家が、絵
なり、家具類なり、小切手の署名などに、なにかおかしいと感じる時には、実は、微妙な特徴とか、細部の感じに土台をおいているのです。かれは、それをこまかく調べる必要はないのです――かれの経験が、それを必要としないのです――純粋の結果は、なにかおかしいという明確な印象なのです。しかし、それは臆測ではなくて、経験に基礎をおいた印象なのです。
ところで、わたしは、あの最初の手紙を、当然そうしなければならないようには考慮に入れなかったと、認めなければなりません。ただ、ひどくわたしを不安にしただけでした。警察でも、たちの悪いいたずらだと取ってしまいました。わたし自身は、真面目に受けとったのです。わたしは、予告のとおり、きっとアンドーバーで殺人が起こると信じていました。
そして、みなさんもご承知のように、殺人は行われたのです。
その当時は、わたしがよく感じていたとおり、それをしたものは誰かということを知る手段はありませんでした。ただ一つ、わたしに開かれている道は、どういう種類の人間がそれをしたかということを、つとめて推理してみることでした。
わたしには、手がかりがいくつかありました。手紙と――犯罪の手口と――殺された被害者です。わたしの発見しなければならないことは、犯罪の動機と、その手紙を書いた動機とでした」「宣伝ですよ」と、クラークが口を入れた。
「確かに、劣等感がありますわね」と、ソーラ·グレイがつけ足して、いった。
「それは、もちろん、採用していい明白な線です。しかし、なぜ、わたしによこさなければならなかったのでしょう? なぜ、エルキュール·ポワロを相手にしたのでしょう? スコットランド·ヤードにあてて手紙を送れば、もっと大がかりな宣伝になったはずです。新聞社へ送れば、なおさらでしょう。最初の手紙は、新聞も掲載しないかもしれないが、二度目の犯罪が起きた時には、ABCは、新聞がなしうるあらゆる宣伝をものにできたはずです。なぜ、それなのに、エルキュール·ポワロに送ったのでしょう? なにか、個人的な理由だったのでしょうか? 手紙には、ごくわずかではあるが、排他的な偏見が認められます――しかし、それでは、わたしが納得するほど、事件の十分な説明にはなりません。
やがて第二の手紙がとどきました――そして、追っかけて、ベクスヒルでベッティ·バーナードの殺人事件が起こりました。その時になって、(すでに、わたしは、うすうす感じていたところですが)殺人がアルファベットの順に行われるということが明らかになりました。しかし、この事実は、たいていの人々には決定的なことと思われたでしょうが、わたしの心には、主要な疑問は不変のままで残っていました。なぜ、ABCは、これらの殺人を犯す必要があったのでしょう?」ミーガン·バーナードが、椅子にかけたままで、もじもじと身を動かした。
「こういったものじゃないんですの――血を渇望するといったような?」と、かの女はいった。
ポワロは、かの女の方を向いて、
「そのとおりです、マドモアゼル。確かに、そういうことはありますね。殺したいという欲望です。しかし、それだけでは、この事件の事実にぴったりあてはまるとはいえないのです。人を殺したがっている殺人狂というものは、いつも、できるだけ多くの犠牲者を殺したがっているものなのです。それは、何度でも繰り返して起こってくる欲望なんです。こうした殺人者の主要な考えは、その犯行の跡をかくすということで――宣伝することではないのです。ここで、選ばれた四人の犠牲者――というよりも、すくなくも、その中の三人(というわけは、ダウンズ氏なり、アルスフィールド氏については、わたしは、ほとんど知らないのですから)について考えてみますと、もし犯人が選んでおいたのだったら、かれは、なんの嫌疑も招くことなしにやってのけられたはずだということが、わかります。フランツ·アッシャーにしても、ドナルド·フレイザーにしても、ミーガン·バーナードにしても、あるいはクラークさんにしてもそうですが――これらの人たちは、もし直接の証拠がなかったら、嫌疑を受けたかもしれない人たちです。未知の殺人者のことなど、思いもしなかったにちがいありません! それでは、なぜ、犯人は、自分に注意を促すのが必要だと感じたのでしょう? 一人一人の死体のそばに、ABC鉄道案内を一冊ずつ残しておく必要があったのでしょうか? あれは、脅迫きょうはく だったのでしょうか? それともなにか、鉄道案内に関連したコンプレックスがあったのでしょうか?
その点で、わたしは、殺人犯人の心の中へはいって行く手がかりが、まったく想像もつかなくなってしまいました。確かに、太っ腹なところを見せようとしているわけではないでしょう? 無実な人たちに罪をきせる責任をおそれているのでしょうか?
わたしは、この最大の疑問にこたえることはできませんでしたが、この殺人犯人について、いくつかのことがわかってきました」「たとえば?」と、フレイザーがたずねた。
「まず第一に――かれが、深みのない頭の持ち主だということです。かれの犯罪は、アルファベットの順にきめられていたのです――これは、かれにとっては、明らかに重大なことだったのです。その反面、犠牲者に対しては、かれには、特別な好みはなかったので――アッシャー夫人も、ベッティ·バーナードも、カーマイケル·クラーク卿も、みんな、それぞれ、大いにちがっていたわけで、性的なコンプレックスもなければ――特別な年齢上のコンプレックスもないので、わたしには、ひどく珍しい事実だと思われたのです。一人の人間が、誰かれの差別なしに人を殺す場合が、かりにあったとしても、それは、自分のじゃまになるとか、自分を困らせるから、相手を片づけるというのが普通なのです。ところが、アルファベットの順にことを運ぶというのは、この事件がそういうものではないということを示しているわけです。別の殺人者のタイプは、特定のタイプの犠牲者――たいていは、男なら女を、女なら男をと、反対の性を選ぶのが普通なんです。ところが、ABCのやり口には、なにか行きあたりばったりの匂にお いがするという気が、そのアルファベットの選択と取り組んでいるうちに、わたしにはしてきたのです。
ここで、ちょっとした推理を、わたしはしてみたのです。ABC鉄道案内を選んだということは、鉄道に関心を持つ男ではないかということを、わたしに連想させたのです。これは、女よりも男に多いのが普通です。男の子というものは、女の子よりは汽車が好きなものです。それはまた、どうかして心があまり発達しなかったしるしかもしれません。この『子供らしい』動機が、まだ支配しているというわけなのです。
ベッティ·バーナードの時の手口は、ある別の手がかりを与えてくれました。かの女の殺され方は、特に暗示的でした(すみませんね、フレイザー君)。まず、かの女は、自分のベルトでしめ殺されていました――ということは、かの女が親しい仲か、あるいは深く愛し合っていた間柄の人間の手で殺されたのが、ほとんど確実だといわなければならないでしょう。かの女の性格のあるものについて知った時、一つの場面が、わたしの頭に浮かんできました。
ベッティ·バーナードは、恋愛遊戯の好きな娘さんでした。風采ふうさい のいい男性からちやほやされるのが好きでした。ですから、かの女を説きふせて、いっしょに出かけたところをみると、ABCには、きっと、かなりの魅力が――つまり、セックス·アッピールがあるのにちがいありません! かれは、あなた方イギリス人がよくおっしゃるように、『うまくやった』のにちがいありません。かれは、そういうことにかけても、きっと、腕がよかったのでしょう! わたしは、海岸でのこういう場面をありありと思い浮かべることができます。男が、かの女のベルトをほめる。かの女は、それをはずすと、男は、おもしろ半分に、娘の首にまわして――おそらく、『首をしめてみようか』とかなんとか、いう。すると、かの女は、くつくつと笑う――すると、男がひっぱる――」ドナルド·フレイザーははねあがった。かれの顔は、土気色つちけいろ だった。
「ポワロさん――後生ごしょう です」
ポワロは、ちょっと身振りをして、
「もうおしまいです。もう、なにもいいません。おわりです。わたしたちは、つぎの、カーマイケル·クラーク卿の事件に移りましょう。ここで、犯人は、最初の――頭をなぐるという方法にもどっています。同じようなアルファベットのコンプレックスですが――しかし、一つの事実が、いささか、わたしには気にかかります。首尾を一貫したものにするために、犯人は、その町を一定の関連をもって選ぶはずであります。
かりに、アンドーバーがAの一五五番目の地名だとすると、Bの犯罪も一五五番目か――あるいは、一五六番目に、したがって、Cは一五七番目ということになるわけです。ところが、ここでもまた、行きあたりばったりなやり方で、町を選んでいるらしいのです」「それは、きみがその問題を、ゆがめて考えているからじゃないのかね、ポワロ?」と、わたしはいい出してみた。「きみ自身が、杓子定規しゃくしじょうぎ のこちこちだからだよ。
きみの悪い癖だよ」
「いいや、癖じゃありませんよ! なんてことをいうんです! しかし、まあ、その点は、すこしわたしがいいすぎたかもしれません。先へ進みましょう!
チャーストンの犯罪は、ほとんど参考にはなりませんでした。あの時は、わたしたちには、ついていませんでした。というのは、予告の手紙が間違って配達されたために、なんの準備もできなかったからです。
しかし、Dの犯罪の予告が来た時には、非常に偉大な、防禦ぼうぎょ の手段がほどこされました。ABCが、もはやこれ以上、自分の犯罪を遂行することを望めなくなったのは、明らかなことだったのにちがいありません。
その上に、こんどは、靴下という手がかりが、わたしにはわかりました。犯罪のあるたびに、現場付近を、靴下を売って歩く人間がいるということは、たんなる偶然ではないということが、明らかになってきました。そのことから、殺人犯人は、その靴下売りの人間にちがいないと思われました。しかし、この人間も、ミス·グレイのおっしゃった説明では、ベッティ·バーナードを絞殺こうさつ した人間として、わたしの抱いている人間とはぴったりしなかったと申しあげておきましょう。
大急ぎで、つぎの段階に進みましょう。四番目の殺人が起こりました――ジョージ·アールスフィールドという名前の人が殺されました――これは、映画館で、その人の近くにかけていた背恰好せかっこう の似た、ダウンズという名の男と間違えられたものと思われます。
そして、いまや、ついに運は変わってきました。事態は、ABCの思う壺つぼ にはまらないで、反対の目が出てきているのです。かれは、狙われ――追いつめられ――そして、とうとう逮捕されました。
事件は、ヘイスティングズがいうように、おわりました!
一般世間の人の関心の程度では、まったくそのとおりであります。その男は、牢獄ろうごく につながれ、最後には、ブロードムーアに送られることは疑いもありません。もはや、これ以上、殺人は起こりません。退場! 全巻のおわり! ねがわくは安らかに眠れ、であります。
しかし、わたしにとっては、そういうわけにはいかないのです! わたしには、なんにもわからないのです――まるきりわからないのです! なぜかということも、なんのためにということもわからないのです。
しかも、もう一つ、小さなことですが、厄介やっかい な事実があるのです。カストという男が、ベクスヒル事件の夜のアリバイを持っているということです」「わたしも、それにはずっと頭を痛めていました」と、フランクリン·クラークがいった。
「そうです。わたしを悩ましていたのも、それです。そのアリバイは、アリバイとして、本物らしい感じを持っているのです。しかし、ある要件が満たされなければ、本物とはいえないので――そして、いまや、わたしたちは、二つの非常に興味ある推理にぶつかることになったのです。
みなさん、カストが三つの犯罪――AとCとDの犯罪は犯したが――Bの犯罪は犯さなかったと推定するのです」「ポワロさん、それは――」
ポワロは、目つきでミーガン·バーナードを黙らせた。
「静かにしてください、マドモアゼル。真実を知りたいのです、わたしは! 嘘は、もうたくさんです。いいですか、ABCが、第二の犯罪は犯さなかったと仮定するのです。事件は、二十五日の――つまり、かれが犯罪のために到着したその日の――早々に起こったということを忘れないでくださいよ。すると、誰かが、かれの先廻りをしたのでしょうか? そういう情況のもとで、いったい、かれは、どうするでしょう? 第二の殺人を犯すでしょうか、それとも、じっとして、一足先に起こった殺人を、死霊の贈り物として受けいれるでしょうか?」「ポワロさん!」と、ミーガンがいった。「そんなのは、気まぐれな考えですわ! この犯罪はみんな、同じ人間が犯したのにちがいありませんわ!」かれは、かの女を黙殺して、落ちついて話しつづけた。
「こういう仮定は、一つの事実――アレグザンダー·ボナパート·カストの(かれは、どんな女の子ともうまくいったためしが一度もなかったのです)そういう性格と、ベッティ·バーナードを殺した犯人の性格との相違を説明するには、まことに都合がいいのです。それに、これまでにも、殺人未遂犯人が、ほかの人間が犯した犯罪までかぶってしまったという例は、よく知られています。たとえば、人殺しジャックの犯罪のすべてが、人殺しジャックの犯したものではなかったというようなものです。ここまでは、いいんです。
しかし、ここで、わたしは、決定的な困難にぶつかったのです。
バーナード殺人事件の時までは、ABC殺人事件の事実は、世間の評判にはなっていなかったのです。アンドーバーの殺人は、ほとんど関心を呼びませんでしたし、ページを開いたままにしてあった鉄道案内のことも、新聞では取りあげてもいなかったのです。ですから、誰がベッティ·バーナードを殺したのかはとにかくとして、その殺した人間は、ある人たち――つまり、わたしとか、警察とか、アッシャー夫人の親戚しんせき とか、近所の人たち、だけしか知らないような事実を知っていたにちがいないということになるのです。
こういう調査の線が、わたしを出入口一つない壁の前へ追いこんでしまったのです」かれを見ている人々の顔も、うつろだった。うつろで、その上に、とほうにくれている顔だった。
ドナルド·フレイザーが、考え深くいった。
「警官も、結局は、人間なんです。そして、みんな、いい人ですから――」かれは、いうのをやめて、問いかけるように、ポワロを見た。
ポワロは、静かに首を振って、
「いいえ――もっとずっと簡単なことです。わたしは、みなさんに、第二の推理があると申しましたね。
カストには、ベッティ·バーナード殺しに罪がなかったとしたら、どうでしょう? 誰かほかの人間が、かの女を殺したものだとしたら。その場合、その誰かほかの人間が、ほかの殺人にも罪を負うべきものだとは考えられないでしょうか?」「しかし、そんなことは道理に合わないじゃありませんか!」と、クラークが叫ぶようにいった。
「そうでしょうか? わたしは、そこで、まず最初に、しなければならなかったはずのことをしました。わたしは、いままでに受けとった手紙を、全然ちがった観点から吟味してみました。わたしは、そもそものはじめから、なんかその手紙には、おかしいところがあると感じていました――絵の専門家が、絵のおかしいところに気がつくように……わたしは、よく落ちついて考えようともしないで、手紙におかしなところがあるのは、気ちがいが書いた手紙だからだと思いこんでしまっていたのでした。
ところで、もう一度、よく調べ直してみますと――こんどは、まったくちがった結論に達しました。それらの手紙がおかしいと思ったのは、正気の人間が書いた手紙だったからです!」「なんだって?」わたしは叫んだ。
「しかし、そうなんだ――まさに、そのとおりだったのです! 絵がおかしいのと同じように、おかしい手紙だったのです――つまり、いかさまだったからです! 気ちがいの――殺人狂の手紙のように見せかけてはあるが、実は、そんな手紙ではなかったのです」「そんなことは、道理に合わないじゃありませんか!」と、フランクリン·クラークが繰り返していった。
「いや、合うんです! ちゃんとした理由があるのです――考えてみましょう。いったい、こういう手紙を書く目的というのは、なんでしょう? 書き手に世間の注意を集中し、殺人に注意をひきつけるためなんです! 確かに、一見したところでは、なんの意味もないようでした。ところが、わたしには、光が見えてきたのです。それは、いくつかの殺人といいますか――一団の殺人に、注意を集めるためだったのです……お国の偉大なシェイクスピアも、『森のために木を見ることができない』といっているじゃありませんか?」わたしは、ポワロの文学上の記憶の誤りを訂正しようとはしなかった。それよりも、わたしは、かれのいおうとするところを知ろうとしていた。おぼろげではあるが、わたしにもわかるような気がしてきた。かれは、話をつづけた。
「あなたたちが、一本の針に一番気がつかない時はいつでしょう? それは、針差しに差してある時ですね! 単独の人殺しに、一番気がつかない時はいつでしょう? それは、関連のある一連の殺人の中の一つの場合です。
わたしが取り組まねばならなかった相手というのは、非常に賢明で、機略に富んだ殺人者――無鉄砲で、大胆不敵な、徹底的なばくち打ちだったのです。カスト氏ではありません! かれは、けっして、このような殺人など犯せる人間ではないのです! いや、わたしが取り組まなければならなかった相手は、もっともっとちがった種類の人間です――子供っぽい気質の男です。(小学生じみた手紙とか、鉄道案内などがそれです)婦人にとって魅力のある男です、人間の生命に対して残忍な心しか持たない男です。そうして、これらの犯罪の一つに、特殊な関係を持っている男であります!
一人の男か女が殺された場合に、警察がたずねるのは、どんな問題についてでしょう?
機会ですね。犯行の時に、一人一人の人間がいたのは、どこか? つぎは、動機です。被害者の死によって利益を受けるのは、誰か? 動機と機会とが、かなり明白になった場合に考えるべきことは、容疑者はなにをするだろうか? アリバイの偽造――つまり、なんらかの方法で、時間に小細工をしたのではないだろうか? しかし、これは常に危険なやり方です。われわれの犯人は、もっと空想的な予防策を思いついたのです。つまり、一人の殺人狂をつくりあげたのです!
そこで、わたしに残された問題は、いろいろな犯罪をもう一度じっくり振り返ってみて、犯人を発見するだけのことでした。アンドーバーの犯罪は? もっとも嫌疑の濃厚なのは、フランツ·アッシャーでした。しかし、アッシャーが、こんな念入りな計画を考え出して、実行するような人間とは、わたしには想像もできませんでしたし、こんな遠謀深慮な殺人を計画するような人間とも思えませんでした。では、ベクスヒルの犯罪ではどうでしょう?
ドナルド·フレイザー君が可能性がありました。この人は、頭もいいし、それだけの手腕もあるし、組織的な頭の持ち主でもあります。しかし、この人がその愛人を殺す動機はといえば、ただ嫉妬しっと だけしかないのです――そして、嫉妬というものは、あらかじめ計画を立てることなどには向かないものです。それからまた、わたしは、この人が八月はじめに休暇をとったことを知るとともに、この人がチャーストンの犯罪に関係のないということが、ますますはっきりしてきました。さて、つぎのチャーストンの犯罪に移りますと――ただちに、わたしたちは、非常に見込みのある立場に立ちました。
カーマイケル·クラーク卿は、莫大ばくだい な財産家でした。その財産を相続するのは、誰でしょう? 瀕死ひんし の床とこ についている夫人には、生涯しょうがい の保証があります。で、それは、弟のフランクリンさんに行くことになっています」ポワロがゆっくり視線を動かして行くと、やがて、フランクリン·クラークの視線と、ばったりぶつかった。
「その時になって、わたしには、はっきりわかりました。それまで長いこと、わたしが心の奥であたためていた人物と、わたしが一人の人としてよく知っていた人物とは、同一の人物だったのです。ABCと、フランクリン·クラークとは、同一人だったのです! 大胆で冒険好きの性格、放浪の生活、イギリスに対する偏愛が示す、外国人への軽い侮蔑ぶべつ 。魅力のある、自由で、気軽な態度――カフェの女の子を引っかけるぐらい、かれにとっては朝飯前です。組織的ではあるが、平板な頭脳――その頭で、ある日、かれは、リストをつくって、ABCの頭文字にしるしをつけました――そして、最後に、子供っぽい心――そのことについては、クラーク夫人の言葉にもありましたし、小説についての、かれの好みでもわかりますし――図書室に、E·ネスビットの『鉄道の子供たぁ�、動機です。被害者の死によって利益を受けるのは、誰か? 動機と機会とが、かなり明白になった場合に考えるべきことは、容疑者はなにをするだろうか? アリバイの偽造――つまり、なんらかの方法で、時間に小細工をしたのではないだろうか? しかし、これは常に危険なやり方です。われわれの犯人は、もっと空想的な予防策を思いついたのです。つまり、一人の殺人狂をつくりあげたのです!
そこで、わたしに残された問題は、いろいろな犯罪をもう一度じっくり振り返ってみて、犯人を発見するだけのことでした。アンドーバーの犯罪は? もっとも嫌疑の濃厚なのは、フランツ·アッシャーでした。しかし、アッシャーが、こんな念入りな計画を考え出して、実行するような人間とは、わたしには想像もできませんでしたし、こんな遠謀深慮な殺人を計画するような人間とも思えませんでした。では、ベクスヒルの犯罪ではどうでしょう?
ドナルド·フレイザー君が可能性がありました。この人は、頭もいいし、それだけの手腕もあるし、組織的な頭の持ち主でもあります。しかし、この人がその愛人を殺す動機はといえば、ただ嫉妬しっと だけしかないのです――そして、嫉妬というものは、あらかじめ計画を立てることなどには向かないものです。それからまた、わたしは、この人が八月はじめに休暇をとったことを知るとともに、この人がチャーストンの犯罪に関係のないということが、ますますはっきりしてきました。さて、つぎのチャーストンの犯罪に移りますと――ただちに、わたしたちは、非常に見込みのある立場に立ちました。
カーマイケル·クラーク卿は、莫大ばくだい な財産家でした。その財産を相続するのは、誰でしょう? 瀕死ひんし の床とこ についている夫人には、生涯しょうがい の保証があります。で、それは、弟のフランクリンさんに行くことになっています」ポワロがゆっくり視線を動かして行くと、やがて、フランクリン·クラークの視線と、ばったりぶつかった。
「その時になって、わたしには、はっきりわかりました。それまで長いこと、わたしが心の奥であたためていた人物と、わたしが一人の人としてよく知っていた人物とは、同一の人物だったのです。ABCと、フランクリン·クラークとは、同一人だったのです! 大胆で冒険好きの性格、放浪の生活、イギリスに対する偏愛が示す、外国人への軽い侮蔑ぶべつ 。魅力のある、自由で、気軽な態度――カフェの女の子を引っかけるぐらい、かれにとっては朝飯前です。組織的ではあるが、平板な頭脳――その頭で、ある日、かれは、リストをつくって、ABCの頭文字にしるしをつけました――そして、最後に、子供っぽい心――そのことについては、クラーク夫人の言葉にもありましたし、小説についての、かれの好みでもわかりますし――図書室に、E·ネスビットの『鉄道の子供たち』という本があることも、わたしは確かめました。わたしの心からは、すべての疑いが氷解しました――いくつかの手紙を書き、いくつかの犯罪を犯したABCなる人物は、フランクリン·クラークだったのです」クラークは、出しぬけに、大声で笑い出した。
「まったくうまいもんですね! それで、現行犯として捕えられた、われらの友人のカストはどうなんです? 上衣の血痕はどうなんです?それから、下宿にかくしていたナイフは? かれは、自分の犯罪を否認するかもしれないが――」ポワロは、それをさえぎって、「大間違いです。かれは、犯罪事実を認めていますよ」「なんですって?」クラークは、ほんとに驚いた顔色だった。
「そうなんですよ」と、ポワロは、おだやかにいった。「わたしが話しかけるとすぐに、カストは、自分が有罪だと思いこんでしまっていることに、わたしは、気がついたのです」「それでも、ポワロさんは満足しないとおっしゃるんですね?」と、クラークはいった。
「そうです。というのは、かれを一目見るなり、かれが有罪のはずがないということが、同時にわかったからです! かれには、物事を計画するような神経も勇気も――いや、頭もないといった方がいいでしょう! わたしはずっと、犯人の二重人格に気がついていました。
いまは、どこがそうなっているか、わたしにはわかります。つまり、二人の人間が、ことを複雑にしていたのです――狡猾こうかつ で、機略に富み、大胆不敵な、ほんとうの殺人犯人と――愚鈍で、優柔不断な、暗示にかかりやすい、偽の殺人犯とがいたのです。
暗示にかかりやすい――この言葉の中に、カスト氏の謎があるのです! クラークさん、あなたは、ただ一つの犯罪から注意をそらすために、この一連の殺人計画を考え出しただけで飽きずに、影武者までもつくったというわけですね。
その考えは、町の喫茶店で、あの大げさな洗礼名を持った、おかしな人物に出会った結果として、はじめて、あなたの心に浮かんだものだと思います。ちょうどそのころ、あなたはお兄さんを殺そうとして、いろいろな計画を、頭の中で練っていたところだったのですね」「ほんとですか? そして、どういうわけでです?」「なぜかというと、あなたは、本気に未来のことに気をつかっていたからなんです。あなたがそれを意識していたかどうかは知りませんが、クラークさん、しかし、あなたがお兄さんからの、あの手紙を見せてくださった時に、わたしの手にはまりこんでしまったのです。あの手紙の中で、卿は、ミス·ソーラ·グレイに、愛情と夢中になっている気持ちとを、おそろしくはっきり示しておいででした。その関心は、あるいは父親らしい心づかいであったかもしれません――あるいはまた、しいてそう思いこもうとしておられたのかもしれません。
けれど、あなたのお嫂ねえ さんがなくなった暁には、卿は、ひとりぼっちになられたために、この美しい娘さんに同情となぐさめを求め、ついには――年配の人にはよくあることですが――この娘さんと結婚することになるかもしれないという、まったく事実上の危険があったのです。あなたの不安は、ミス·グレイのことを知れば知るほど、大きくなってきました。あなたは、非常に卓越たくえつ した性格の方ではあるが、いうなれば、いくらか皮肉な判断をなさる性格の方だという感じがします。正しいか正しくないかは問題外として、あなたは、ミス·グレイという人を、『打算的な』若い女性のタイプの人だと判断したのですね。あなたは、この人がレディ·クラークになる機会が来れば、きっと、それに飛びつくにちがいないと思いこんでしまったのです。お兄さんは、きわめて健康で、元気のいい方でした。ですから、子供が生まれないとはいえないし、そうなれば、お兄さんの財産を相続するという、あなたのチャンスはなくなってしまうわけです。
要するに、あなたは、これまで失望ばかりを味わってきた人だという気が、わたしはします。あなたは、これまでたびたび仕事をかえて――そのために、ほとんど財産を残さなかった人なんですね。そして、お兄さんの財産を、痛烈にうらやんでいたのですね。
話が前にもどりますが、頭の中でいろいろ計画を練っている時に、思いがけなくカスト氏と出会ったことが、一つの思いつきを、あなたに与えたのです。かれの大げさな洗礼名、かれの癲癇てんかん の発作ほっさ や頭痛の話、かれの全体が畏縮したような、取るに足らないような存在が、あなたの望みの道具に打ってつけだという気が、あなたの頭にぴんときたのですね。いっさいを含んだアルファベットの計画が、あなたの頭の中に浮かびあがったのです――カストの頭文字がヒントになって――そして、お兄さんの名前がCではじまり、その住まいがチャーストンにあるという事実が、計画の中心だったのです。あなたは、カストに非常に可能性を帯びた最後のことまでも暗示したのですね――その暗示が、あんなに立派な実を結ぼうとは、いかにあなたでも思いもかけなかったでしょうがね!
あなたの準備は、すばらしいものでした。カストの名で、委託販売品として大量の靴下が、かれのところへ送られるように、あなたは、手紙を書きました。あなた自身も、似通った外見の包みにして、何冊かのABC鉄道案内を送りました。あなたは、かれに手紙を――その同じ会社からとして、十分な給料と手数料とを約束するという趣旨の手紙を、タイプで打って送りました。あなたの計画は、前もって立派にお膳立てができていましたから、後日送るべき手紙もみんなタイプで打ってしまってから、その手紙を打つのに使ったタイプライターを、かれに贈ってやったのです。
さて、こんどは、それぞれ名前がAとBではじまって、やはり同じ文字ではじまる町に住んでいる、二人の犠牲者を捜さなければならないということでした。
あなたは、アンドーバーを手ごろな土地として選び出し、前もって踏査した結果、最初の犯罪の場所として、アッシャー夫人の店を選ぶことになったのです。かの女の名前が、はっきり戸口に書いてあったし、あたってみると、かの女がいつも一人で店にいるということもわかりました。かの女の殺害には、神経と、勇気と、しかるべき運に恵まれさえすればいいのでした。
Bの文字については、あなたは、手を変えなければならなかったのです。一人で店番をしている女の人たちは、用心をするようにといいわたされていたのでしょう。わたしの想像では、あなたは、二、三軒のカフェや喫茶店へたびたび出入りして、そこの女の子たちと笑ったりふざけたりしながら、都合のいい文字で名前がはじまり、あなたの目的にぴったりという女の子を物色ぶっしょく したのです。
ベッティ·バーナードが、あなたの捜しているタイプの娘だということを、あなたは見つけ出しました。あなたは、一、二度、かの女を連れ出したのですが、自分は既婚者だから、出歩くのは、いくらかこっそりしなけりゃならないといいわけをいったりしたのでしょう。
こうして、準備計画が完了したので、あなたは、仕事に取りかかりました! あなたは、アンドーバーのリストをカストに送って、指定した日にそこへ行くように命ずるといっしょに、最初のABCの手紙を、わたしあてに送ったのです。
指定した日に、あなたは、アンドーバーへ行き――アッシャー夫人を殺した――あなたの計画と齟齬そご することは、なにも起こらなかった。
殺人第一号は、成功裡に完了しました。
第二の殺人は、実際には、その前日に行うように、あなたは気をくばったのです。おそらく、ベッティ·バーナードは、七月二十四日の真夜中よりもかなり前に殺されたものだと、わたしは信じます。
さて、第三の殺人に進みましょう――もっとも重要な――事実、あなたの立場からいえば、本命の殺人です。
そして、ここで、満腔まんこう の讚辞を、ヘイスティングズに捧げなければなりません。
というのは、かれは、単純明快な言葉をいったのですが、誰も注意をはらわなかったのです。
かれは、三番目の手紙が計画的に誤送されたのだという暗示的なことをいったのです。
そして、かれは、正しかったのです!……
その簡単な事実の中に、長いこと、わたしを悩ましていた問題の解答があったのです。なぜ、これらの手紙が、第一に、私立探偵、エルキュール·ポワロあてになっていて、警察あてになっていなかったのか?
誤って、わたしは、個人的な理由だと想像していたのです。
大違いでした! あれらの手紙が、わたしあてに送られたわけは、あなたの計画の本体が、そのうちの一通が誤った住所のために誤送される必要があったからです――ところが、いくらあなたが気を配っても、ロンドン警視庁の犯罪捜査課あての手紙が誤送されるなんてことはありえませんからね! どうしても、個人の住所でなくちゃならなかったのです。あなたは、かなり有名な人間として、また確実に、その手紙を警察に渡す人間として、わたしを選んだのです――それからまた、やや偏狭な島国根性から、外国人をやっつけておもしろがっていたというわけです。
あなたの封筒の所書きは、まったく賢明でした――ホワイトヘーブン――とホワイトホースと――確かに、自然な誤りです。ただ、ヘイスティングズだけが、そんな小細工を無視して、明白なものを真視する豊かな洞察力どうさつりょく を持っていたのです!
もちろん、あの手紙は、誤送させるつもりだったのです! 警察は、殺人が無事におわってしまってから、活動をはじめることになっていました。お兄さんの夜の散歩が、あなたにお誂え向きの機会を与えたのです。そしてABCの恐怖が、うまく世間の人たちの心をとらえてしまったので、あなたがやったのではないかという考えが、誰の胸にも浮かばなかったのです。
お兄さんの死によって、もちろん、あなたの目的は成就しました。もう殺人を犯す気持ちも、あなたにはなくなったのです。ところが、なんの理由もなく、この殺人がとまってしまえば、ほんとうの嫌疑が、誰かにかかってくるかもしれないのです。
あなたの影武者のカスト氏は、目につかない――まったく目立たない人ですからね、かれは――その役割を、まったくうまくはたしたので、それまでは、三つの殺人の付近に同じ人間があらわれたことなど、気がついた者もなかったのです! 困ったのは、かれがコームサイドを訪ねたことさえいい出す者もなかったということです。そんなことなんか、ミス·グレイの頭から、すっかり消えてしまっていたのです。
常に大胆不敵なあなたは、どうしても、もう一度殺人を行わなければならない、が、こんどは、犯跡を残しておかなければならないと、心にきめたのです。
あなたは、その作戦の場所に、ドンカスターを選んだ。
あなたの計画は、ごく簡単だった。当然のことながら、あなた自身も現場に居合わせることになっていました。カスト氏には、会社からドンカスター行きの命令が出ることになっていました。あなたの計画は、かれの後をつけて、機会を狙うことでした。すべてがうまく行きました。カスト氏が映画館へはいりました。すべては、簡単そのものでした。あなたは、かれから二つ三つ離れた席にすわりました。かれが出ようと立ちあがると、あなたも同じようにした。あなたは、つまずいたふりをして、前のめりになって、前列の席で眠っていた男をずぶりとやると、足もとにABC鉄道案内を落とし、それから、薄暗い廊下で、わざと、どすんとカスト氏にぶつかると、かれの袖そで でナイフを拭いて、かれのポケットに、そのナイフをするっと入れたのです。
あなたは、Dで名前がはじまる犠牲者を捜し出すことに頭を痛めることなど、もうすこしもなかったのです。誰でもよかったのです! あなたは、それが犯人の手違いと思われるだろうとにらんでいたのです――そして、まったくそのとおりでした。観客席の、それほど離れていないところに、名前がDではじまる人が、確かにいるはずでした。その男が犠牲者になるはずだと思われるにきまっていました。
さて、みなさん、こんどは、偽のABCの立場から――というのは、カスト氏の立場から、事態を考えてみましょう。
アンドーバーの事件は、かれにとっては、なんら重要な意味を持っていません。ベクスヒルの犯罪には、ショックを受けるばかりか驚いています――なぜかといえば、ちょうどそのころ、そこにいたのですから! やがて、チャーストンの犯罪が起こって、新聞に大見出しで書き立てられることになりました。アンドーバーのABCの殺人の時にも、そこにいましたし、ベクスヒルのABCの殺人の時にも、それからまた……三度、殺人事件があるたびに、それぞれの現場にいたのです。癲癇持ちの人には、いったい自分がなにをしたか思い出せない、空白の時期がよくあるものなのです……カストが臆病で、ひどく神経質の人で、極端に暗示にかかりやすい人だということを思い出してください。
やがて、かれは、ドンカスターへ行けという命令を受けます。
ドンカスター! しかも、つぎのABCの犯罪は、ドンカスターで起こることになっているのです。きっと、かれは、それを運命のように感じたにちがいありません。かれは、平静をうしなってしまって、家主の婦人が自分を怪しんでいるように思いこんでしまって、チェルテナムへ行くなどといってしまいます。
かれは、それが自分の仕事ですから、ドンカスターへ行きます。午後になって、映画館にはいります。おそらくは、一分か二分は、とろとろと居眠りでもしたでしょう。
宿屋にかえって、上衣の袖に血がついているばかりか、ポケットには血まみれのナイフがあるのを見つけた時の、かれの気持ちを想像してみてください。かれの漠然とした不吉な予感は、一足飛びに確実なものとなります。
おれが――このおれが――殺人者だ! かれは、持病の頭痛のことや――記憶の喪失のことなどを思い出します。かれは、事実だと思いこんでしまいます――おれが、アレグザンダー·ボナパート·カストが殺人狂だ、と。
それから後のかれの行動は、追われる動物の行動です。かれは、ロンドンの下宿に引っ返します。そこなら、安全です――よく知られているのです。みんなは、かれがチェルテナムに行っていたと思っています。かれは、まだナイフを持っています――まったく、ばかげたことをしたものです、もちろん。しかし、かれは、それを玄関の傘立てのかげに隠します。
ところが、ある日、警官が来るという知らせを受けます。万事休す! 警察にはわかっているのだ!
追われる動物は、最後の逃亡を企てます……
わたしには、なぜ、かれがアンドーバーへ行ったのかわかりません――おそらく、犯罪の――それについては、なんにも思い出せないが、自分が犯した犯罪の現場へ行って、みようという病的な願いだと、わたしは思います……かれは、残る金もなく――疲れ果てて……ひとりでに、足が、かれを警察署へ連れて行きます。
しかし、追い詰められた獣でも、いざとなれば闘います。カスト氏は、完全に、自分は殺人を犯したと思いこんではいますが、しかし、自分は無実だという主張に強くすがりついています。そして、必死になって、あの第二の殺人に対するアリバイにかじりついています。
すくなくとも、あれは、かれに罪を負わせることはできそうもありません。
前にもお話したとおり、わたしは、かれに会った時、すぐに、かれが犯人ではないということと、わたしの名前にもなんの反応も示さないのに気がつきました。なおまた、かれが自分を殺人犯人だと思いこんでいることにも気がつきました!
かれが自分の罪をわたしに告白した後、わたしは、前よりもいっそう強く、わたしの考えが正しいということがわかりました」「あなたの考えなんて、ばかげてますよ」と、フランクリン·クラークがいった。
ポワロは、首を横に振って、
「いいや、クラークさん。誰もあなたを疑わないうちは、あなたは、まったく安全でした。
しかし、一度、あなたに疑いを持てば、証拠が手にはいるのは、やさしいことでした」「証拠?」「そうです。わたしは、あなたがアンドーバーとチャーストンの殺人で使ったステッキを、コームサイドの戸棚の中から見つけました。太い握りのついた、普通のステッキですが、木の一部がえぐられていて、その中に、鉛が溶かしこんでありました。それから、あなたがドンカスターの競馬場にいるはずの時間に、映画館から出て来たあなたを見かけた二人の人によって、半ダースほどの写真の中から、あなたの写真が選び出されています。それから、この間はベクスヒルで、ミリー·ヒグリーと、もう一人、スカーレット·ランナー·ロードハウスの女の子とによって、当人だということを認定されています。そのスカーレット·ランナー·ロードハウスというのは、あの運命の夜、あなたがベッティ·バーナードを食事に連れて行ったところです。それから、最後に――なによりも、もっとも致命的ですが――あなたは、きわめて重要な注意を怠っているのです。あなたは、カストのタイプライターに指紋を残していた――あなたが潔白ならば、けっして手を触れるはずのないタイプライターにですよ」クラークは、しばらく、そのまますわっていたが、やがていった。
「赤、奇数、負けだ!――あなたの勝ちだ、ポワロさん! しかし、やってみるだけの値打ちはあったんです!」ほとんど信じられないほどの速さで、かれは、ポケットから小さな自動拳銃を取り出すと、頭にあてた。
わたしは、叫び声をあげると、思わず体をすくめて、轟音ごうおん のとどろくのを待った。
しかし、銃声はしなかった――撃鉄が、いたずらに、かちっと鳴っただけだった。
「だめですよ、クラークさん」と、ポワロがいった。「気がついておいでだったかと思いますが、きょう、わたしは、新しい召使いを雇ったのです――わたしの友人で――腕ききのこそどろをね。かれが、あなたのポケットからピストルを取り出して、弾丸を抜き取ってから、あなたがそれと気づかないうちに、元へもどしておいたのですよ」「この言語道断な、生意気な、ちびの外国人め!」と、怒りのためにまっ赤になって、クラークは叫んだ。
「そう、そう、それが、あなたの胸にあることなんですね。いや、クラークさん、あなたは、そんな楽な死に方はできない人ですよ。あなたはカスト氏に、あやうく溺死できし しそうになった話をしましたね。あれはどういうことかおわかりでしょう――つまりね、あなたがもう一つの運命に生まれ変わったということですよ」「貴様――」それだけしかいえなかった。顔は、土気色だった。威嚇いかく するように、拳固げんこ を握りしめていた。
スコットランド·ヤードの刑事が二人、隣りの部屋からあらわれた。そのうちの一人は、クロームだった。かれは、進み出て、昔ながらのきまり文句をいった。「あなたのいうことは、すべて証拠とされることを、ここに警告します」「いいたいだけのことは、この人は、もう十分にいいましたよ」といってから、ポワロは、クラークに向かってつけ足していった。「あなたは、非常に島国的優越感をお持ちのようだが、わたしにいわせれば、あなたの犯罪は、全然、イギリス的犯罪でもなければ――公明でもなく――スポーティングでもない――」