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これまで述べたことから、日本の高等学校における英作文がとても単純なものであると思われるかも知れない。けれど、逆もまた真なりで、ごく些細な事柄を大げさに言うという一般的傾向もあり、また平易な短文よりも複雑な長文を好む傾向もある。これに関してはいくつかの理由があるが、それにはチェンバレン教授による言語学の論文を必要としよう。しかし、この傾向そのものは――現在採用されている出来の良くない教科書によって繰り返し強化されているものであり――英語表現のきわめてシンプルな形式は日本人にとっては非常に曖昧に映るという事実からもある程度は理解されるものである――つまりそれらがいかにも英語らしい慣用表現であるからだ。学生たちにはそれらは不可解なものに映る――というのは、英語の慣用表現の背後にある根本の考えが彼らのとは大いに異なっているからである。これらの考え方を説明するには、まず日本人の心理について少し知る必要がある。そして、簡明な熟語表現を避けるときには、日本人は本能的にもっとも抵抗の少ない方向に向かうのである。
私は反対の傾向も育てようといろいろ試みた。時々は、私はよく知られた話をクラスのために、すべてシンプルな文章でまた一音節の易しい単語で書いた。また、自然と簡明に書くように仕向けるような作文課題を出した。もちろん、私の目的がすべて大変うまく行ったわけではないが、それに関してなかでも――「私の学校での最初の日」――という課題を出したときには、かなり多くの作文の提出を啓発したが、他方でそれは感情と性格の誠実さを発露するものとして私のまったく別の興味を惹いたのである。つぎに私が少し手を入れて簡略した二―三のものを披露しよう。彼らの純真さは魅力があるものであった。――とくにそれらが子どもの回想ではないことを思うならばである。つぎに掲げる作文などはその優れたものの一つと思われるものである。
私が八歳になるまでは学校には行っていませんでした。友だちはもう学校に行っていたので、父に何度も行かせてくれるように頼みましたが、父は私の体がまだ十分に頑丈ではないと考えて行かせてくれませんでした。それで私は家で弟たちと遊んでいました。
私が初めて学校に行く日に兄が付き添ってくれました。兄は先生と話をして、私をそのまま置いて行きました。先生は私を教室に呼び入れて、席に着くように言うと、私はまた一人残されました。その間、私は静まりかえった場所に座ったままでしたので、悲しくなりました。もう遊んでくれる弟もいません。――周りにはただ見知らぬ子どもたちがいるばかりです。鐘が二度鳴ると、先生が教室に来られました。そして、石板を出すように言われました。黒板に漢字を書くと私たちにそれを書き留めなさいといいました。その日は、二つの日本語の書き方を習って、また良い子について話をして下さいました。家に帰ると走って母の所へ行きました。母の傍らに座って、今日先生教わったことを話しました。私の喜びはそのときどんなにか大きかったでしょう! 私の担任の先生が、父よりも、あるいは私が知っているどんな人物よりももっと学のある人である、――世界中で最も畏敬を覚え、かつまたもっとも親切な人であると、その時は思いました。
つぎの文も教師の非常に面白い面を示している。
私が入学するはじめての日に兄と姉が学校へ連れて行ってくれました。学校でも――ちょうど家でそうであるように――自分の席は兄と姉の隣にあるのだろうと思っていました。先生は教室へ行くようにと言われましたが、そこは兄や姉の教室から遠く離れたところでした。私は兄と姉の傍の席に居たいと言い張りました。先生がそれはできませんよと言ったので、私は泣き出しダダをこねて大騒ぎしました。それで、仕方なく先生方は兄が自分の組を離れて私の教室の私の隣の席にいることを許してくれました。そしてしばらくすると、自分の組にも遊び仲間がいることに気がつきました。それからは兄が側にいなくても怖くはありませんでした。
つぎもまた、きわめて微笑ましく、また本当のことである。
先生(校長先生ではないかと思う)が、私を自分のところへ来るように呼ばれました。それから、私に末は偉い学者にならなければいけないよと言いました。そして、誰かに私を教室まで連れて行くように命じました。私の組には四〇から五〇人くらいの生徒たちがいました。私はそのとき、たくさんの友だちがいると思うと怖い気もし、また嬉しい気もしました。みんなは恥ずかしそうに私を見ていましたし、私も恥ずかしげにみんなを見渡しました。最初、私は彼らにどんな風に話しかけようかと思いました。小さな子どもたちがそうであるように無邪気な気持ちでした。そうこうするうちに、どうにかこうにか一緒に遊び始めました。それからみんなも私が自分たちと遊ぶことを喜んでいるようでした。
上に掲げた三つの作文は、教師の側に体罰を禁止している現行の教育制度下における、若者たちの最初の登校日の話である。しかし、私には、それ以前の教師はあまり優しくはなかったのだろうと思った。つぎに挙げる三つの作文は年長の学生によるものであるが、まったく違った体験をしているようである。
(1)明治以前のわが国には現在のような公立学校はありませんでした。しかし、あらゆる藩には、武士階級の子弟で構成される一種の学生組織のようなものがありました。
ぁ〉ムライの子弟でないとその組織に入ることはできません。そこは、生徒らを規律する指導者を任命した藩主の統率の下にありました。武士の主な学問は漢文と漢文学でした。現在の政府の政治家の主だった者たちのほとんどはこの士族のための藩校の出身者たちです。一般の市民や田舎の人たちは息子や娘たちを「寺子屋」と呼ばれる初等教育を教えるところ通わせました。そこでは、一人の先生がたいていはいろんな科目を教えています。読み書き、そろばん、それに幾分かの修身教育がその主なものです。私たちは日常の手紙やごく簡単な作文を書くことを学びます。私は士族の子ではなかったので、八歳になると寺子屋に行きました。最初のうちは行きたくはありませんでした。すると毎朝、祖父が行くようにと私を杖で叩きました。寺子屋の規律はとても厳しかったです。もし子どもが従わなかったときは――自分の罰を受け容れるようにと押さえつけられて――青竹で叩かれるのでした。一年ばかり経つと、多くの公立学校が開設されました。私もそこに入りました。
(2)大きな門、荘重な建物それと長椅子が並べてあるとても大きくて陰鬱な部屋――これらを覚えています。先生方はとても厳しそうに見えました。私は彼らの顔が好きではありませんでした。私が教室の長椅子に座ると、なんだか気にくわない感じがしました。先生方は親切そうには見えません。私は周りの子どもたちの誰も知りませんし、誰も私に話しかけもしません。先生が黒板の傍に立つと、氏名を読み上げ始めました。手には笞を持っています。自分の名前が呼ばれたとき、返事することができませんでした。しまいには泣き出してしまいました。私は家に送り返されました。これが学校に行った初日でした。
(3)私は七歳のときに、生まれた村にある学校に入れられました。父が二―三本の筆と紙を何枚かくれました。私はこれらをもらったことがすごく嬉しくて、一生懸命に勉強すると約束しました。けれど、学校に初めて行った日はとても不愉快なものでした! 学校に行くと私の知っている子どもは誰もいませんので、友達は一人もいないと気づいたのでした。教室に入ると、先生は笞を持っていて、とても大きな声で私の名前を呼びました。私はそれを聞いてとてもびっくりして泣き出しました。すると少年たちは大きな笑い声を上げました。先生は彼らを叱り、そのうちの一人を笞で叩きました。
けれども先生は私に向かって、「私の声を怖がらなくていい。何という名だ?」といいました。私は泣き声ながらに自分の名前を言いました。そのとき、私は学校とは泣いたり笑ったりもできない性に合わない場所のように思えました。私はすぐにでも家へ帰りたかったです。でも、そうすることはできないとも思いました。授業が終わるまでやっとの思いで留まっていました。家に帰ったとき、父に学校で感じたことを言いました。
そして、「もう学校へは行きたくない」と言いました。
もちろん、つぎの記憶は現在の明治のものである。それは、作文として、私たちが西洋で性格と呼んでいるものを証明するものである。六歳で自立しようという示唆はとても甘美である。幼い弟が、初めて学校に出て行く日に、小さな姉が自分の白足袋を脱いで弟に履かせてやったことの回想である。
私が六歳のときでした。朝、母が早めに起こしました。姉は自分の履いている足袋を私にくれました――私はとても幸福でした。父は使用人に私を学校まで送るようにと命じました。けれども、私は送ってもらうのを断りました。自分ひとりで行けると思いたいからでした。私は一人で出かけました。学校は家からそんなに遠くはありませんでしたので、やがて正門の前に着きました。私は門の中へ入ってゆくどの子たちも知りませんでした。しばらくそこに突っ立ったままでした。少年少女らは、家族の者や使用人に付き添われて学校の中へと入って行きました。中を覗くと、遊んでいる子どもたちを見て、羨ましかったです。しかし、中で遊んでいる小さな男の子が私に気づくと、微笑みながら駆け寄ってきました。そのとき、私はとても嬉しかったです。私も彼のところに歩み寄り、手と手を繋ぎました。ついに、先生が私たち全員を教室に呼んでお話をされましたが、私には何のことか分かりませんでした。その後は、私たちはその日は自由となりました。それが私の学校での初日でした。友だちと一緒に家へ帰りました。両親は果物と菓子を用意して待っていてくれました。私と友だちは一緒に食べました。
別の学生はつぎのように書いている。
初めて学校に行ったのは六歳のときでした。祖父が教科書と石版を私のために運んでくれたことや先生と子どもたちが私にそれはとても親切にまた良くしてくれたことを覚えています。――それで私は学校はこの世の楽園ではないだろうかと思って、家には帰りたくありませんでした。
つぎの自然な良心の呵責もまた書き留められるべきだと思う。
八歳になって初めて学校へ行きました。私は悪い子でした。学校帰りに、私より年下の友だちと喧嘩しました。彼が投げた小石が私に当たったのです。私は道ばたに落ちていた木の枝を拾い上げ、これで力一杯顔を殴りました。そして、道の真ん中で泣いている彼を放ったらかしにして、家へ走って帰りました。私は、心の中でなんてことしたんだと後悔しました。帰宅した後も、まだ彼が泣いているのではないかと思ったりしました。この幼なかった遊び友だちはもうこの世にはいません。誰か私の気持を分かってくれるでしょうか?
若者が自分が幼かった頃の場面へいとも自然に立ち戻ることができる、このような能力は、まったくもって東洋的と私には思える。西洋では、人は人生の晩年に達しないと、幼年時代の頃を生き生きと思い出すことは滅多にない。しかし、日本人の幼少期は他の国々におけるよりも明らかに幸福である。それだけに、大人となった生活では早くから嘆いたものとなる。つぎに引用するのは学生の休暇の経験を記録したものであるが、そんな後悔の念を表している。
春休みに両親の居る実家に戻りました。私が高等中学校にまもなく帰ろうとしていた休暇の終わる少し前に、私の町の中学校の生徒らが修学旅行で熊本市に行くという話を聞きました。そこで、私も彼らと一緒に行くことにしました。
彼らは銃を携行して軍隊式に行進します。私は銃を持っていないので、列の後尾から付いて行くことにしました。皆で一緒に軍歌を歌いながら、一日中行軍しました。夕方、添田(c)に着きました。添田の学校の先生たちや生徒たち、それに村の有力者たちが私たちを迎えてくれました。それから私たちは分隊に分かれて、別々の宿屋に宿営しました。その夜、私は一番最後の分隊とともに宿屋に入りました。
しかし、長い間寝就けませんでした。五年前、同じ「軍隊式の遠足」で、同じ中学校の生徒の一人として、やはりこの宿屋に泊まったことがありました。疲労と愉快さとを思い出しました。そして、今の自分の気持ちと、当時まだ若かった自分が抱いた気持ちの記憶とを較べざるを得ませんでした。私は、今回同行した後輩たちのように、もう一度若い頃に戻れたらなぁと淡い願いを禁じ得ませんでした。生徒たちは、昼間の長い行軍の疲れでとうに眠り込んでいます。私は起きて彼らの寝顔を見ました。ぐっすりと寝ている顔のなんと無邪気なことでしょうか!