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沈黙の春 二年後、大だい興こう安あん嶺れい_三体_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3337
沈黙の春   二年後、大だい興こう安あん嶺れい
「倒れるぞ──」
 大きな警告の声とともに、パルテノン神殿の柱さながらの巨大なカラマツが地響きをたてて倒れ、葉文潔は大地が揺れるのを感じた。
 斧と短い鋸を持つと、葉文潔は巨木の上に乗り、枝を落としはじめた。こうしているといつも、自分が巨人の遺体を処理しているような気分になる。しかも、その巨人が自分の父親であるようにさえ思えてくる。二年前のあの惨劇の日の夜、死体安置所で父親の死に装束を整えたときの感覚がまざまざと甦る。巨大なカラマツの樹皮のひび割れは、まるで父親の遺体についていた無数の傷跡のようだった。
 内モンゴルの生産建設兵団に属する六師団、総計四十一団に属する十数万人が、果てしなくつづくこの広大な森と草原に散らばっていた。都市部を離れ、なじみのないこの土地に来たばかりのころ、兵団に配属された知識階級の若者たちの多くは、あるロマンティックな期待を抱いていた。すなわち、もしもソビエト社会帝国主義の戦車が集結して中国─モンゴル国境を越えてきたら、われわれはすばやく武装し、みずからの血肉をもって、共和国防衛の第一の壁となろうではないか、と。じっさいそれは、兵団を組織する目的のひとつになった、戦略的な可能性だった。
 だがいまや、彼らが渇望する戦争は、草原のはるか向こうに見える山のようなものだ。
前方にはっきり見えているのに、いつまでたっても目の前に現れない。その山に向かって走る馬たちは、最後には走り疲れて死んでしまう。彼らがこの地でやることといえば、開墾と放牧と伐採だけだった。
 かつて大串連で青春のエネルギーを燃やしていた若者たちは、ここに来て早々、内モンゴルの果てしない大地に比べたら、中国大陸最大の都市など羊の囲いのようなものだと思い知らされた。凍てつく寒さと、どこまでも広がる草原と森林の中では、青春のエネルギーを燃やすなど無意味だった。ほとばしる熱い血潮も、牛糞の山よりはるかに早く凍りついてしまう。いや、牛糞のほうがよっぽど利用価値があるだろう。だが、青春の暴走は彼らの宿命だったし、彼らはエネルギーを燃やす世代だった。だから彼らのエネルギーは、広大な樹林の山をチェーンソーで禿げ山に変え、トラクターとコンバインで広大な草原を耕して畑に変え、さらには砂漠へと変貌させた。
 文潔が目のあたりにしてきた伐採は、ただ狂気と呼ぶしかないものだった。高々とそびえる大興安嶺山脈のカラマツ、四季を通じて青々としているモンゴリマツ、すらりとした白樺、天高くそそり立つポプラ、シベリアモミ、ヤエガワカンバ、クスドイゲ、ハルニレ、ヤチダモ、ケショウヤナギ、そしてミズナラ。目に入るものはなんでも伐採した。何百台ものチェーンソーは鋼鉄のイナゴの群れさながらで、文潔の連隊が通り過ぎたところは、ただ一面の切り株だけが残された。
 切り倒され、枝を落とされたカラマツが、キャタピラ式のトラクターにひっぱられていく。文潔は木の幹の真新しい断面を軽く撫でた。この断面が大きな傷口のように思えて、いつも無意識に撫でてしまう。巨木のつらい痛みが伝わってくる気がした。ふいに、さほど遠くない場所で切り株の表面を軽く撫でている手が見えた。その手から伝わる魂の震えに、文潔の心も共鳴した。白い手だったが、男性のものであることはわかった。顔を上げると、切り株を撫でている白沐霖バイ?ムーリンの姿が見えた。ほっそりしたこの眼鏡の青年は、兵団の機関紙《大生産報》の記者で、連隊の取材におとといやってきたばかりだった。文潔は彼の書いた記事を読んだことがあった。そのすばらしい文体には、この粗野な環境に似合わない繊細さがあり、忘れがたい印象を残した。
「馬鋼マー?ガン、ちょっと来てくれ」白沐霖が近くにいる若者に呼びかけた。切り倒されたばかりのカラマツのようにたくましい体つきの若者だった。駆け寄ってきた彼に、白記者がたずねた。
「ねえ、この木の樹齢はわかるかい」
「数えればいいべ」馬鋼は切り株の年輪を指して言った。
「もう数えた。三百三十歳以上だよ。きみがこれを切り倒すのにどのくらいかかった」「十分もかかってねえよ。おれはこの連隊一のチェーンソー使いだからな。どの連隊に行っても、名誉の赤旗がついてくる」馬鋼はすっかり興奮しているようだった。白記者に注目されると、だれでもこうなる。《大生産報》の記事にちょっと顔が載るだけでも、しごく光栄なことなのだ。
「三百年以上、十何世代だろう。この芽が出たのは明みんの時代だね。悠久の時だ。どれだけの風雪に耐え、なにを見てきたのか。それをたった数分で切り倒してしまったわけだけど、きみはなにも感じないかい」
「あんた、おれになにを感じさせたいんだ」馬鋼には意味がわからなかった。「ただの木だべ。ここらにはいっぱいある。これより年寄りの木だっていっぱいあるべ」「邪魔したね。もう行っていいよ」白沐霖は首を振り、切り株に腰をかけ軽くため息をついた。
 馬鋼もまた首を振る。記者は彼のことを記事にする気がないようだ。それが彼をいたく失望させた。
「知識階級のやつらは、ほんとにわけわがんね」そうぼやきながら、馬鋼は近くの文潔を一瞥した。この言葉には、当然、文潔も含まれている。
 大木がひっぱられていく。地面の石ころと切り株が巨体の皮を剥ぎ、肉をえぐる。大木がひきずられたあとの地面には、落ち葉のぶあつい腐植層がひっかかれてできた、ひとすじの長い溝が残っていた。溝から染み出た水が、長年積もった落ち葉を濡らし、血のようにどす黒い赤に染まっている。
「葉さん、こっちに来て休んだら」白沐霖が大きな切り株の端を指さすと、文潔に向かって言った。文潔はたしかに疲れていた。工具を置き、白記者と背中合わせに座った。
 沈黙が続き、白沐霖がふと口を開いた。
「気持ちはわかるよ。そんな気持ちを抱いているのは、ここではぼくらふたりだけだから」
 文潔はなおも沈黙していたが、白沐霖はそれを予想していた。文潔は日ごろから無口で、他人とほとんど交わらなかった。ここへ来たばかりの人間には、口がきけないのかと勘違いされるくらいだった。
 白沐霖はひとり、話をつづけた。
「一年前、ぼくは前線基地をつくるためにここに来た。到着したのはちょうど昼どきだった。接待担当は魚をごちそうするって言ってくれたけれど、小さな樹皮小屋の中では水を入れた鍋を火にかけているだけで、魚なんてどこにも見当たらない。お湯が沸くと、調理担当が麺打ち棒を持って外に出て、小屋の前を流れている小川の岸に行くと、麺打ち棒でパンパンと何度か水面を叩いた。それから、大きな鮭を何匹か、素手で捕まえたんだ。なんて自然豊かなところだろうと思ったよ。だけど、いまのあの小川を見てごらんよ。魚なんか一匹も泳いでない。ただ濁った水が流れてるだけ。いま兵団全体でやっている開発は、生産なのか、それとも破壊なのか、じっさい、ぼくにはわからない」「どうしてそんなふうに思うの」文潔が小さな声でたずねた。文潔は賛成か反対か、自分の意見は述べなかったが、それでも、文潔が話せるということだけで、白沐霖はいたく感激した。
「いま、ある本を読んでるんだけど、とても内容が深いんだ。きみは英語ができるんだろ」文潔がうなずくのを見て、白沐霖は鞄から一冊の青い表紙の本をとると、まわりのようすをうかがいながら文潔にさしだした。
「六二年に出版された本で、西側では大きな反響を呼んでる」 文潔は一瞬だけうしろを向いて本を受けとった。題名はSilent Spring沈黙の春、著者名はレイチェル?カーソン。
「どこで手に入れたの」文潔は小声でたずねた。
「上級部門はこの本をとても重視していて、内部的な参考資料にしたいと思っている。ぼくは森林に関する部分の翻訳を担当することになったんだ」 ページをめくるうち、文潔はたちまち引き込まれた。短い序章の中で、著者は殺虫剤の毒によって死にゆく沈黙の村を描いている。ごく平凡な表現の背後に、深い憂慮がありありと感じられる。
「ぼくは中央政府に手紙を書くつもりだ。建設兵団のこの無責任な行動について再考を訴えたい」
 文潔は本を読むのをやめて顔を上げた。しばらくして、やっと彼の言う意味がわかったが、なにも言わずまた本を読みはじめた。
「読みたいなら持っていっていい。ただし、ほかの人に見られちゃいけない。わかってるよね」白沐霖はまた周囲のようすをうかがいながらそう言って、立ち去った。
 四十数年後、文潔は人生最期のとき、『沈黙の春』が自分の人生に与えた影響を振り返ることになる。この本に出会う前から、若い文潔の心には、一生治ることのない大きく深い傷が、人類の悪によって刻まれていた。しかし、この本に出会ってはじめて、文潔は人類の悪に対して理性的に考えるようになる。
『沈黙の春』は一般読者向けのノンフィクションだ。それほど大きなテーマを扱っているわけでもなく、殺虫剤が自然環境に及ぼす悪影響をシンプルに描写したにすぎない。しかし作者の持つ視点は、文潔に大きなショックを与えた。レイチェル?カーソンが描く人類の行為──殺虫剤の使用は、文潔からすればしごくノーマルで正当なもの、少なくとも善悪どちらでもない、中立的なものだった。しかし、大自然という観点に立てば、その行為の邪悪さは文化大革命となんら変わりがなく、同じように大きな害をこの世界に与えている。『沈黙の春』は、その事実を文潔にはっきりと示した。
 ならば、自分がノーマルだと思っている行為や、正義だと思っている仕組みの中にも、邪悪なものが存在するのだろうか さらなる熟慮の末に至ったひとつの推論は、ぞっとするような深い恐怖の底に彼女を突き落とした。もしかすると、人類と悪との関係は、大海原とその上に浮かぶ氷山の関係かもしれない。海も氷山も、同じ物質でできている。氷山が海とべつのものに見えるのは、違うかたちをしているからにすぎない。じっさいには、氷山は広大な海の一部なのではないか……。
 文潔は、多数派が正しく、偉大であるとする文革の邪悪さに気づいていたが、文潔がノーマルで正当だと考えていた殺虫剤の使用も実は悪だということに、レイチェル?カーソンによって気づかされた。つまり、人類のすべての行為は悪であり、悪こそが人類の本質であって、悪だと気づく部分が人によって違うだけなのではないか。人類がみずから道徳に目覚めることなどありえない。自分で自分の髪の毛をひっぱって地面から浮かぶことができないのと同じことだ。もし人類が道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借りる必要がある。この考えは、文潔の一生を決定づけるものとなる。
 四日後、文潔は本を返しにいった。白沐霖は連隊で唯一のゲストルームに宿泊していた。ドアを開けると、疲れきってベッドに倒れている、泥と木くずだらけの白沐霖が見えた。文潔に気づいて、白沐霖はすぐに起き上がった。
「きょうは労働に参加したの」文潔がたずねた。
「連隊に来てからもうずいぶんになる。いつまでもなんにもせずにぶらぶらしているわけにもいかないからね。労働には参加しないと。それが三結合 革命的大衆、革命的幹部、人民解放軍代表の三者が協力して革命を遂行すること だろ。そう、きょうはレーダー峰で働いたよ。あそこの森は木が密生してて、朽ちた落ち葉の地面は膝まで沈むし、瘴気にやられて病気になりそうだった」「レーダー峰」文潔はその名前を聞いて驚いた。
「そう。連隊の緊急任務なんだ。頂上の周囲全体を伐採して、警戒ゾーンをつくる必要があった」
 レーダー峰は謎に包まれた場所だった。もともと、その険しい峰に名はなかったが、頂上に巨大なパラボラアンテナが建設されたことからそう呼ばれるようになった。とはいえ、多少なりとも知識のある人ならだれでも、それがレーダーアンテナではないことを知っていた。アンテナの向きは毎日変わったが、いまだに連続的に回転したことはない。
アンテナは風に吹かれると低く沈んだウォンウォンという音を発し、その音ははるか遠くでも聞こえた。
 連隊の人間は、そこが軍事基地だということしか知らなかった。地元の人の話では、三年前に建設工事が行われ、膨大な人数が動員されたという。峰の頂上まで一本の高圧線が引かれ、山を切り開いてそこまでの道路を通し、大量の物資をこの公道を通じて運び上げたのだそうだ。だが、基地が完成すると、その公道は破壊され、人ひとりやっと通れるかどうかの山道を残しただけで、通常はヘリコプターで頂上まで移動している。
 アンテナも、つねに見えるわけではなく、風が強いときは建物内部に格納される。
 しかし、アンテナが展開されているときには、不思議なことがよく起きた。たとえば、森に棲む動物が情緒不安定になったり、大群の鳥が驚いて飛び立ったり、人間もめまいや気分が悪くなったりと、原因不明の現象が起こる。また、レーダー峰の近くに住んでいる人々は、髪の毛が抜けやすい。地元の人の話では、こういうことはすべて、アンテナが建設されてからはじまったという。
 レーダー峰にまつわる奇妙な話はたくさんある。ある大雪の日、アンテナが展開された。すると、半径数キロメートルの範囲内で、雪がたちまち雨に変わってしまったという。しかし、地上は氷点下の寒さだったから、雨水は木の上で凍りついてしまった。自然と、どの木からも大きな氷柱つららが下がり、森は水晶の宮殿のような景色になったらしい。氷柱の重みで枝がバキバキ折れる音と、氷柱が落下するガラガラという音が途切れることなくつづいたそうだ。またあるときは、アンテナが展開すると、青空に稲妻が閃き、夜空に怪光が現れたとか……。
 レーダー峰は警備がたいへん厳しく、建設兵団の連隊が駐留するにあたって、連隊長はまず最初に、レーダー峰にはみだりに近寄るなと全員に厳命し、もし近づいた場合には、基地の哨兵が警告なしに撃つと警告した。
 先週、連隊の隊員二名が狩りで鹿を追っていて、知らぬ間にレーダー峰に迷い込んでしまったことがあった。するとすぐに、山の中腹の哨舎から、銃弾が次々に浴びせられた。
さいわい木々が密集していたおかげで、ふたりとも無事に逃げ帰ることができた──ただ、恐怖のあまり、ひとりは失禁してしまっていたが。翌日、連隊内で会議が開かれ、ふたりとも警告処分をくらった。この事案が原因で、基地周囲の森林を伐採し、円形の警戒ゾーンを設けることが決まったのだろう。建設兵団からこんなふうにあっさりと労働力が動員されたところをみると、基地の政治的な力がいかに強いかがわかる。
 白沐霖は本を受けとると、注意深く枕の下にしまった。同時に、細かい字で書かれた数枚の原稿を枕の下からとりだし、文潔に手渡した。
「例の手紙の下書きだ。見てくれない」
「手紙って」
「こないだ話した、中央政府への手紙だよ」
 紙に書かれた字は殴り書きで、文潔は苦労して読み進んだ。しかし、内容は説得力があり、議論も多岐にわたっていた。太行山脈の植生の破壊により、はるかむかしからずっと緑豊かだった山が、今日の荒れ果てた禿げ山に変わってしまったという指摘にはじまり、現代の黄河の砂泥含有量が急激に増加している事実が記され、それは内モンゴル建設兵団の大開墾が招いた重大な結果であると結論づけていた。文体は『沈黙の春』によく似ている。シンプルかつ正確でありながら、詩心に富み、理系の文潔が読んでも、とても心地よく感じられた。
「うまく書けてる」文潔は心から言った。
 白沐霖はうなずいた。「じゃあ、これで出すことにするよ」 そう言うと、白沐霖は新しい紙をとって清書しはじめた。だが、手が震えて一字も書けない。はじめてチェーンソーを扱った人間はみんなこうだ。手が震えて、茶碗すら持てなくなる。字を書くなど問題外だった。
「かわりに書いてあげる」文潔はそう言うと、白沐霖からペンを受けとって手紙を写しはじめた。
「きれいな字だね」白沐霖は清書された一行目を見て言った。そして、文潔のためにコップに水を注いだが、まだ手の震えが止まらず、水をだいぶこぼしてしまった。文潔はあわてて紙をずらした。
「専攻は物理学だったんだよね」白沐霖がたずねた。
「天体物理。でも、そんなもの、いまはなんの役にも立たない」文潔は顔も上げずに答えた。
「恒星の研究だろう。役に立たないわけないのに。大学は授業を再開したけど、大学院はもう学生の募集はしないんだってさ。きみのような優秀な人材が、こんな地方で埋もれているなんて」
 文潔はなにも答えず、黙々と清書しつづけた。白沐霖になにも話したくなかった。自分が建設兵団に入れたのは、かなりの幸運だったのだ。現実に対してなにも言いたくなかったし、言うべきこともなかった。
 部屋は静まりかえり、聞こえるのはただ、ペン先が紙を擦こする音だけだった。文潔は、記者の体についている松の木のおがくずの匂いを嗅いだ。父親の壮絶な死のあと、はじめて味わう温かな感覚だった。身も心もはじめてリラックスし、つかのま、まわりの環境に対する警戒をゆるめた。
 一時間以上かかって、手紙の清書が終わった。白沐霖の言う住所と受取人を封筒に書き終えると、文潔は立ち上がってドアまで行ったが、そこでふりかえった。
「コートを持ってきて。洗ってあげる」そう言ってから、文潔は自分の言動に自分でも驚いた。
「だめだよ。それはいけない」白沐霖は手を振って言った。「きみたち建設兵団の女性戦士は、昼間は男性の同志と同じ仕事をしているんだから、早く帰って休んだほうがいい。
あすの朝六時には山に登らないといけないだろう。葉さん、ぼくはあさって師団部に帰る。きみの状況は上級部門に伝えておくよ。なにか力になれるかもしれないからね」「ありがとう。だけどわたしはここでいいの。とっても静かだし」月光に照らされてぼんやり浮かぶ、大興安嶺の樹海を見ながら文潔は言った。
「なにかから逃げてるのかい」
「それじゃ、行くわね」と言って、文潔は帰っていった。
 白沐霖は、月光の下、文潔のほっそりとした姿がしだいに小さくなるのを見送った。頭を上げ、さっき文潔が見ていた樹海を眺め、遠くのレーダー峰に目をやった。巨大なアンテナがまたゆっくりと展開し、金属の冷ややかな光を輝かせていた。
 三週間後の午後、文潔は伐採現場から連隊本部へと緊急呼び出しを受けた。事務所に入るとすぐ、文潔は不穏な空気を感じた。連隊長や指導員のほかに、もうひとり、冷たい表情をした見知らぬ男がいた。男の前のデスクには黒いアタッシェケースが置いてあり、その横には、明らかにそのケースからとりだしたとおぼしき封筒と本があった。封筒は開封されている。本は、文潔が読んだ『沈黙の春』だった。
 この時代の人間ならだれでも、みずからの政治的立場に関して、ある種の特殊な感覚を持っている。文潔はその感覚がことのほか強く、一瞬にして、まわりの世界がポケットほどのサイズに縮んだように感じた。すべてが彼女を押しつぶそうとしている。
「葉文潔、こちらは師団政治部から調査に来られた張ジャン主任だ」指導員が、見知らぬ男を指して言った。「きみには協力的に真実を話してもらいたい」「この手紙はきみが書いたのか」張主任がそうたずねながら、封筒から手紙をとりだした。文潔は手を伸ばして受けとろうとしたが、張主任は渡さず、自分の手で一枚ずつめくってみせた。とうとう気になっていた最後の一枚まで来たが、そこに署名はなく、ただ「革命群衆」の四文字のみが書かれていた。
「違います。わたしが書いたものではありません」文潔は身を震わせて首を振った。
「しかしこれは、きみの筆跡だね」
「はい。ですがわたしは、ある人を手伝って清書しただけです」「だれを手伝ったんだ」
 ふだんは連隊でなにかが起こっても、文潔はほとんど自分のために主張することはなく、すべてを黙って飲み込んだ。すべての苦しみを黙って背負い、他人を巻き込むことなどありえなかった。しかし、今回はわけが違う。文潔は、これがなにを意味するかはっきりわかっていた。
「先週、連隊に取材に来た《大生産報》の記者を手伝って写しました。彼の名は……」「葉文潔」張主任はふたつの目を、真っ黒な銃口のように彼女に向けた。「警告しておく。人を陥れると、きみの問題はもっと重大なものになるぞ。われわれはすでに白沐霖同志を調査した。彼はただ、きみに頼まれて、フフホトまで手紙を持っていって投函しただけで、内容はまったく関知していない」
「彼が……白沐霖がそう言ったのですか」文潔の目の前が真っ暗になった。
 張主任はなにも答えず、本を手にとると、
「きみがこの手紙を書いたのは、これに啓発されたからだろう」と言いながら、連隊長と指導員に本を見せた。「この本は、『沈黙の春』という。一九六二年にアメリカで出版され、資本主義社会に大きな影響を与えている」つづいて、アタッシェケースからべつの本をとりだした。革張りの白い表紙に黒い字が書かれている。
「これは、この本の中国語版だ。関連の部署が内部参考資料として出したものだ。批判のために使っている。現在、上級部門はこの本に対し、明確な判断を下している。これは有害な反動的プロパガンダだ。この本は史的観念論から出発し、終末論を宣伝している。環境問題の名を借りて、資本主義社会最後の腐敗没落を正当化しようとしている。その本質は、激しい反動だ」
「ですがその本も……わたしのものではありません」文潔は力なく言った。
「白沐霖同志は上級部門がこの本の翻訳にあたって指名した翻訳者のひとりだ。彼がこの本を所持するのはまったくもって適法だ。もちろん彼には保管義務がある。労働の最中、きみに盗まれて読まれるなど、あってはならないことだった。きみはこの本から、社会主義を攻撃する思想的武器を手に入れたんだな」
 文潔は黙った。自分が罠にはめられたことに、すでに気づいていた。どんな抵抗も無駄だ。
 後世の人々が熟知している歴史上の記述とは違って、白沐霖にははじめ、文潔を陥れる気など毛頭なかった。彼が中央政府に送った例の手紙も、純粋に責任感から書かれたものだったのだろう。当時、さまざまな目的で中央政府へ投書する者は大勢いた。大部分の手紙は大海に沈む石のように消えていったが、少数の人々はひと晩で立身出世し、ある者は身を滅ぼす災難に見舞われた。当時の中国の政治的神経系は、極度に錯綜した、複雑なものだった。記者としての白沐霖は、この神経系の働きや敏感な部位を理解しているつもりだったが、彼は自分の判断力を過信していた。彼の手紙は、未知の地雷を踏んでしまったのである。知らせを受けてから、白沐霖は恐怖に押しつぶされ、文潔を犠牲にして自分を守ろうと決断したのだった。
 それから半世紀を経て、歴史学者たちの意見が一致しているのは、一九六九年に起きたこの事件が、それ以降の人類の歴史におけるターニングポイントだったということである。
 白沐霖は、はからずも歴史を動かすキーパーソンとなった。しかし、彼自身にそのことを知る機会はなかった。彼の平凡な残りの人生について、歴史学者は失望を込めてこう記している。白沐霖は《大生産報》で一九七五年まで働いたが、その年、内モンゴル建設兵団は解散し、彼は東北地方の都市で一九八〇年代はじめまで研究に従事することとなった。その後、カナダに出国し、ァ】ワの中国語学校で教師を務め、一九九一年に肺がんを患って世を去った。白沐霖は、その余生で、文潔のことはだれにも語らなかった。自責と後悔の念があったかどうかさえ、いまや知る由もない。
「葉さんよ。連隊はいままできみに、ずいぶんよくしてきたよな」連隊長は莫合マホルカ煙草のいがらっぽい煙を吐き出しながら、地面を見て言った。
「きみは、出身も家庭背景も、政治的に問題がある。だがわれわれは、きみを受け入れてきた。きみが仲間と交わろうとせず、積極的に進歩を追求しようともしないことについて、わたしと王指導員は何度もきみと話し合い、注意したじゃないか。なのにこんな重大なまちがいを犯すとは」
「わたしにはもっと前からわかっていましたよ。文化大革命に対する彼女の抵抗ぶりは、なみたいていのものではなかったから」指導員がつづけて言った。
「きょうの午後、だれか二名つけて、これらの罪の証拠といっしょに彼女を師団本部まで護送するように」張主任は部下に向かって無表情に言った。
 同房の三名の女囚が次々に連れていかれ、拘置所には文潔ひとりが残された。部屋の隅に置かれた炭の小山はすでになくなっていたが、だれも足しに来てくれなかった。ストーブの火はいまにも燃えつきそうになっている。拘置所は冷え込んで、文潔はやむなく布団を体に巻きつけた。
 空が暗くなる前に、ふたり組がやって来た。ひとりはやや年配の女性幹部で、随行者の紹介によれば、中級裁判所軍管会の軍代表だということだった。
「程麗華チョン?リーファです」女性幹部は名を告げた。年齢は見たところ四十代、ミリタリー?コートを着て、リムの太い眼鏡をかけ、ふっくらした柔らかな顔つきだった。若いころはさぞ美人だっただろう。話すときは微笑を浮かべ、どことなく親しみが持てる雰囲気がある。こんな上級の人間が拘置所に来て、審判を待つ人間にわざわざ面会するなど、ふつうではない。文潔にも、それはわかっていた。文潔は程麗華に向かって用心深くうなずき、立ち上がって、せまいベッドに程幹部が座れる場所をつくった。
「こんなに寒くて、ストーブは」程麗華は入口に立つ拘置所の所長に不満げに目をやったが、ふたたび文潔のほうを向くと、
「うん、若い。想像以上に若いわね」と言いながら、ベッドの文潔のすぐ近くに座った。
アタッシェケースの中を探しながら、まるで年寄りのひとりごとのように、「葉さん、あなた莫迦ね。勉強しすぎると莫迦になるのよ。みんなそう」探していたものが見つかり、程麗華はそれを胸の前に抱えて文潔を見た。瞳には慈愛が満ちあふれている。
「だけど、若いからね。だれだってまちがいは犯すものよ。わたしだってまちがえたことがある。そのとき、わたしは第四野戦軍の文工団に所属していた。ソビエト連邦の歌を歌うのがうまかったのよ。政治学習会の席で、こう言ってしまったの。われわれはソビエト連邦に編入して社会主義連盟の新しい共和国になるべきだ、そうすれば国際的に共産主義の力はもっと強大になるはずだ、って。幼稚でしょう。だけど、だれしも幼稚だったときがある。済んだことは済んだこと。もしまちがったときは、まちがいだったと認識して、訂正することが重要。そうすれば、革命を継続することができる」 程麗華のこの話は、文潔との距離を近づけた。だが文潔は、災難にあった経験から用心深さを身につけている。この贅沢な善意を不用意に受け入れるわけにはいかなかった。
 程麗華はそのぶあつい書類を文潔の前のベッドの上に置いて、ペンを渡そうとした。
「先にここにサインして。それからもっとよく話しましょう。あなたの思想のもつれを解きほぐさないとね」程麗華は乳飲み子をあやすような口調で言った。
 文潔は黙ってその書類を見ただけで、すこしも動かず、ペンも受けとらなかった。
 程麗華は寛容に笑った。
「わたしを信じていいのよ。全人格をもって保証する。この文書はあなたの件とは関係ない。さあ、サインして」
 そばに立っていた随行員が言う。
「葉文潔、程代表はおまえを助けたいとお考えだ。この数日間、ずっとおまえのことで心を配られていたんだぞ」
 程麗華は手を振って随行員を黙らせた。
「気持ちはわかる。驚かせちゃったわね。いまの一部の人間は、やりかたが乱暴だし、ほんとうにレベルが低くて。建設兵団やこういう裁判所の人間は、言葉遣いも態度も、粗野で無骨で、どうしようもない。いいわ、葉さん。書類をくわしく見てちょうだい」 文潔は拘置所の薄暗い黄色の電灯のもとへ書類を持っていって読んでみた。程代表は文潔を騙してなどいなかった。この書類は、たしかに文潔の件とは関係なく、文潔の亡くなった父親に関するものだった。書類には、父親の交友関係の一部と会話の内容が記載されていた。文書の提供者は、文潔の妹の葉文雪イエ?ウェンシュエだ。もっともラディカルな紅衛兵として、文雪は積極的にみずから父親の罪を暴いた。大量の告発文を書いたこともある。そのうちのひとつが、父親の悲惨な死の、直接的なひきがねを引くことになった。だが文潔は、この文書が妹の書いたものではないとひと目で気づいた。文雪の父親に対する告発文は、文章がもっと激烈で、一行一行が、長く吊り下げた破裂寸前の爆竹のようだった。しかし、こちらの書類は記述が冷静で、経験の深さが感じとれる。内容も詳細かつ正確で、だれが何年何月何日にどこでだれと会ってなにを話したかが記されている。
ふつうの人が見れば退屈な仕訳帳のようなものだが、そこには隠された殺意がある。文雪のような未熟な人間が書いたものとは明らかに段違いだ。
 この書類になにを示唆する意図があるのか、文潔にもはっきりとは理解できなかったが、国防と深い関係があることはうっすら感じられた。物理学者の娘として、文潔はこの文書が、一九六四年と一九六七年の世界を震撼させた中国の〝二発の爆弾?プロジェクト 二度の核実験を指す に関するものだろうと見当がついた。
 文化大革命のこの時期、高い地位にある者を失脚させるには、その人物が監督するさまざまな分野で無能だという証拠を集める必要があった。しかし、そういう陰謀をめぐらせている人間にとっても、二発の爆弾プロジェクトは非常に手ごわい相手だった。このプロジェクトは、中央政府高官の重点保護のもと、文革による混乱から守られると同時に、悪意をもって穿せん鑿さくしようとする人間にとっても、内情を知ることが困難だった。
 文潔の父は、家族の背景に問題があるという理由で政治審査をパスしなかったため、二発の爆弾プロジェクトの研究に直接には関われず、周辺分野の理論研究に従事していたにすぎない。しかしその分、プロジェクトの中心メンバーよりもたやすく近づけたのだろう。書類のその内容が真実なのかどうか、文潔にはわからなかったが、書類の中の句読点ひとつでさえ、命に関わる政治的打撃を与えうることはたしかだった。攻撃の最終目標以外にも、この書類によって悲惨な転落を遂げる人間は複数いるだろう。書類の最後には、大きな字で妹の署名があった。ほかにも三人の証人が署名している。文潔自身も証人として署名することを求められているらしい。
「ここに記されている会話がなされたかどうか、わたしはまったく知りません」文潔は書類をもとの場所に戻すと低い声で言った。
「知らないなんてありえない。会話の大部分は、あなたの家で交わされたものよ。妹さんは知っていたのに、あなたは知らないと」
「ほんとうに知らないんです」
「だけどこの話の内容は真実なのよ、組織を信じなさい」「正しくないと言っているわけではありません。ほんとうに知らないだけなんです。ですから署名できません」
「葉文潔」随行員が一歩前に出たが、ふたたび程代表に制止された。程麗華は文潔を見やり、もっと近くににじり寄ると、文潔の凍えた手をとって言った。
「葉さん。ほんとうのことを言うとね、あなた自身の案件は柔軟に対処することができる性質のものなのよ。もしことを大きくしたくないなら、知識青年が反動本に騙されたってことにすれば、とくにたいした問題じゃない。司法の手続きは必要ないわ。学習班で一度だけ自己反省文を書けば、あなたは兵団に戻される。だけど、ことを大きくするならね。
葉さん、あなたもよくわかってるでしょ。反革命と判断することも可能なのよ。いまの司法システムだと、あなたのケースのような政治案件は、左派はいいとしても右派はまずいの。左派は手段の問題、右派は路線の問題。最終的な方針は軍管理委員会が決めることになる。もちろんこれは内緒だけれど」
 随行員が口をはさみ、
「程代表はほんとうにおまえのためを思って言ってるんだぞ。おまえだって、あと三人の証人が署名しているのはわかるよな。おまえが署名するかどうかなんて、どれほどの意味があると思ってるんだ おい、葉文潔、とぼけるなよ」「そうよ、葉さん。こんなに頭のいいあなたが、こうやってつぶされていくのを見るのはほんとうに心が痛む。わたしは心からあなたを救いたいの。わたしを見て。あなたに害を与えるような人間だと思う」
 文潔は程代表を見なかった。そのかわり、文潔の目に浮かんだのは、父親の血だった。
「程代表、わたしはこの書類に書かれていることを知りません。ですから、署名はできません」
 程麗華は沈黙した。そして文潔をじっと見つめつづけた。空気が凍りついた。程麗華は、やがてゆっくりと書類を鞄にしまい、立ち上がった。慈愛に満ちた表情はまだ顔に張りついているが、凝固した石膏のマスクのようだった。そして、慈愛の表情のまま部屋の隅に行って、そこに置いてあった洗面用のバケツを持ち上げると、入っていた水の半分を文潔に浴びせ、残りの半分を布団の上にぶちまけた。平然と落ち着き払ってそれだけのことを済ませると、程麗華はバケツを床に投げつけ、ドアから出ていった。ついでに「頑固な小娘め」という捨て台詞も投げつけながら。
 最後に残った看守長は、全身ずぶ濡れの文潔を一瞥してから、ドアを勢いよく閉めて鍵をかけた。
 内モンゴルの冬は厳しい。ずぶ濡れの衣服を寒さが突き刺した。まるで巨大な手に握りしめられているようだった。自分の歯がガチガチ音を立てているのが聞こえる。しばらくすると、その音すら消えてしまう。骨の髄まで染み渡る寒さが、現実の世界を乳白色に変えた。この宇宙すべてが大きな氷の塊のように感じられた。自分は氷の中の唯一の生命体だ。この凍え死にそうな娘にはマッチすらなく、あるのは幻覚だけだ。文潔を閉じこめている氷の塊がじょじょに透明に変わっていく。目の前に現れたのはある建物だった。建物の上では、少女がひとり、大きな旗を振っている。彼女の細さと旗の大きさは、鮮明なコントラストを見せていた。それは文潔の妹、文雪だった。反動的学術権威の家族とみずからたもとを分かち、文潔もその消息を聞いたことがない。つい最近になって、妹が二年前の武力闘争で非業の死を遂げたことを聞いた。朦朧とする中、旗を振る人物が白沐霖に変わっていた。彼の眼鏡は建物の下で燃え盛る炎を反射している。次にその人物は程代表に変わり、次には母親の紹琳、阮雯、父親へと変わっていった。旗手は次々と交替するが、旗は休むことなく振られている。まるで永遠の時計が、文潔の残り少ない生命をカウントダウンしているようだった。旗が少しずつぼやけ、やがてはすべてがぼんやりとしてきた。宇宙に満ちた氷の塊が、まだ彼女をその中心部に捕えている。ただ、今度の氷の塊は真っ黒だった。
原注 中級裁判所軍管会の軍代表だということだった 文革のこの期間、中?高級の公安、検察及び裁判所機構は大部分が軍の管轄下にあり、司法においても軍代表が最終決定権を有していた。
 

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11/24 12:55