夏の日の夢
THE DREAM OF A SUMMER DAY
小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳
1
その旅館は、楽園のように思えたし、女中メイドたちも天女のようだった。これは、条約による五開港のうちの一つの長崎から逃げるように帰って来たばかりだからであった。というのも、当初、そこで「改良物」ですべて調えられたヨーロッパ式のホテルでの快適さを、私が敢えて求めようとしたからだった。それだけに、ここで浴衣を着て、くつろぎ、ひんやりした座布団に座り、よろしき声の女中たちのもてなしを受けて、美しい調度品に囲まれているのは、一九世紀のあらゆる罪悪から救われた気分だった。朝食には筍と蓮根が出て、また宿泊の記念にと団扇うちわが配られた。団扇には、海岸に打ち寄せる大波と青空から歓喜して獲物を狙う海鳥が描かれていて、眺めていると旅の難儀さを忘れるようであった。それには、光の輝きと動きの一刹那、それに海風の勝利が、すべてこの一枚に描かれているのであった。これを見たとき、あっと叫びたいと思ったほどである。
二階のバルコニーの杉の円柱の間からは――黄色い小舟がもの憂げに停泊している――三角みすみ港が見え、その湾曲した浜辺に沿って、綺麗な灰色の町並みが望める。
そして、釣り鐘を伏したような、緑の大きな岩山と岩山の間に、港の開口部があり――その向こうにある地平線にはきらきらした夏の輝きがあった。水平線の辺りには、古い記憶のように、山々の影がぼんやりとしている。灰色の町と黄色い舟と緑の崖の他は、みんな青色であった。
そのとき、風鈴の音ねを聴くようなすずやかな声で、「ご免くださいまし」という丁寧な言葉が聞こえると、私はうたた寝の白昼夢から覚めた。それは、旅館の女主人が茶代(1)のお礼にやってきたもので、私も両手を付いてお辞儀をした。彼女はとても若くて、歌川国貞の「胡蝶の美女」や「青蛾の娘図」を思わせる、うっとりするような、とても愛想の良い人だった。だが、私は、その時、ふと死を連想した。というのは美人薄命といわれることがあるからだった。
女主人は、お出かけなさいますなら、人力車くるまをお呼びしましょうかと訊ねた。
私はつぎのように返事した。
「熊本ヘ帰リマスデス。コノ、ホテルノ名ハ何トイイマスカ? キット覚エテァ’デス。」
「お部屋はたいしたものじゃございませんし、それに女中たちもよく躾けられてはおりませんが。浦島屋と申します。それでは、お車を呼ばせましょう。」 彼女の音楽を奏でるような声が過ぎ去ってしまうと、私に掛けられた――霊的な網のようにスリリングな――魔法が解けるように感じた。旅館の名も、男に魔法を掛ける詩歌の物語と同じ名前だった。
注
(1)旅館に着いて、しばらくして宿泊代などの他に客が与える心付け。チップ。