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第一章 月琴島(2)_女王蜂(女王蜂)_横沟正史_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
 それを嫉しつ妬とした政子が、落馬を機会に、良おつ人とを死にいたらしめたのではないかというのである。真偽のほどは保証しがたいが、骨肉相あい喰はむ源氏の一族、さらに政子の性格などからかんがえて、ありえない説ではない。
 それはさておき、そのとき頼朝の通っていた女というのが、大道寺家の先祖だというのである。当時、大道寺家は伊豆山に住む豪族だったが、その娘の多た衣えというのが、頼朝のちぎりを結んだ相手だという。多衣もはじめは相手を頼朝とはつゆ知らず、ただたんに、鎌倉方の由緒ある大将だろうぐらいにかんがえて、ちぎりを結んだのだが、のちに右大将頼朝卿と知って、きもをつぶさんばかりに驚き畏おそれた。それというのが政子の嫉妬ぶかいこと、また、頼朝の手を出した女が、ことごとく終わりを完まつとうしなかったことを聞いていたからである。
 ことに多衣はすでに懐妊していたので、後難をおそれることもいっそうはなはだしかった。戦せん々せん兢きよう々きようと、やすからぬ思いで日をおくっているうちに、そこへ突然きこえてきたのが、右大将急死の報である。さらに鎌倉方の討手の勢が、攻め寄せてくるやの風説がきこえてきたので、もうこれまでと大道寺の一族は、多衣を擁して海上へ走った。そして流れ流れて落ち着いたのが月琴島、即ち、当時の沖の島であったというのである。
 多衣はここで月満ちて、無事に女の子を産み落としたが、お登と茂も様とよばれるこの女子こそは、頼朝のタネにちがいなく、現在の大道寺家は、連綿としてお登茂様の血をひいているというのである。
 この話は伝説としても面白いし、いくらか史実の裏付けもあるので、これが東京につたわると、歴史家や好こう事ず家かが大いに食指をうごかし、続々として月琴島を訪れた。
ひょっとするとそこから、吾妻鏡や北条九代記で、故意に隠いん蔽ぺいしてあるのではないかと思われる、鎌倉時代初期の、裏面の史料が発見されるのではないかと思われたからである。
 しかし、好事家のそういう期待は裏切られた。大道寺家の主人が頼朝の遺品として出してみせる太刀、兜かぶと、采さい配はいなど、いずれもずいぶんいかがわしいもので、わけても采配にいたってはまさに噴飯ものだった。ある考証家の説によると、采配は武田信玄の創はじめてつくるところということである。それをそれよりはるか古い時代の頼朝が、もっていたというのがおかしい。もっとも「逆さか櫓ろ」の畠山重忠や、「すし屋」の梶原は采配をもって登場するようだが、これは王朝時代の物語であるはずの「寺子屋」の源蔵が、江戸時代の町人の風俗をしているのと同様、いわゆる狂言ごとというやつだろう。
 こうしてここを訪れる好事家たちも、大道寺家の宝物には失望したけれど、それらの宝物にもまして、すばらしい宝がこの家に埋もれているのを発見して驚いた。
 それは当時の主人、大道寺鉄てつ馬まのひとり娘琴こと絵えである。琴絵はそのころかぞえ年で十六か七であったろうが、その照りかがやくばかりの美しさは、白椿の朝日に匂におうよりもまだ風ふ情ぜいがあった。客のまえにでるときの琴絵はいつも、唐織の元げん禄ろく袖そでを裾すそ長ながに着ている。帯も江戸時代初期のもののような細いのを三重にまいて、その結び目をかたちよく前横にたらしている。髪はおどろくほど長く黒く、それをふっさりとうしろにたらして、さきのほうを白紙でむすんでいる。
 月琴島では昔の遺風か、はなはだ外来者を歓待するふうがある。たしかな筋の紹介があれば、いくにちでも逗とう留りゆうをゆるして倦うむふうがない。ことに当時の主人大道寺鉄馬は、右大将頼朝公の後こう裔えいであることを、非常な誇りとしているふうであったので、その宝物を拝観にきたひとびととあらば、歓待これつとめて下へもおかなかった。
 大道寺家にもむろん唐風の建物がある。時代のためにいくらかくすんではいるけれど、まだたぶんにけばけばしい色彩ののこった唐風の一室で、ほのぐらい蘭らん燈とうのもと、琴絵が月琴をいだいてかきならす姿を見たとき、だれしも桃源郷に遊ぶおもいが、しないではいられなかったであろう。
 琴絵が頼朝の子孫であるかどうかは明らかではない。あるいはそれが真実であり、その真実性を強めるために、先祖のだれかがあのような、怪しげな宝物をつくりあげ、かえってそれがために後人の、物笑いの種になっているのかも知れない。
 だが、事の真偽はさておいて、琴絵が自分を頼朝の末だと、信じていることは事実である。そして、このことがやはり、いくらかこの物語に関係があるのである。
 昭和七年、二人の学生がこの島にあそんだ。かれらもあの伝説をききつたえて好奇心を起こし、伊豆めぐりの足をのばして、月琴島へわたってきたのである。かれらはひどくこの島の風物を珍しがり、その逗留は二週間の長きにわたった。大道寺家でもたしかな筋の紹介があったので、歓待いたらざるはなかった。
 この逗留中に、琴絵はひそかに学生のひとりと契ちぎりをむすんだ。そしてふたりが島を立ち去ったのちに、はじめて自分が懐妊していることに気がついたのである。
 昭和八年、琴絵は無事に女の子をうみおとしたが、そのまえに、子供の父である学生が、無残の変死をとげたとき、琴絵はいまさらのように、多衣と頼朝とのいきさつを思い出さずにはいられなかったのである。
 だが、それらのことについては、もう少しのちに述べることにして、ここでは筆を現代にうつすことにしよう。
  怪行者 昭和二十六年五月二十五日をもって、満十八歳になる大道寺智とも子この美しさは、ほとんど比べるものがないくらいであった。
 母の琴絵も美しかった。しかし、その美しさはあくまで古風で、ひかえめで、なよなよとして頼りなげであった。それにくらべると、智子の美しさには積極性がある。彼女は純日本風にも、また、現代式にもむく顔である。瓜うり実ざね顔といえば瓜実顔だが、いくらかしもぶくれがして、両のえくぼに愛あい嬌きようがある。それでいて、おすましをしているときの智子は、神こう々ごうしいばかりの気高さと威厳にみちていた。といって、冷たい感じがするというのではない。なんといったらいいのか、智子の美しさにはボリュームがあった。そこに彼女と母との大きなちがいがある。
 それに服装なども、母の琴絵があくまで古風に、和服でおしとおしたのに反して、そこは時代の相違で、智子はいつも洋装をしている。その洋装なども、かくべつけばけばしい装飾はないのだけれど、いかにも趣味が高尚で、智子のひとがらを思わせた。頭も母に似て素性のよい髪を、肩のあたりでカットして、さきをゆるくカールしているだけのことだが、それがふっくらとした卵がたの顔をくるんで、まるで貴い宝石をつつんでいる、艶つやのいい黒ビロードのような感じであった。
 とにかく諸君があらん限りの空想力をしぼって、智子という女性を、どんなに美しく、どんなに気高く想像してもかまわない。それは決して、思いすぎということはないのだから。
 さて、この物語がはじまったころの、大道寺の一家というのを瞥べつ見けんしてみよう。それにはそんなに長くはかからないだろう。なぜといって、そこには極くわずかのひとしかいなかったのだから。

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