二
さまざまな界隈で、我々の物より倫理的に優れた文明を作り出した非キリスト教徒の人々の話をするのが、不道徳であると考えられるのと同じ理由から、蟻について語ろうとするのを、ある者達は喜ばないだろう。しかし、私とは比較にならないほど賢い人が居て、いつかその人達が虫とキリスト教の祝福とは無縁の文明について考える望みは持てるし、ケンブリッジ?ナチュラル?ヒストリーの最新号に掲載された、デヴィッド?シャープ教授の蟻に関する次の談話を見付けて勇気付けられた──「この昆虫の生態における非常に驚異的な現象が、観察によって明らかになった。まったく、多くの観点から共同生活を営むための技術を、我々の種が持つよりも完璧に獲得しているという結論を回避できず、いくつかの産業と技術の修得が社会生活を大いに円滑にするという点において、先を行っている。」
熟練の専門家による、この分かりやすい供述に、異議を唱える識者は少数ではないかと思う。同時代の科学者は蟻や蜂に対して感傷的にはなりにくいが、社会的進化に関してこの昆虫が「人を越えた」進歩を見せていると認めるのを躊躇しないだろう。ハーバート?
スペンサー氏には、誰もロマンチックな傾向が有ると非難しないだろうが、シャープ教授よりもかなり先を行き、まさに真の意味に於おいて、その蟻は経済性ばかりではなく、倫理的にも人類の先に位置していると主張する──利他的な目的にひたすら忠実であることによって生活している。実のところシャープ教授は蟻への慎重な所見での称賛に、いく分か余計な認定をしている──
「この蟻の能力は人のような物ではない。それは個体よりむしろ種の繁栄に忠実な、犠牲や共同体の利益に特化している。」
──含まれる意味は明白である──どんな社会的状態でも、個の進歩を公共の福祉の犠牲とするのは多くの点で改善の余地が有る──おそらく現在の人間の観点からは正しい。人の進化がまだ不完全であるから、人間社会は個別化を進めることによって多くを手に入れる。
しかし社会的昆虫への関心で、暗黙の批判は疑わしい。「個の進歩は、」ハーバート?スペンサー氏は言う「社会的な協力へのより良い適合に一致し、そして社会的繁栄に貢献するこれは種の存続に貢献する。」言い替えれば、個の価値は社会との関わりのみとなり得るし、これを認め、社会のために個を犠牲にしようと、善悪は社会がその構成員の進んだ個別化によって得るであろう損得に左右されるはずだ……しかし、やがて見えるように、蟻社会の状態で最も注目に値するのは倫理的状態であって、これは人間の批評を越え、スペンサー氏の述べる道徳的進化の極致「利己主義と利他主義がしっかり融和したので他方に一方が溶け込む状態」を既に実現している。つまり唯一可能な楽しみが、無欲な行動を楽しむ状態。あるいは再びスペンサー氏の言葉を借りれば、蟻社会の活動は「共同体の福祉の為なら個の幸福は先送りに徹する活動、それは個の生活が社会生活への配慮ができる間、必要とされる限り、しばらく参加しているように見える……個々に活力を維持する為に必要な、適当な食べ物と適当な休憩だけは摂る。」