蝶ちょう
BUTTERFLIES
小林幸治訳
一
日本の文芸で廬山ろうさんとして知られるチャイナの学者の幸運が私にも望めないだろうか!二人の乙女の霊、天人の姉妹に愛され、蝶にまつわる話を語りに、十日毎に彼の元へ訪ねて来たのだから。さて、蝶についてはチャイナの話に素晴らしい物が在る──霊的な話であるそれを知りたい。しかし私は決してチャイナの言葉を読めるようにはならないだろう、日本語も変わらないが、大いに苦労しながら、日本の短い詩歌をどうにか翻訳していると、チャイナの蝶の話の暗示を多く含んでいて、タンタロスの苦しみのような物を味わう……もちろん、こんな懐疑論者の自分に、これから訪問して下さる乙女の霊はいないだろう。
私は知りたい、例えば、蝶々に花として懐なつかれ大群を従えていたチャイナの乙女の話の一部始終を──それほど香り良く、それほど美しい彼女。また、愛妾を選ぶ際に蝶を使った明帝ミンハンこと玄宗げんそう皇帝の蝶に関する出来事をもっと知りたい……酒宴を開く際に驚くべき庭園を使い、とびきり美しい女性をそこへ出席させ、籠かごに入れた蝶を彼女達の間に解き放つと、最も美しい人の元へ飛んで行く、その最高の美人に皇帝の寵愛を授けた。しかし玄宗皇帝が楊貴妃ようきひ(チャイナではヤンクェイフェイと呼ぶ)と出会ってからは蝶の選択を受け付けなくなった──楊貴妃によって深刻な問題に巻き込まれたのだから、不運なことである……再び私はチャイナの学者の体験についてもっと知りたい、日本では、一匹の蝶になった夢を見て、その中で蝶の感覚全てを体験した荘周そうしゅうの名前で有名だ。魂が実際に蝶の姿となって辺りを彷徨さまよったため、目覚めてからも蝶の記憶と感覚が生活に残るほど鮮明に心へ刻きざまれ、人間らしい行いができなくなった……最後に私は知りたい、蝶になった皇帝や従者の様々な魂を正式に認定するチャイナの確かと思える原文を……
蝶についての日本の文芸の大部分は、幾いくつかの詩歌を除いてチャイナを起源とするのは明白であって、それは昔の国民の審美的感覚の概念でさえも、日本の芸術や歌や習慣における愉快な表現に見受けられるように、おそらく最初はチャイナの教えの元に発達したのだろう。どうして日本の歌人や画家がよく職業上の名前としての芸名げいみょうで、蝶夢ちょうむ(蝶の夢)、一蝶いっちょう(ひとりの蝶)等の名前を選ぶのか、おそらくチャイナの先例で説明できる。また今日でさえ蝶花ちょうはな(蝶の花)、蝶吉ちょうきち(蝶の幸運)、蝶助ちょうすけ(蝶の援助)といった芸名が舞妓まいこの間で流行している。他にも蝶に関した風雅な名前、まだ実際に使われるこのような種類の──蝶々を意味する胡蝶や蝶の──個人名(呼び名)が有る。これは女と生まれた者だけに決まっている──もっとも幾らか風変わりな例外は有る……ここで言及しても良いだろう、陸奥国むつのくにでは家族の最も若い娘をテコノと呼ぶ古く珍しい習慣がまだ残っている──その古風な言葉は他の地域では廃れたが、陸奥の方言で蝶を意味している。古典的な時代に、美しい女性を示す言葉でもあった……
また日本の幾つかの蝶にまつわる不気味な信仰もチャイナの派生と考えられるが、次の信仰はおそらくチャイナの物より古いだろう。最も興味深いと思う物のひとつは、生きている者の魂が蝶の姿になって辺りを彷徨う話である。幾つかの可愛らしい思い付きが、この信仰から発展した──もし蝶が客間に入ってきて竹の衝立の裏側に止まったら、最愛の人が会いに来るという。その蝶は誰かの魂だろうかと、それを恐れる理由は無い。ではあるが、蝶といえども膨大な数で現れて恐怖させられる場合が有り、日本の歴史ではこんな事件が記録されている。平将門たいらのまさかどが密かに有名な乱の準備をしていた頃、京都の広範囲に蝶の大群が現れて人々が怯おびえた──思うに、怪異は凶事が来る前兆……おそらくこの蝶達は戦いの中で滅びる不幸な運命にある数千の魂であろうと想像され、幾つかの神秘的な死の予感によって戦の直前に動揺したのである。
しかしながら、日本の信仰での蝶は、死者と同じくらい生者の魂も有るだろう。実のところそれは、最後に体から抜け出した事実を知らせるため、蝶の姿をとる魂の習慣で、この理由からどんな蝶であっても、家に入って来れば優しく取り扱うようになっている。
この信仰と風変わりな空想が結びついた人気の芝居の中に多くの暗示が有る。例えば「飛んで出る胡蝶の簪かんざし」というよく知られた演目が有る。胡蝶は美しい女で、無実の罪を着せられ残酷な扱いを受け自害した。仇討ちを志願した者は、悪事の黒幕を捜して長らく徒労を重ねていた。しかし最後に、死んだ女の簪が蝶に変わり、仇討ちの案内をするかのように悪者の隠れ家の上で羽ばたいた。
──婚礼の際に作られる大きな紙の蝶々(雄蝶おちょうと雌蝶めちょう)は当然ながら霊的な意味は全く持っていないと思われる。二人の結婚の喜びを表現するだけの象徴なのだから、新婚の二人が愛し合う喜びで結ばれ庭から庭へと軽快に飛びまわる蝶の番つがいのように、一緒に人生を過ごして行けるようにという希望である──時に上へ羽ばたき、時には下へ、けれど決して大きく離れない。