「天の川縁起その他」より
〔遊び女〕
遊び女、高級娼婦、字義通りなら「遊びの女」。エタと他の下層階級が、この女達の大きな割合を提供した。詩の意味全体は次のようになる「提灯を持ったあの若い尻軽女を見ろ。ちょっと見は可憐だ──しかし、そういうのは畜生の鬼火を燃やしている狐のちょっと見で、作り物の娘と思われる。ちょうどお前の女狐のように、古い馬の骨に過ぎないと証明されて、そうしてあの若い娼婦も、その美貌で男を愚行へと惑わす、エタよりマシな者では無かろう。」
〔狐火の……〕
遅くなった旅人が、鬼火を怖れて語ったと想像される。最後の行は二つの読みを可能とする。『こころほそい』は「気後れ」を意味し、『細い道(ほそみち)』の意味は「狭い道」で、具体的には「淋しい道」である。
〔見るかげも……〕
日本人は病気でひどく痩せ衰えた者を「見る影も無い」と言う──「見るに耐えない」感覚と同じ言い回しで使う事実から、別の表現をすることも可能である──「この霊的病気の苦悩する者の顔は見るに耐えないけれども、その上〔他所の男への〕秘めた想いから、今は顔がふたつ見える。」四行目の『おもいの他』という表現は「予想に反して」を意味するが、秘められた想いへの想像をも暗示するよう巧妙に作られている。
〔離魂病……〕
四行目は珍しい言葉の遊びになっている。『おもて』の言葉は「前」を意味するが、『おもって』という「考え」を意味する発音でも読める。したがってその詩はこのようにも翻訳できる──「彼女は本心を家の奥側に隠して、決して表の側で人から見えるようにしない──〔恋の〕影の病に苦しんでいるからだ。
〔身はここに……〕
四行目は二重の意味を表現している、というよりはむしろ暗示している。『しらが』「白髪」という言葉は、『しらず』「知らない」を暗示する。
〔たまくしげ……〕
この詩には多様な暗示が有り、翻訳して伝えるのは不可能である。日本の女性は化粧をする間ふたつの鏡(合わせ鏡)を使う──その内のひとつは手鏡で、髪型の後ろの部分の見掛けを整えるため、それを大きな固定の鏡の中に反射させて見る役に立たせる。しかし、この離魂病の場合、その女性は大きな鏡の中に見るのは顔と頭の後ろだけではなく、自分の分身が見える。この詩では、鏡のひとつが影の病を受けたため、それ自体二枚になったと述べている。更に鏡とその持ち主の魂の間に存在すると言われる、霊的共感を暗示している。
〔目は鏡、……〕
仮名で書くと同じで、発音も同様ではあるが、漢字で表現すると全く異なる『けしょう』という二つの日本の言葉が有る。仮名で書けば、『けしょうのもの』という表現で「化粧の品」や「怪物的存在」「妖魔」共に示すことができる。
〔雛型〕
『雛型』は特種な「模型」「縮小した複製」「平面描写図」他を意味する。
〔つかの間に……〕
この文章中の二重の意味を全て描写する事はできない。『つかの間』は「少しの間」や「す早く」を示すが、それは「天井の支柱〔束つか〕の間の空間〔間ま〕」をも意味できる。「桁けた」は横梁を意味するが、『けたけた笑う』は嘲あざけるやり方の笑いや含み笑いを意味する。化生はけたけたの響きで笑い声を立てる。
〔六尺の……〕
本間ほんけん屏風は、通常六日本フィート。
〔髪留め〕
笄は、現在では結い髪の下へ通すべっ甲の四角い棒に与えられた名前で、棒の端だけを露出するままにしておく。本来の髪留めは簪かんざしと呼ぶ。
〔しらゆき〕
『しらゆき』の表現は、ここで使われるように日本の詩歌の『兼用言けんようげん』つまり「二重の意図を持つ言葉」の実例として挙げられる。すぐ後の言葉と連結して、「白い雪の女」(白雪の女)という言い回しを作る──すぐ前の言葉と結合すると「何処へ行ったか知らない」(行方は知ら〔ず〕)という読みを示す。
〔ぞっと〕
『ぞっと』は、そのまま表現するのが困難な言葉で、おそらく最も近い英語の相当する語句は「スリリング」である。『ぞっとする』は「スリルを引き寄せる」や「ショックを与える」や「震えを作り出す」を示し、非常に美しい者をこう言う「ぞっとするほどの美人」──意味は「非常に可憐なので、見るだけで人に衝撃を与える女。」最後の行の『柳腰』の表現は、細身と優雅な姿に付けられた共通する言い回しであり、ここで読者は表現の前半が、二重の役割を果たすよう巧妙に作られているのに気が付くだろう──柳の枝が雪の重みで下がる優雅さだけでなく、寒さにも関わらず必ず人が立ち止まり賞賛する人間らしい姿の優雅さをも、その文脈は暗示している。
〔えりもとへ……〕
『柄杓』は長い取っ手の付いた木製の杓子しゃくし、水を手桶から小さな容器へ移すために使われた。
〔幽霊に……〕
一般的に『腰が抜ける』の表現は、恐ろしくて立ち上がれない意味である。船長は柄杓の底を叩いて外そうとする間、幽霊へ渡す前に恐怖から人事不省に陥った。
〔幽霊は……〕
死者の住む冥府は、その名前をふたつの漢字でそれぞれ「黄」と「泉」と書き、黄泉──『よみ』あるいは『こうせん』──と呼ばれる。大洋の非常に古くからの表現で、昔の神道の儀式によく使われたのが「青海原」である。
〔その姿……〕
終わりの二行には、翻訳不能な言葉の上での遊びが有る。表現上、ふた通りの読みが可能である。
〔つみふかき……〕
この詩には表現上の示唆よりも、不気味さが存在する。四行目の『浮かまん』の言葉は、「たぶん浮かぶだろう」や「たぶん救われるだろう」(仏教徒に於ける魂の救済)のように表現できる──『浮かみ』にはふたつの動詞が存在する。古い迷信によれば、このように溺死した霊は、生者を破滅へと誘い込める時まで、水の中に住み続けなくてはならない。どんな溺死した者の幽霊でも誰かの溺死に成功すれば、転生を得て永久に海から去れるだろう。この詩の幽霊の歓喜の叫びの本当の意味は、「今から誰かを溺死させられるかも知れない。」(非常によく似た迷信は、ブルターニュ沿岸に存在すると言われている。)人の後をぴったり追うしつこい子供や誰かのことを一般の日本人はこう言う「川で死んだ幽霊のような連れ欲しがる。」──「どこにでも着いて来たがるあなたは、溺死者の幽霊みたいだ。」
〔浮かまんと……〕
ここでの様々な言葉の遊びを表現する試みはできないが、『おもい』の言い回しには説明が必要だ。それは「思う」や「考える」を意味するが、日常会話の言葉遣いでは、しばしば死にゆく者の復讐への最後の望みを、遠回しに表現する際に使われる。様々な芝居で「幽霊の復讐」を意図して使われた。「『思い』が帰って来た」このような──死者に言及した──叫びの本当の意味は、「怒れる幽霊が現れた。」である。
〔うらめしき……〕
最後の行の『とももり』の名前の使用は、二重の意味が与えられている。『とも』の意味は「船尾(艫とも)」、『もり』の意味は「漏れる」となる。そうするとこの詩は、知盛の幽霊が船の梶の邪魔をするだけではなく、漏れの原因になると暗示する。
〔落ち入れて〕
『なまくさき風』の本来の意味は、「生物なまものの悪臭」を含んだ風だが、詩の二行目で餌の臭いを暗示している。この場合、文字通りの解釈はできない、全体の構図が暗示だからである。
〔しおひには……〕
詩の一行目の三番目の音節『ひ』は、「引き潮」と「乾いた浜辺」の『干潟ひかた』の「ひ」を示す役割を持っている。『勢揃え』は、ローマの専門用語「アキエス」の感覚で「布陣」を示す名詞である──そして『勢揃えして』の意味は「全隊整列」である。
〔西海に……〕
平家つまり平たいら氏の旗印は赤、一方その仇敵である源氏つまり源みなもとは白であった。
〔味方みな……〕
五行目の『はさみ』の言葉の使われ方は、とても良い兼用言の実例である。蟹や刃物のハサミを意味する『はさみ』という名詞が有って、『はさみ』という心に抱くや、大事にする、慰めるを意味する動詞も存在する。(『遺恨をはさむ』は、「敵への恨みを心に抱く」を意味する。)次とのつながりだけで言葉を読むと『はさみ持ちけり』の表現は 「ハサミを持つ」であるが、先行する言葉と共に『遺恨を胸にはさみ』の言い回しだと「恨みを胸で養う」となる。
〔床の間に……〕
日本の部屋の『床の間』は、常に絵を吊り、花を入れた花瓶か小さくした木が置かれた、装飾目的の窪みや小部屋の一種。
〔たくみ〕
『たくみ』の言葉は仮名で書かれているから、「大工」や「陰謀」「悪だくみ」「邪悪なからくり」のどれでも表現できる。このようなふたつの読み方が可能である。ある読み方によれば、柱は不注意から逆さまに据え付けられた、もう一方によると、それは悪意から故意にそうして据え付けられた。
〔うえしたを……〕
字義通りなら「逆さまの事態の悲しみ」。『逆さまごと』「逆さまな事件」は、災難、反対、逆境、無念の庶民的な表現。
〔壁に有る耳よ〕
諺ことわざを暗示する『壁に耳あり』であるが、意味は「私的であっても、他人についての話し方には気をつけろ。」
〔売り家の……〕
四行目に、意訳できる表現よりも更に多くを暗示する語呂合わせが存在する。『われ』の意味は状況によって「私」「私の物」「自前の」等々、『われ め』(と間を開ければ)「私の目」と解釈するのだろうが『われめ』(と続ければ)ひび割れ、裂け目、分離、亀裂を意味する。読者は『逆柱』の用語が「逆さまの柱」だけではなく、逆さまの柱の妖魔や化生を意味すると覚えているだろう。
〔おもいきや……〕
言い換えれば「額の詩さえも逆さま」──全く正しくない。『はしら掛け』(「柱に吊るされる物」)は、銘木の薄い板を指定し、彫ったり描いたりして、装飾として柱へ吊るす。
〔化け地蔵〕
おそらくこの用語は「形状が変化する地蔵」に与えられたのだろう。動詞の『化ける』が意味するのは、姿を変える、変身を経験する、怪異を起こす、その他諸々の超自然的事象である。
〔なにげなき……〕
花崗岩の日本語は『御影』、神徳や天皇に関して用いる敬語の『御影』もまた存在し、それが示すのは「尊い容姿」「神聖な霊気」等々……文字通りの解釈では、後半の読みの五行目の効果を暗示できない。『影』が示すのは「陰」「姿」「力」──特に見えない力 、前に付く敬称の『御』は、神々しい名称や特質に添える「高貴な」と解釈できるだろう。
〔板ひとえ……〕
洒落が手に負えない……『あやしい』の意味は「怪しい」「不思議な」「超自然的な」「妖しい」「疑わしい」──始めの二行は仏教徒の諺を典拠としている『船板一枚下は地獄』(拙著『仏陀の畠の落穂』二〇六ページに、この格言への参照がもうひとつ有るので見られたし 。)
〔札ふだへがし〕
『へがし』は、動詞『剥へぐ』「もぎ取る」「剥むく」「引き剥がす」「分離する」の使役形である。『札へがし』の用語は「尊い護符を剥がす幽霊」を示す。読者は拙著「霊的な日本より」の中で、『札へがし』にまつわる良質な日本の話を見付けられる。
〔へがさんと……〕
四行目は二通りの読み方をさせる──
『なんまいだ』──「そこに何枚の紙があるのか」『なむあみだ』──「阿弥陀仏に帰依します」
『南無阿弥陀仏』の祈りは、真宗の多くの信者が主に唱えるが、特に死者への祈りには他の宗派でも使われる。それを繰り返す間、仏教徒の数珠で祈りの声を数える習慣を、「数えて」の言葉の使い方で暗示している。
〔夜嵐に……〕
三行目の『ふる』の言葉は、二重の役割を果たしている──形容詞の「古〔い〕」と動詞の「振る」である。『生首』という古い表現(文字通りなら新鮮な頭)は、切断されてから間が無くまだ血が滲み出す人の頭を意味する。
〔草も気も……〕
仮名の「め」でふたつの日本の言葉が書かれている──片方の意味は「芽」であり、もう一方は「目」である。同様に「はな」の語句も「花」と「鼻」のどちらの意味にもなる。不気味さで、この短歌は明らかに成功している。
〔灯火ともしびの……〕
『あやしげ』は「怪しい」「奇妙な」「超自然的な」「疑わしい」の形容詞『あやし』の名詞形。『影』という言葉は「光」と「陰」の両方を示す──ここでは二重の暗示に使われている。昔の日本で使われた灯火には椿の実から採った植物油が使われていた。読者は古椿の言い回しは、椿の妖かしと同等の表現だと覚えているだろう──椿は古くなった物だけが妖木に変わると想像された。
〔牡丹〕
牡丹はここで言及する──ある花は日本で非常に尊重された 。八世紀にチャイナから輸入されたと言われ、今では五〇〇を下らない種類が日本の庭師によって栽培されている。