それはまぎれもないおとぎの国――人間の想像の及ばない不思議な国だった。深い茂みが頭上で重り合って自然のパーゴラを織りなしていた。金色の薄明りに包まれたこの緑のトンネルを通って、透明な緑色の川が流れている。川そのものも十分美しいが、降ってくる途中でやわらげられたあざやかな木洩こもれ陽を反射した不可思議な色調が、なんともいえずすばらしかった。水晶のように透明で、ガラス板のように滑なめらかで、氷山の緑のような青味をおびた川が、緑のアーチにおおわれて行手に横たわり、カヌーの一漕ぎごとにその輝く水面に無数のさざ波が砕け散った。それは秘境への通路にふさわしい眺めだった。もうインディアンがいる気配はなかったが、動物はしだいに多く見かけるようになり、しかも狩猟家を知らないらしく、われわれを見ても物おじしなかった。ビロードのようにけばだった黒い小さな猿が、まっ白な歯をむいていたずらっぽく目を輝かせながら、われわれ一行に話しかけてきた。時おりワニがドボンと重い水しぶきをあげて岸からとびこんだ。黒い不恰好なバクが茂みの隙間から顔をのぞかせ、足音をたてながら森の中へ逃げこんだこともあった。黄色いしなやかな体をした大きなプーマがやぶの中から現われて、黄褐色の肩ごしに兇暴な緑色の目でわれわれをにらみつけたこともあった。鳥の数も多かった。とりわけコウノトリ、サギ、トキなどの渉禽類しょうきんるいが、青、深紅、白などの群をなして水面に突き出た木の幹にとまり、一方船底の透明な水の中では、あらゆる形と色彩の魚が棲すんでいた。
この不透明な緑の光にみちたトンネルを、われわれは三日間さかのぼった。少しはなれると、前方の緑の川面と緑のアーチの境目が識別できないほどだった。この神秘的な水路の底知れぬ静けさは、これまで人間にかき乱された痕跡をまったくとどめなかった。
「このあたりにはインディアンもいません。恐ろしいのです。クルプリが」と、ゴメスが言った。
「クルプリとは森の精のことだよ」と、ジョン卿が説明した。「邪悪なものはすべてこの名で呼ばれている。インディアンどもはこの方角に何か恐ろしいものがあると考えて近寄らないのだ」 三日目、川は急速に浅くなるので、間もなくカヌーでは進めなくなることがはっきりした。一時間に二度ぐらいの割合で船が川底にぶつかるようになった。とうとうカヌーを川岸の茂みの中に引きあげて、そこで一夜を明かすことになった。翌朝ジョン卿とわたしが川にそって二マイルほど森の中へ分け入ってみた結果、川はますます浅くなる一方なので、チャレンジャー教授がすでに予想していた通り、どうやらカヌーで進める最後の地点まで到達したらしいと報告した。そこでカヌーを引きあげて茂みに隠し、斧おので近くの立木の皮をはいで帰りの目印にした。それから銃、弾薬、食糧、テント、毛布などを各人に分配し、その荷物を背負ってさらに苦しい旅へと出発した。
新しい行程のしょっぱなに、気の短い教授たちの間で口論が始まるという不幸な事態がおこった。チャレンジャーはマナウスでわれわれに追いついた時から、一行の指揮権は自分にあると主張していたが、もちろんサマリーはこれを快からず思っていた。それが今、同僚教授にある任務を命ずるときになって(といっても、アネロイド晴雨計を運ぶだけの仕事である)、危機が表面化したのである。
「ちょっとおたずねしたいが」と、サマリーは意地悪く落ちつきはらって言った。「きみはそもそもいかなる資格でこのような命令を出そうとするのかね?」 チャレンジャーは気色ばんだ。
「この探検隊の隊長の資格でだよ、サマリー教授」「しかし、残念ながらわしはきみにその資格を認めん」「ごもっとも!」チャレンジャーは柄にもなく皮肉っぽい口調で言って頭を下げた。「ではわしの立場をはっきりさせていただこうか」「よろしい。きみは今発言の真偽を問われている人間だ。この委員会はそれを裁くためにここまでやってきた。つまり、きみは裁判官と一緒に歩いているわけだよ」「やれやれ!」チャレンジャーはカヌーの縁に腰をおろした。「そうなれば当然きみは自分の思い通りに進むわけだ。わしはあとからゆるゆるとついて行く。わしは隊長じゃないそうだから、先導しろといってもごめんこうむるよ」 幸いジョン?ロクストン卿とわたしという正気の人間がいたおかげで、二人の教授の短気できちがいじみた行動のため、手ぶらでロンドンへ帰るはめになるのをまぬがれた。それにしても二人をなだめるのに、どれほど議論と、懇願と、説明をつくしたことだろう。
やがてついにサマリーが冷笑を浮かべ、パイプをくわえて先頭に立ち、チャレンジャーが大いに悪態をつきながらあとにつづくことになった。このころわれわれは幸運にも二人の学者がエジンバラのイリングワース博士を全然高く買っていないという事実を発見した。
以後そのことがわれわれの安全弁となった。緊張状態が訪れてもこのスコットランドの動物学者の名前さえ持ちだせば、難なく事態は好転した。教授たちが共通のライバルに対する非難と攻撃のため、一時的に同盟を結ぶからである。
川岸にそって一列縦隊で進むうちに、間もなく川幅が小川程度にせばまって、足を踏み入れると脛すねまで没するスポンジのような苔におおわれた広い緑の湿地帯に消えてしまった。そこは黒雲のような蚊の大群をはじめ、ありとあらゆる害虫の巣だったので、森の中を迂回してふたたび固い地面にたどりついた。おかげで遠くからだと虫の羽音がァ‰ガンのように聞こえるこの有害な湿地帯を避けて通ることができた。
カヌーを乗りすててから二日目に、われわれは周囲の状況が一変したことに気がついた。道はずっと登りになり、なおも進むうちに周囲の森がしだいにまばらになって、熱帯特有の豊かさが見られなくなった。アマゾン平野の沖積層に繁茂する大木群にかわって、フェニックスやココヤシが群生し、その間は厚いやぶでおおわれるようになった。くぼんだ湿地にはモーリティアヤシが優雅に葉をたれていた。われわれは羅針儀だけを頼って進んだが、一、二度チャレンジャーと二人のインディアンの間で意見の対立がおこった。教授の言葉を借りるならば、一行が「近代ヨーロッパ文化の高度の所産よりも未開人の誤れる直感を信じようとしたこと」に彼が腹を立てたからである。しかし三日目に、未開人の直感が正しかったことが明らかになった。チャレンジャーが最初の探検のとき心にとめておいた目標がいくつか発見されたのである。前回の野営地の跡である、すすで黒くなった四つの石もちゃんと発見された。