三
読者は蟻の園芸と農業の習慣を知っていると期待するが、キノコの栽培に熟練していて、さらに(現在知られている限りでは)五百八十四種の異なる動物を飼育し、硬い岩を貫いてトンネルを作り、子供達の健康を脅かす大気の変化に対する備えを知っていて、かつその長寿は虫にとっては例外的である──より高度に進化した種の仲間は相当な年数を生きる。
しかし話したいのは、特にこの事態という訳ではない。何について話したいかと言えば、凄まじい礼儀作法であり、恐ろしい蟻の道徳である。我々の最高に凄まじい理想的行為でさえ蟻の倫理を満たさない──進歩には時間がかかる──少なくとも何百万年は……私が言う「蟻」とは最も高度な種類の蟻である──当然ながら、蟻全般ではない。およそ二千種の蟻は既に知られているが、ここに示す社会的組織では、進化の度合いがはなはだしく異なる。間違いなく生物学的に最大級の重要事象であり、倫理の主題の不思議な関連の重要性は小さくなく、最高度に進化した蟻の社会の存在だけで役立つ研究となり得る。
蟻の長い寿命に比例する経験の価値の可能性については、およそが近年書かれた後なので、蟻の個々の性格を敢えて否定する者は少ないだろうと思う。小さな生き物が、まったく新しい種類の障害に遭遇し乗り越える知能と、それまでまったく経験したことのない状態への適応は、独立した思考力の多くを証明する。しかし少なくとも確実なのは、この蟻が個体として純粋に自分本意の方面に対して無能なことである──ありふれた意味で「自分本意」という言葉を使っている。貪欲な蟻、好色な蟻、七つの大罪のどれかや小さな許される罪にでさえ、有能な蟻は考えられない。もちろんロマンチックな蟻や観念的な蟻、風流な蟻、哲学的思索にふけりがちな蟻を考えられないのは同様である。人間の心は、純粋に事務的な蟻の心の特性を獲得できない──人類が、今のような組織では、蟻のように非常に完璧な実用的精神を修得できない。しかし、この最高度に実用的精神は、道徳的な間違いをできない。蟻が宗教的観念を持たないと証明するのは、おそらく困難だろう。しかし、そのような観念は、間違い無く役に立てられない。道徳的な弱さを実行できないのは、「精神的指導」の必要性を越えている。
漠然とした方法でのみ、蟻社会の性格と蟻の自然な道徳を考えられるが、これをする為になお人間社会と人間の道徳のまだ多少なりとも可能な状態を想像してみるべきである。
それでは、休みなく猛烈に働く人々で埋め尽くされた世界を想像してみようではないか──その全てが女性であるかのように見える。この女性達に、体力の維持に必要とする以上の食べ物を摂取するような説得や誘惑は誰もできず、よく働けるような神経組織を維持するのに必要以上の余分な睡眠は決して誰も摂らない。そして最小限のどうでもいい道楽が、何らかの目的の障害となってしまい得る、全員が非常に特異な体質である。
日々の仕事はこの女性労働者による道路作り、橋の建造、材木の製材、無数の種類の建物の構築、園芸と農業、百品種の家畜の屋内誘導と飼育、様々な化学製品の製造、数え切れない食品の保管と維持、種族の子供達の世話といった構成によって遂行される。この勤労の全ては共和国のために成される──国家社会へ属さない「財産」については、市民に考える能力が無い──共和国の唯一の目的は若者達の養育と訓練──そのほぼ全てが少女である。幼少の時期は長い、かなりの間子供のままであり、無力なだけではなく、形が定まらず、そのうえかなり繊細なので、ごく小さな温度の変化に対してさえ非常に慎重な注意を払わなくてはならない。幸いにしてこの看護婦達は健康の法則を理解している。それぞれが、換気、消毒、排水、湿気と病原菌の脅威など知っているべき配慮の全てに徹底した知識が有る──病原菌は、おそらく目に見えていて、近視の視界では顕微鏡を通した我々の目そのものと同じになる。実際に全ての衛生面の問題は非常によく理解されていて、周辺の衛生状態について今まで看護婦が間違いを犯した事がない。
この永久に続く勤労にもかかわらず、労働者は櫛を入れないままではなく、それぞれが一日に何度も化粧をし、こざっぱりと身だしなみを整えている。しかし、全ての労働者が櫛とブラシの内で最も美しい物を生まれつき手首に備えているが、化粧室で時間は浪費されない。そのうえ自分自身で厳しく清潔を保ち、労働者は子供達のために家屋と庭も完全無欠に整理し管理しなくてはならない。地震や噴火、洪水、命掛けの戦争でもなければ、塵ちり払いや掃はき掃除、拭ふき掃除、消毒といった日常業務の中断は許されない。