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九月一三日。 出雲の松江からの手紙によると、私にキセルを作ってくれた老人が死んだということだった。(キセルは、日本のパイプのことで、周知のように、――エンドウ豆が入るくらいの大きさの金属の火受け皿、口金それに、定期的に交換される竹の筒という、三つの部分から成っている。)彼は自分のキセルをいい色合いにしていた。ヤマアラシの針の模様のように見えたし、あるときは蛇皮の筒のようであった。彼は松江の町の外れの狭い小路に住んでいた。その通りを知っているのは、かつて私が見たことのある白子地蔵――白い子どもの地蔵――と呼ばれる有名な地蔵尊の像がそこにあったからである。この呼び名は、踊り子の顔のように顔が白く塗られているからなのか理由は分からなかった。
この男にはお増ますという娘がいた。お増は今も健在である。彼女は長年幸福な妻であった。しかし、彼女は口がきけなかった。その昔、怒った群衆が略奪して、町の米問屋の住家すまいや米蔵を打ち壊した。小判を含むその金銭は通りにばら撒かれた。暴徒たちは、――粗野だが正直な農民たちで――それを欲しなかった。彼らが望んだのは打ち壊しであって、盗むことではなかった。しかし、お増の父は、その夜、土の中から小判を拾い上げて、家に持ち帰った。その後、近所の者が彼を非難し、告発した。このため、父親は出頭を命ぜられたが、裁判官は、当時一五歳の、恥ずかしがりの少女であったお増を反対尋問して、確実な証拠を得ようとした。お増は、自分が答え続けると、意に反して父親に不利な証言をさせられることになると思った。また、お増は、自分の前にいる検察官が有能なので、自分が知っている全部の事柄をなんなく喋らせられることになるのではないかと感じた。彼女は話すのを止めたが、すると口から血が溢れ出した。自分の舌を噛み切って、永遠に話すことができないようにしたのであった。彼女の父は無罪放免となった。この行ないを讃えたある商人が結婚を申し入れ、お増の老いた父親の面倒を見たのであった。