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夏の日の夢 5_小泉八云_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3337
 長浜村は、道路の近くの緑の崖の麓にあって、杉の木立の影にある岩の池の周りに、全部で一二軒ばかりの茅葺き屋根の農家が散在している。池は冷たい水であふれ、崖の中心から直線的に跳ね出してくる流れから満たされている。――それは、ちょうど、あたかも詩人の心から直接に詩が浮かんでくることを人々が想像するかのように――。ここは人力車や休息している人たちの数から測ると――明らかにお気に入りの休息場所だった。木陰にはベンチがいくつか置かれていた。喉の渇きを癒した後、私はそこに腰掛けて、煙草をくゆらしていた。そして、女の人が洗濯をしたり、また、旅の者たちが池で一息入れているのを眺めたりしていた――私の車夫も服を脱いで冷たい水の桶で水浴びをしていた。すると、背中に赤ん坊を背負った若い男が私にお茶を運んできた。私が赤ん坊をあやすと、その子は「あァ、ばァ」と言った。
 これが日本人の赤ん坊が発した最初の声である。しかし、これはとても東洋的である。それはローマ字では Aba と書かれよう。そして、まだ教えられていない発声としての Aba は興味深いのである。それは、日本の子どもたちの話しぶりでは、「さようなら」に当たる言葉である――これは、とても、幼児がこの幻想の世界に入ってくるときに発する言葉とは思えないものである。この小さな魂が、誰あるいは何に向かってさようならと言っているのか?――まだ親しく覚えている前世での友だちに向かってか?
――あるいは誰も知らない影のような旅の仲間たちにか? 子どもたちは私たちのために決心できないのだから――つぎのように考えることが、おそらく信心深い観点からは安全といえるのではあるまいか。赤ん坊が、はじめて発声する不思議な瞬間に、何を考えていたのか、この疑問に答えられるほど成長した暁には、そんなことはすっかり忘れ去っているものなのだ、と。
 思いがけず、多くの思い出が蘇ってきた――たぶん赤ん坊を負ぶった若い男を見たからか、また岩清水のざわめきのためだったか。つぎの昔話を思い出した。
 昔むかし、ある山の中に、貧しい木樵の夫婦が住んでいた。二人はすっかり年老いていて、子どもがなかった。おじいさんは、毎日、木樵に出かけ、おばあさんは家で機織りをしていた。
 ある日、おじいさんはある木を切るためにいつもより深く森の中へ入った。すると、突然、これまでに見たこともない小さな池の端に立っていた。水は不思議なほど澄んでいて、冷たかった。彼は喉が渇いていた。その日はとても暑かったし、また一生懸命に働いたからだった。そこで、自分の大きな編み笠を脱ぐと、跪ひざまづいて、しばらく、水を飲んだ。この水は思いがけないほど新鮮な気分にしてくれた。それから、池の中に浮かぶ自分の顔を見ると、思わず後退あとずさりした。確かに自分の顔のようではあったが、家の古い鏡で見慣れた顔とはまったくといっていいほど違っていた。それはとても若い男の顔だった! 自分の目を疑った。彼は両手を頭に差し伸べると、ほんの少し前にはほとんど禿げていたが、今は黒い髪がふさふさとしている。また彼の顔は少年のようになめらかだった。皺しわは全部消え去っていた。その時、彼は新しい力がみなぎるのを感じた。彼はこれまで老化して萎なえていた手足を驚きを持って見つめると、それらは若い筋肉で、くっきりと、また固くなっていた。知らなかったのだが、彼は、「若返りの泉」の水を飲んだのである。それを飲んだことが彼を変化させたのである。
 まず、彼は小躍りして、歓喜の叫び声を上げた。そして、人生の中で、これまで走ったどの時よりも速く走って家に戻った。家に入るや妻が驚いた。――というのは、彼女は見知らぬ若者と思ったからだった。彼はこの不思議な出来事を語ったが、妻はにわかには信じられなかった。けれども、しばらくしてやっと、眼前に居る若い男が本当の自分の夫だと信じることができた。彼は不老の泉の在りかを教えて、一緒に行こうと言った。
 すると、おばあさんが言った。「あなたは美男子になって若返ったので、老婆を愛することはできないでしょう。ならば、私もすぐにそれを飲まなければならないでしょう。しかし、家から遠いところに二人一緒に出かけることはありますまい。私ひとりで行きますので、あなたはここで待っていてくだされ。」 すると、彼女は一人で森の方へ駆けだした。
 おばあさんは、泉を見つけて跪いて、水を飲み始めた。おお! 何という冷たさ、それになんと甘露だろうか! 老婆は飲みに飲み続けて、息を継ぎ、そしてまた飲んだ。
 彼女の夫は辛抱強く待った。彼は老妻が綺麗な細身の少女となって戻ってくるものと思っていた。しかし、彼女はついに帰って来なかった。彼は心配して、家の戸締まりをして、探しに出かけた。
 泉の所まで来たが、彼女の姿は見あたらなかった。もう帰ろうとするところまで来たとき、泉の近くの丈の高い草の茂みの中に小さな泣き声を聞いた。そこに行ってみると、彼の妻の服と――それはとても小さな子でおそらくは生後六ヶ月くらいの――赤ん坊を見つけた!
 というのは、老妻は魔法の水をたくさん飲み過ぎていたのだった。飲み過ぎたために、若い時期をはるかに超えて、まだ口のきけない幼児の頃まで戻ってしまった。
 赤ん坊を腕に抱き上げたが、赤ん坊は悲しげに、どうしたらよいかわからない気持ちで夫を見上げた。赤ん坊をあやしながら――不思議な思いで、また憂鬱な気持ちで、夫は家に連れ帰った。
 浦島について空想した後では、この物語の教訓は、以前に読んだときよりも満足のいくものではないようだ。というのは、人生の泉を飲み過ぎてしまえば、私たちが若返ることはないからである。
 裸で涼しくなって、車夫が戻ってきた。申し訳なかですが、この暑さじゃ、とてもお約束の四〇キロを走ることは無理です。けれど、残りの道のりを走ってくれる代わりの車夫がおりますから、と言う。そして、これまで走った分は五五銭でいいですから、と言った。
 本当にとても暑い日だった。三七?七度以上だったと後で知った。遠くで、雨乞いの太鼓の音が、暑さそれ自体の脈拍でもあるかのように途切れることなくドーン、ドーン、ドン、ドン、ドンと響いていた。そして、私は乙姫様のことを思った。「七五銭ですよ、と乙姫様は言った」ので、これを守ることにした。「アナタ、約束ドァ£デナイデス。ケレド、七五銭、払ウデス――ワタシ、神様恐こワイデスカラネ。」 今度は、まだ疲れていない車夫の後ろに座って、私はまた炎天の中へと疾走していった――太鼓の大きな音のする方へと。
 

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11/25 20:46