死生に関するいくつかの断想
BITS OF LIFE AND DEATH
小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳
1
七月二五日。 今週は思いがけない訪問が三つ、わが家にあった。
最初のものは、井戸掃除職人たちだった。毎年すべての井戸は空にされ、掃除され、井戸の神様である水神様が荒れ狂わないようにしなければならない。この時に、私は、日本の井戸と、ミズハノメノミコト(水波能売命)とも呼ばれる二つの名を持つ井戸の守り神にまつわるいくつかの事柄を知ったのだった。
水神様は、屋敷の持ち主が浄めについてのきまりをしっかり守っていれば、井戸の水を甘露にして、かつ冷たく保って、あらゆる井戸を守ってくれる。これらの掟を破った者には病や死が訪れるという。稀には、この神は蛇の姿となって現れることがある。私はこの神を祀る神社を一度も見たことがない。しかし、毎月一度は、近所の神主が井戸のある敬虔な家庭を訪れて、井戸の神様に古式の祈りを捧げ、幟や紙の御幣ごへいを井戸の端に立てるのである。井戸が清掃された後にも、また、これがなされる。新しい水の最初の一汲みは男たちがしなければならない。というのは、女が最初に汲めば、その井戸はそれ以後ずっと濁ったままであるからだという。
水神様の仕事を手助けする使者おつかいはほとんどいない。ただ、フナ(1)という小さな魚がいる。一匹か二匹のフナがどの井戸にもいて、幼虫から水を綺麗にする。井戸浚いのとき、この魚は大事にされる。私の井戸にも一組のフナがいることを知ったのも、井戸浚い職人たちが来たこのときであった。井戸水が溜められている間には、フナは冷たい水を張った桶に入れられていた。その後、再びそれらの寂しい場所へ投げ込まれたのである。
私のところの井戸の水は透明で氷のように冷たい。しかし、私は水を飲むたびに、暗い井戸の中をつねに動き回っており、また桶がピチャピチャと音を立てて降りてくるために、何年にも渡って嚇されてきた二匹の小さな白い生き物のことを思わずにはいられない。
第二の興味深い来訪は、手動の竜吐水ポンプを携えて、装束に身を包んだ地元の火消たちであった。昔からの慣例に従って、乾燥した時期に担当の全地域を廻っている。そして、熱くなった屋根に水を掛けて、裕福な家々から、何がしかのわずかな心付けを受け取るのである。長いこと雨が降らなければ、屋根は太陽の熱で火が付くだろうと考えられていた。火消たちはホースを操って、屋根や樹木それに庭に水を掛け、かなり涼しい雰囲気を作り出したのであった。その返礼に、私は酒を買えるだけの祝儀を彼らにあげた。
三番目の訪問は、子どもたちの代表者のものであった。私の家のちょうど真正面つまり道路を挟んだ反対側には、お地蔵さんのお堂がある。それは、地蔵盆のお祭りをふさわしく祝うために、幾らかの寄進を請うためにやってきたものであった。私は喜んで寄付をした。というのも、この優しい仏様が好きだったし、地蔵祭りが楽しいものであることを知っていたからだ。つぎの朝早く、お堂はすでに生け花と奉納された提灯で飾り付けられていた。お地蔵さんの首には新しいよだれ掛けが掛けられており、その前には仏式のお供え物が整えられていた。この後、大工たちがお寺の境内に踊り舞台を作っていた。日没前には、玩具売たちが境内に屋台を立て、小さな夜店ができていた。暗くなってから、子どもたちの踊りを見ようと、私はたくさんの提灯の明かりの中へ出かけた。家の門の前に、一メートルはあろうかと思われる巨大なトンボが止まり木に止まらせてあったのに気がついた。それは、私が寄付したものに対する子どもたちの感謝の印で――お飾りのひとつ――であった。その瞬間、おや、そうなのだと私は驚いたのだ。
よく見てみると、トンボの胴体は色紙でくるまれた杉の枝であり、四つの羽は四つの十能であったし、綺羅めいているトンボの頭は小さな茶器であった。全体は、それも意匠の一部をなしていると思われるが、異様な影を作り出すように置かれた蝋燭で照らされていた。工芸用の材料を少しも使わずに作られているが、美術的感覚のある、すばらしい工作であった。それにもまして、それがわずか八歳に過ぎないかわいらしい小さな子どもの作品だったのである!
注
(1)フナは、小さな銀色をした鯉の一種。