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第二章 開かずの間(2)_女王蜂(女王蜂)_横沟正史_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
 智子が満十八歳になったら、東京の父のもとへ引きとられるということは、ずっとまえからきまっていたことであった。それが急に祖母の槙まきや、家庭教師の秀子まで、いっしょにいくことになったのは、ほかにいろいろ理由もあるが、大道寺家が以前ほど、さかんでなくなったこともひとつの理由であった。戦後いろいろ不運つづきで、とみにかたむきはじめた大道寺家の家運は、今年に入ってから急激な没落ぶりで、もうどうにもやっていけないところまでせっぱつまってきていた。そこで奉公人にもひまを出し、いちじこの家を閉ざして、みんなで東京へ引きうつろうということになったのである。
 智子は秀子の顔色をうかがいながら、急に思い出したように立ち上がって、「先生、あたしちょっとお祖母さまをお見舞いしてきますわ。それから……」 智子はちょっとためらって、「あたし、お家のなかをみんな見てまわりたいの。だって、もうすぐお別れですもの。
あっちの別館のほうも……」 秀子は眼をあげて智子の顔を見たが、何も気がつかずに、「ええ、じゃア、そうしていらっしゃい。でも、なるべく早くかえっていらっしゃいね。
ひょっとすると今日あたり、お迎えのかたがいらっしゃるのじゃないかと思いますの」「ええ、すぐかえってきます」 智子は別館の鍵かぎを取りあげながら、なんとなくうしろめたいものを感じている。だが、それと同時に、渇くような好奇心と冒険心におどっている。彼女は今日、どうしても決行するつもりなのである。
 祖母の部屋へきてみると、寝床はもぬけのからで、祖母のすがたは見えなかった。
「あら、お祖母さま、どちらへいらしたのかしら」 何気なく縁側へ出た智子は、そのとたん、胸のいたくなるようなものを見た。
 祖母の槙ははるかむこうの椿つばき林ばやしを、椿から椿へとあるいている。そしていっぽんいっぽん立ちどまっては、その葉にさわり、枝をなでているのである。ここまではきこえないけれど、おそらくいっぽんいっぽんに話しかけているのだろう。それはきっと、いままでの労をねぎらい、お別れのことばをささやいているにちがいない。
 智子は急に、あついものが胸にこみあげ、そのまま祖母のもとにかけつけ、抱きあっていっしょに泣きたかった。しかし、すぐに彼女は思いなおして、いそぎあしでそこを出ると、暗い、長い廊下をぬけて、別館の入り口まできた。この別館には別に門もあり、玄関もあるのだけれど、母屋のほうとも、廊下でもってつながっているのである。
 廊下のはしに観かん音のんびらきの扉がついていて、いつも錠がおりている。しかし、この鍵は茶の間の壁にぶらさがっているので、智子はいま、それを持ってきたのである。
 その扉をひらくと、諸君は忽こつ然ぜんとして、別世界へ招待されたような心地になるだろう。いままでの古風な、因習と、腐朽と、頽たい廃はいの匂においのしみこんだ、ひなびた日本家屋は、この扉いちまいで、忽然として、眼もあやな唐風の世界にかわるのである。
 こってりとした彫刻と、けばけばしい色彩で装飾された調度類、色いろ硝子ガラスで唐美人をえがいた窓、金糸銀糸で竜をぬいとった重い緋ひ色いろのカーテン。いずれも古びてくすんでいるが、それでもなおかつ、昔の栄華をしのばせるに十分である。ああ、これらの部屋でとつくにびとが、どのような歓をつくしたことであろうか。
 だが、智子はそんなものには眼もくれなかった。あしばやに二つ三つ部屋をかけぬけると、最後に、壁にかかった重そうな緋色の帳とばりのまえにたちどまった。
 智子はあたりを見まわし、遠くのほうに耳をすますと、やがて胸のなかから、大きな、古びた鉄の鍵をとりだした。ああ、この鍵なのだ。智子に今日の冒険を思いたたせたのは。
 二、三日まえのことである。智子はお別れのために、裏山にある先祖代々の墓へおまいりした。彼女はそこにならんでいる、お墓のひとつひとつに、ていねいにお別れの挨あい拶さつをのべたが、とりわけ墓地の隅にあるひとつの墓のまえに、とくべつ長くぬかずいていた。その墓は奇妙な墓で、「昭和七年十月二十一日亡」と、裏面に彫ってあるきりで、ほかには一字の文字もなかった。
 しかし、智子は本能的に、これが自分のほんとうの父の墓であることを知っているのだ。幼いころ、母がよくこのお墓のまえで泣いているのを見たし、また智子にくれぐれも、このお墓を大事にするようにと、いいきかせたのをおぼえているのである。
 智子はながいこと、このお墓のまえにぬかずいていたが、そのときお墓のすぐそばにある、椿の根元の小さな穴へ、栗り鼠すが出たり入ったりするのが眼についた。
「まあ、あんなところに栗鼠が巣をつくって……」 智子はちょっとほほえましい気持ちで、穴のなかをのぞいたが、そのとき、ふと妙なものが眼についたのである。
 おや、なんでしょう。…… 智子はふしぎに思って、穴へ手をつっこみ、それを引き出したが、とたんにさっと血の気が頰ほおからひいていくのをおぼえたのである。それは大きな鉄の鍵だった。
「ああ、これなのだわ。これが開かずの間の鍵なのだわ。お母さまがここへ埋めておかれたのだわ」 そういえば、この椿をお植えになったのは、お母さまだということを、いつか誰かにきいたのをおぼえている。このお墓ができたとき、お母さまがこれをお植えになったのだということを。……ああ、その時、お母さまは椿の根元に、この鍵を埋めておかれたのだ。
……智子はめまいがする感じだった。
 そして、いま智子はその鍵をもって、帳のまえに立っている。
 智子はもういちど気息をととのえ、あたりに耳をすましてから、おののく指で帳を排した。と、そのうしろから現われたのは、見事な鳳ほう凰おうを彫刻した、大きな観音開きの扉だった。そして、そこにがっちりした南ナン京キン錠じようがかかっているのである。
 智子は幼いころから、いくどこの扉の内部を空想し夢に見たことであろう。この扉は智子がうまれてから、いちども開かれたことはなかった。いやいや、智子がうまれる数か月まえに閉ざされ、大きな南京錠をかけられたまま、二度とひらかれることはなかったのである。
 開かずの間。── それがどのように幼い智子の好奇心を刺し戟げきし、いくど彼女は、母や、祖母や、秀子に、その部屋のことを聞き、なかを見せてくれるようにねだったことであろう。ほかのことならどんなことでも、きいてくれないことはないこのひとたちも、しかし、ひとたびこの部屋のことになると、絶対に彼女の願いをききいれなかった。決してこの部屋を見たいと思ってはならないし、また、このような部屋のあることを、ひとに洩もらしてもならないといいきかされた。智子はいま、その部屋をひらこうとしているのである。
「この鍵が悪いんだ。この鍵があたしを誘惑するんだわ。この鍵が合ってくれなければ、あたし、悪いことしなくてもすむんだわ……」 だが、鍵は合った。南京錠はひらいた。運命の賽さいは投げられたのである。智子は観音開きの扉をひらいて、こわごわなかをのぞいた。どの窓もあついシェードがおりていると見えて、部屋のなかはまっくらだった。智子は壁をさぐってスイッチをひねる。と、ぱっと天井の蘭らん燈とうに灯がついた。むろん、これらの仕掛けは琴絵の父の鉄馬の代になってつけられたものである。

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