16 三体問題
汪淼ワン?ミャオがゲームからログアウトすると同時に、電話が鳴った。史強シー?チアンからだった。緊急の用件があるのですぐに公安分局に来いという。時計を見ると、すでに午前三時をまわっていた。
公安分局の散らかったァ≌ィスに足を踏み入れると、史強の煙草の煙が靄のようにたちこめていた。ァ≌ィスにいる若い女性警官は、煙を寄せつけまいと、メモ帳で顔をあおぎつづけている。史強がその女性警官を紹介した。コンピュータの専門家で、名前は徐冰冰シュー?ビンビン じょ?ひょうひょう 。情報保安課に所属しているという。
ァ≌ィスには第三の人物がいたが、汪淼はその顔を見てぎょっとした。驚いたことにそれは、申玉菲シェン?ユーフェイの夫、魏成ウェイ?チョンだった。髪がひどく乱れている。魏成は顔を上げて汪淼を見たものの、前に会ったことなどすっかり忘れているようだった。
「夜中に急に呼び出して悪かった」と史強が言った。汪淼の顔を見ながら、「しかしまあ、寝ているところを叩き起こしたわけじゃなかったみたいだな。折り入って相談したいことがある。作戦司令センターにはまだ報告してない。たぶん、この件では、先生に参謀になってもらったほうがいいと思ってな」と言って、魏成のほうを向き、「じゃあ、いまの話をもう一回頼む」
「ぼくの命が危険にさらされている」そう言ったものの、魏成の顔にはなんの表情もない。
「最初から話してくれ」
「わかった。そうしよう。そのかわり、話が長いと文句を言わないでくれよ。じつのところ、しばらく前からずっと、だれかに話したいと思ってたんだが……」と言いながら、魏成は徐冰冰をふりかえって、
「メモとか、記録は残さなくていいのかい」
「いまはいい」史強がそくざに答えた。「前はだれも、話す相手がいなかったと」「そういうわけでもないんだが。話すのがおっくうでね。ほんとうに面倒くさがりなもので」
ここから先は、魏成の話である。
ぼくはものぐさなんだ。小さいころからそうだった。学生時代、寮では茶碗さえ洗わなかったし、布団も万年床だった。なんに対しても興味がなくて、勉強も面倒だったし、遊びさえ面倒だった。毎日ぼんやりと、ぶらぶら過ごしていた。
ただ、ほかの人間にはない特殊な才能が自分にあることには気づいていた。たとえば、だれかが一本の線を引いて、ぼくがそれを分割する線をもう一本引くと、その位置は決まって、対?の黄金分割なんだ。同級生からは大工に向いてると言われてたけど、自分では、この才能はそれ以上のもの──数とかたちに対するある種の直感力じゃないかと思っていた。でも、数学の成績は、ほかの教科と同じように悲惨だった。というのも、定理を使って結論を出すっていう作業が面倒で、試験のときはあてずっぽうの答えをそのまま書いていたからね。八割から九割は正解できたけど、それでもせいぜい平均点くらいだった。
だけど、高校二年のとき、ある数学教師がぼくに関心を持った。当時の高校教師には隠れた才能の持ち主がほんとうに多かったよ。文革のせいで、才能ある人間が高校におおぜい流れてきて、教壇に立っていた。その先生も、そういう人たちのうちのひとりだった。
ある日の放課後、ぼくだけが教室に残された。先生は黒板に十数個の数列を書いてから、ぼくに、それぞれの総和を出すように求めた。ぼくはそくざに、そのうちいくつかの計算式を書いた。残りは答えが発散するとひと目でわかった。
すると、先生は一冊の本をとりだした。シャーロック?ホームズものの作品集だった。
その本のページをめくって──たしか『緋色の研究』だったと思う──その一節の内容を語った。それはだいたいこんな話だった。二階の窓からおもての通りを見下ろしたワトスンは、私服姿の配達人らしき人物が封筒を手にして歩いているのを見て、ホームズにもそれを見せようと、窓辺に呼び寄せる。「きみが指しているのは、あの英国海兵隊元軍曹のことかい」とホームズが言う。その指摘が正しかったことが判明したあと、ワトスンはホームズがどうやって配達人の経歴を知ったのか不思議に思ったが、ホームズ自身も、自分の推理の過程をちゃんと答えられなかった。自分が考えたことを整理して、その配達人の手や動きがどうこうと説明することができたのは、しばらくたってからだった。べつに不思議なことじゃない、とホームズは言った。たいていの人間だって、がだとなぜわかるのか説明しろと言われたら困るだろう、と。
それから先生は本を閉じ、こう言った。「きみの場合もこれと同じだ。答えを導き出すのがすごく早くて反射的だから、どうやってその答えにたどりついたのか説明できない」それから、先生はたずねた。「数字の列を見て、どんなふうに感じる 感触だよ」 ぼくはこう答えた。「どんな数字の組み合わせも、ぼくには三次元の立体に見えます。
どんなかたちか、言葉では説明できないけど、でも、ほんとにかたちとして見えるんです」
「じゃあ、幾何学的な図形を見たら」
「その反対です。頭の中では、幾何学図形じゃなくて、ぜんぶ数字になります。新聞の写真にすごく目を近づけると、すべてが小さな点に見えるのと似たような感じです」「きみには生まれもった数学の才能がある。でも、しかし……しかし……」先生はうろうろと歩きながら、何度も「しかし」とくりかえした。まるでぼくが、どうやって解けばいいかわからない難問だとでもいうみたいに。それから、先生はこう言った。「しかし、きみのような人間は、その才能を大切にしていない」先生はそのあともしばらく考え込んでいたが、やがてはあきらめたように言った。「来月の数学コンテストの地区大会に出なさい。指導なんかしないよ。そんなことをしても時間の無駄だからね。ひとつだけ言っておく。答えを書くときにはかならず、結論を導き出すまでの過程を書きなさい」 そんなわけで、ぼくは大会に出ることになった。地区予選から勝ち上がって、ブダペストで開かれた数学ァ£ンピックまで、ずっと一位をとりつづけた。優勝して帰国したら、入学試験を免除されて一流大学の数学科に入ることになった……。
こんな話、退屈じゃないか ああ、そう。だったらいいんだけど。このあとの話をちゃんと理解してもらうためには、話しておく必要があったんだ。その高校教師が言ったことはまったく正しかったよ。ぼくは自分の才能を大切にしなかった。学部、修士課程、博士課程──どの段階でもたいして努力しなかったけど、それでも進学できた。
でも、大学院を終えて、実社会に出てはじめて、自分は正真正銘のダメ人間だと思い知らされた。数学以外、なにも知らないんだからね。人間関係の複雑さに直面すると、ぼくは半分眠っているようなものだった。社会人としての年月を重ねれば重ねるほど、ぼくのキャリアは転落していった。最後は大学講師になったけど、やっぱりそれも勤まらなかった。学生に教えるということを真剣に考えられなかった。黒板にひとこと、「証明は簡単」とだけ書いて放っておいたりね。学生はそのあと長いあいだ問題と格闘して苦労した。その後、大学側が評判の悪い教員を解雇しはじめたとき、ぼくは真っ先にクビになった。
そのころにはもう、なにもかもに嫌気がさしていたから、荷物をまとめて南方の山寺に行ったんだ。
いや、出家したわけじゃない。出家するのも面倒だったからね。ただたんに、すごく静かなところにしばらく滞在したいと思っただけだ。その寺の住職は父の古い友人だった。
深い学問的知識を持つ人物で、晩年になって仏門に入っていた。父の言葉によれば、彼ほどの境地に達すれば、もはやほかに道がないんだと言う。住職はぼくを弟子としてとってくれた。ぼくは住職に言った。「残りの人生をやりすごすための、穏やかで安楽な道を見つけたいんです」すると、住職いわく、「ここは穏やかに人生を過ごせるような場所ではない。観光地だし、巡礼の参拝客も多い。ほんとうに心穏やかな者は、都会の喧騒にも平穏を見出せる。その境地に達するためには、心を空くうにする必要がある」それでぼくはこう言った。「ぼくの心はもうじゅうぶん空になっています。名声も富も、ぼくにとってなんの意味もないものでした。この寺のお坊さんたちにも、ぼくよりもっと煩悩を持っている人が多いでしょう」すると住職は首を振り、「空は無ではない。空は存在の一種だ。
そなたは、空をもってみずからを満たす必要がある」 この言葉は、ぼくにとって啓示に満ちていた。あとで考えてみると、これは仏教の理念ではぜんぜんないね。どちらかというと、現代のある種の物理学理論に近い。住職も、ぼくに仏教の話をするつもりはないと言っていた。理由はあの高校教師と同じだ。ぼくみたいな人間は、指導しても無駄だからって。
そこで過ごした最初の夜、寺のせまい庫く裏りで、ぼくはずっと眠れなかった。浮き世からの避難所がこんなに居心地が悪いなんて思ってもみなかった。山中の霧で布団は湿ってるし、床はコチコチに硬かった。それで、なんとか眠りにつくため、法主が言ったように〝空?で自分を満たそうとしてみた。
ぼくが心の中で創造した第一の〝空?は、無限の宇宙だった。その中にはなにもない、光さえない、ほんとうにからっぽなんだ。すぐに、なにひとつないこの宇宙は、自分を安らかにしてくれるものではなく、溺れる者が必死になにかにすがろうとするように、かえって言葉にならない不安で心を満たしてしまうものだと気がついた。
それで、この無限の空間にひとつの球──大きくこそないが、質量を持つ球体──を創造した。でもやはり、精神状態は向上しない。この球体は〝空?のど真ん中にあり無限の空間では、どの位置にあってもど真ん中だ、その宇宙ではどんなものも、それに影響を与えることができない。この球も、他のものに対しては、どんな影響も与えられない。それはただそこに浮かんでいるだけで、ほんのかすかに動くことも、ほんのかすかに変化することも永遠にない。まるで、死という概念を完璧に体現したもののようだった。
それでぼくは、さらにもうひとつ球を創造した。もともとの球と同じ大きさと質量のものをね。球の表面は、どちらも全反射鏡になっていて、たがいに相手の像を映し出している。つまり、宇宙で唯一の、自分以外の存在を映しているんだ。でも、状況はちっともよくならなかった。もし球に初期運動が与えられていなかったら──つまり、ぼくが最初にひと押ししてやらなかったら──ふたつの球はたちまちそれぞれの重力で引き合ってくっついてしまう。そのあとは、ふたつの球はくっつきあったまますこしも動かず、やっぱり死のシンボルになる。もしそれぞれに初期運動が与えられていて、両者が衝突しないとしたら、たがいの重力の影響下で、たがいに相手のまわりを回ることになる。初期状態がどんなものでも、回転は最終的に安定し、変化しなくなる。永遠に同じ軌跡を描いてくるくるとまわりつづける死の舞踏だ。
そこでぼくは、第三の球を導入した。すると、状況は驚くほど劇的に変わった。さっきも言ったように、どんな図形も、ぼくの心の奥底では数字になる。球のない状態、球がひとつの状態、球がふたつの状態では、宇宙は、たったひとつ、もしくはほんのいくつかの方程式で表すことができた。二、三枚の枯葉で晩秋を表すようにね。
ところが、第三の球は、〝空?に命を与えた。三つの球は、最初に運動量を与えられると、複雑な動きをはじめ、同じ動きは二度とくりかえさないように見えた。それを記述する方程式は、嵐のときに叩きつけてくる豪雨さながら、すごい勢いで果てしなく降りつづけた。
そんなふうにして、ようやくぼくは眠りにつけたんだけれど、夢の中でも球は、一定のパターンを持たない、同じ動きをくりかえすことのないダンスを永遠に踊りつづけていた。それでも、ぼくの心の底では、このダンスにはたしかにリズムがあった。ただたんに、反復に要する期間が無限に長いというだけのことだろう。それはぼくを魅惑した。その全期間を数式で表したいと思った。それが無理なら、せめて、その一部なりとも。
翌日もずっと、〝空?の中で踊る三つの球のことを考えつづけた。ひとつのことをこんなに集中して考えたのは生まれてはじめてだった。寺のある僧が、ぼくには精神的になにか問題があるのではないかと住職にたずねたほどだった。住職は笑って「大丈夫だ、彼は〝空?を探し当てたんだ」と言った。そう、そのとおり、ぼくは〝空?を探し当てた。
おかげでいまでは都会の喧騒の中でも暮らせるようになったし、騒がしい人混みの中にいても、心はすこぶる穏やかだ。しかもぼくは、生まれてはじめて、数学が楽しめるようになった。ひとりの女からべつの女へといつも移り気に相手をとっかえひっかえしていたドン?ファンが、とつぜんひとりの女性と真剣な恋に落ちたような気分だった。
三体問題の背後にある物理法則は、とてもシンプルだ。それは主に数学的な問題だ。
「ポアンカレは知らなかったのかい」汪淼は魏成の話をさえぎってたずねた。
当時は知らなかった。ああ、たしかに、数学を専門にしている人間がポアンカレを知らないっていうのはおかしな話だろうけど、ぼくは数学の権威を尊敬していなかったし、自分も権威になろうとは思ってなかったから知らなかった。でももし、当時、ポアンカレを知っていたとしても、やっぱりぼくは三体問題を研究しつづけていたと思う。
みんなは、三体問題に解がないことをポアンカレが証明したと思っているみたいだけど、それはただの誤解だと思う。ポアンカレは、初期条件に対する感度が高いことと、三体問題は求積可能ではないということを証明したにすぎない。でも、感度の高さは、まったく決定できないということとイコールではない。解法に、もっとたくさんのさまざまな方式が含まれているというだけのこと。必要なのは新しいアルゴリズムなんだ。
その当時、ぼくはひとつ思いついた。モンテカルロ法って聞いたことがあるかな そう、不規則な図面の面積を計算するコンピュータ?アルゴリズムだ。具体的に言うと、コンピュータソフト上で、問題の図の中に、面積がわかっている既知の図形を入れる。たとえば円とかね。そして、大量の小さなボールでランダムに攻撃し、同じ場所を二度は狙わない。多数のボールを投げたあと、不規則な図形の内側に入ったボールの比率を、円にあたったボールの数と比べることで、図形の面積が求められる。もちろん、ボールのサイズを小さくすればするほど、結果は正確になる。
メソッドはシンプルだが、モンテカルロ法は、ランダムな総当たり攻撃が正確なロジックを凌駕しうることを示している。量を質に変える、数的なアプローチだ。これが、三体問題を解くためのぼくの戦略だよ。時間経過に沿って三体の状態を観察すると、それぞれの瞬間ごとに、三つの球の運動ベクトルには無限の組み合わせがある。その組み合わせを一種の生物のようなものと見なす。カギとなるのは、いくつかの規則を設定することだ。
運動ベクトルのどの組み合わせが〝健康的?で〝有利?なのか、どの組み合わせが〝不利?で〝有害?なのか。前者の組み合わせは生存にとってプラスとなるポイントを獲得し、後者にはマイナスのポイントを与える。マイナスのものを除去し、プラスのものを残すようにして計算を進めると、最後に生き残った組み合わせが、三体の次の配置、次の瞬間の正確な予測になる。
「進化的アルゴリズムか」汪淼が言う。
「あんたに来てもらって、やっぱりよかったよ」史強が汪淼に向かってうなずいた。
そのとおり。ただ、ぼくが進化的アルゴリズムという言葉を知ったのは、ずいぶんあとになってからだけどね。このアルゴリズムの際立った特徴は、超大量の計算資源が必要になること。三体問題に関しては、いまあるコンピュータでは足りない。
当時、寺で暮らしていた頃のぼくには、電卓すらなかった。寺の会計係の机からもらってきた、まっさらな帳簿一冊と、鉛筆一本しかなかった。ぼくは紙の上で数学モデルをつくりはじめた。これにはたいへんな労力がかかり、たちまち十数冊の帳簿を使い切って、会計係の坊さんにめちゃくちゃ怒られたよ。もっとも、住職がとりなしてくれたんで、紙とペンをもっとたくさん提供してもらえたけどね。完成した計算式は枕の下に隠し、不要になった途中の紙は敷地内の焼却炉に放り込んだ。
ある日の夕方、若い女性がとつぜん部屋に駆け込んできた。ぼくのところに女性が姿を見せたのはそのときがはじめてだった。彼女は端っこが焼け焦げた紙を何枚か手にしていたけれど、それはぼくが捨てた計算用紙だった。
「これ、あなたのだって聞いたけど。三体問題を研究してるの」彼女はせわしない口調でたずねてきた。大きな眼鏡の奥の瞳は、まるで炎が燃えているみたいだった。
これにはほんとにびっくりしたよ。ぼくが使っていた手法はふつうの数学じゃなかったし、結論を導く過程にはいくつも大きな飛躍があったから。でも、殴り書きした二、三枚の計算用紙を見るだけで、研究対象がなんなのかわかったということは、彼女が並はずれた数学の才能を持っていることと、三体問題にものすごく入れ込んでいることを示している。
ぼくはこの寺に来る観光客や参拝者にあまりいい印象は持っていなかった。観光客は自分がなにを見ているのかもわからずにあちこちうろついて写真を撮るだけだったし、お参りに来る連中は、観光客よりもずっと貧乏くさい身なりで、知性を制限された麻痺状態にでも陥っているみたいに見えた。でも、この女性は違っていた。学者のような外見だった。のちにわかったんだけど、彼女は日本のツアー客のグループといっしょに来てたんだ。
ぼくの答えを待たずに、彼女はまた言った。「あなたのアプローチはとてもすばらしい。わたしたちはずっとこんな方法を探してきたの。三体問題を解く困難さを、超大規模な計算問題に置き換えられる方法をね。もちろん、これにもはものすごく強力なコンピュータが必要だけど」
「世界中のコンピュータをぜんぶ使っても無理だよ」とぼくは真実を告げた。
「そうは言っても、あなたには最低でもふつうの研究環境が必要でしょう。ここにはなにもない。わたしなら、スーパーコンピュータの使用権を提供できるし、ミニコンピュータを一台、自由にさせてあげられる。あしたの朝、いっしょに山を下りましょう」 もちろん、この女性が玉菲だ。いまと同じように単刀直入で独断的だけど、当時はいま以上に魅力的だった。ぼくは生まれつき冷たい人間で、まわりの坊さん連中とくらべても、女性に対する関心が薄かった。でも、玉菲は特別だった。伝統的な女性らしさという概念にこだわらないところに惹かれた。どのみち、ほかにやることもなかったから、ぼくはすぐさま彼女の提案を受け入れた。
その日の夜は寝つけなくて、シャツを羽織って境内をぶらぶらしていたら、ぼんやりした光が洩れている遠くのお堂に、玉菲の姿があった。仏像の前で線香を焚いて正座している。その動きのひとつひとつが信心に満ちているように見えた。足音をたてないように近づくと、お堂の敷居のところで、彼女のささやくような祈りの声が聞こえた。「仏さま、どうかわが主を苦海から逃れさせてください」
聞きまちがえたかと思ったよ。でも、玉菲はもう一回、同じ祈りをくりかえした。
「仏さま、どうかわが主を苦海から逃れさせてください」 ぼくはどんな宗教もよく知らなかったし、関心もなかった。ただ、こんな変わった祈りは想像もできなかったから、思わず質問が口をついた。
「なにを祈っているんだい」
玉菲はぼくを無視して、なおも軽く目を閉じ、両手を合わせたままだった。まるで自分の祈りが、線香の煙とともに御み仏ほとけのもとへと昇っていくのを見守っているかのようだった。ずいぶんたってからようやく目をあけると、玉菲はこちらを向いた。
「寝なさい。あしたは早いから」と、目も合わせずに言った。
「さっき、〝わが主?と言ってたけど、それって仏教のもの」ぼくはたずねた。
「いいえ」
「だったら……」
玉菲はなにも言わずに急ぎ足で去っていったから、それ以上質問するチャンスはなかった。ぼくは心の中で何度かその祈りの言葉を唱えたが、唱えれば唱えるほど妙な気がした。だんだん怖くなってきて、住職の居室へ行って戸を叩いた。
「もしだれかが、御仏に、べつの神様を救ってほしいと祈るとすれば、それはどういうことでしょうか」ぼくはそうたずねてから、ことの次第をくわしく話した。
住職は手にしている本を黙って見ていたが、読んでいないのは明らかだった。ぼくの話について、じっと考えている。ややあって、住職は言った。「しばらくひとりにしてくれ。すこし考えさせてほしい」
ぼくはきびすを返して部屋を出た。これが異例のことなのはわかっていた。住職は学識豊かで、一般的な宗教、歴史、文化などに関する質問にはそくざに答えてくれる。ぼくは煙草を一本吸いきるくらいの時間、外で待った。それからようやく、住職がぼくを呼び入れた。
「可能性はひとつしかないと思う」厳しい顔つきで住職は言った。
「なんですか いったいどういうことでしょう 信者が自分の信じる神を救ってくれと、ほかの宗教の神に祈らなきゃいけないなんて、そんな宗教がありうるんですか」「彼女の主は、現実に存在する」
この答えにぼくは困惑した。「だったら……御仏は存在しないんですか」そう言ってから、すぐに無礼だったと気づき、急いで詫びた。
住職はゆっくり手を振りながら、「前に言ったように、信徒同士が仏教の教えについて話すことはありえない。御仏は、そなたの理解を超えた存在なのだ。しかし、彼女が言う主とは、そなたにも理解できるありようで存在している……このことについては、それ以上のことは言えない。わたしにできることがあるとしたら、そなたが彼女とともに発つのを思いとどまるよう助言することだけだ」
「なぜですか」
「ただ、そう感じるだけだ。彼女の背後に、そなたやわたしには想像もつかないなにかを感じる」
ぼくは住職の居室を出て、自分の庫裏のほうへと歩いていった。その晩は満月だった。
月を見上げると、まるでこっちをにらんでいる銀色のひとつ目のように見えた。その光には薄気味悪い冷たさが満ちていた。
翌日、ぼくはやはり、玉菲とともに寺を離れた。どのみち、残りの一生をこの寺で過ごすことはできない。でも、それから数年のあいだ、夢に見ていたような生活を送ることになるとは思いもしなかった。玉菲は約束を守ってくれた。ぼくは、一台のミニコンピュータと快適な環境を手に入れた。そればかりか、何度か中国を離れて、海外のスーパーコンピュータを使った──それも、タイムシェアリングではなく、全をひとり占めにして。どこからそんな大金が入ってくるのか知らないが、玉菲は裕福だった。
後年、ぼくたちは結婚した。愛や情熱はたいしてなかったけれど、おたがいにとって結婚したほうが好都合だった。ぼくらには、それぞれやりたいことがあった。ぼくにとって、それからの数年は、たった一日のことのように説明できる。毎日が平和でのどかにすぎていった。彼女のあの別荘で、食事も服装も気にかけることなく、すべて面倒をみてもらって、ひたすら三体問題の研究に没頭するだけでよかった。玉菲はぼくの生活にけっして干渉しなかった。車庫にはぼく専用の車があり、どこにでもひとりでドライブにいけた。ぼくがだれか女性を連れて帰ったとしても、彼女は気にもとめないだろうね。それは保証できる。玉菲はただ、ぼくの研究だけに関心を寄せている。ぼくらが毎日、話し合うことといったら、唯一、三体問題についてだけだった。彼女は毎日、ぼくの研究がどれだけ進んだか把握しようとするんだ。
「あんたは申玉菲がほかになにをやってるか知ってるか」史強がたずねた。
「〈科学フロンティア〉だけだよ。玉菲はしじゅうそれで忙しくしている。毎日、おおぜいの人がうちにやってくる」
「入会しろと言われなかったのか」
「一度も。ぼくには、〈科学フロンティア〉について話すことさえない。ぼくも興味ないしね。こんな人間だから、ほとんどのことに関心がないんだ。玉菲もそれをよくわかってるから、『なんの使命感もない怠惰な人だから、あの組織とは合わないし、かえってあなたの研究の邪魔になる』と言ってる」
「三体問題の研究には、なにか成果があった」汪淼がたずねた。
この研究分野全般の現状を見渡せば、ぼくが挙げた成果はブレイクスルーと言ってもいいと思う。数年前に、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のリチャード?モンゴメリとパリ第七大学のアラン?シャンシネルが三体問題の安定した周期的な解を発見した。適切な初期条件下では、三体はたがいを追いかけるようにして、固定されたの字を描くようになる。それ以降、この種の特殊な安定した配置を探すことにみんな夢中になって、ひとつ発見するたびに大喜びしている。これまでに、そういう配置は、まだ三つか四つしか見つかっていない。
でも、ぼくの進化的アルゴリズムは、すでに百以上の安定的配置を見つけてるんだ。それらの軌道をドローイングにしたら、ギャラリーを借りてポストモダンアート展が開けるくらいだよ。でも、それはぼくの目標じゃない。三体問題のほんとうの解は、あらゆる既知のベクトルを持ついかなる配置を与えても、その後の三体の運動をすべて予測できるような数学モデルをつくることだ。これは玉菲の心からの願いでもある。
しかしきのう、あることが起きて、ぼくの穏やかな生活は終わってしまった。
「それがおまえの通報してきた事件か」と史強がたずねた。
「そう。きのう、ある男が電話してきて、すぐに三体問題の研究をやめなければ、ぼくは殺されるだろう、と警告した」
「相手はだれだ」
「わからない」
「電話番号は」
「わからない。電話には番号が表示されていなかった」「ほかになにか関連のありそうなことは」
「わからない」
史強が笑って、煙草の吸い殻を灰皿に投げ捨てた。「だらだらだらだらしゃべりつづけた挙げ句、最終的に通報したい内容はたった一行。あとは〝わからない?のァ◇パレードか」
「これだけだらだらしゃべらなかったら、あなたにはその電話の意味が理解できなかったんじゃないか それに、もしそれだけの話だったら、わざわざここに来たりしない。言っただろ、ものぐさだからね。でも、またべつのことが起きた。ゆうべ遅く──もしくは、きょう早くかもしれないが、とにかく真夜中に──ベッドの中で半睡状態だったとき、冷たいものが顔の上で動いているのを感じて目を開けたら、そこに玉菲がいたんだ。死ぬほど怖かったよ」
「夜中にベッドで女房の顔を見るのがどうしてそんなに怖いんだ」「いままで見たこともないような顔をしてぼくを見ていた。窓の外の常夜灯の光を浴びて、まるで幽霊みたいだった。しかも、手になにか持っていると思ったら……銃だったぼくの顔を銃口で撫でながら、三体問題の研究はどうしてもつづけろ、もしやらなければ殺すと言うんだ」
「ほう、やっと面白くなってきたな」史強はまた煙草に火をつけると、満足げにうなずいた。
「なにが面白い ぼくはもうどこにも行き場がないんだぞ。それでしょうがなく、ここに来たんだ」
「申玉菲が言ったことを正確に教えろ」
「玉菲はこう言った。『もし三体問題を解くことに成功したら、あなたは救世主になる。
でも、いまやめたら罪人になる。もしだれかが人類を救うか、滅ぼすとしたら、あなたの貢献もしくは罪の大きさは、そのだれかのちょうど二倍になる』と」 史強は煙草の煙を吐き出し、魏成がたじろぐまでしばらく見ていたが、散らかった机の上からノートを一冊とって、ペンを握って言った。「記録をとってほしいんだろ いま言ったことをもう一回くりかえしてみろ」
魏成がもう一度くりかえすのを聞いてから、汪淼は口を開いた。「この話も妙だな。どうしてちょうど二倍なんだろう」
魏成は目をしばたたきながら、史強に向かって言った。「ずいぶん深刻な事態みたいだね。さっきここに来たら、そくざに当直の警察官から、あなたに会うように言われた。ぼくと玉菲は、どうもずっと前からマークされていたらしいな」 史強がうなずいた。「もうひとつ聞きたいことがある。女房が突きつけてきた銃は本物だと思うか」魏成がどう答えていいかわからずにいるのを見て、「ガン?ァ·ルのにおいはしたか」
「うん。たしかにァ·ルのにおいがした」
「よし」机に座っていた史強は、ぽんと床に飛び降りて言った。「やっとチャンスが巡ってきたらしいな。銃の不法所持容疑で家宅捜索ができる。書類仕事はあしたでいい。すぐ行くぞ」
それから汪淼のほうを向いて、「お疲れのところ申し訳ないが、今回は先生にもいっしょに来てもらって、アドバイスしてほしい」それから、これまでずっと黙っていた徐冰冰に向かって言った。
「冰冰、今夜は、おれたち以外には、当直の刑事がふたりいるだけだ。人手が足りない。
情報保安課の人間が現場に不慣れなのは知ってるが、おまえも来てくれ」 徐冰冰は、煙の充満したこのァ≌ィスを離れられるのがうれしいのか、すぐにうなずいた。
現場に向かうことになったのは、史強と徐冰冰、当直の刑事二名、それに汪淼と魏成を加えた六名だった。一行はパトロールカー二台に分乗し、夜明け前の真っ暗な夜の街を抜け、北京郊外の別荘地へと向かった。
徐冰冰と汪淼は、一台の後部座席に並んで座った。車が出発すると、徐冰冰が言った。
「汪教授、先生の名前は『三体』で大評判ですよ」 現実世界でまた『三体』の話が出たことに汪淼は一瞬動揺したが、制服姿のこの女性警察官との距離があっという間に縮まったような気がした。「きみも『三体』を」「『三体』のモニタリングと追跡が担当なんです。楽しくもなんともない仕事」 汪淼は勢い込んでたずねた。「じゃあ、『三体』のバックグラウンドを教えてくれないか ぜひとも知りたいと思っていたんだ」
車の窓から入ってくるわずかな街灯の光で、徐冰冰が謎めいた笑みを浮かべるのが見えた。「わたしたちも知りたいんですよ。でも『三体』のサーバは国外にあって、システムとファイアウォールが堅牢なので、なかなか侵入できなくて。わかっていることはすこしだけですが、営利目的で運営されてるわけじゃないことはたしかですね。ソフトウェアのクァ£ティは並はずれて高く、ゲーム内の情報量ときたら、先生もご存じのとおり、さらに尋常じゃないレベルです。とてもゲームとは思えないくらい」「これまでになにか……」汪淼は慎重に言葉を探した。「超自然的なしるしはあった」「それはないと思います。ゲームの開発に参加した人はたくさんいて、全世界に散らばっています。むかし、ァ≮レーティングシステムのを開発するときに採用されたような、バザール方式のオープンソース?ソフトウェア開発に似たやりかたのようですね。ただ『三体』の場合は、なにかものすごく高度な開発ツールが使われています。ゲームの内容に関しては、いったいどこから持ってきたのか、神のみぞ知る。じっさい、ちょっと……超自然的ですね、先生がいまおっしゃったとおり。でもわたしたちは、あの有名な〝史強隊長の法則?を信じていますからね。この件はすべて、裏に人間の黒幕がいるはずです。わたしたちの捜査は効率的ですから、もうすぐ結果が出るでしょう」 この若い公安警察官は、嘘をつく経験がまだ足りない。最後のひとことで、彼女が真実の大半を隠していることがわかった。「大史の〝法則?はもうそんなに有名になってるのか……」汪淼は車を運転している史強を見ながらつぶやいた。
別荘地にある申玉菲の家に着いたのは、まだ空が明るくなる前だった。『三体』をプレイしている玉菲を汪淼が目撃したのと同じくらいの時刻だ。二階の窓のひとつに明かりがついていたが、ほかの窓はどれも暗い。
汪淼が車を降りたとたん、二階から物音がした。連続して何回か、なにかが壁にぶつかるような音が響いた。車を降りてきた史強も、その物音を聞いて険しい表情になった。軽く閉じているだけの門扉を史強が蹴り開け、でかい図体に似合わない俊敏さで家の中に飛び込んだ。残り三人の警察官もそれにつづく。
汪淼と魏成も、彼らのあとについて家に入った。ロビーから階段で二階に上がり、明かりがついている部屋に踏み込むと、靴底が水たまりを踏んだような音がした。床に大きな血だまりがあり、外に向かって血が流れている。
そこは、申玉菲が『三体』をプレイしていた部屋だったが、本人はいま、部屋の真ん中に横たわっていた。二箇所ある胸の銃創から、いまも血が浸み出している。三発目の銃弾は左眉を貫通し、顔じゅうを血まみれにしていた。遺体のそばでは、一丁の銃が血だまりに浸っていた。
汪淼がその部屋に入るのと入れ違いに、史強と男性警官ひとりが飛び出してきて、ドアが開いたままになっている、廊下をはさんだ向かい側の真っ暗な部屋に駆け込んだ。そちらの部屋の窓は開け放たれていて、その窓の外から、自動車のエンジンをかける音が聞こえてきた。
遺体の横たわる部屋では、もうひとりの男性警官が電話をかけはじめた。徐冰冰は離れたところから緊張の面持ちでそのようすを見守っている。汪淼と同じく、こんな現場に遭遇するのははじめてなのだろう。
数秒後、史強が戻ってきた。胸のホルスターに銃を収めながら、電話している警官に向かって言う。
「黒のフォルクスワーゲン?サンタナ。乗っているのはひとりだけだ。ナンバープレートは見えなかった。五環路の入口を重点的に封鎖するように伝えろ。くそっ。逃がしたかもしれん」
史強はまわりを見渡して壁にいくつかの弾痕を見つけ、それから床に散らばる薬莢を一瞥すると、「容疑者は五発撃って三発命中、被害者のほうは二発撃って──どちらもはずした」とつづけた。それからかがみこんで、いっしょに戻ってきた男性警官と遺体を検分しはじめた。徐冰冰は離れた場所に佇み、となりに立つ魏成のようすにさりげなく目を配っている。史強もまた、魏成のほうを見上げた。
魏成の顔にはショックと悲しみの色がいくらか浮かんでいるものの、ほんのわずかだった。魏成の特徴的な無感情は変わらず、汪淼とくらべても落ち着いたものだった。
「この件に動揺もしてないみたいだな」史強が魏成に向かって言った。「やつらはたぶん、おまえを殺しにきたんだぜ」
意外にも、魏成は笑みを──凄味のある笑みを──浮かべた。「ぼくにどうしろと 玉菲のことなんて、いまだになにひとつ知らない。シンプルに生きるほうがいいと、玉菲には何度も言ったけどね。あの夜の住職の助言のことを考えている。でも……」 史強は背すじを伸ばし、魏成の前に立つと、煙草をとりだして火をつけた。「まだ、おれたちに話してないことがあるな」
「まあ、ものぐさだからね」
「なら、いまこそ勤勉になるべきだな」
魏成がちょっと考えてから口を開いた。「きょうの──いや、きのうの午後のことだ。リビングルームで、玉菲が男と口論していた。あの潘寒ファン?ハンだよ、有名な環境保護主義者の。ふたりは前にも何度か言い合いをしていたことがある。ただし、ぼくにわからないように、いつも日本語を使っていた。でも、きのうだけは、そんなこと気にする余裕がなかったんだろうな、中国語だったから、少しは聞きとれた」「できるだけ聞いたままの言葉で話してくれ」
「わかった。潘寒はこう言った。『われわれは表面上は旅の道づれのような顔をしているが、実際は不倶戴天の敵同士だ』すると玉菲は、『そのとおり。あなたたちは人類を滅ぼすために主の力を使おうとしている』そしたら潘寒はこう言った。『そう考えるのも、まったくの不合理ではない。われわれは、主がこの世界にやってきて、はるかむかしに罰せられるべきだった者どもを罰してくれることを望んでいる。しかしきみたちは、主の降臨を阻止しようとしている。だから、両立は不可能だ。もしきみたちが妨害をやめないなら、われわれがやめさせる』申玉菲はそれに対して、『あなたたちみたいな悪魔を協会に入れるなんて、総帥は見る目がなかったわね』そのあと潘寒が、『総帥と言えば、あのかたはどっちの側なんだ 降臨派か、それとも救済派か 総帥が望んでいるのは、人類の滅亡か、それとも救済か』潘寒のこの言葉で、玉菲はしばらく沈黙し、その後のふたりの会話はそれほど激しい口論ではなくなった。だから、ぼくに聞きとれたのはそこまでだ」「電話でおまえを脅迫してきたやつ。その声はだれに似てた」「潘寒に似てなかったかと言いたいんだろ わからないよ。声がやけに小さかったから、聞き分けられなかった」
さらに何台かの警察車両がサイレンを鳴らしながらやってきて、家の前に停車した。白い手袋をはめ、カメラを携えた警察官の集団が二階に上がってきて、建物の中がにわかに騒がしくなった。史強は汪淼に、先に帰って休んでいいと言った。汪淼は現場を去る前に、例のミッドレンジ?サーバが置かれている部屋に行き、そこで魏成を見つけた。
「三体問題を解く例の進化的アルゴリズムのアウトラインをもらえないかな あれを……紹介したい相手がいて。とつぜんこんなことを頼んで申し訳ない。無理なら、忘れてくれ」
魏成はを一枚とりだして、汪淼に手渡した。「すべてこの中に入ってる。モデル全体と、補足文書。できればあなたの名前で発表してほしい。そうしてくれたら、すごく助かる」
「まさか、だめだ そんなこと、できるわけがない」 魏成は汪淼が手にしているを指して言った。「汪教授、じつはね、以前あなたがここへ来たときから、あなたに目をつけていた。あなたはいい人だし、責任感がある。だからぼくとしては、こんなことから遠ざかったほうがいいと助言したい。世界はまもなく変わろうとしている。だれもがみんな、残りの人生をおだやかに過ごせるように努力すべきだ。
それがベストの選択だからね。ほかのことはあまり心配しないように。どうせ、なにもかも無駄なんだから」
「さっき口にしたことよりさらに多くを知っているみたいだね」「毎日、玉菲といっしょに暮らしてたんですよ。なにも知らないでいることは不可能だ」「じゃあ、どうして警察に言わない」
魏成は軽蔑するような笑みを浮かべて、「警察なんか役立たずだ。たとえもし神さまがここにいたとしても、たいして役に立つことはできないだろうけど。人類全体が、だれも祈りを聞いてくれないところにまで到達したんです」 魏成は東に面した窓辺に立っている。北京の高層ビルの後方の空に、朝の光が射しはじめている。なぜだかわからないが、その光景は汪淼が、毎回『三体』にログインするときに見る、異様な黎明を思い出させた。「ほんとうはぼくだって、そんなに浮世離れしてるわけじゃない。この何日間か、ずっと眠れてない。朝起きて、ここから日の出を見ると、日没だと感じてしまうくらいに」そして汪淼の方を振り向き、長い沈黙のあとにこう言った。「ほんとうのところ、すべては神さまが──玉菲の言う〝主?が──もはや自分自身さえ守れなくなってきていることが原因なんだ」