九州の学生とともに
WITH KYUSHU STUDENTS
小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳
1
官立の高等中学校(a)の学生たちは、かろうじて少年と呼べるくらいであろう。彼らの年齢が低学年では平均一八歳から、高学年の平均が二五歳までというように広い幅があるからである。修業年限がおそらく長すぎるのである。最も優秀な学生ですら二三歳にならないと帝国大学に進学することは期待できない。また、大学に進学するには、漢文の修得に加えて、英語もしくは独語から一科目、英語もしくは仏語から一科目について優れた実践的知識の修得が要件となっている(1)。このように、学生は日本語という優雅な国語の他に、三つもの言語を学習しなくてはならない。漢文の修得だけでも、ヨーロッパの言語を六つも習得するほどの労力に匹敵するのだから、学業の負担がいかに過重であるかを理解してもらえるだろうか。
熊本の学生たちから私が受ける印象は、出雲の中学校の生徒たちから受けた第一印象とはまったく違っている。これは九州の学生たちがすでに日本人の少年時代のとても素直な期間を経験しており、また誠実で無口な大人へと成長しているからばかりではなく、九州気質とでも呼ばれるものをかなりの程度表しているからである。九州は、古くから日本の最も保守的な地方であり、その中心である熊本市は保守的な気分の横溢したところである。とはいっても、この保守主義は理性的かつ実用的なものである。現に九州地方は、鉄道を敷設するのは早かったし、農業改良技術を取り入れたり、またいくつかの産業では科学技術を採用もしている。ただ国内の他の地域と異なって西洋の風俗習慣は模倣しようとせず、古来のサムライ精神がなお生きている。また九州魂というのは何世紀にも渡って、生活習慣のかなりの単純さから抽出されたものである。豪華な服装はじめそのほかの贅沢を禁じる奢侈禁止令は厳格に実行されている。このような決まり自体は時代を経て古くなってきているが、それらの影響は人びとのとても質素な服装やありのままの直截なマナーに現われている。熊本人は他のところでは大方は忘れられた行為の伝統に固執しており、また話し方や行動の、ある独特の開放感――外国人には定義が難しいのだが、教養ある日本人にはすでに自明のものである――によって特徴づけられているとも言われている。ここ熊本はまた、加藤清正公の堅固な城――現在駐屯するおびただしい第六師団兵――の威光の下に国を思う意識、つまり国への忠誠心や愛国の精神は首都東京よりもはるかに強いとさえ言われている。熊本はこれらを自負し、その伝統を誇りともしている。事実、他に自慢するものはないのだが。熊本の町はだだっ広く点在しており、また単調で雑然としている。つまり、古風で趣のある綺麗な通りや大きな寺院がある訳でもないし、また素晴らしい庭園がある訳でもない。この町は明治一〇年の西南戦争で焼失してしまったので、戦役の硝煙弾雨が消える間もなくにわかに普請された小屋の建ち並ぶ焼け野原といった印象である。取り分けて訪れる場所とてなく(すくなくとも市の区域では)、見るべきものや娯楽となるものもない。まさしくこのゆえに、この学校はうまく設置されたともいえる。つまり、学生たちにとっては誘惑となるものや気をそらすものがないという次第である。しかし、別の理由から、遠く離れた首都東京に住む富裕な人びとは、自分たちの子弟をこの熊本に送り込もうとしている。青年がいわゆる“九州魂”を吹き込まれ、また九州の“気質”と呼ばれるものを備えているのが望ましいと考えてのことである。熊本の学生たちはこの“気質”のために、この帝国の中では最も特徴的な学生たちといえる。私は、この“気質”と呼ばれるものをどのように定義したらよいか十分に理解している訳ではないが、それは敢えて言うと、九州の古武士(サムライ)の品行にかなり近いものであるようだ。東京や京都から送り出されて来た学生たちは、明らかにかなり異なった環境に自分たちを適合させなければならない。とくに熊本や鹿児島の若者たちは――学生は、教練の時間や他の特別な場合を除き、制服の着用を義務づけられているのだが――昔の武士の衣装に似た服装に今なお執着している。つまり、膝下まである袴と高下駄を履き、羽織を着て――剣舞歌けんばいかで陽気に浮かれ騒いでいる。服の素材は安く粗末なものであり、色も地味なものである。足袋という足の指が切れ込んだ靴下をめったに履くこともない。極寒の折とか長い行軍の時に草履の緒が足に食い込むのを防ぐために履くくらいである。乱暴とまではいえないけれど、品行は優しくはない。青年たちは特徴のある外面的な剛健さをあえて養っているようなところがある。彼らはまったく異常な状況下にあっても沈着冷静という外観を装うことができる。しかし、この自制心の下には力についての強靭な自意識があって、それは、ごく稀な場合には脅威的な形で現れることがある。彼らはその東洋的な流儀では一種の猛者、蛮カラな人物と呼べよう。私が知っている学生たちは、比較的裕福な家の生まれであるが、自分たちが身体的苦痛にどれくらい堪えうるかを鍛錬することに熱心で、遊びには皆目関心がない。かなりの者たちが自分たちの高い理想のためには、躊躇なく自らの命を捨てる覚悟である。それはひとたび国難の噂あれば、全学四〇〇名(b)の集団を直ちに鉄の軍隊に変えてしまうほどである。しかし、彼らの外面的態度は理解に苦しむ程だが、通常は平然としている。
私は、彼らが笑顔も見せず、その落ち着き払った表情の下にどんな感情、感覚や観念が隠されているのだろうかと長い間不思議に思ってきた。日本人の教師たちは実際政府の官吏であるが、学生たちの誰とも親しく言葉を交わす間柄ではないように見えた。というのは、私が出雲で見たような親愛の情のある親しい間柄といったものはここでは見かけなかったからだ。教える側と教えられる側の関係は授業の始業や終業の合図であるラッパの音で始まりまた終わるといった類いのものだった。これについては後になって私が少し誤解していたことが分かった。というのは、このような関係はなお実際に存在しているが、大半は自然なというより形式的?儀礼的なものだった。そして、私が「神々の国」を離れて以来思い出として残っている、あの懐かしい師弟愛とはまるっきり異なっているのである。
しかし、その後になって、この内面生活について、表面に見えるものよりもっと魅力的なもの――つまり感情を持った個性についての示唆――にたびたび思い至った。日常の会話から得られたものは少ないが、作文の課題からたくさん得られた。英作文の課題
が時として思索と感情のいくつかのまったく思いがけない開花を促したといえる。とりわけ興味深い事実は、装われた羞恥心あるいはある種の恥じらいがまったくなかったことである。つまり、若者たちは自分たちが感じたことや願ったことを恥じることなく有るがままに書いてくれた。自分たちの家庭のことや両親への敬愛の情、子どもの頃の幸福な経験や友情、それに休暇中の出来事について書いた。そして、これは、作為的にならずにまったく率直に書かれているので、私は素晴らしいと思った。私は何度も驚かされた後、提出された優秀な作文についてどうしてはじめからメモを取って置かなかったのかと後悔している。私は、週に一回提出された作文のうちで出来の良い作品を幾篇か選び出して、教室で読み上げて訂正し、残りは家に持ち帰って添削した。秀逸な作品を私が必ず朗読した訳ではないし、また学級全体の観点から逐一批評しなかったものもある。それは、つぎに取り上げるいつかの例が示しているように、方法として批評を加えるにはあまりにも内面にかかわる畏れ多い事柄を扱っていたからである。
英作文の時間につぎのような問題を課題として出した。「人がもっとも永く記憶しているものは何か?」ある学生はつぎのように書いている。私たちはもっとも幸福だった瞬間ときのことを他に経験した事柄よりも覚えています。それは、私たちが理性的な存在であり、不愉快なことや苦痛なことはできるかぎり早く忘れてしまおうという性質があるためです、と。私は発想豊かな答案もたくさん受け取ったが、それらのうちにはこの問いについてたいへん鋭い心理的考察を施したものもあった。しかし、苦痛な事柄が最も永く記憶されると考えるとした学生の純真な答えを私は気に入った。その学生はつぎのように書いた。一字も変える必要はなかろうと思った。
「人は何をもっとも永く記憶するか? 私は困難な状況で見たり聞いたりしたものをもっとも長らく覚えているものだと考える。
私がほんの四歳の頃に大切な、愛しい母が亡くなりました。それは冬のある日のことでした。風が強く吹いて樹木を揺らしており、わが家の屋根を吹き廻しておりました。
木の枝には葉はあまりありません。鶉うずらが遠くで――悲しげな鳴き声で――鳴いていました。私は自分がしたことを思い出しました。母が寝床に寝ているとき――死ぬ少し前です――私は母にみかんをあげたのです。母は微笑んで受け取って食べました。それが母が微笑んだ最後の瞬間でした。‥‥母が息を引き取ってから今日まで十六年が経ちました。けれど、私にとっては現在いまのようです。しかも、今は冬ですが、外では母が死んだときに吹いていたと同じ風が吹いています。鶉もまた同じように鳴いています。すべては同じで変わりません。けれど、母は逝ってしまってもう帰ってきません。」
つぎのも同じテーマで書かれたものである。
「これまでのうちでとても悲しかったのは父の死です。私が七歳の折でした。父は一日中病床に臥し、私の玩具は片付けられていたことを思い出しました。また、とてもひっそりとしていたことを覚えています。その日の朝父を見かけませんでした。その日はとても長く感じられました。ついに、父の部屋に入り込むと、父の頭に口を近づけて、「お父さん、お父さん!」とささやきました。――その頭はとても冷たかったです。父は何も答えませんでした。叔父さんが来て私を部屋から連れ出しましたが、何も言いません。それで、私は父が死ぬのではないかと思いました。というのは、ちょうど妹が死んだときと同じように、父の頬がとても冷たく感じたからです。その夕方、近所の人たちや他の人たちもたくさんわが家にやって来て、私の機嫌を取ってくれましたので、しばらくは幸福な気分でした。けれど、その夜父が運び出されるともう父の姿を見ることはありませんでした。」